空は、曇天。
蒸し暑い大気を、灰色の薄い雲が覆う。
今日も今日とて、試合が始まる。
高校球児たちの夏が始まり、終わる。
青道高校の前に立ち塞がるのは、今大会の数あるシーンの中でも屈指の大逆転劇を見せて人気を風靡した薬師高校。
誰もが2試合連続の大物喰らいを望み、湧き上がる。
球場は異様な空気に包まれていた。
そんな最中、青道ベンチでは相手チームのオーダーを目にして驚嘆の声が響き渡っていた。
「なんだよこのオーダー!」
伊佐敷が、感情を露わにして声を上げる。
チームのメンバーもそれに答えはしないものの、同じような感情を抱いていた。
1番 轟
2番 秋葉
3番 三島
前の試合、クリーンナップを張っていた3人が全員上位打線へ。
そして何より、4番を打っていた轟が先頭打者に入っていたのだ。
「1番打席が回るように…ということか。」
「何!?それにはどういうカラクリが!?」
「いや、当たり前でしょ。」
沢村と小湊が漫才を繰り広げている中、捕手である御幸はエースに声をかけた。
「あまり気にしすぎるなよ。あくまでやることはいつも通りだからな。」
頭の上にタオルを乗せ、俯くエース。
その表情は、タオルに隠れて見えない。
そんな姿を見て、御幸は少しばかりの不安を覚えた。
(昨日からブルペンでの状態はそんなに良くなかったからな。それに加えて、あのオーダー。完全に先手を打たれたな。)
想定していたオーダーでは、初回を抑えれば轟とは2回以降落ち着いた状態で戦うことができた。
もし初回で当たっていたとしても、大野はピンチになると無意識にギアが入るため、抑えられる可能性は大いにあった。
しかし、ボールの状態すらも掴めない先頭打者。
そこでぶつからなければいけないというのが、御幸にとってはやりにくいことこの上なかった。
そんな青道ベンチの反対側。
薬師高校のベンチでは、監督である轟雷蔵が少し口角を上げてニヤリと笑った。
「見ろよあいつら、あんなに騒ぎまくってよ。そんなに面食らっちまったか?」
「そりゃ、前の試合で4番だったやつがいきなり先頭打者に来たらビビりますよ。あいつらもきっと、雷市を一番警戒していたと思いますしね。」
「んだろ?なんてったって俺自慢の息子だからな!」
そして、高笑いをする。
親バカだなぁと、真田は口に出さないながらもそう思い、目を逸らした。
そして、続けて噂の4番に目を向けた。
「おい雷市、お前がさっさと1年生引きずり下ろしてえって言うから1番に置いたんだぞ。言ったからにはちゃんと打ってくれなきゃ父ちゃん怒るかんな。」
雷蔵に言われながらも尚、轟雷市はバナナを頬張り続けた。
なんと言っても、腹が減っているから。
貧困家庭である轟家ではお世辞にも美味しい料理など出てこない訳で、その上量も食べ盛りの高校球児には少ない。
だからこそ、部費で出されるような補助食なんかは遠慮なくたんまり食べる。
ひと段落ついて、雷市は口を開いた。
「まずは大野。ぶっとばす。」
雷市の言葉を聞いて、再び雷蔵が口角を上げる。
「さあて、今日の相手は前とは一味違うからな。前情報なしで戦った市大三高とは違って、俺たちの強さを知った上で向かってくる。が、その上でぶっとばすんだ。てめえらの勢いとパワーで、王様ぶっ飛ばしにいこうや!」
「おお!」
そして、両チームのナインがベンチ前に出てくる。
試合前、互いのチームが相見える。
「両チーム、整列!」
「「いくぞぉぉぉ!」」
元気に声を上げ、約40人の選手たちがホームベースへ掛けていった。
前評判は、6-4
順当にいけば地力が上の青道が有利だが、やはり勢いで言えば薬師高校。
市大三高を下した際の調子でいけば青道も危ういのではと、巷では話題になっていた。
というより、誰もが薬師の大番狂わせを望んでいた。
理由は簡単、観客はただ面白い試合が見たいだけなのだから。
「あの真中を打ち崩した薬師だぜ?きっと大野だって抑えられねえよ。」
「轟ぃー!今日もでけえのぶっとばせよー!」
周囲から響き渡る、歓声。
それは全て薬師に向けられているもの。
(騒がしいな。)
誰もが、薬師高校の大番狂わせを望んでいる。
(俺には関係ないが。)
会場は、異様な熱気に包まれていた。
「初球から狙ってくるぞ。わかってるな。」
御幸が、マウンド上にいるエースにそう言う。
エースは、帽子の鍔に手を当てて無言で頷いた。
御幸も、それ以上何も言わない。
何となく、いつもと違う雰囲気を感じていたから。
帽子を深く被り直し、目を瞑る。
小さな丘に1人、悠然と立ち、右手をポンと胸に当てる。
ゆっくりと、深呼吸をした。
彼の紺碧色の瞳。
まるで水晶のように煌めく蒼い眼が、開いた。
「カハハ!ぶっとばーす!」
打席に入るは、轟雷市。
この薬師高校で最も力を持つ強打者である。
「薬師ー!今日も楽しませてくれよー!」
「轟ー!デカいの打てよー!」
会場中が敵というのは、こういう事を言うんだろうな。
そう思いながら、御幸はチラリと轟に目を向けた。
風格というか、やはり打ちそうな雰囲気が出ている。
懐も広く、インコースも攻めにくい。
とはいえ、外角に飛ばす技術もある為、迂闊に外角攻めもできない。
迷いを振り切り、御幸は轟の膝元にミットを構えた。
(初球から振ってくるだろうし、まずは厳しく。)
サインに、大野が頷く。
ゆったりと左脚が上がり、腰を大きく捻る。
ある一点まで到達すると、そこで静止。
身体の捻転とともに生み出された遠心力。
反動を余すことなく左足へ乗せ、蓄える。
その全てを、指先へ集約。
(初球…打つ!)
(厳しいコースに来い、夏輝!)
刹那。
圧縮された大気を全て切り裂くように。
轟の耳に入るほどの風きり音を立てながら、白球は御幸のミットへと突き刺さった。
「ストライィク!」
乾いた破裂音が鳴り響くと同時に、会場中が静寂に包まれる。
「ナイスボール!」
捕手の声と、ボールを掴み取る小気味良い音。
それだけが、この広い球場の中で響き渡っていた。
目を見開く轟。
狙っていた。
初球のストレート、厳しく来ようが打てそうならば打ってやろうと、そう思っていた。
しかし、そのバットすら出なかった。
手を出す暇もなく、ボールが通過していった。
ただでさえ投手との対戦経験が少ない轟にとって、それは初めての感覚であった。
そんなこともお構い無しと言わんばかりに、大野が再び投球モーションに入る。
ギュウゥン!
そんな怪音が耳に入ると同時に。
2球目のストレートが、今度は外角の低め一杯。
轟がバットを振ったものの、完全に振り遅れて空振りとなる。
(続けるか?)
(無理に行く必要はない。ここは確実に仕留めるぞ。)
御幸の提案に首を振り、続いて出されたサインに首を縦に振る。
そして、またもモーションに入った。
投げ込まれたのは、直球。
外角真ん中当たりの、高いコース。
轟もこのボールを狙い、バットを出し始める。
先程までのストレートに合わせた、完璧なバット軌道。
(もらっ…)
その瞬間、ボールは大きくバットの軌道から外れる。
というより、逃げるように鋭角に曲がった。
「空振り三振!まずは伝家の宝刀ツーシームで轟を三球三振です、青道高校のエース大野!」
俯きながらベンチに帰す轟。
その途中、すれ違った秋葉に彼は言った。
「これまでとは全然違う…すげえおもしれえ。気合いも、ボールの勢いも、力も、全部今までの人とは桁違いだ。大野夏輝…おもしれえ!」
尚も笑う轟に秋葉は半ば呆れながら、打席へ向かう。
続く秋葉。
彼に対しても、大野夏輝は格の違いを見せつけた。
内角抉り込むストレート。
角度のある直球をインコースいっぱいに決め込む、所謂クロスファイアでカウントを稼ぐ。
2球目続けてそれを投げ込むと、最後は高めの釣り玉で空振り三振を奪う。
(これが、人間が投げるボールかよ…)
素直に、秋葉はそう思った。
異常なほどに掛けられた縦回転がそうさせているのか、ストライクゾーンから伸び上がるように加速して釣り玉となったのだ。
球速にして、131km/h。
しかしそのボールは、秋葉にとって全く未知の領域とも言える、異様なボールであった。
ミート力のある2人が連続三振…基、連続三球三振で切られた後。
続く打者は、3番の三島。
(シニアのときは世話になったからな。)
実は、この三島と秋葉は中学時代に大野と対戦経験がある。
結果は言うまでもないが。
勿論、大野自身はおぼえていない。
なぎ倒した打者の1人としか認識していないから。
そして今も。
その認識は、全く変わることはない。
初球、外角低め一杯のストレート。
2球目も同じボールを続けて早くも追い込む。
(なんなんだよこのボール。)
あの時の精密機械のようなボールではない。
打者を捩じ伏せるような、こちらを切り刻もうとそう植え付けてくるかのようなストレート。
3球目。
(行くぞ、夏輝。)
(あぁ。丁度温まってきた所だ。)
バッテリーの、視線が交錯する。
そして、最後のボールが投げ込まれた。
「あんまり舐めるなよ。俺を…俺たちを。」
大野夏輝という、青道高校のエースを。
切磋琢磨して高め合った仲間たちを。
そして、共に投げあった楊や他のライバルたちを。
「空振り三振!青道エースの大野、薬師の1年生強打者トリオをストレートで捩じ伏せました!なんと、三者連続三球三振という圧倒的な投球で薬師の攻撃を押さえ込みます!」
大野の帽子がポトリと落ち、銀色の艶やかな髪が舞う。
それと同時に。
会場内で圧縮されていた時間は、動き出した。
「すげえぞ大野!」
「あれが高校生のコントロールかよ!」
静寂から一変、大野の圧倒的な投球に会場が沸き立つ。
マウンド上に落ちた帽子を丁寧に広い上げ、土を払って被り直す。
そしてゆっくりと、ベンチへと戻り始めた。
「ナイスピッチだ、夏輝。」
「いきなり飛ばしすぎだ!」
チームメイトの激励を受け、ゆっくりベンチへ腰掛ける。
そして、チームのバッターたちを見た。
「とりあえず初回抑えたんで、攻撃はお願いします。」
珍しく大野がそんなことを言う。
圧倒したとは言え、気を抜けば持っていかれるであろう強力打線。
だからこそ投球に集中したい。
そこまで言わなくても、野手陣は意図を汲み取り頷いた。
「っしゃあ、点とってくぞオラァ!」
青道高校の攻撃が、始まる。
曇天の隙間から、青白い光が差し込んだ。