『ワァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!』
「ふえ……」
あんな大歓声を初めて聞いたのは、私の体がまだ1メートルとちょっとだった頃。それに加えて遠くの街から引っ越してきたばかりで弱っていた心に、場内の響きは強過ぎた。今より内気で人見知りだった私は、パパの脚にしがみついてしまったっけ。
パパもママも、新しい街でお友達を作れず沈んでいた私を気晴らしにと連れてきてくれたのに、あれじゃ余計に心配させちゃってたよね。この時それを気にする余裕はなかったけれど。すっかり怯えた私はそのままいつものように2人の後ろに隠れて、それきりになるはずだった……あの魔法をかけてもらえなければ。
「わあ、きみもダービーを見に来たの!?」
「え……え……?」
パパとママの後ろという定位置に何の躊躇もなく入り込んできたのは、似たような背丈の女の子だった。戸惑う私を引っ張ってあれよあれよと前へ連れて行き、周りの大人が開けてくれた道の先にあるターフを指さす。後ろからはパパとママと、あともう1人女の人の声が聞こえていたのは薄っすら覚えてるんだけれど……騒がしい魔法使いさんは全く意に介さない。
「レースは初めて!? なら紹介するね、1番人気のお姉ちゃんは今まで負けたことがないの!」
「わ……それはすごい、ね?」
「しかもね、皐月賞ではおけがの後だったのに新記録を出したんだよ!」
「わ、わあ……!」
「2番人気のお姉ちゃんは、その1番人気のお姉ちゃん以外は全部勝ってきたの!」
「そうなんだ? じゃ、じゃあ今日は勝ちたいんだね」
「そう! 今日も勝ちたいお姉ちゃんと、今日こそ勝ちたいお姉ちゃんの対決!!」
何を楽しめばいいのかもよくわかっていない私に、その子は出走するお姉ちゃんたちを紹介してくれた。あのレース……ダービーまでの歩み。この日に懸ける想い。赤いヘアピンに挟まれた髪を跳ねさせながらの熱のこもった解説を聞いていると、怖かったはずのレース場がキラキラと輝いて見え始める。
「2人のこと、よく見てなきゃ」
「ううん。2人だけじゃないよ、21人のお姉ちゃんみんなにドラマがあるの」
「みんなに?」
「たとえば20番人気のお姉ちゃんはね、1月の若竹賞でつよーい勝ち方をしたんだけど――」
この魔法は、特定の誰かだけを輝かせるものじゃない。目にしたキラキラをターフに立つ全員に広げて、お姉ちゃんたちを一人残らずおっきく開けた口で応援するものだから、気付けば私も隣で釣られて今までにないくらいの声を出していた。パパとママから離れられなかった直前の自分を、何バ身置き去りにしていたかな?
「わあ、マッハのお姉ちゃんはやい……!」
ゲートが開き、教えてもらえなければ注目すらしていなかったであろう20番人気のお姉ちゃんが先頭を行くと、私も手を叩いて飛び跳ねた。後ろでタイミングを窺う1番人気のお姉ちゃんの覇気にハラハラしたり、遅れてしまっている2番人気のお姉ちゃんに声援を送ったり、あっという間のレースで全員を見ようとするだけで目が回るくらいに濃い時間を過ごす。
「あ、わわ、わっ」
そして前評判通りに1番人気のお姉ちゃんが最後の直線で猛然と追い込んでくると、まるで自分が差され――それどころか刺されたかのように息を呑んで。マッハのお姉ちゃんや横を走る2人のお姉ちゃんとの競り合いに、ぎゅうっと小さかった手を握って。
「わああ……!」
勝負がつくと、へなへなと力が抜けてしまった。きっと体中を力ませた反動が来たんだと思う。もっとも、そうしていられたのはほんの数秒だったんだけれど。なにせ、すぐ傍で完成に負けない泣き声が上がったんだから。
「う゛お゛お゛お゛、み゛ん゛な゛か゛ん゛は゛っ゛た゛よ゛お゛お゛お゛お゛!」
「あわわわ!?」
ダービーの舞台裏を余すことなく教えてくれた魔法使いさんは、自分のかけた魔法で感極まってしまったらしい。私はあたふたしてからママに持たせてもらったハンカチの存在を思い出し、よしよしと拭いてあげて……いたのに、いつしか自分までもらい泣きしてしまった。
この3分に満たないレースにどれほど想いが込められていたか、痛いほど教えてもらったから。どうしても勝ちたかった相手から大きく離されたお姉ちゃんの無念。負けが続いても先頭を進んだお姉ちゃんの勇気。うんうんと頷きながら一緒に涙を流して感動を共有する。と。
「ね゛え゛! アタシたちもやろう!」
「ふえ?」
「おっきくなったら一緒に走ろう! ダービー!」
急に振り返るなり、魔法使いさんはがっしと私の両手を握った。
「ええっ あ……え……私にも、できるかなあ」
あの時は、そう。突然の招待状に、一度気後れしてしまったっけ。この子のおかげでレース場は騒々しくて怖い場から楽しくて感動できる所に変わったし、これからも見たいけど、自分が走るとなると弱気の虫が顔を覗かせた。
「んー、確かにダービーに出るのは簡単じゃないけど……そうだ! テストしよう!」
「テスト?」
「きびしーテストなんだけど……いや?」
「う、受けるっ」
目の前の寂しそうな顔を見ると、秒で引っ込んだけど。この大観衆の中で走るなんてまだ想像もついていなかったけれど、自ら閉じこもっていた私を引っ張り出してくれた恩人さんを寂しがらせたくない。一生懸命首を振ると、ぺたんと垂れていた彼女の耳は瞬時にピンと跳ねた。
「やったああ! それじゃ、ついてきて!」 、
そのままぐっと私を引っ張……ろうとして、後にお母さんだと知った女の人にめっされる小さな魔法使いさん。でも、その隣のパパとママがにこにこ笑顔で許可を出してくれたので、私は晴れて試験資格を得た。
「ぜっ は……は……!」
「はあ、はあ、はあ……」
そして。その「テスト」で、私は完全にレースの世界へのめり込んだ。2人きりのかけっこでは生まれて初めてという強さのアドレナリンが出て、私ってこんなに負けず嫌いだったっけと観戦中に大声を出した時以上に驚いたくらい。そして競った相手は、新しい世界を見せてくれた魔法使いさん。
走りたい。
一緒に走りたい。
想いが、あとからあとから湧き上がってくる。これはどうしたって、テストに合格しなきゃ。
「よーし、じゃあ次はおにごっこ!」
「うん……!」
一生懸命「きびしい」テストに食らいつく。全身全霊で、「たのしい」テストにはしゃぐ。2人でそうやって転げ回っていると、おひらきまでがあっという間に感じられた。
「シアならぜったいできるよ! こんなにがんばれるんだもんっ」
「ふふ。チケちゃんといっしょに、走れるんだね」
そういえば自己紹介していなかったと途中で笑い合ったり、おやつ休憩で早食い競争をしようとして2度目の「めっ」をもらったりと思い出が山盛りの一日のおかげで、もうすっかり打ち解けたチケちゃんの声は帰宅した後でも耳から離れない。今朝まで縮こまっていたのが嘘みたいにパパとママに夢を語ると、2人とも大賛成して翌日には子ども用の蹄鉄シューズを買ってくれた。
それから、私の日常はがらりと変わった。いっぱい走って、お姉ちゃんたちのライブを真似て踊って、同じような憧れを持つ友達もできて。殻に閉じこもっていたままじゃ絶対に知れなかった世界でのびのびと育つ。
子どもなりに、努力は欠かさなかった。新しい世界を見せてくれたチケちゃんと走りたいから。ママの探してくれたクラブで練習して、パパの作ってくれた料理は残さず食べて、年に一度は東京に出て行って2人だけの「きびしいテスト」を受け直す。
大きくなってくるとその気になればもっと会えるようにもなったけど、私たちはそのままの関係を選択した。年に一度の特別なテストを続けた方が、2人揃って夢の舞台に立てそうだったから――。
「……チケちゃん」
「わああ、シア!!」
それは、正しい選択だったみたい。今、こうして私たちはトレセン学園の門の前で並んでいる。真新しい制服も、大きなリボンも、何もかもがお揃いのチケちゃんと、私は同じ所に立った。配布された名簿には確かに、「ウイニングチケット」の文字と共に私の名前もある。
「これからは、ほんもののレースで競い合えるんだね……ト゛ラ゛マ゛た゛あ゛あ゛あ゛」
「うん、うん」
背は私と同じように伸びて、人参柄の絆創膏は年相応の無地のに変わってるけど、チケちゃんの根っこはそのままだ。3枚持ってきておいたハンカチのうち最初の1枚を取り出してよしよしと涙を拭っていると微笑ましげな視線に囲まれるけど、チケちゃんが泣きながらも笑顔を浮かべてくれるとそんなことは気にならなくなる。
「へへ。シアが相手でも、ダービーは譲らないからね!」
「私だって、負けないよ?」
通っていたクラブとは比べ物にならない広さの学園。知らない人ばかりの新生活。一人きりだと気後れしそうな諸々も、怖くなくなって。素ではできなかっただろうライバル宣言までやれた。
「いっしょに走るために、頑張ってきたんだもん」
「……っ」
ただ、そうして想いを告げたあと。
ぎゅうっとチケちゃんに抱き着かれたのに、こういう所も昔から変わらないなってにこにこしていた私は、合格の感慨に浸り過ぎていたのかもしれない。あのチケちゃんが、小さな頃からの約束を果たして桜咲く校門で将来を誓い合うなんてシチュエーションの主役になろうものなら……ね?
「か゛ん゛は゛ろ゛う゛ね゛、シアーーーーー!」
「きゅううううう!?」
背丈に応じて内臓、特に肺も大きくなったチケちゃんの叫びは、ウマ娘の敏感な聴力にとっては大きすぎるのです。至近距離でそれを浴びて目を回しちゃう私も、やっぱり変わってなかった……な……がくり。
「わああ!? ごめんシア、しっかりいい!」
でも、これだけ賑やかなんだもん。絶対に退屈はしないって。
きっと楽しい学園生活が待っているって。
意識を手放しながらも、私は確信していたんだ。
この時は。