(あの目は…。)
目の前の投手の異様な姿に、結城はバットを構えた。
先ほどまでとは、まるで違う。
吸い込まれるような青い瞳は、さらに深みを増していた。
しかし、何よりも驚いたのはその表情であった。
笑っている。
力を入れる時、もしくは集中する時に表情が強張ると言うことはよくあるだろう。
それは野球でも当てはまることであり、ピンチになった際やギアを入れる際に鬼気迫る表情になる選手は多くいる。
しかし、笑っているとは。
結城は、少しばかりの恐怖を感じた。
(高めに来てもいい。力のあるボールで来い。)
(相手は結城さんだからね。ここはMAXで行くよ。)
初球、スライダー。
低めからワンバウンドするボールだが、原田が前に転がしてランナーは静止した。
(力入りすぎだ。)
(ちょっとね。もう大丈夫。)
続く二球目、今度はストレート。
外角高めに浮いているが、これに振り遅れてファール。
(速いっ…!)
バックスクリーンに表示された球速は、149km/h。
成宮の自己最速である。
三球目、同じくストレート。
これも外に外れてボール。
また、148km/hとかなりの力を入れてきていることが見てとれた。
2ボール1ストライク。
打者有利のカウントだが、内容としては成宮が押していた。
四球目、ストレートが外角低めギリギリいっぱいに決まってストライクとなった。
高めのボールが続いていた為、結城も手が出ずに見逃す。
並行カウント。
2ボール2ストライクになり、結城はまた息を吐いた。
五球目、真ん中高めのストレートを振りにいくが、前に飛ばずファール。
力がある、スピードがある。
他の投手にない、威力あるボールであった。
想いがこもっている、結城はそう感じた。
三年生にも負けない、気持ちの乗ったボールだった。
六球目のフォークはなんとかバットを止め、ボール。
七球目のストレートは、鋭いあたりが三塁線切れてファール。
(仕留め切れなかったか。)
フルカウント。
高めに来ているストレートにもタイミングが合い始めてきているほど、結城も集中力を高めていた。
「さすが結城さんだね。やっぱすげえや。」
成宮はそう呟くとまたセットポジションに入った。
(けど、終わりだよ。)
餌は、撒いた。
あとは、完璧に決めることだけ。
そうして、成宮はステップを踏んだ。
(くる。)
身構えた結城。
タイミングを合わせて、バットを振り始めた。
動き出すバット。
その瞬間、成宮の投げた白球は。
「止まった」のだ。
「空振り三振!最後は伝家の宝刀チェンジアップでした!」
完全にスイングが崩された結城は、空振りを喫した状態からしばらく動けなかった。
「この回ピンチを背負いましたがなんとか無失点に抑えました、エースの成宮。稲実は6回の裏の攻撃に入ります。」
珍しく、結城が悔しそうな表情を露わにしていた。
その姿にナインもまた、彼の心情を察した。
と同時に、全員の脳にとある試合がフラッシュバックした。
それは、去年の夏。
同じ舞台、同じ投手。
あの時もまた、超高校級スラッガーである4番が完全に抑え込まれていた。
考えないようにしても、どうしても刻み込まれてしまっていた。
どことなくムードが悪くなったこの青道ベンチ。
その空気を破ったのは、エースだった。
「俺、点取られる予定ないんで。」
そうつぶやいて立ち上がるエースに、チーム全体がハッとする。
一番負担がかかっているだろうに。
そんなことを見せずに、彼はまた精一杯強がっていた。
去年と、同じように。
「あれは成宮が一枚上手だった。狙い球を絞っているんだ、ある程度は我慢も必要になってくる。切り替えていくぞ。」
片岡が締めると、ナインは頷いて声を上げた。
「っしゃあ!切り替えて守んぞ!」
「点は必ず取ってやる、心配するな大野。」
結城がそういうと、大野はいつも通り笑った。
「それでこそいつもの哲さんです。行きましょう。」
マウンド上で、天を仰ぐ。
成宮が最高のピッチングをしたマウンドで、空を見上げた。
6回裏、稲実の攻撃。
打順は8番からということもあり、下位打線から。
マウンド上の投手は大野。
打席には、ライトの富士川が入った。
ここまでは2つの三振、全くついて行けていないという現状。
しかし、富士川は狙っていた。
終盤に近づき、球が浮き始めてくるこのタイミングを。
気温は既に35℃と猛暑。
雲一つない空は、燦々と輝く太陽を隠すことなく強調していた。
狙うは、フォーシームのみ。
追い込まれればツーシームにやられるため、追い込まれる前に。
さらに言えば、外角のフォーシーム。
特に下位打線に対しては外角低めに3球勝負というのが、特に多い。
ここまでは低めに上手く制球されている。
が、この炎天下、いくらスタミナのある大野でも疲れが出てくるはず。
疲労が溜まってきたこの試合中盤に球が高くなってきたところを、弾き返す。
そう再確認、富士川はバットを構えた。
(捩じ伏せたいのはわかるけど、低く来いよ。)
両腕を広げてジェスチャーをしながら、彼はミットを構えた。
コースは、外角低め。
下位打線に対しては、徹底的にこのコースを攻め続けている。
頷き、投げ込んだ。
風きり音、初球は外角低めのストレートを要求。
しかし投げ込まれたのは。
(高い…!)
暑さにやられたか。
はたまた、中盤になって気が抜けたか。
外の高めの直球。
いくらキレが良くても、球速は126km/hほど。
富士川は、狙い打った。
「狙ったー!富士川の打球はレフトへー!」
甘いボール、鋭い当たりがレフト前へ。
レフトの降谷が打球処理を少しもたついている間。
ランナーは足もある、富士川。
快速を飛ばし、バッターランナーは二塁へと悠々と到達した。
稲実、0アウトランナー二塁のチャンス。
ここで打席には、9番投手の成宮が立つ。
(さあて、今回も俺が決勝点打ってやろうか。)
普段は、クリーンナップ。
だが今日に関しては、エースとしてピッチングのみに集中するため、下位打線へと置かれた。
その効果は的中したのか、成宮はここまで抜群の投球を見せていた。
何より、この成宮という強打者が9番にいるというのが、青道にとってはとてつもなくやりづらかった。
(ここで、こいつか。)
0アウトランナー二塁。
打席には、強打者の成宮。
しかし、ここで切らなくてはならない。
何とかして、抑え込まなくては。
ここも低めを要求。
特に直球に強いこの成宮に対して、高めのストレートは厳禁であった。
まずは変化球。
一風変えて、スライダーを要求した。
外角ボールゾーンからストライクゾーンに切れ込んでくるスライダー。
これに反応できず、まずは1ストライク。
続いて2球目。
要求したボールは、外のフォーシーム。
外角の低め、最悪外れてもいいボール。
(高くなったらやられるからな。)
頷き、モーションに入る。
クイックモーションから投げられた直球。
やはり、高い。
先程ヒットを打たれたコースと同じような所に、ストレートが放られた。
持っていかれるか。
外角とは言え、長打を放つには十分すぎる高さ。
御幸は歯を食いしばり、快音を待った。
が。
「ファールボール!」
ジャストミートとは程遠い甲高い音とともに、審判の声が響き渡った。
(打ち損じた?)
かなり甘いコースだった。
横幅は上手く制球できているが、高さをみれば絶好球。
それこそ、成宮のパワーであればスタンドインなんてことも。
狙いを外したか。
それにしては、タイミングは完璧だった。
(高いぞ。)
(わかってる。)
念押しするように低めのジェスチャー。
そして、今度は内角低めに変化球を要求した。
選択した球種は、縦に割れるカーブ。
落差のある縦の変化球で、スイングを崩しに行く。
低めのストライクゾーンからボールゾーンに外れるナイスボール。
しかしこれを、成宮は見逃した。
(これを振ってくれないとなるとな。)
チラリと成宮に目を向け、すぐに自軍のエースに戻す。
いくらキレのあるツーシームとはいえ、狙い打ちされるのは怖い。
それこそ今の成宮であれば、反応で打たれかねない。
かと言って今の状態でストレートを投げさせるのは、怖い。
何故かはわからないが、かなり浮いている。
となれば、やはりカーブが一番無難。
先程の見逃しも、もしかすれば反応しきれなかったのかもしれない。
そうして、御幸は内角低めにミットを置いた。
(最悪歩かせていい。低く来いよ。)
大野が頷き、投げた。
しかし抜け気味の変化球は外角の中段。
これを、成宮は思い切り引っ張った。
タイミングとしては、少し早い。
が、強い打球はライト前でワンバウンドした。
ランナーは三塁でストップ。
打者成宮も一塁で止まり、ノーアウトで一三塁。
得点圏にランナーを置いて、上位打線を迎える。
「すいません、タイムお願いします。」
帽子を外し、汗を拭う。
そして、大野は天を仰ぎながらゆっくりと息を吐いた。
「どうした、抜け球多くなってるぞ。暑さにやられたか?」
小さな丘の上で2人、向かい合わせで立つ。
御幸が、そう声をかけた。
すると大野は帽子の鍔に手をかけて、ポツリポツリと話し始めた。
「暑いな。」
「暑いな、確かに。」
ふうっと息を吐き、今度は俯く。
声が、少し震えているように感じた。
「見たかよ、一也。鳴のピッチング」
「ああ。すごかったな。」
少し、いつもと様子が違う。
不安に感じて、御幸が大野の顔を覗き込んだ。
そして、御幸”も”笑った。
「何笑ってんだよ。」
吸い込まれるような、紺碧の瞳。
艶やかで、上品に煌めくその瞳は、遙か底のない深海のように深みを増していた。
その表情は、数分前に怪物スラッガーを三振に切ってとったもう1人の主役と、全く同じものであった。
「いや、別に。こっから上位打線、ピンチだけど頼むぜ。」
「ああ。」
そうして、いつも通り互いにグローブをポンと当てる。
18.44m、笑顔の2人が両端にいた。
マウンド上、1人になった大野が白球を右手で転がし、パンっと左手に嵌められたグローブに叩きつける。
そして、プレートのすぐ横に置かれたロージンバックに手を伸ばした。
(鳴、お前本当にすげえよ。)
チームを背負い、ここまでずっと全力で走りつづけてきている。
他を寄せ付けず、天才をねじ伏せて。
何より、完全に楽しんでいる。
俺と、投げ合うことを。
そして、自分の限界を超え続けることを。
右手で掴んだロージンをポンポンと弾ませ、元の位置に落とし。
ふっと息を吹きかけた。
(俺も、負けられねえよな。)
炎天下、猛暑の神宮球場に。
白銀の粉塵が舞い上がった。
初回同様、目を瞑る。
そして、胸に手を当ててゆっくり息を吐いた。
今までは、チームに勝ちを運びたいと思っていた。
ただただ、チームが勝てればそれでいいと思った。
だが、今は違う。
初めて、一個人として投げ勝ちたいと思った。
成宮鳴というエースに。
これまでの限界を超えたライバルに、勝ちたいと。
その意志は、大野に新たな扉を、開かせた。
(っし。行こうか。)
目を開ける。
視界は灰色に染まり、打者と御幸の姿だけが明るく鮮明に色付いた。
いつもと違う光景。
いつもと違う状態。
そんなもの、今は気にならない。
ただ、成宮に勝つために。
大野の世界から、音が抜け落ちた。