12000年の果ての再会──新世紀の果て、過去亡き時代の彼ら   作:モーター戦車

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※貞本義行先生版『新世紀エヴァンゲリオン』の設定を前提としておりますのでご注意ください。


愛するポーギー

 

 箱根某所児童養護施設 

 

 21世紀 某年12月24日 夕刻 綾波レイ14才

 

 

 

 夕食の時間。

 

 施設のみんなが一斉に食べるための長テーブルに設えられた椅子の一つに私は腰掛ける。

 

 予算も労力も限られる施設の運営状態でも、せめて子どもたちにクリスマスらしいものを、と施設の職員さんも思ったのだろう。今日の食事は小さな骨付きローストチキンと麦ごはん、コンソメスープにほうれん草のソテー、それに小さな苺ケーキ。

 

 施設の職員さんの号令に合わせて、私と、施設の皆がいただきますを唱和する。

 

 ローストチキンの臭いを嗅ぐ。

 

 私は肉の臭いが駄目で、案の定このチキンからも、苦手な臭いがして、胸にきた。

 

 給食に出てくる肉類は、比較的ではあるけれど、なんとか残さず食べられるので、たぶん値段と手間の問題なのだろう。

 

 この施設の財政が厳しいということには小学生時代から気づいてはいたけれど、やはりご飯も相応に影響を被っていて、学校給食より、明らかに施設のご飯は美味しくない。

 

 それでも、児童虐待や、離婚調停の果て両親のどちらにも引き取られず棄てられ、食に飢えた幼い子どもたちにとってはご馳走で、皆争うように食べている。

 

 早くもチキンを食べ終えたらしい、小学一年生の男の子が、物欲しげに私の皿の上の、手がつけられていないチキンを見てきた。

 

 食べる? と聞くと、大きく首を振って頷く。

 

 皿ごと渡すと、大喜びで食べ始めた。

 

 施設の人が心配そうに私を見てくる。私は先天性の色素欠乏で、髪は青みがかった白、瞳も赤く、肌も病的なほどに白い。その上食が細いものだから、腕も足も細く、いつも施設の人に心配されていた。お医者様には摂食障害を疑われ、栄養療法の一環としてサプリメントも処方されている。

 

 私は施設の人を見て、軽く首を振った。

 

 私はまだ楽な方。父親が居ない。母親も居ない。

 

 箱根の、あの恐ろしく昔から存在して、だれもその由来を知らない白い巨人像の足元に、幼い私が裸のまま、じっと座っていたのを、警察の人が見つけ、あれこれ役所と相談した末、この施設にはこばれてきたのだという。その記憶はもう残っていない。

 

 だから、他の子どもたちとは違う。愛して欲しい父親に殴られたことも、愛して欲しい母親に存在しないかのごとく無視され続けたこともない。お腹が空いているのに、全く食事を与えられず痩せこけた、なんてこともない。

 

 食事をお腹が受け付けないだけ。給食はまだ食べられるけれど、予算が厳しいことが要因で、施設の人なりに頑張っているとは言え、やはりここのご飯は給食よりも美味しくないし、給食もそれほど美味しくないし、そもそも食事というもの自体が、楽しいものでは無いのだろう。

 

 私の人生自体も、この美味しくない食事に似て空っぽだ。味気なく摂取して、味気なく通り過ぎていく。

 

 将来の夢もない。希望なんてない。考えたこともない。

 

 死にたくもないけれど生きたくもない。そのどちらにも理由がない。

 

 きっと惰性で意味もなく生き続けて、きっと意味もなく死ぬ。

 

 今日はあまり食欲がない。

 

 麦ごはんも、コンソメスープも、ほうれん草のソテーも、みんな他の子にあげてしまった。残してしまうより遥かにいいから。

 

 何も食べないと施設の人が心配するから、スポンジがパサついた苺のケーキだけは、なんとか食べた。

 

 甘みと酸味がある。でもそれだけ。

 

 水でお医者様から処方された薬と栄養サプリメントを飲んで、食事を終え、ごちそうさまと言って立ち上がる。

 

 背中に、心配そうな職員さんたちの視線を感じる。

 

 でもいいの。あまり私はお腹がすいていなかったし、ここの子たちはどうしても予算不足で皆お腹をすかせているし、食べたい子が食べたほうがいい。

 

 私はいい。皆が食べてくれたほうが嬉しい。私の分まで食べてくれる方が、嬉しい。

 

 お腹が空いてつらそうにしている子にご飯を上げると、とても嬉しそうに食べてくれる。

 

 いいことではないのかもしれないけれど、喜んでいる子を見ると、少しだけ胸が暖かくなるような気がした。

 

 僅かに訪れる、そういう暖かさだけを、暗い人生の路の灯火として生きていく。

 

 私の人生は、綾波レイの人生は、ずっとそうだった。

 

 いっそ施設を出て、どこかで野垂れ死んで食い扶持を減らしたほうが、自分のためにも施設のためにもいいのかもしれないとも思った。

 

 けれど、それだけはできなかった。

 

 なぜかできなかったのだ。

 

 行き違えで別れてしまった誰かを、ずっと待っているような、そんな感覚が、胸のどこかにずっとあった。

 

 だから、生きた。理由もないまま生きて、中学を卒業し、高校を過ごし、大学へ進学した。

 

 楽しいことなんてなにもないまま、施設を出て、私は一人暮らしを始めるべく、東京へ向かった。

 

 親も居ない。施設にも学校にも友達は居ない。勉強はそこそこできたけれど、あくまでも惰性。

 

 新聞配達などでアルバイトをしてお金をため、大学に進学した理由も、ただのモラトリアム以外に何もなかったと思う。

 

 それでも、魂のどこかで、私は何かを待っていて、もしかしたら施設を出て、大学に行けば、何もかも変わるかも知れない、などということを、僅かでも考えなかったか、と言えばそれは嘘になる。

 

 けれどそれは本当に僅かだったし、小学校から中学校へ進学するときも、中学校から高校へ進学するときも、同じことを考えていたはずだ。

 

 私という人間の人生を例えるなら、『ゴドーを待ちながら』のようなものであったのかもしれない。

 

 死に損なったウラディミールとエストラゴンのような。

 

 あるいは、意味もわからず売られるラッキーのような。

 

 けれど、私という人生に与えられた台本は実のところ違っていて、その頃の私は気づいていないだけだったと、あとになって振り返ると思う。

 

 私に与えられた台本と配役は、例えて言うなら──

 

 

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 Neon Genesis EVANGELION After

 

 I Loves You, Porgy.

 

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東京都世田谷区某所 

 

21世紀某年 12月24日 綾波レイ20才

 

 

「ただいま」

 

 私と碇くんの声が、暗い部屋に響く。

 

 暮らし始めて1年半。同居決定の果て、すぐに二人で住める部屋を、という妥協で棲み始めた八畳一間。

 

「『緋桜』の事、喜んでくれたね」

 

 電灯のスイッチを入れつつ、碇くんが私に笑いかけてきた。

 

『緋桜』は刃物の名産地、ゾーリンゲンに本社を持つナイフメーカー、ツヴィル社の新作で、刃金のロックウェル硬度は63。安い包丁のように柔らかい鋼ではないので、研いで刃をつけるのはきっと一苦労だけれど、一度研ぎを入れると刃が長く持つし、よく切れる。

 

 深い緋色のハンドルも、赤色を好む惣流さんに似合う。

 

「惣流さん、牛刀を新調したがっていたから」

 

 大学で、アルバイトに出る前の惣流さんが、プレゼントの包みを剥がし、中身を見た時、見たことがないほど目を丸くしていたのを思い出して、私は少し笑ってしまった。欲しかったけど諦めていたものが降って湧いたように手の中にあった、といった顔をしていて、あの多弁な惣流さんが口をぱくぱくさせて絶句していたものだから、おかしくなってしまったのだ。

 

「あんな顔の惣流、はじめて見た。縁切り防止のおまじない用に渡してきたコインが渡してきたのが5円玉なのも惣流らしいよ。神社のお賽銭じゃないんだから」

 

 そう言って、碇くんもおかしそうに笑う。ヨーロッパでは、刃物のプレゼントは『友情や愛情を断ち切ることにつながるからよくない』とする地域が多い。その一方で、刃物には『立ちふさがる運命を切り拓く』という意味合いもあるのだそうで、良いプレゼントでもある。

 

 なので、あちらでは、縁切りなどの不幸を防止するため、コインを一枚渡し、取引の体裁をとるのだそうだ。

 

 その上で渡してきたのが5円玉のあたり、合理と科学を重んじながら、その上で験担ぎや伝統も楽しむ惣流さんらしいところがある。教えてくれれば飾り付けたのに、ともぼやかれた。

 

 私と碇くんは、去年惣流さんの薦めで包丁のセットを贈りあったのだけれど、それぞれのプレゼントの品物の箱の中には、赤い組紐で丁寧に飾り付けた5円玉が入っていた。惣流さんが手をかけて結い上げたもののはず。

 

 がさつなようで、実のところとても女性らしく、わかりづらいけれどとても優しい惣流さんらしい気配りだと私はその時思った。

 

「今年もシフトを変わってくれた。恩を返したいのに」

 

 私は少し目を伏せて呟く。今年も沢山お世話になったし、去年のクリスマスも、彼女がシフトを変わってくれたおかげで、碇くんと私は二人で過ごすことができた。今年は惣流さんが、と言い出したところ、いいから休みなさいと言われたのだ。

 

 クリスマス手当を稼ぐチャンスなんだから邪魔しないで、なんていい方をされたけれど、手当といっても知れたものなので、要は私達に気を回してくれたということ。本当に不器用で優しい人。

 

 私の思いに気づいたのか、碇くんが私に笑いかけてきた。

 

「『年末年始は出なさいよ』って言われた。惣流の中では貸し借りなしになってると思うよ。

 それにクリスマスの鉄火場で、自分だめしをしたいんだろうし。仕事を楽しむタイプだからね」

 

 そうして惣流さんについてあれこれ語らいながら、私達は部屋に上がる。

 

 帰り道、スマートリモコン機能を使って遠隔操作で暖房を入れていたので、もう小春日和のような暖かさになっていた。

 

 ダブルベッドの手前のパーテーションに、私はダッフルコートを掛けた。代わりに、愛用の黒茶色のエプロンドレスを、セーターの上から着込む。

 

 去年からさらに長さを増して、背中まで伸びた髪をゴム紐で束ねてポニーテールにした。

 

 ホールでは提供する料理に髪が落ちないよう、革紐とリボンを使って長めに結い上げるし、厨房ではシニョンにまとめて制帽を被ってさらに落髪防止対策を厳重にしているけれど、家なので、頭を下げた時、髪が降りて来ない程度に。

 

 気構えよし。

 

 自分のチェスターコートをハンガーに掛けようとしていた碇くんの方を振り向いて言う。

 

「今日の料理は私に任せて」

 

 私の表情を見て、碇くんが笑う。

 

「去年の復讐戦?」

 

「名誉挽回」

 

「楽しみにしてる」

 

 彼は笑いながら私に言うと、彼は壁際のテレビが置いてあるシェルフの前に、胡座をかいた。

 

「任せて」

 

 振り返りながら答える。冷蔵庫のドアに手をかけると、部屋の方から音楽が流れてきた。ソロピアノの孤独な、静かで、聞き手の耳に優しく染み入ってくる、柔らかな響き。

 

 ジャズだ。弾き手はキース・ジャレット。『愛するポーギー』。私が好きな曲。

 

 自然、体の動きが、曲のリズムに乗ってくる。緩やかで静かな、落ち着いた動き。少し緊張していた心が、ほぐれてきたのを私は感じた。

 

 冷蔵庫から、ブリや柚子といった食材を取り出す。シンク下の収納ドアの包丁ラックから、シェフナイフを抜いて、その刃を見つめた。昨夜のうちに研ぎを入れてある。金臭さの心配もない。もう一年使い込んだ愛用の包丁。

 

 大丈夫。私は自分に脳裏で言い聞かせると、並べた食材に視線を向け──

 

 ・

 

 ・

 

 ・

 

「美味しかった」

 

 テーブルの向こう側、満足そうにつぶやく碇くんを見て、対面に座っていた私は、安堵のため息を漏らした。

 

「良かった」

 

 碇くんの笑顔を見つめる。自然と、自分の口角が上がってきた。碇くんを見ていると最近こうなってしまう。不思議

 

「料理の腕、抜かれたかもしれないね」

 

 そんな彼の言葉に、私は首を振る。

 

「それはまだ。でも、そう言ってもらえて、嬉しい」

 

 表情で確信していたとはいえ、言葉で言われると安心してしまう。

 

 メニューを思い返す。

 

 アペリティーヴォ (食前酒)は甲州の白ワイン。ワインは生魚と合わせると臭みが出るという話があるけれど、原因は鉄イオン。甲州ワインはその鉄イオンが欧州のものに比して少ないので、今回のコースの組み立てを考えて選んだ。

 

 アンティパスト(前菜)はブリのカルパッチョ。『かぼすブリ』という大分のブランドブリを使ってみた。

 

 グラスフェッドビーフがそうであるように、生き物は食べ物で肉の味が変わってくる。『かぼすブリ』は餌に大分の特産品であるかぼすを混ぜたもので、脂が爽やかでさっぱりしていて、リモネンの抗酸化作用もあって臭みがまったくない。

 

 しゃぶしゃぶで頂いてもおいしいけれど、今回はカルパッチョに仕立てていく。

 

 塩を馴染ませた柵をカットし、長皿の上に、なるべく広い範囲を炙れるよう、斜に、切り口の面を出して盛り付けていく。

 

 そうして、バーナーで身が白くなる程度にさっと炙るのだ。香りを出しつつ、脂を少し溶かして活性するのが目的。

 

 上からオリーブの香りとクセがつよいフレッシュオリーブオイルをかけ、そうして味の丸いマルドンの海水塩を振りかける。

 

 上に黄色い柚子皮と、緑の葉と薄紫の茎を持つラディッシュスプラウト、ラディッシュの根の輪切りを飾って出来上がり。

 

 塩だけで味付けが充分、醤油だと強すぎるかもしれない、なんて思ってしまうほど、脂にくさみがない。奇跡かもしれない。口の中でとろけるよう。

 

 その天然物とも戦える美味しさと、フルーティかつスパイシーな風味があって、味のキレがいいアブルッツォ州のオリーブオイルが口の中で出逢って混ざり合うと、美味しさのギアが一段変わってますます素敵になる。

 

 ただ、いくらさっぱりしているとはいえ、脂と油の取り合わせなので、脂っこさが気になってくるかも知れない。

 

 それを防ぐための対策が、削った柚子皮とラディッシュの根の輪切り。

 

 ラディッシュスプラウトも彩り、香味野菜として添えてみた。

 

 黄色と赤白、緑に紫と、皿を彩り豊かに飾り付け、盛りの膨らみを出すのも目的ではあるけれど、やはり第一の目的は味。

 

 ブリの身なので、大根と同じアブラナ科のラディッシュとの相性がとてもいいし、柚子皮のフレッシュな香りと味わいも、炙って活性したブリの美味しさにとてもよく合う。

 

 それでももう一味欲しいときに備え、追い討ちの味変用に、皮を削ったあとに余った果肉から絞った柚子果汁と、柚子を刻んで塩と混ぜて置いた柚子塩、オリーブオイルを混ぜた柚子ソースを用意。

 

 バルサミコ酢に醤油と胡椒、オリーブオイルを混ぜた、バルサミコ酢ソースも添えて最後まで飽きないように。

 

 次はプリモ・ピアット(一皿目)、野菜のオイルパスタ。

 

 干し茄子と、赤と黄色のパプリカ、ブロッコリー、クリスマスらしさを考えて燻製ターキーをガーリックオイルに2日漬け込んで仕込み、ニンニクと鷹の爪でペペロンチーノ式に仕上げたもので、特に奇をてらわない。

 

 ターキーに限らず、鶏肉のたぐいはどうしてもパサつくのが気になるところ。そこで、オイル漬けにすることで滑らかさが加わり、しっとりとした触感になるし、オイルに染み込んだ野菜の滋味も染み込む。燻製の香りや塩気もベスト。

 

 野菜にもオイルが効いて独特の美味しさが出て楽しいし、特に干し茄子は、噛むほどに濃縮された茄子の美味しさと、独特の歯ごたえが効いて、噛むのがとても楽しくなる。

 

 そうした諸々が太めのアルデンテパスタと、乳化したオイルの中で混ざり合い、個性的でありながら口の中で総和として喧嘩せず混ざり合うので、口の中が幸せになる、そんなプリモ・ピアットに仕上がったと思う。

 

 そしてセコンド・ピアット(主菜)は、ピエモンテ風牛肉の赤ワイン煮込み。

 

 赤ワインに、小口切りのセロリ、四つに切ってクローブを刺した玉ねぎ、棒状に切った人参などと一緒に牛頬肉の塊1キロ(少ないと今ひとつ美味しくない)を一晩、時折返しながら全体に万遍なく味が染み込むよう漬ける。

 

 翌日肉だけを取り出して焼くのだけれど、ここで使うのはあえて豚脂。牛脂と豚脂では脂の味が違い、今回は豚脂の甘みを加えていく。ベーコンを焼いてその脂で焼いたりする方法もあり、古い料理だけに技法が様々。

 

 全体を焼いたらつけ汁と漬けておいた野菜、それにローレルなどのスパイスを加えて2時間半ほど煮込む。牛頬肉は、草食動物である牛が最も使う筋肉のひとつで、そのまま焼いただけだと非常に固い。コラーゲン、つまりは筋が多い部位だから。

 

 けれど、これを煮込みに使うと、筋のコラーゲンやゼラチンが蕩けて、とても牛とは思えないほど柔らかく、蕩けるような触感に変わるのが面白いところだと思う。

 

 使うワインは重厚さと力強い香り、コクで知られるピエモンテ州の『バローロ』が良いのだけれど、ちょっとどころではなく高いので、同じネッビオーロ種の葡萄で仕込んだフルボディの赤で代用した。

 

『バローロ』用葡萄栽培地の隣の丘で栽培された葡萄なので、味は近いはず……値段は4分の1以下だけど。

 

 煮込み終えたら、柔らかくなった肉を取り出してタッパーに移す。煮汁はローレルなどの固いハーブは取除け、柔らかくなった野菜は裏ごしし煮汁と混ぜ、肉の入ったタッパーに入れてともに保管、粗熱が取れたら冷蔵庫へ。そしてまた一晩。

 

 そして今日。取り出すとゼラチンで煮こごりのようになっている。

 

 これを鍋に戻して暖め直し、肉を出し、程々に冷ましておく。冷ましている間に煮汁を煮詰め、塩コショウ、隠し味にフレンチの技法で蜂蜜をわずかに隠し味として加えてサルサに。

 

 肉が程よく冷え、崩れずにカットできるようになったところでカット、付け合せのクリームポテトを敷いた皿の上にカットした牛頬肉を盛り付け、黒褐色のサルサをレードルで回しかけて完成。

 

 牛肉の酸味にワインの酸味。ワインのコクで食べさせるところがあり、本場の作り方で作るとかなり人を選ぶ味になるので、現地の亜種技法やフレンチの技法を混ぜ、わずかに日本人の舌向けに寄せた一品。あくまでも僅かなので、煮込んだ肉のとろっとした触感と美味しさ、サルサに仕立てたネッビオーロ種ワインの濃厚かつ芳醇な香りとコクで食べさせるところは同じ。

 

 いかにも北イタリア、という感じの味わいに骨のある料理で、人を選ぶところがあるけれど私は好きな料理。付け合せは本来、玉蜀黍粉を煮て餅粥に仕立てたポレンタを使うのだけれど、今回は牛乳の甘みたっぷりのクリームポテトを使って、煮込み肉の酸味と対照させてみた。酸味たっぷりの野菜と肉の旨味を吸ったサルサと好対照で、付け合せとしてとてもいい。

 

 マッシュポテトに牛乳やバターを加えてさらにとろみを付けたクリームポテトは最近流行りだした技法で、酸味系のミートソースと合わせても美味しいし、クリームポテトを詰めた容器に生卵を載せて湯煎して仕上げるエッグスラットに仕立て、バケットを添えて朝食にしてもまた美味しい。付け合わせにしてもいいし、アレンジして主食にしてもいいかもしれない。

 

 それで、ドルチェはと言うと、自作ではなく、近所のお店の苺ショートケーキにした。真似できない美味しさで、去年食べて「クリスマスはこれで締めたい」という気持ちが強かったので、手間暇を踏まえ、これで締めることにした。

 

 酸味の強いワイン煮込みの味が残る舌に、盗もうにも取っ掛かりがないほど上質に仕上がったクリームと、苺の爽やかな甘みと酸味が嬉しく、目先を変えてくれるし、クリスマス感をこの上なく出してくれる。

 

 3日がかりで仕込んだけれど、ただ概ね家事や勉強、プライベートの隙間時間を使ったもので、実のところそれほど大変だったわけでもない。それに、仕上がりは我ながら最高で、概ね努力は実ったように思う。自然と口角が上がってくる。

 

 碇くんが視線を向けてきた。

 

「少しは手伝わせてくれても良かったのに」

 

「今年は全部やりたかった」

 

 碇くんに視線を返すと、彼は意味ありげに笑った。

 

「来年は?」

 

 彼の言葉に、首を振る。

 

「外食がいい。碇くんと話せないから」

 

「でも、料理作ってる綾波の顔、楽しそうだったよ」

 

 碇くんがスマホを差し出してきた。カメラ機能で撮っていたらしい。

 

「一言くらい言って欲しい」

 

 構えていない顔を撮られるのが恥ずかしいので止めてほしい。彼の差し出したスマホの画面を覗き込むと、ブリを切っている時の私の横顔が映っていた。楽しそうだった。

 

「笑っている」

 

 何故。

 

 碇くんに出すのだからと料理に集中して、真剣になっていたつもりだったのに。

 

 楽しかったのだろうか。楽しかった。きっとそう。

 

 去年、碇くんが初めて作ってくれたご飯が美味しくて。

 

 入れてくれたお茶が、美味しくて。

 

 食べたものが美味しい、なんて思えるということ自体が驚きで、私は目を多分丸くしていた。

 

 碇くんたちに出逢ってからずっとそう。おどろいてばかりだった。

 

『楽しい』がどんどん増えていく。そういうことを分かるように自分が作られていたということ自体が私にとっては驚きだったのだ。

 

 あんなにも、昔の私は空っぽで、喜びも悲しみも何一つなかった。

 

 がらんどうの心のまま言われた通りのことだけをして、与えられた何かを時折誰かに譲ることだけが少し嬉しい、それしかない人生だったのに。

 

 授業に行ったり、惣流さんと服を買いにいったりしたときも、時間が立つのが早かった。

 

 あの先生の授業が面白い、この服がかわいい、そういうことを最初は一方的に話されて、だんだん自分からも、少しずつ惣流さんと、その友達の洞木さんにこれはどうだろうと話すようになっていった。

 

 養護施設に居た頃は、今日が早く終わらないかとばかり思っていたのに、今はあっという間に終わってしまう。

 

 碇くんが口を開いた。

 

「逢ってからしばらくは、ずっと無表情で、気持ちがわかりづらいところがあった。でも、最近の綾波って、よく笑う。学校や店の皆に挨拶する時も、昔は本当に無表情だったのに、最近は笑顔が多くてさ」

 

「そんなに?」

 

「うん」

 

 碇くんは私の目の前で、スマホの画面をスワイプしてみせた。映し出されるいろいろな私。そして、碇くんの手がとまる。

 

「これが、最初の写真かな。綾波と会ったばかりの頃」

 

「?」

 

 自分であるのは間違いない。ここまで私は無表情だったろうか。

 

 視線が遠く、表情も虚無で、まるで人形のようだった。

 

「画像加工?」

 

「スキルないよ」

 

 碇くんが苦笑する。

 

「普段の綾波って、感情を知らないって感じだったんだ」

 

 彼は眩しげに目を細め、私の瞳を見つめた。

 

「でも、僕はそんな綾波と一緒にいたくなった。4月に泣いたあの時から。

 君は、どんどん表情が豊かになっていった。さっきスマホを見せた時、また勝手に撮ったって顔になったよね。昔は不機嫌な顔なんてしなかったのに。

 変わっていく君を見つめていられるのが嬉しいんだ、僕は。それを少しでも残したくて」

 

 懐かしそうにスマホの画面の中の私を見る碇くん。

 

 私は自分のスマホを操作した。画像フォルダの中には、写真は一枚もない。

 

 碇くんがまた、口を開いた。

 

「よかったら画像データ、送ろうか」

 

「何故?」

 

「綾波が、寂しそうな顔したから」

 

 そんな彼の言葉に、私は驚きを覚えた。私の顔は、そんなにも心に正直になってしまっていたの。

 

「そう。見てから、考える」

 

 碇くんがスマホを渡してきた。

 

「ありがとう」

 

 受け取る。一番古い写真から、スワイプして、順番に眺めていく。

 

 笑顔がどんどん増えていく。切ない顔で遠くを眺める私がいる。惣流さんと並んで楽しそうにカメラを見る私がいる。

 

 モノクロだった表情が、みるみる色彩を帯びていくような錯覚。

 

 盛り付けをしている時の私は本当に真剣な表情をしていた。味見して味が決まった時の私の顔は、それこそ会心の笑みを浮かべている。

 

 自分が変わった自覚なんてないのに、私の顔が雄弁に変化を物語る。

 

 それほど変わっていないと思っていた私が、思っていたよりも変わっていた。

 

 碇くんは、そういう私の変化をずっと見てくれていたのだ。

 

 心が暖かい。なのに胸が苦しい。何故。

 

 私が今覚えているこの感情の名前は何?

 

「隣に行っていい?」

 

「いいけど──」

 

 私は立ち上がり、近づいて、そのまま彼の身体に覆いかぶさり、力いっぱいに抱きしめていた。

 

 碇くんが好きで、愛しているのは、去年わかった。

 

 けれど、今のこの感情は、違う。もっと強くて、もっと深くて、けれど、浅ましい。

 

 愛している程度ではない、言葉にもできない強い衝動。

 

「これが──愛おしい」

 

 呻くように、私は呟いた。

 

 碇くんの手が、私の背中に回る。強く抱きしめ返された。

 

 碇くんも同じなのだろうか。私を抱きしめる力が、こんなにも強いから。

 

 あの曲が、再び流れてきた。

 

 愛するポーギー。オペラの曲。ポーギーという不具の男と、ベスという女の、恋愛と別れの物語。

 

 終幕、ベスは騙され、諦め、ポーギーの元を去ってしまう。

 

 ポーギーは諦めず、足が不自由であるにも関わらず、彼女を求めて旅立ち、オペラはおわる。

 

 あらすじだけは知っていたけれど、特別な感情は覚えなかった。なのに、今は。

 

 だから、私に与えられた脚本は、『ゴドーを待ちながら』ではなかったのだ。

 

 ゴドーに出逢えてしまったら、それは『ゴドーを待ちながら』ではなくなってしまう。

 

 そして私は出逢えたのだし、出逢えた以上、やはり違うのだと思う。

 

 去年の春、初めて碇くんと顔を合わせたときとと同じ何かが、脳裏をよぎる。

 

 愛しさと寂しさ。諦めと作り笑い。別離。

 

 私がまだ子供だった頃の記憶。

 

 彼に永遠のさよならを言った記憶。

 

 なぜその時、私は笑えたのだろう。

 

 何故その時わたしは別れてしまったのだろう。

 

 そういう定めだから受け入れた? わからない。

 

──でも。

 

 過去の記憶が、声となって、どこかわからない、けれどきっと、ひとがたましいと呼ぶだろう場所から、ひときわ強く、心に響く。

 

『あなたがくれた暖かさがあるかぎり』

 

『砕けて。散って。すべてのものに降り注ぎ、あなたが還ってくるその時を待つわ』

 

『あらゆる場所で、あらゆる時で』

 

『ずっと。ずっと。ずっと。ずっと──』

 

 いま脳裏に響くこの声が、妄想と思えたらどんなに楽だろう。

 

 けれどその言葉は、いつ言ったのかもわからない明確な記憶として、あまりに強く、魂に焼き付いているように私には思われてならなかった。

 

 確かにその時さよならを言った。

 

 きっともう逢えないと思っていたから。

 

 けれど待った。砕けて散っても、もしかしたら、永遠にも等しい時の果てに、 あなたが私を見出すかも知れないから。

 

 私が あなたを見出すかも知れないから。

 

 そして、大学で あなたと出逢えて。

 

 あなただけではなくて、惣流さんとも出逢えて。

 

 なにもないと思っていても、生きていて良かったと思う。

 

 なにもないと思っていた私を、それでも生かしてくれた施設の人たちに、どれほど感謝したらいいだろう。

 

 あなたに出逢う私の中はがらんどうで、けれど今は心も胸も一杯になっていて。

 

 空っぽだと思っていた頃でさえ、施設の職員さんや子どもたちのことを思っていたから、空っぽの私ではなかったのだ。

 

 その上、心の大半を、今はあなたが満たしている。

 

 きづかせてくれたのは碇くん。私の大切なあなた。

 

 本当に貴方には貰ってばかりで、何か、一つでも多くお返しをしないと、貰ったもので心が破裂してしまいそうで──

 

「貰ってばかりだった。あなたに暖かいものを返したかった。今日は、返せた?」

 

 碇くんは頷き、囁いた。

 

「うれしかった。けど、違う。僕は綾波がいるだけで嬉しいし、たくさんの物を貰ってるんだ。返したいのは僕の方なんだ」

 

 お互いに貰ってばかりと思っていて、お互いに返そうとして、そんな甘い感情がぶつかり合う。

 

 無言で瞳を合わせ、せがんだ。

 

 彼が顔を寄せてくる。私達は強く唇を合わせながら、絨毯の上に抱き合ったまま横たわった。

 

 朝まできっと離さない。心はずっと離さない。

 

 

 

──騙されたたベスは、ポーギーに逢うことができただろうか。逢えたと私は思っている。

 

  何故なら碇くんと私は、また出逢うことができたのだから。

 

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