2021年は平和……うおおドラゴン狩りじゃぁぁぁ!!! 作:蒲焼丼
2021年の4月21日、水曜日。
天気は晴れ。平均気温は20度を下回っていて、湿度は22%で空気はカラカラ。
国会議事堂の空気は、最悪。
「よい、しょっと……」
傾斜のついたピラミッド状の屋根に登る。
議事堂の中央塔。文字通りこの拠点の真ん中だ。
平時であれば人に指差されるだろうし逮捕ものだろうが、今の町に人影などない。眼下の広場にいる人々から隠れるように動けば誰にも気付かれやしない。ここは一人でのんびりできる秘密の場所だ。
体を伸ばして屋根に背を預ける。流れていく雲を眺め、ミナトは長く息を吐いた。
(さすがに一人で出てきたのはダメだったかな……)
少し前を思い出す。
「二度目の竜災害」「振り出しに戻った東京復興」「13班の敗北」。議事堂全体が沈没船のような雰囲気に浸る中、戦場に戻るかを問いてきたエメルの赤い目。
鉤爪に首根っこをわしづかみにされたような悪寒が止まらず、下手な作り笑いをしてムラクモ本部から逃げ出してしまった。一人になるにしても、もっとうまい誤魔化し方があっただろうに。
『どうか、どうか……よろしくお願いします!』
『アタシは、おまえたちを信じてる!』
シズカの震える声やリンの励ます声が何度も響く。まさか、という目で自分を見つめてきた人たちの表情が焼き付いて離れない。
「……わかってますよ……ちゃんと戦いますって」
「ドラゴンを殺せるのは13班だけ」。事実を口の中で転がしては何度か呟いてみる。
わかっている。シキと自分にしかできないことだ。2021年現在、近代兵器はあの怪物たちには通用しないと証明されている。
さすがに核なら大打撃を与えられるだろうが、タイミングや条件を誤れば人間側も滅びかねない。そもそも海中にもマグマにも咲くフロワロが繁茂している環境で正しく動作してくれることはないだろう。結局は、狩る者の力でなんとかするしかない。
でも、ちょっとは。ちょっとくらいは。
(『また戦わせるなんて』って、正面から反対してくれる人がいてくれても、とか)
そんな風に考えて、どうしようもないところで立ち止まってしまう自分が少し嫌になった。
誰も心配してくれていないわけじゃない。ミイナなんて目を真っ赤に腫らして泣いていた。大怪我をしてほしくないと、自分たちを思って涙を流してくれた。
目の前でそれを見たというのに、戦うためのスイッチが入りきらなかった。
自分から大切なものが抜けかけている気がする。このままでは去年みたいに戦えない。シキの足を引っ張るだけだ。
だから外に出た。竜災害の中に自分を突き動かしてくれる何かを見つけるために。あとは気分転換も兼ねて。
「……いい天気だなぁ……」
晴れた空はきれいなパステルカラーだ。雲も影のない白一色で、雨が降りそうな気配はない。
陽を浴びていれば嫌な気分も紛れるかもなと目を閉じかけたとき、甲高い声が周囲に響いた。
「そんなことないっ!」
驚いて屋根からずり落ちそうになった。慌てて体勢を直し、こっそり議事堂前広場を見下ろす。
広場中央には幼い少年がいた。いつも他の子を率いて、ドラゴン退治ごっこをしているやんちゃな子だ。今日も笑顔で駆け回っているのかと思いきや、彼はたった一人で大人たちと相対している。
遠目でもわかるほどの大粒の涙を流して彼は叫んだ。
「もうダメなんていわないでよ! ドラゴンになんて負けないもん!」
「でも、あの13班さえ敵わないんなら、もう誰も──」
「かなわなくない! 13班はふいうちされたって聞いた! ちゃんと戦ったら13班のほうがつよいんだ! 13班がケガしてたたかえないなら、ボクがドラゴンをやっつけてやる!」
目の前の大人たちを吹き飛ばさんばかりに少年は声を張り上げる。宥める言葉が四方から降り注ぐたび、ちがうちがうと彼は抗議した。
甲高い声を浴びせられた大人はばつが悪そうに謝罪と同意を繰り返した。
ごめんね。その通りだ。悪かった。もう言わないよ。13班を信じるよ。
言葉のどれもが子どもを落ち着かせるためのもので、心底からの不安はぬぐえていない。その場しのぎの、いくらでも口にできる響きだ。
「……」
広場にいる大人、少なくとも自衛隊員でもない一般人の彼らは、自分たち最前線に出る者の辛苦を真には知らない。
また、自分たちをかばってくれている子どもも、戦場の血生臭さや、己の無力を味わい辛酸をなめた経験などない。
あたりまえだ。知らなくていいし、経験しなくていいものなのだから。
重かった体は少しだけ軽くなっていた。よしと立ち上がって息を吐く。
去年、奮い立つきっかけになったのは、シキの言葉と一人の女の子だった。戦う力を持たず、両親を竜に喰われてしまったという、暗い瞳の女の子。
「『無辜の民』って言うんだっけ」
罪なき人々という意味の言葉らしい。
議事堂にいる人間は罪人ではなく、神でもない。
彼らにあるのは無力な四肢。大切な人と手をつないで、一緒に歩むための、真っ当に生きるためだけの手と足だけ。
それが今、悪意にさらされ、蹂躙されようとしている。
戦う理由なんてそれで充分。……充分だったじゃないか。
充分だったはずなのに。
卑屈で弱い自分すら、守らなければと思わせられるくらいの「無力の塊」。そんな誰かに会いたかった。
その人が成すすべなく恐怖に震える姿を目にすれば、自分が戦うしかないと決心がつくかも、なんて。
要は、自分より弱い者を見つけて自分を慰めたかっただけだ。
はは、と乾いた笑いが漏れる。
「なんだ、私、」
最低じゃん。
唇を動かすだけで終わらせた。
声に出してしまえば、言葉通り自分が最低な人間だと判が捺されてしまうようで怖かった。
「……戻らなきゃ」
いつまでものんきにしてはいられない。戦いは始まってしまった。
いい加減、誰かの涙ではなく、自身で自身を奮い立たせられるようにならなければ。確固たる芯がなくても、今は前に進まなければいけない。
ドラゴンの脅威は戦うことでしか退けられない。後ろを向いたって逃げ場はない。
* * *
「嘘でしょ!? またドラゴンが来たの!?」
「おれたち、どうなっちまうんだよ……」
声や身を震わせる人々の嘆きが壁や床に染みこんでいく。
雨雲が流れ込んできたような陰鬱とした様子を窺い、
「……マジかよ」
「……マジっぽいな」
ドラゴンがまた攻めてきた。13班が負けた。
4月18日、血を流す少女と女性が運び込まれ、復興途上の街に見覚えのある赤い花が咲き乱れるのを見た瞬間、世界が一変した。
静かなパニックがさざ波のように広がり、あの日から今日まで、ひどく怯えた市民がムラクモや自衛隊に押し寄せる事態に陥っている。
「つーか、13班が負けたって……相手たぶんドラゴンだろ? シバさんたち大丈夫なのか……?」
「それが全然情報入ってこねえんだよ。13班を出せって騒いでる奴がいて、今は関係者以外面会謝絶になってんだって」
「13班を出せ?」
「……なんで負けてるんだ、って声が聞こえた」
「……なんだよそれ」
そういえばこの三日間、ムラクモや自衛隊の関係者しか出入りできないフロアや部屋に誰かが近付いて咎められる、というのをちらほら目にした。13班を探していたのか、自力で情報を得ようとしていたのだろうか。
不安になるのはわかる。自分だってそうだ。竜災害を終わらせた戦闘員が負けたという事実は、そのまま人類とドラゴンの戦力差を表している。13班が敵わない相手に、自分たちが敵う道理もなし。
けれど、自ら危険に向かった彼女たちを責める権利なんて誰にもない。傷を負って帰ってきた13班を不安の捌け口として引きずり出そうなんて。
「……大丈夫かな」
薄暗い地下で死にかけた自分の手を握り、「絶対助ける」と言ってくれたミナトの笑顔が浮かぶ。
彼女とパートナーの少女は、まだ医務室のベッドの上なのだろうか。最後に見た二人の姿は議事堂を飛び出していったときの背中だ。
姿を見て声を聞きたい。けれど自分はムラクモではない。エメル達に声をかけられているとはいえ、会うのは許されないだろう。
でもせめて、怪我がひどくないかだけでも確認できれば。
「ミナトさんたちに会えないならさ、他のムラクモの人たちから様子聞けないかな」
「つっても、今てんやわんやだし捕まるかどうか……マサキさんからも『しばらくは忙しくて相手になれそうにない』って伝言来ただろ? ムラクモ本部に行ったって追い返されるだろうし……」
「うーん……となると……」
自分たち部外者でも自由に出入りできて、ムラクモの人間がいそうな場所。いろんな立場の人が行き来するような……。
「……議事堂前広場とか?」
「おい、マジで探しに行く気か?」
呟くのと同時に無意識に歩き出していた。オクタが後ろから慌てて追いかけてくる。
「やめとこうぜ、おれたちにできることなんてないって」
「できることないからって何もやらないのは違うだろ」
「そりゃそうだけどよぉ……じゃあどうすんだよ、ムラクモに入るのか?」
「それは……」
手足を重い何かにからめとられた気がした。歩みが少しずつ遅くなっていく。
ああ、まただ。憧れの人に恩を返したいという気持ちは確かにあるのに、想いのまま進もうとすると見えてくる壁。
何だこのくらいと飛びついても見上げてみればとても高くて、指が根元まですり減ったって登れる気がしない。
(……ダメだダメだ!)
頭を思い切り横に振る。止まりそうになった足を持ち上げ、もう一度大きく踏み出す。
(何もやらないのは違うって自分で言ったばかりだろ! 秒で諦めようとすんな!)
壁があるなんて認識しているのは頭の中だけだ。実際にはまだ何の障害にもぶつかっていない。
何度も当たって砕けるならともかく、やる前から手をくるくるさせるなどみっともない。
まずは踏み出せ、たとえ13班のように戦う力がなくとも、この足には力が有り余っている。
歩く速さを上げようとすると、オクタがブレーキをかけるように肩に手を置いてくる。
「ハジメ、おい、」
「何だよ! 何回言われたって……」
「いやそうじゃねえって! ほらあれ!」
「え?」
振り向いた視界を横切るオクタの人差し指。導かれるまま首を回すと、議事堂の出入り口と目的地である広場が見えた。
そこに立っているのは、一般市民と、重装備で体を固めた自衛隊員たちと、左腕に腕章を巻いた男女が四人。
「あ、あれ!」
「ムラクモの人だ! 話聞いてみようぜ!」
赤、または灰色の腕章はムラクモの関係者の印だ。どこかへ行ってしまう前に広場に飛び出して声をかける。
「すみません、あの!」
「……ん?」
暗い色の髪を揺らし、四人の中で唯一赤い腕章を巻いた男性が振り返る。
失礼にならないように会釈して名前を告げるが、13班のことを話題に出した途端、彼の眉間にはぐっとしわが寄った。
「今は面会禁止だ。依頼があるならクエストオフィスに行ってほしい」
「いや、そうじゃなくて。もう三日経ってるけど体調とか大丈夫なのか知りたくて……」
「……関係者以外面会謝絶と報せが出ているだろう。そんなに13班に文句が言いたいのか?」
「これで何回目だ」とため息が吐かれる。言い方からして、同じようなことを他からも尋ねられたらしい。
13班への文句も垂れ流されていたのだろう。その人間たちとひとくくりにされたことが頭にきて、顔に熱が集まった。
「違います! ただ──ただ、……大丈夫かなって」
「……おまえ、最近マサキと一緒にいた……」
「ヒムロ教官。そろそろ出撃時間じゃないですか?」
紅一点、腰に銃とナイフを下げた女性が男性に声をかける。
「東京駅に先行して探索を開始するんですよね。準備はできていますから、早く行きましょう。……ふん、こんなにたくさんの人を不安にさせるなんて。やっぱり、13班じゃなくて私ならもっとうまく……」
「そういう大口は成果を出してから叩け。おまえはまだ試験にも合格してないんだぞ」
ヒムロと呼ばれた教官は女性の言葉を切って捨てる。思うところがあるのか女性は唇を噛んで押し黙った。横に立つ男性二人がとげとげしい雰囲気をなでつけるように宥めるが、プライドが高そうな彼女はそっぽを向いて腕を組む。
ヒムロは悪いがと自分たちに向き直った。
「おまえたちはムラクモのメンバーじゃないだろう。関係者……いや、関係者であっても不用意にムラクモの情報は漏らせない。心配する気持ちはわかるが、──シバ?」
「えっ」
視線が上げられ、13班の彼女の苗字が彼の口から飛び出す。
反射的に体を反転させると、つい先ほど自分たちが出てきた議事堂の入口に、今まさに探している女性がいた。
頭に巻かれた包帯や頬に貼られたガーゼが痛々しく、心なしか顔色が青い。いつも見ていた柔和な雰囲気とは違うけれど、間違いなく彼女だ。
怪我が痛むのかおぼつかない足取りで議事堂に入っていこうとするミナト。加えて視界に飛び込んできたのは、彼女に早足で近付いていく政治家や市民が数名。
げっ、とオクタが顔を青くした。
「やべぇ、あれ13班を出せって騒いでた人たちだ!」
「はあ!? 冗談じゃなくて本当にいたのかよ!」
「こんな状況で冗談言うかよ! って言ってる場合じゃねぇ! あれ絶対シバさんに絡もうとしてるぞ!」
遠目でもわかる、肩を怒らせ冷や汗を流し、目を見開いた鬼気迫る形相。老若男女は獣に追われる草食動物のように焦りを駄々洩れにしてミナトへ迫る。
エスパーではないけれど、あの様子では穏やかな話し合いにならないことだけはわかる。ミナトにとっては針のむしろだろう。間に合わないが、無理やりにでも割り込まなければ。
「ああ、くそっ。おまえたちはここで待機だ」
「ちょ、教官!?」
後ろから悪態が聞こえる。
走り出そうとしていた自分とオクタの肩にヒムロが手を置いて指を食い込ませた。
「飛ぶぞ。動転するなよ」
え、とか何が、という言葉は喉の奥に引っ込んだ。体全体がねじってしぼられるような錯覚に襲われたためだ。
足の裏から地面の感触が消えて、視界を光が満たす。宙を漂うような、凄まじいGで縫いとめられるようなちぐはぐな感覚。
何だこれ、気持ち悪い。重力が二転三転している。自分がどこにいるのかわからない。
えづいてしまいそうになり、まぶたを閉じて耐える。
次にまつ毛を持ち上げると、目の前にミナトの背中があった。
「え? うぇっ?」
「あれ、シバさん!?」
「……え?」
びくりと肩を震わせてミナトが振り返る。呆けて瞬きをする彼女に、自分たちの肩をつかんだままのヒムロが声をかけた。
「シバ、こんなところで何してる。起きたとは聞いていたが……」
「あ、ヒムロさん……? ハジメくんにオクタくんも」
後ろから息を呑む音や小さな悲鳴が聞こえる。位置的に考えてミナトと彼女を捕まえようとしていた人々の間に割り込んだ形になるのだろうが、ぶっちゃけ自分たちにも何が起きたのかわからない。
思わず後ろを振り向こうとして、がしりと頭をつかまれた。余計なことはするなという念を、力強い指先から感じる。
頭皮をわしづかんでくるヒムロとわしづかまれている自分とオクタを見て、ミナトは首を傾げた。
「えっと、三人とも何を……」
「こっちのセリフだ。その様子じゃ、怪我が治りきってないんだろう。どこに行くつもりだったんだ?」
「あ、ぁーっと、ちょっと、外の空気を吸いたいなと思いまして。怪我はほぼほぼ治っているので問題ないです! ほらこの通り」
ガーゼのついた口角を上げてミナトが腕を振る。肩にかかる上着が揺れてバタバタと落ち着かない音を立てた。
「今、ムラクモ本部に戻るところなんです。この後すぐに作戦が始まるでしょう? もちろん、私たち13班も参加するので!」
「……わかった。なら本部まで送る」
「え、すぐそこなので大丈夫ですよ?」
「いいから。ほら、おまえたちも行くぞ」
乗り物のハンドルのように頭を押される。このままミナトと後ろの人々の壁になって進めということだろう。
背中にがあがあと声を浴びるが、怪我人に追い討ちをかけるような真似は到底看過できない。
罵声を彼女の耳に入れるわけにはいかない。何か話してかき消さなければ。
とにかく声を張り上げて賑やかしながら、半ば強引にミナトをムラクモ本部まで誘導していく。
「やーそれにしても暖かくなってきましたね! 議事堂の周りにちびっ子たちが面倒見てる猫がいるらしいんですけど、だいたいいつも決まった時間に日向ぼっこしてるんですよ!」
「そうなんだ。今はちょっと危ないから、保護できるなら議事堂の中に来てもらったほうがいいかもね」
「あー、えと、そういえばあの、町にめちゃくちゃ赤い花咲いてるじゃないすか! 去年も見ましたけど、あれ紅葉みたいできれいですよねー!」
「赤い花……フロワロのことかな? あれはドラゴンが咲かせる花で毒性もあるから、近付かない方がいいよ」
ビシリと空気にひびが入る。気を紛らわすことが目的なのに、口にした話題はきれいに地雷原に飛びこんでいった。人と話す、気遣うなんて初めてではないのに、素人がスケートリンクですっ転ぶような醜態を晒してどうする。
「おまえたちなぁ……」
「わーすみませんすみません!! おめーのせいだぞオクタ! あの花がドラゴンに関係あるなんて去年見ててなんとなくわかってただろ! 地雷踏み抜いてんじゃねぇ! それでも陽キャか!」
「ああん!? 人になすりつけてんじゃねえよおめーだってうまいこと言えてねえじゃねえか! 肝心な時にコミュ障になりやがって、芸能活動で磨いたトーク力発揮しろや!!」
ヒムロの指がこめかみに食い込む。焦りやら恥ずかしさやらで頭が茹だり、反射的にオクタに拳が飛んだ。またオクタからもグーが飛んできて頰に埋まる。
失言へのフォローも忘れて小突きあいを続けていると、ふっと息が吐き出される。
恐る恐る横を見ると、ミナトが口もとを隠して肩を震わせていた。くすくすと息が漏れているから、たぶん笑っている……のだと思う。
「ごめんなさい、ちょっと、つい。ふっふ……っけほ」
「だ、大丈夫っすか?」
「うん、大丈夫」
胸を押さえて何度か咳き込み、ミナトは静かに背筋を伸ばす。顔に落ちていた影はさっぱり洗い流され、梅雨明けのような明るさが漂っていた。
血色の良くなった唇がよしと言葉を紡いで、彼女は肩に羽織っていた上着に腕を通し、ムラクモ本部の扉の前に立つ。
「それじゃあ、私は戻るので。ヒムロさん、ハジメくんにオクタくんも、心配かけてごめんなさい。声をかけてくれてありがとう」
ああ、先日まで見ていた背中だ。しなやかな芯が通ったように自然と伸びて、しっかり前を見据えて踏み出していく背中。
この笑顔で、彼女はまた戦場に向かっていくのだろうか。
「あの、大丈夫、ですか?」
腰を折ってしまうとは思う。いけないことだとわかっている。それでも尋ねずにはいられない。
「怪我、まだ完治してないんでしょ? その状態で戦うって……」
「平気平気。もうほとんど痛まないよ。体は丈夫なほうだしね」
片腕を上げて力こぶをつくるジェスチャーがされる。しかしミナトは肉体派というようには見えないし、ずり落ちた袖から覗く細い手首にも包帯が巻かれている。
見れば見るほど、この状況すべてが追い討ちをかけているようにしか思えない。
負のオーラが出てしまっていたのだろう。ミナトが顔の目の前まで手を持ってきて払うように指を左右させた。
「大丈夫だよ。……今度は負けない。負けられない。まずはリベンジとして、議事堂周りの不安を解消するために動くから。説得力ないかもしれないけど……ムラクモを信じて待ってて」
信じていないわけじゃない。一年前、彼女とシキの13班は確かに世界を救った。世界中の人間に、もう来ないかと思われていた明日を与えてくれたのだ。13班を、マサキやイッキを、キリノ総長やエメル最高顧問を、身近にいる自分たちが信じないでどうするのだ。
数分前、彼女を探して歩き出した時の想いが再燃する。戦えなくたって、何かしたい。
「あ、あの!」
「うん?」
「いってらっしゃい、気を付けてください!」
「うん、ありがとう。いってくるね」
守衛と挨拶を交わし、ミナトはムラクモ本部へ入っていく。大きな扉が世界を隔てるようにバタンと閉まった。
自分にできることなんてたかが知れている。やったところでもたらされるのは微々たるものかもしれないけれど、何もしないままではいたくなかった。
ムラクモに入るかどうかは置いておいて、とりあえずは一歩。
「……みんながみんな、おまえみたいな奴だったらいいんだがな」
頭からヒムロの手が離れた。彼はやれやれとかぶりを振って背を向ける。
「ムラクモの仕事に必要以上に触れてくる奴は突っぱねるしかないが、応援ならまあ、問題ないだろう。おまえたちは13班に不安をぶつけるような真似はしないでくれよ」
「そりゃもちろん……ていうか、さっきの何だったんですか? 俺たちの肩つかんで、こう、瞬きしたらシバさんのすぐ後ろにいたんですけど……」
「企業秘密だ。おまえたち、ムラクモじゃないんだろ。じゃあな」
「ヒムロきょうかーん!?」
「今行く!」
部下の呼び声に声を張り返し、ヒムロは適当に手を振って去っていく。
とりあえず、トラブルは回避できたみたいだ。オクタと顔を合わせて息を吐いた。
「……あ、そういや、あの文句言おうとしてた人たちどうしたんだろ」
「あーそういえば。もう騒いでる声は聞こえないけど……なんか、静かじゃね?」
妨害したことで恨まれていてはたまらない。たった今来た道を戻り、忍び足で通路の角に身を潜める。通りすがる人々から訝しげな目で見られているのは気付かないふりだ。
そっと顔を出してみる。ミナトを追いかけていた者たちは一人もいない。代わりに大きな背中が銅像のように議事堂入口に佇んでいた。
「あれ? エンキドウさん?」
青いたてがみに声をかけると、男性がゆっくり振り返る。鍛えられた体が少しのぶれもなく回って、太い首を前に傾け自分たちを見下ろす動きがなんだかアンドロイドみたいだ。
何をしているのか尋ねると、自分もよくわからないと彼は呟く。
「何やら騒ぎが起きていたようなのでな、気になって来てみたのだが」
「あー、騒ぎというか、なんというか」
「何人かが集まっていたので急いで声をかけたが、何でもないのだと早々に解散してしまった」
タイミングからしてエンキドウが声をかけたのは、ミナトを追っていた人々のことだろう。かなり騒がしくがなりたてていたのに、彼の話を聞くには蜘蛛の子を散らすように去っていってしまったらしい。
何が起きていたか気になるのか、エンキドウのゴーグル越しの目もとにはいくつかシワが刻まれている。ある程度からの人となりを知る自分たちから見てもかなりいかつい。
「……ちなみに、どういう風に声をかけたんですか?」
「む? 何をしている、とだけだか」
目を閉じて想像してみる。二メートル近い筋骨隆々の男性がこちらに向かって早足で向かってきて、鋭い目つきで見下ろされて「何をしている」と低い声で一言……。
……うん、まあ、うん。
何とも言えずに黙る自分たちを見て、葉がしおれるようにエンキドウは目尻を下げた。
「……もしや、怖がらせてしまったのだろうか」
「い、いやそういうんじゃないと思いますよ!? な!?」
「そーそー普通に問題解決したから解散しただけっすよ! たぶん! きっと!」
結果的に言えばエンキドウに気圧されて逃げ出したのだろうが、見るからにしょんぼりしている彼に向かって事実を告げるのは躊躇われる。
後にムラクモからエンキドウに招集がかかるまで、ハジメとオクタは語彙力を振り絞って空回り気味のフォローを続けた。
* * *
指先で頰をかく。
大仰な壮行会の後の、丸ノ内に向かう道中。少し前のことを思い出し、ミナトは羞恥心に襲われていた。
隣を歩くシキが怪訝そうな顔で振り返る。
「何変な顔してんのよ」
「ん、いやちょっと。思い出し笑いというか、思い出し恥ずかしさ? というか……こっちの話なので気にしないで」
怪我ではないし、戦闘に支障があることでもないから大丈夫だと告げる。シキはならいいけどと前を向いた。
去年ならチクチク小言をもらっていたかもしれないが、今は最低限のことを伝えればシキが無理やり突っ込んでくるということはない。そのくらいは信用してもらっているのだ。
けれど、
『……なんかあったら呼びなさいよ』
『あの、大丈夫、ですか?』
(……心配かけちゃってるなぁ……)
シキやハジメ、ムラクモ機関の仲間、遠くから自分を見る議事堂の人々。みんながみんな、眉間にシワを寄せているか八の字眉だった。
それほど自分はしょぼくれてしまっていたのだ。しかもたくさんの人にそんな姿を見られて……情けないったらない。頰を叩いて気を引き締める。
病は気からだ。これからはまた戦いの日々なのだから、ぶつくさ言いながらではなく、少しでも前向きな姿勢で進まなければ。
(こんな調子じゃ、またあの人が化けて出てきちゃう)
腰砕けになっていた自分を叱咤してくれた先達を思い出す。彼の名残りを追うように、無意識に右手が自分の腕章に巻かれている紫の布に触れた。
あ。
「そうだ!」
喉から飛び出した声は思いの外勢いよく響く。シキが耳を押さえてこちらを睨んだ。
「今度は何よ?」
「えっとね、ちょっと待って……」
腕章から布を外す。
去年の戦いで散ってしまったベテランの形見とも言えるスカーフ。何かしら装備としての効果が望めるかもしれないから着けておけとシキから預かっていた物だ。
実際、2020年から今に至るまで、大きく破れもせず自分の左腕に在り続けてくれたのだ。少なからずご利益があると見ていいだろう。
ただ、自分だけがこれを身につけているというのはもったいない。
ヒップバックに手を突っ込む。確か包帯やまとまったガーゼを小分けにするための小さなハサミがあったはずだ。
「あ、あったこれこれ。シキちゃん、ちょっと止まって。そのまま前向いてて」
なるべく切断面が荒くならないよう、慎重に布を切っていく。想像の中で何してくれてんだと怒る彼に謝りながらそれを折りたたんで、しっかりと撫でつけ、シキの髪に触れる。
首を傾げる代わりに視線と瞬きで疑問を示すが、シキは拒否せずされるがままだ。警戒心の強い山猫が気を許してくれているみたいで嬉しい。
手触りのいい髪を一房すくう。雪解けのようにさらさらこぼれ落ちる髪一本一本を丁寧にすいて、三つに分けて、順に重ねていって……。
(楽な戦いなんてない。きっと、また去年みたいに、ひどく心を折られるときが……考えたくないけど、来るかもしれない)
もし、自分が地べたに這いつくばって、シキだけを苦境に立たせてしまうようなことがあったら、その時は。
(頼ってしまうようでごめんなさい。でも、どうか)
力を貸してほしいと祈りを込めて、あとは少しのマナも込めて、リボンに見立てた布をしっかり結ぶ。
「できた!」
手鏡で仕上がりを見せると、シキはぱちぱち瞬きをした。
「何これ」
「お守り。願掛け的な……嫌だった?」
「別に」
三つ編みにまとめられた髪に少しだけ触れて、何事もなかったかのようにシキは歩き出す。
よかった、気に入ってくれたかどうかはわからないが、少なくとも不評ではなさそうだ。聞こえないように息を吐く。
「何してんの、行くわよ」
「うん!」
残った布を腕章にしっかり巻いてシキを追う。
牙と爪、絶望と血ばかりの厳しい道のりではあるけれど、独りではないのなら、どれだけ傷付いたって踏み越えていける。
きっと大丈夫だと胸に刻んで、遠くに見える東京駅へ向かった。
活動報告でもお知らせしますが、ちょっと他にもやりたいことがあるので、もともと不定期でしたが更新がほぼ休止に近い亀になっていくかと思います。
まったく見通し立ってませんが早めに終わらせられるように頑張りますー!!