12000年の果ての再会──新世紀の果て、過去亡き時代の彼ら   作:モーター戦車

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※貞本義行先生版『新世紀エヴァンゲリオン』の設定を前提としておりますのでご注意ください。


月光歌──Fly Me to the Moon

21世紀 某年 12月24日

 

 このくらいでいいかしら。

 

 私は一人でうなずいて、冷蔵庫の内側を布巾で拭く、青いゴム手袋に覆われた手を止めた。

 

 自分の胸元を覆う、ダークブラウンのエプロンドレスに視線を落とす。

 

 近場に買い物に行ける程度にデザインが良く、暗めの色だから染みが目立たず、洗濯が楽。

 

 いい買い物をしたと思う。私のお気に入りの普段着。冬で冷え込んできたこともあり、下にはベージュのセーターと、スリムジーンズを着込んでいる。

 

 中学校時代も高校時代も、制服以外は部屋着しか無いような生活をしていたことを思えば、色々な服を買って楽しむようになった。お財布の余裕は大事。本当にそう思う。

 

 それにしても、掃除に思ったより時間がかかってしまった。

 

 私も碇くんも、数ヶ月前より余裕ができたとはいえ、年末ということもあって、このところは随分忙しい。家事を短めに済ませることが増えたため、こういうところにしわ寄せが来てしまう。

 

 思えば、東京で碇くんと二人で暮らす事自体が、想定していた人生の予定に無いことだった。

 

 なぜなら、今年の3月まで、私は碇くんという人を知らなかったのだ。

 

 完全に赤の他人だった。今年の4月に、学科の授業で隣席となり、顔を合わせたのが初対面。

 

 座る時偶然目線があった。その瞬間、何故か、私は泣いてしまったのだ。

 

 理由はわからない。思い出せないほどの昔の記憶が蘇って、それは全く脳裏に像を結ばなかったのだけれど、悲しみとも喜びともつかない感情が心のなかに満ちてしまって、とうとう涙になって溢れかえってしまったような、そんな感覚だった。言葉が出ない嗚咽を、私は生まれてはじめて体験した。

 

 何の関係も無いはずなのに、断たれていた血管が再びつながり、心に血潮が再び通い始めたような、安心できる暖かさを、その時人生で初めて感じたように思う。

 

 彼も同じだったのかもしれない。

 

 声にこそ出さなかったけれど、目を強く閉じ、歯を食いしばり、なにか強い感情を必死に噛み殺しているような表情になっていた。

 

 碇くんと高校で同級生だった惣流さんが、その時彼の傍に居たけれど、何があったのか理解できないという表情で、ひたすら困惑していた記憶がある。当然だと思う。私にも碇くんにも、何故お互いが泣いたのか、未だにわかっていないのだから。

 

 自分の感情をどうしていいかわからなくて、私は教室を飛び出してしまった。

 

 碇くんが追いかけてきた。大学最初の授業なのに、そのまま二人で休んでしまったのだ。

 

 その後大学の食堂で、自動販売機で暖かな飲み物を買い(彼はコーヒーで、私は紅茶だった)、お互いの名前を伝え合い、とりとめもない話をした。生まれはどこか、何故大学に来たのか、今どこに棲んでいるのか。

 

 本当にとりとめもない話で、お互いに全く関係のない人生だということを確認しただけだったように思う。彼の生まれは長野だし、私は箱根の、あの由来がわからない古代遺跡の白い巨人像のところに捨てられていた孤児で、生まれた場所もわからない。

 

 お互い、中学・高校時代では、特に何かにうちこんだわけでもなく、ぼんやり過ごしただけで、大学に来た理由も、強い理由や夢があったわけではなくて、大学に行けば今までとは違う何かを見つけられるかもしれない、という、曖昧極まりないものだった。

 

 会話としては、多分、つまらないものだったと思う。ただの自己紹介。

 

 なのに、何故だろう。私はとても安心したし、彼も安堵したような表情を浮かべていた。

 

 面白い話なんて何一つできなかったのに、私たちは夕方までずっと話し込んで、別れ際、メールアドレスとスマホの電話番号、住所まで教えあっていた。(その頃の私はSNSの類に個人アカウントを作ったりしていなかった。アルバイトの連絡で不便だから作れ、と惣流さんに強制されて作ることになったけれど、アルバイト関連の連絡目的以外では、正直あまり使っていない)

 

 彼との馴れ初めは、そういう非常に奇妙なものだった。

 

 それから何度か授業で会い、碇くんや惣流さんとの感情のやり取りが本当に色々あって、碇くんとお互いの部屋に頻繁に行ったり来たりしているうちに、もう転居しようという話になって、5月に二人で今の部屋に転居。

 

『前世の縁か何か?』と碇くんと高校時代からの同級生だった惣流さんに、呆れ気味に言われたときは、本当に困った。

 

『一万年前に永訣した大切な人と奇跡が起こって再会できた、そんな心地がして同居を決めた』などとと言ったら、惣流さんに精神科行きの救急車を呼ばれかねない。

 

 そのため、借りている部屋の貸借契約をキャンセルするための違約金が必要になってしまった。今のアルバイト先であるイタリアンレストランで働きはじめたのは、違約金返済がそもそもの目的だった。もちろん、そこで碇くんが働いているから、というのもあったけれど。ただそこでは惣流さんが働いていて、最初はわりと渋い顔をされたのを覚えている。あくまでも最初だけだけれど。

 

 引越し先の新居は、洋室の八畳一間。

 

 私は養護施設育ちなので気にならないけれど、高校以後はずっと一人暮らしをしていた碇くんには、手狭にかんじられるかもしれない。

 

 悩んだ末、少しでも部屋を広くするため、タンスを処分して収納付きダブルベッドを買うことを提案したのが十月頭。

 

 碇くんは、何故か顔を真っ赤にしながら頷いてくれた。

 

 タンスがなくなり、掃除がやりやすくなったおかげか、碇くんの笑顔は増えたように思う。家賃も7万円で済ませられ、家計が黒字転換して、貯金もできた。違約金を支払い終えてからは、別口のアルバイトを掛け持ち擦る必要もなくなったので、二人で過ごす時間を増やせている。

 

 子供時代からずっとショートボブにしていた髪も、忙しくしているうちに切る機会を逃し、今は肩口辺りまで髪が伸びている。

 

 私の人生は、大学に来てから何もかもが変わってしまったように思う。

 

 時間の流れ方も、世界の見え方も、自分自身の心のありかたも。

 

 ここでの暮らしをはじめてから、二人で工夫して変えてきた部屋を見つつ、昔を懐かしんでいると、自分の掃除の手が止まっている事に気づいた。

 

 掃除済みの冷蔵庫の棚板をセットして、食材を早くしまわないといけない。

 

 焦りを覚える。段取りよくやらないと、今日もまた碇くんの手を借りてしまうなんてことになりかねないもの。

 

 碇くんは一人暮らしに馴れていて、なおかつ家事の手が早いので、炊事洗濯家事掃除、放っておくと何でもかんでもやってしまう。

 

 養護施設時代、暮らしの多くを職員さんに依存していたように、碇くんに依存状態になってしまい、全部彼任せになってしまうのが怖い。

 

 そうは思っているけれど、ずっと養護施設で育ってきた私が、急に一人暮らしに馴れられるわけがなく、最初は碇くんにずっと頼りっぱなしで、夏頃には家事洗濯は一通りできるようになって、彼の負担を少しは減らすことができたけれど、炊事だけは碇くんに及ばないし、そうした生活の諸々の段取りの組み立てと効率で言うと、これもやっぱり碇くんに及んでいない気がしてならない。

 

 本当に、碇くんからは貰ってばかり。何一つ、お返しができていない気がしてならない。

 

 でも、今日はもらうだけにはならない。そのはず。

 

 私は食材が詰まった買い物袋に、立てかけるようにして置いた、茶色の手提げ付き紙袋に視線を投げ、その中に入ったプレゼントを思う。

 

 彼への思いを込めた、彼の心に驚きを満たす爆弾──になってほしいもの。そういう祈りをこめたもの。

 

 この半年、一緒に暮らして、ずっと見つめてきた碇くんをを想い、彼なら何をもらったら驚くだろう、そして喜んでくれるだろうと悩み、ようやく決まったプレゼント。渡すときは最高の形、最高のタイミングで渡したい。

 

 急ごう。

 

 シンクの栓を抜き、棚板をすすいでいると、不意にドアノックの音がした。

 

 この音。

 

 碇くんだとすぐにわかる。何故。早すぎる。時刻を確認するため、慌てて腕時計を見ようとした。

 

 手首を覆うゴム手袋の裾が邪魔で見えない。振り返り、壁掛け時計に視線を向けると、まだ午後7時だった。

 

 碇くんは今日は23時までのシフトのはず。今日は金曜日、予約は一杯に詰まっている。

 

 スタッフが何人居ても足りない状態だった筈なのに、早帰りはありえない。

 

 まさか、お店で何かあったのだろうか。まさか暴力事件? 急な体調不良だろうか。

 

 それならSNSなりメールなり、電話なりで連絡があるはず。

 

 どういうことなの。何もかもわからないまま、私は慌ててドアに駆け寄った。

 

「今開ける。待ってて」

 

 外の碇くんに声をかけドアを開けく。

 

「ただいま、綾波」

 

 黒のチェスターコートにグレーのパーカー姿の、背の高い碇くんの笑顔が見えた。

 

 逢った頃よりさらに背が伸びて、今は180センチ。首には白いマフラーを巻いている。黒いジーンズと白いスニーカーに覆われた足が長い。愛用の黒のキャンバス生地トートバッグを、左手に下げていた。

 

 碇くんが優しさを表情に浮かべているのを見て、少しだけ安心した。お店や自分の体が大変なことになるような何かが起きていたら、こういう顔にはきっとならないから。

 

「おかえりなさい」

 

 私は碇くんの帰宅の挨拶に応じる。けれど碇くんは、怪訝そうな顔をした。

 

「どうしたの綾波。何かあった?」

 

 そう言って私の目を覗き込んでくる。私の顔に、不安が強く滲んでいたのだろうか。

 

「ううん、何でもない」

 

 私は慌てて首を振って否定した。

 

 目をそらす。反応が極端すぎたと慌て、自省と落ち込みが同時に心に訪れた。

 

 昔と違って、色々な感情や考えが、態度や表情に出てしまう。冷静な振る舞いができない。

 

 そのくせ碇くんのアルバイトが長引いて一人で寝ることになる時は少し落ち込むのだ。一人で眠るとき、目を覚ましたら彼が居ないことになっているのではないかという怖さが心に生じてしまう。

 

 だから落ち着かない。彼が帰宅した気配を感じてから、ようやく安心して眠るということも、しばしばある。幸せが、千々に飛び去り散り散りになって、元の形を失ってしまうような予感がある。

 

 いえ、予感というより、きっと既視感なのだと思う。あるいは後悔かもしれない。

 

 もちろん、それはただの錯覚で、彼と出逢ったのは半年前。ただ、どれほど錯覚だと理性の言葉で抑え込もうとしても、胸から湧き上がる原始的な感情は、黙ってくれるものでもない。

 

 落ち着いた暮らしという意味で言えば、空っぽだった高校までの生活のほうが、よほど落ち着いていたと思う。

 

 けれど、その頃に帰りたいかと言うと、決して帰りたくはないという気持ちが強い。

 

 気づけば、私は自分の胸に左手を当てていた。脈打つ鼓動を抑え込むように。

 

 碇君が、慌てて作り笑いを浮かべ、違う違うと右手を振る。

 

「惣流がシフトを代わってくれたんだ」

 

 あの人が。納得がいって、私は安堵に気持ちが緩むのを感じた。

 

「そう」

 

 私は呟く。

 

 惣流アスカさん。他人に対しては猫かぶりだけれど、気心が知れてくると、勝ち気が過ぎて傲慢にさえ見え、かつ押し付けがましいところがあるから、色々誤解されやすい人。

 

 碇くんと私が出逢ったばかりの頃は、訝しまれ、胡散臭がられた記憶があるし、その頃のあの人の口調は、他人行儀で表面こそ取り繕っていたけれど、言葉の内容はかなり尖ったものだったように思う。

 

 けれど本当は他人の気持ちも考えられる、素朴な優しさを秘めた人だったことを、私は後々知ることになった。

 

 アルバイト先で一緒に働きながらシフト時間をお互い融通しあったり、大学で授業の情報を交換したり、ノートを見せあって試験対策をしたりしていくうち、口調こそ変わらないけれど、彼女の反応が柔らかくなってくることに気づいたのだ。

 

 それが私の知る、惣流アスカという人で、そういう人だからこそ、自分の予定をキャンセルして碇くんに休みを譲ってくれもする。私のいろいろな悩みの相談にも、色々乗ってもらった半年だった。

 

 今回のプレゼント選びでも、何を贈るかは決まっていたけれど、どのメーカーのものを買えば見当がつかなかったので、詳しい彼女に知識の面で、相当にお世話になった。結局彼女が推薦したブランドの商品を買った。

 

 ついでに言えば、それらしくプレゼントをラッピングしてくれたのも惣流さん。私はそういう行為に馴れていない。施設の職員さんから、店で買ったお菓子をもらうだけ。だから、自分で何かを飾り、包んだことなんて一度もなかった。

 

 その件で彼女に相談したら、部屋に呼ばれ、色々悪態をつかれたけれど、貸しなさいと言われ、10分程度で綺麗にプレゼントを梱包してくれた。

 

 シックな茶色の包装紙で包んだ後、麻ひもで十字に結う。全体的に薄茶色の落ち着いた色味に、杉の葉の緑と松ぼっくり、小さな赤白のキャンディケインの模型をあしらって、クリスマスらしく、上品でありながら可愛らしい仕上がりで、私はおもわず「すごい」と呟いてしまった。

 

 それを聞いた惣流さんは、あたりまえよと言いながら、少し顔を赤らめていた。本人は認めないけれど、少し照れ屋なところがある。彼女の人生について、深く聞いたことはないけれど、案外褒められ馴れていないのかもしれない。

 

 もっとも、今回の件は、気遣いばかりではなく、彼女なりに得るものがあるからかもしれない。ふと、彼女が急にシフトを変わった動機を思いつく。

 

「営業周りが多かった店長が、今日は忙しいからと臨時にシフトに入っていた。惣流さん、それに気づいたのかもしれない」

 

「惣流、店長とは馬が合うからね。あいつ、あんまり他人を褒めたりしないのに、店長は素直に尊敬してるもんな──綾波、そういえば、ゴム手袋したままだよ」

 

 言われて、気づく。慌ててゴム手袋を外し、エプロンドレウスのポケットに仕舞った。

 

 指の何箇所かを絆創膏で覆われた手が顕になる。みっともない。そういえば、食材もしまい忘れている。肝心な時に抜けてしまうのが、私の悪い癖だ。

 

 恥ずかしさで顔が熱くなる。

 

 顔色に出ているだろうか。いつもどおりの無表情だろうか。

 

 まだ将来のことも考えず、日々を受け流して暮らしながら、施設で年下の子たちの面倒を見ていた頃、言われたことを思い出す。

 

──お姉ちゃんは優しいけれど、笑ってくれない。

 

 上手な笑顔が自然に出ない。人間らしい表情が浮かばない。そう言われる。そのとおりだとも思う。何故なのか、自分でも理由がわからない。

 

 もう思い出すことができないほど昔、まだ幼い頃に何かあったのだろうか。それとも両親がいないから感情表現が上達しなかっただけ? でも同じ施設の子供たちは、みんな泣きもすれば笑いもして、感情表現は豊かで、私だけが。

 

 止そう、と私は思考を止める。忘却の沼を探ったところで、答えの出ない謎と懊悩に突き当たるだけ。

 

 私はここにいて、碇くんはここにいる。それでいい。渡したいものもあるのだから。だって、今日は特別な──

 

「そうだ。綾波に、渡したいものがある」

 

 先手を取られた。しまった、という私の内心の思いには当然気づかず、彼は手から下げたトートバッグに視線を落とす。何かの包みが覗いていた。

 

 私のためのプレゼント。そう知って強い喜びを覚えつつも、微かな落胆も同時に感じる。矛盾した感情が並列するのは、自分の心ながら度し難く、わからない。

 

 碇くんはいつだって私の先手を取ってくる。何かを彼のために純粋にしてあげたいのに、あれこれ私を手伝ってくれる。勿論それはとても嬉しいことだけれど、純粋に彼のために尽くしたい日だってある。

 

 だからこそ、彼が驚いて、なおかつ一番喜んでくれる計画を、と一ヶ月前から準備していたのだけれど、彼は想定外に早く帰ってくるし、食材はしまえておらず料理にも取りかかれていないし、暖房を忘れて部屋は寒いままで、すべて進捗は壊滅状態、上手く行かず、今日はもうだめかもしれない。

 

 根本的に運が悪いのかも、などというつまらない考えが、脳裏を巡りだしはじめた。

 

「綾波なら気に入ってくれると思う」

 

 その言葉を聞き、私は碇くんのバッグに収まる包み紙を何の気無しに凝視し、そのまま私は固まってしまった。

 

 目を見開く。一部がちらりと見えただけ、それでも全体像がありありと分かる。

 

 シックな茶色の包装紙を、麻ひもで十字に結い、杉の葉の緑と松ぼっくり、小さな赤白のキャンディケインの模型をあしらって、総合的に落ち着いた感じでありながら、色味小気味良いそのセンスは、間違いなく惣流さんのそれだ。

 

 私のそれと外見がおなじ、サイズからして中身もきっと同じもの。

 

 なんてこと。

 

 思わずため息をつく。顔に出たのか、またしても碇くんが怪訝そうな表情を浮かべた。

 

 違うの、と私は口を開く。

 

「碇くん。そのプレゼント、もしかして」

 

「え?」

 

 どうしたの、という疑問符まみれの彼の顔を見ていられなくなり、私は視線を下に落とし、地面を見つめながらにつぶやいた。

 

「ツヴィル社のナイフセット。定価税込3万3千円。牛刀とペティナイフのセット」 

 

「あー」

 

 彼は納得と落胆を同時にため息と声音で表明した。それはそうなると思う。私もそうなったから。

 

「綾波も相談したの?」

 

「ええ。惣流さんに」

 

 私も力なく頷く。落胆。不本意。

 

 碇くんは寒い思いをしながら返ってきたのに、プレゼントは全く同じもので、準備も終わってなくて、何もかも台無しで、一体どうしてこうなるのだろう。泣きたい気持ちになってくる。

 

 物心ついてからずっと泣くのも笑うのも苦手で、碇くんに出逢ったときは、嬉しさと愛しさが同時に胸にこみ上げてきて思い切り泣いてしまったけれど、今は悲しいのに涙が出てこない。

 

 顔を上げると、碇くんは悲しむでもなく、何かを真剣に思案する顔をしていた。

 

「碇くん?」

 

 怪訝な声を出してしまう。

 

「そうか。そういうことか、惣流のやつ」

 

 碇くんは腑に落ちた様子でつぶやきながら微笑んだ。そこには感謝の色がある。

 

 そうして彼は、私の目を見て笑みを浮かべた。

 

「惣流に相談してプレゼントを決めた時、惣流は同意してくれたと思うんだけど、その理由を聞いたりした?」

 

「聞いてないわ」

 

 私は力なく顔を横に振る。何故彼が笑うのかわからないまま、私は言葉を連ねていった。

 

「施設ではプレゼントと言えば専らお菓子ばかりだった。お菓子でも良かったけれど、それだと多分碇くんは驚かない。心に残らない。碇くんの驚く顔が見たかった。喜んでほしかった。

 普段読まない雑誌を読んで、調べて、碇くんは料理が好きだから、包丁がいいと思った。包丁は雑誌のリストに乗っていないから、普通は贈らないし、驚くと思ったの。まさか、碇くんも同じものを買っているなんて。

 それにその梱包。惣流さんと同じもの。惣流さん、碇くんにも買うように薦めたのね」

 

 言うほどに、冬の分厚い曇り空のような暗い心地になる。寒さと心の冷えががいや増してきた。

 

「どうして」

 

 力なく呟く。けれど応える碇くんの口調は、すっかり気楽なものに戻っていた。

 

「それで落胆したんだ」

 

 惣流のやつ、ちゃんと言えば良かったのに、なんて呆れ気味の口調で言いながら、彼は嬉しそうに笑っていた。

 

 奇妙に思う。

 

 私から彼に送る最初のプレゼントでもあるし、碇くんが私に送ってくれる初めてのプレゼントでもある。同じ包丁が二セットあっても、きっと片方は仕舞うだけ。片方がプレゼントの意味を喪ってしまう。

 

 まさか、あえて被るようにした?

 

 惣流さんには、何か考えがあったのだろうか。

 

「同じものが二つということに、意味があるの」

 

 碇くんが頷く。

 

「綾波、ホール担当なのに、厨房で料理の練習もしてるじゃないか。それも、かなり熱心に。惣流は、綾波が料理が好きになったって気づいたんだ。あれできちんと人を見るタイプだからね。

 いい包丁だけれど、僕か綾波のどちらかが買うだけなら、たぶん僕らは家で使うだけで、店には持ち込まない。

 二つ買うように仕向ければ、きっと僕らのどちらかが、仕舞っておくのは勿体ないからと、店に自分たち用に持っていく。正直、店の共用のやつ、共用だけに、あんまり切れ味がよくないからね。買い替え前提っていうか。

 それに、自前でちゃんとした包丁を持ってくる新人は、昔気質の人に好感をもたれやすいんだ。そういうとこにやる気がでる、みたいに思ってる人が厨房には多いからね。

 憶測だけど、多分そう考えたんだ。

 惣流、人間関係は不器用だけど、あれで頭がいいからね。きっと真剣に考えてくれたと思う」

 

 その言葉で、得心する。

 

 プレゼントは使われてこそ意味がある。私のためにも、碇くんのためにもなるもの。

 

 私達が手にするたびに、贈りあった日のことを思い出せるような、大切にできるもの。私や碇くんの相談に乗りながら、彼女なりに考えて出した結論。

 

 それが、同じ包丁セットを贈り合うよう仕向ける、というものだったということだった。

 

 それにしても、碇くんにも惣流さんにも秘密に、と厨房の人には言っていたのに、練習がバレていたのが恥ずかしい。

 

 考えてみれば当然で、馴れない頃は何度も指を切り、指を傷だらけの絆創膏まみれにしていた。

 

 同居している碇くんは気づいて当然。仕事には決して手を抜かないタイプの惣流さんも、ホール担当の私の指が絆創膏だらけなのを気に留めないわけががない。

 

 物事について、言うべきことはきっぱり言ってくる彼女が、今の今までずっとそれを指摘してこなかったのは、きっと私の思いを汲んで、気を使ってくれていたから。

 

 私の知らないところで、彼女が私の手の傷のことで、あれこれスタッフに弁護してくれている景色さえ想像できる。

 

 それに考えてみると、家でも店でも同じ包丁を使えれば、同じ要領で使うことができる。研ぎも切り心地も同じなのだから、包丁に関してだけ言えば、店の努力の成果がそのまま家の料理に生き、その逆もまた然りということになるのだ。

 

 店だけでなく家でも成果を披露したい、碇くんを喜ばせたい、褒めて欲しいという気持ちを、きっと汲んでくれていたのだと思う。惣流さんの真摯さは、私が思っていたより、よほど深いものだった。

 

 思わず、呟く。

 

「なんで、私のために。まだ、会って半年しか経ってないのに」

 

 彼が小さく、嬉しそうに微笑む。

 

「時間は問題じゃないんだ、多分。

 惣流は、友達には相当おせっかいを焼くタイプだから」

 

「──友達。惣流さんの、友達。私が」

 

 その言葉を聞いて、私は固まった。友達。その認識をしていなかったことに、初めて気づく。

 

 ともだち。

 

 施設には世代の近いの子が何人もいたけれど、どちらかというと家族とも学友ともつかない曖昧な関わり合いだった。

 

 中学校にも高校にも、友達と呼べる人はできなかった。

 

 でも彼女と出会ってからの半年、大学からアルバイト先、プライベートの付き合いの深さを考えると、そういう事になるのかもしれない。

 

 友達。

 

 誰かにそう言われたことは無かった。

 

 私から言ったことも無かったと思う。

 

 碇くんが私にいう。声音がどこまでも優しい。

 

「大学だけならともかく、店でも一緒だ。

 綾波の、接客のときの表情の硬さを苦々しく正直にぼやくのも惣流なら、一つ一つのサービスの丁寧さと真摯さを一番買ってるのも惣流だ。

 嫌ってるなら、今回の綾波の相談には乗らなかったよ。多分、距離を取ってた。そういうとこがさ、わかりやすいんだ惣流は」

 

 彼の言葉に、まだ過去の惰性を引きずっていて、毎日の大半がどうでも良かった頃の、過去の自分を思い出す。

 

 碇くんと出逢った瞬間何故かお互い大泣きして、そこから変化が始まって、碇くんが傍にいるだけで、もう充分すぎるほどに幸せだったのに。

 

 私を大切に思ってくれる人が、碇くんの他にもいたのだと、今更ながら気付かされた。

 

 私が幸せになった理由、私に幸せをくれた人が、碇くん以外にもいたのだと、理解してしまった。

 

 鈍感にも程がある。無神経。目が熱くなる。寒さで冷えた私の頬を、こらえきれなかった暖かなものが、一筋伝った。

 

 惣流さんが、本気で私の事を考えてくれたのが嬉しい。

 

 それを私に教えてくれた、碇くんの真心が嬉しい。

 

──奇妙な既視感。いつか、碇くんも、こんなふうに泣いていたような。何故泣いているかが分からなくて、確かあの時──

 

 目が、また熱を帯びた。

 

「私、嬉しいのに。それなのに、何故泣いてるの、私」

 

 言葉にできない、わからない気持ちが、ただ熱いものとして溢れ出し、とめどなく、頬を伝う。

 

「嬉しいから、じゃないかな」

 

 そう言って、碇くんの身体が近づいてきて──片手にバッグを持ったまま、私の身体を抱きしめてくれた。硬い骨ばった、けれどそれだけではない暖かさと労りの感触が、コート越しに伝わってくる。

 

 お互いの頬と頬が当たり、碇くんの暖かな体温が伝わってきた。

 

 彼の身体の匂いを嗅ぐ。とても安心する匂い。とても懐かしい匂い。

 

 彼の右手が、私の背中に触れ、私を彼の方へ引き寄せた。私の耳元に唇を寄せた。微かに触れる柔らかな感触。

 

「綾波の体、冷たいね。風邪を引かないか心配になる」

 

「掃除をしていて、暖房を切っていたの。でも、今は暖かい」

 

 そう。本当に暖かい。

 

 本当に胸が、心が暖かい。あの日からずっと暖かい。

 

 きっと、それまで私はずっと凍えていたのだと思う。凍えているのだと気づかなかっただけで。

 

「碇くん」

 

 碇くんを抱き締め返しながら、彼の耳元に唇を寄せた。

 

「私、生きていてよかったと思ったことがなかった。

 養護施設では、優しくはしてもらえたけれど、それは仕事としての優しさ。

 私の人生は空っぽで、何もなくて、将来の夢も希望なんて考えたことがなかったの。

 惰性で意味もなく生き続けて、きっと意味もなく死ぬんだろうって、ただそう思っていた」

 

 冬の夜、大気は冷たくて、街明かりも夜闇も寒々しい。

 

 抱きしめてくれる彼の体と、耳に感じる吐息がとても暖かかった。この冷え切った世界から、彼が守ってくれているような気持ちを覚える。そしてそれは、きっと本当にそうなのだ。

 

 その実感を伝えたくて、私は言葉を静かに連ねる。

 

「誰かのため。そういう言葉も実感できなかった。

 周りの子達が言う、辛いとか、寂しいも、私には正直分からなかった。

 けれど、今は違う。

 あなたが居ない時、胸が急に空っぽになったように、薄ら寒く感じる時がある。部屋が冷たいと思う時がある。

 多分、それが『寂しい』なの。

 私が初めて覚えた、いえ、自覚していないだけで、物心ついた頃からずっと感じていた、寂しいという気持ち」

 

 言葉にする。そして実感した。一人だった。一人でいいと思っていた。けれど違った。

 

 彼がうなずく気配がする。

 

「僕も、中学校を卒業するまで、生きる理由なんて考えたこともなかった。

 こんなに近くに誰かがいたことも、一度もなかった。

 10月、同じベッドで寝よう、って言われたときは驚いたけれど──でも、君の近くで眠ったあの日は、気恥ずかしさよりも、懐かしさのほうが勝ったんだ。

 あんなにぐっすり眠れたのは、生まれてはじめてかも知れない。4月の時よりも、あの時の方が、ずっと強い既視感を感じたんだ」

 

 ああ。碇くんのその言葉は、私にはとても分かってしまう。

 

 彼と過ごす日々は毎日がデジャヴの繰り返し。

 

 死後に夢見た後悔としての夢が、突然現実となってしまったような、日だまりのような暖かい日々。

 

 そういう望みを抱くきっかけをもたらす何かが起きた時、きっと彼が近くにいたのだと思う。

 

 そういう確信が私の中にある。錯覚のはずなのに、決して錯覚と思えない確固としたなにかが。

 

「いつもより、碇くんを近く感じる。寒いのに、心と身体が暖かい。不思議」

 

「もう昔過ぎて忘れてしまうほどの昔、君がこういうふうに近かった気がする。今もそうだ。

 その頃僕らはもっと幼くて、それに──月がとても綺麗な夜だった。

 そんなことは起きてない、経験していないはずなのに、なぜかそんな気がしてならないんだ」

 

 彼のその言葉を聞いて、連鎖反応のように、いつか誰かがいった言葉が、私の脳裏をよぎる。

 

『──えば、いいと思うよ』

 

 とても懐かしいその響き。

 誰かが、暗い世界に突然開いた穴からそう私に告げて。

 その穴の向こう側、暗い空の高みに、青い月が、今日のように光っていて、その景色は現実か幻想かもわからないけれど懐かしくて、きっと、それが決定的な──

 

 涙腺には限りがないのだろうか。目から溢れ出すものが止まらない。

 

 全く悲しくないのに、しゃくりあげそうにさえなっている。強い悲しさに似て、けれど全く正逆の嬉しさと喜び。

 

 碇くんと出逢えてよかった。

 

 惣流さんと出逢えてよかった。

 

 そうなれる日を、誰よりきっと待っていた。大切な人たちとまた巡り合えたという、過去の私が夢見た、末期の夢の成就。

 

 勿論、これは狂気なのかも知れない。ただの妄想か、勘違いなのだろう。

 

 出逢ったのは半年前で、彼との付き合いはとても長いとはいえないもの。

 

 それでも言えることがある。

 

 寂しさが私にとって当たり前過ぎて、寂しさを実感できなかったあの頃と、今の私の心は違う。

 

 施設を卒業していく背中が当たり前で、もう二度と会えなくなる人たちに、言葉もなく目だけで惜別を告げる日々を当然と思えたあの頃とは、違う。

 

 碇くんがいる。そっと私を見守って、私と彼に助言して、背中を押してくれた惣流さんがいる。告げるなら、きっと今しか無いのだろう。私は内心で惣流さんにお礼を告げる。

 

 そして、私は彼に言った。

 

「碇くん。

 私は今まで、生きていて辛くなることもなくて、そのかわり幸せだと思えることもなかった。

 それが当たり前だったの。

 今は違う。変わってしまった。

 寂しさが辛いと分かってしまった。

 ずっと寂しいモノクロの世界を生きてきた私に、あなたとの出会いが色彩を、味わいを与えてくれた。ありがとう。

 私に見える世界を、こんなにも綺麗に、そして豊かにしてくれて、本当に、ありがとう。碇くん」

 

 いつも彼に言っている『ありがとう』。

 

 けれど、今日のありがとうは、この半年、いえ、きっともっと昔から、私が彼に抱いていたもの。

 

 私はこの五文字のことばに、想像もできない歳月、少なくとも半年かけて貯め込んできた、ありったけの感謝を込める。

 

「ずっと幸せなんて無かった。

 一人で生まれて、なにも得られず死ぬって思っていたの。

 でも違った。違ったのよ。

 今は、本当に生きていてよかったって思う。

『ありがとう』。きっと、誰かにずっと言いたかった言葉。言いたかったのに、言えずにいた言葉。

 何度でも言いたい言葉。感謝の言葉。

 ありがとう、碇くん」

 

「ありがとう、綾波──でも、好きとは言ってくれないんだね」

 

 碇くんが苦笑する。私のものでない涙が、私の頬を伝い落ちた。碇くんも泣いていた。微笑みながら、泣いていた。

 

 私と同じ景色を、碇くんも見ているのかもしれない。

 

 今はもう喪われたあの日の景色を、心のなかで見つめている。きっと。

 

 だから、私に言ってほしいのだと分かる。けれど。

 

「碇くんに言って欲しい」

 

 唯々諾々と生きてきた私が、生まれてはじめてのわがままを言う。

 

 他人の願望をただ受諾して、流されるままで生きてきた私。人生なんてそんなもので、それでいいと思っていた私。でも、それは違う。ただ従うだけに成り下がると、自分に対しても、他人に対しても嘘つきになる。嘘に嘘を重ね続けると、他人の本当どころか、自分の本当までわからなくなってしまう。

 

 だから、たとえ浅ましく思えても、欲しいときは欲しいと伝えなければいけない。きっとそう。

 

 私はたった今、そのことに気づいた。

 

 だから、碇くんにせがむ。あなたが与えてくれるものをただ受け取るのではなく、私の求めに応じて欲しい、私の願いを叶えて欲しいのだと彼に伝える。

 

 彼の言葉で、言ってほしい。それがきっと私の本当。

 

 彼が頷く。私の後頭にのびる彼の手を、私は受け入れる。

 

 半年続けてきた生活の中で、今までで一番近くに彼が来て、お互いの眼が合う。

 

 彼の瞳は少し緊張していたけれど、労るような柔らかい光を讃えていた。

 

「好きだ」

 

 私は彼の言葉を聞いた。彼の顔が緩やかに近づき──外気で冷たくなってしまった、柔らかな場所が、私の唇に触れてくる。

 

 私は目を閉じる。

 

 彼の唇がこんなにも柔らかいなんて、知らなかった。

 

 お互いの一番柔らかな場所で彼を感じ取ることで、言葉になってもいないのに、彼の気持ちをここまで感じることができるなんて、知らなかった。

 

 どれほど抱き合っていたのだろう。

 

 時間の感覚は曖昧で、頭の中は真っ白で、ただ彼の身体が暖かくて、彼の唇が柔らかかった。

 

 お互いを味わうだけ味わって、ようやく私達は唇を離した。

 

 初めてのキスのせいか、とても照れくさそうな顔をしている彼に、私は告げる。

 

「好きよ、碇くん。多分、愛してる」

 

 私は目を細めながら、告げた。

 

「多分なんだ」

 

 碇くんが、顔を赤らめたまま苦笑する。

 

「誰かに対してこんな気持ちになったことがないの。

 碇くんは私にとって友達じゃなかった。最初から違ったの。だから、愛してる。きっと最初から愛してた」

 

「僕が先に言いたかったな」

 

「ようやく先手を取れた。嬉しい」

 

「悔しいね」

 

 悔しさの欠片もない表情で言いながら、彼は再び唇を重ねてきた。それを受け入れ、また離れる。

 

 私は聞いた。

 

「碇くん。私、きっと笑っていると思う。こういうときの顔、これで合ってる?」

 

「うん。この半年で、綾波は随分笑うようになったけれど、今日の笑顔が、一番好きだ」

 

「私も。碇くんの笑顔が、大好き」

 

 今日は大切な人に贈り物を贈る日。そして贈られる日。

 

 だから、与えるだけに固執しなくて良かったと、ようやく気づく。

 

 既視感という曖昧なものを理由に、衝動的に二人で暮らし始めた私達は、今日、初めてお互いをお互いに与え合うことができたのかもしれない。

 

 どこかで聞いた古い歌が、脳裏を静かによぎっていく。私達がもっと幼かった頃、もっと殺風景だった部屋で、彼とイヤホンを分け合って、テープレコーダーで聞いた歌。そんな、有りもしない記憶がなぜか蘇る。古めかしい英語の響きが心に響き、染み渡る。

 

 

『私の心をあなたの心で満たして。代わりに私の心を注ぐ』

 

 

『私が知らず、けれど待ち望んでいた人』

 

 

『忘却してもなお、訪れを信じていたあなた』

 

 

 彼の濡れた頬が、月光を浴びてわずかに輝いている。

 

 私の頬も、同じように輝いているに違いない。 

 

 私達の頭上、天高く浮かぶ青い月の光が、忘れてしまったあの日のように、私達を照らしているのだから。

 

 

 

──言い換えるなら、それはまごころ。

  言い換えるなら、愛している。

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