仮面ライダームラサメ   作:正気山脈

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第十七頁[青海の上の悪夢]

 磐戸で起きた二人のギガノイドとの対決から、既に二週間が過ぎていた。

 封魔司書たちはその間、新装備の開発や戦闘訓練に励み続けた。

 無論、それは紫乃やロゼ、灰矢たち仮面ライダーも例外ではない。

 その日も、彼らはボルケイノドラグナー及びスパイラルジャグラー戦から得た戦闘データを元に、訓練を行っていた。

 特に紫乃とロゼの気迫には、凄まじいものがある。退却まで追い詰めたとはいえ、二人は実質的に敗北しているためだろう。

 

「シッ!」

「ハァッ!」

 

 ギガノイドの姿形を模倣した竜型のインクの怪人と、妖精型の怪人。

 それらの放つ攻撃を凌いでを刀と槍で薙ぎ倒し、次の標的に狙いを定める。

 が、そこで通信席の織愛から声がかかった。

 

『二人共ストップ! ちょっと熱くなりすぎ、一旦休憩して!』

「オレはまだやれる」

「私もです!」

 

 そう言った紫乃とロゼだが、両者とも全身が汗だらけで、疲労からか身体も僅かに震えている。

 灰矢は溜め息を吐き、二人の顔にタオルを放り投げた。

 

「そろそろ終わりにしとけって。あんまり焦ったってどうしようもねぇぞ?」

「だが……」

「新装備が完成する頃に身体が動かなくなったら、それこそ問題だろ?」

 

 紫乃が反論しようとして、しかし自分でも限界が来ている事を理解して止める。ロゼも頷き、トレーニングルームから退室する事にした。

 そして部屋の外の休憩室に用意してあるスポーツドリンクの入ったボトルを手に取り、中身を口に含んだ。

 

「はぁー……ほら紫乃くんも」

 

 もうひとつボトルを手に取って、ロゼはそれを手渡す。

 紫乃は何やら一瞬ボーッと彼女の姿を見て立ち止まっていたが、声をかけられると我に返ったらしく、すぐにそれを受け取った。

 

「あ、ああ。すまない」

「どうしたの? 疲れてる?」

「いや、なんでもない……」

 

 首を横に振った後、紫乃もスポーツドリンクを飲み始める。

 そんな二人の様子を見ていた灰矢は、興味深そうにニヤリと笑っていた。

 

「じゃあ、私はそろそろ部屋に戻ろうかしら」

「オレもそうするか」

「おっと待った。紫乃、今からちょっとだけ話せるか?」

 

 小首を傾げつつも頷き、紫乃は灰矢と向かい合う。

 

「なんだ一体?」

「いや何、ちょっと前から思ってたんだがよ。何か悩みあるだろ」

「悩み?」

 

 なんの事だろう、と一瞬訝しむ紫乃であったが、すぐにハッと目を見張る。

 先程も自分でも分からずロゼを見つめたまま立ち尽くしていたのだ、それを灰矢に見られていたのだろう。

 そして、確かに紫乃には大きな悩みが、それもロゼに関係したものがあるのだ。

 紫乃が小さく頷くと、灰矢はフッと笑みを浮かべてわしゃわしゃとその頭を撫でる。

 

「話してみろよ、この頼れる灰矢先輩によ」

「やめろ。子供扱いするな……だが確かに、抱え続けるよりは話した方が良いのかも知れないな」

 

 手を払い除けつつもそう言って、紫乃は語り始めた。

 当然、先日のロゼとショッピングモールに行った時の話だ。灰矢は二人が夜に出かけてからの事を見ていないので、顛末を知らなかった。

 全てを聞き終えて、灰矢は驚いていた。

 

「マジか、あの紫乃が? 女の子にプレゼントしたってぇ? しかもペアのアクセサリーを?」

「そんなに驚く事ないだろう」

「いや驚くわ! っつーかお前、マジで丸くなったなぁ……そんで、それからどうしたんだよ?」

 

 灰矢に続きを促されると、紫乃は躊躇いながら、というよりも恥じらいながら口を開く。

 

「……最近おかしいんだ。あの夜の後から、あいつの事が頭から離れない。何でもないのに溜め息が出て、胸が締め付けられるようになってしまう」

 

 そう言った後、紫乃は改めて彼に問いかけた。

 

「教えてくれ灰矢。オレは、どうしてしまったんだ? こんな気分は初めてなんだ」

「あー」

 

 頬を人差し指で掻き、灰矢は言葉を詰まらせる。

 あまりに純粋な紫乃に、どう伝えるべきか悩んでいるのだ。

 しかし、はぐらかすのも何か違うと感じ、ただそのままズバリと事実を突きつける事にした。

 

「そりゃもうお前、恋だろ」

 

 一瞬の沈黙。

 しばらくの後にやがて動揺と羞恥に変わって、紫乃の頬が段々と赤くなっていく。

 

「恋!? 恋愛、だと!? オレがか!?」

「他にどんな理由があんだよ」

「それは……いや、しかし……」

 

 問われて悩む紫乃。しかしどんなに考えようとも、他の答えなど出るはずなどなく。

 彼は認めるしかなかった。自分が、ロゼを好きなのだと言う事。彼女を愛し、恋をしているのだと言う事を。

 

「これが、恋……刀として生きるしかないオレが、恋だって……?」

「まぁ、戸惑うのは分かるぜ。でもよ、良いじゃねぇかそれで」

 

 ニヤリと笑い、続けて灰矢は紫乃の肩をパシパシと叩く。しかし、当の本人は何が良いのかと尋ねたそうな表情だ。

 

「戯我を斬り続ける冷たい『刀』より、真っ当な『人』として生きる。それは良い事だろ」

「しかし、オレはどうしたら……戯我を斬る事しか知らないこんなオレが、恋など……」

「自分を卑下すんなっつったろ? 精々しっかり悩みむんだな。それでこそ、お前を生かしてやった復讐の甲斐があるってモンだぜ」

 

 灰矢はそう言って手を振り、紫乃を残して退室する。

 ひとりになった紫乃は頭を抱えて、唸って悩み続けていた。

 

「オレは……オレはこの気持ちを、一体どうしたら良いんだ……!?」

 

※ ※ ※ ※ ※

 

 それから、さらに数日後。

 LOTは街に現れる戯我の対処や他支部から輸送された遺物の一時管理など、その間に様々な活動を行っていた。

 その最中にロゴス・シーカーが、少なくともLOTの活動している場で目立った行動を起こす事はなく、イシュタルやギガノイドが暴れていた時に比べれば嘘のように平和だ。

 しかし、やはりと言うべきかそんな時間も長くは続かない。

 ある日織愛は、深刻な面持ちで紫乃たち封魔司書を執務室に集めた。

 

「皆、日本支部長からかなり厄介な情報が入って来たわ。落ち着いて聞いて頂戴」

 

 織愛の語るところによると。

 最近、国内・国外を問わずあらゆる場所で遺物が出回ってしまっている。無論それらはLOTから流出したものではなく既に回収されているが、詳細な規模が判明しておらず極めて危険な状態だ。

 以前テスカトリポカの狂信者が磐戸に現れた頃から、密かに彼の持ち出した遺物の調査は続いていたのだが、その成果がようやく実ったのである。

 

「やはり他の場所でも、神の信奉者どもが動いているか」

「しかも口を割らせてみたら、その多くにロゴス・シーカーが関わっている事が分かったわ。どうも彼らは、色々な場所で大規模な『遺物(ロステク)オークション』を開いているみたいなの」

「オークション……!?」

 

 話の内容があまりにも異常なので、普段は冷静な紫乃といえども驚かずにはいられなかった。

 さらに話を聞けば、オークションに出品される遺物は多くが魔術的な力を持つ贋作であるのだが、稀に真作が出て来るのだという。

 となれば、その中にはLOTの最優先回収対象であるラジエルの書(セファー・ラジエル)断片(ページ)が出て来る可能性も考えられる。

 開催の日取りと会場はある程度決まっており、参加者を一人捕らえて尋問したところ、近々この磐戸市内でも行われる事が分かったのだ。

 

「なるほどな、読めて来たぜ? つまり、連中が次に現れる場所に俺たちが参加してオークションの開催前に情報を集めて……」

「横から遺物を回収し、売買を阻止すれば良いんですね!」

 

 灰矢とロゼが言い、首肯する織愛。

 しかし、この作戦にはいくらか問題点があった。それを紫乃が指摘する。

 

「オークションに参加するとしても、オレたちでは怪しまれるんじゃないのか? それに、顔は割れていないが背格好はアダンに見られている。リスクも多い、潜入は難しいと思うが?」

「それについては考えがあるわ。まず、このオークションはそもそも、仮面舞踏会のようにマスクを付けて参加するの」

「ほう。それなら顔が割れる心配もないか」

 

 得心する紫乃であるが、それでもまだ懸念材料はある。織愛はそこを払拭すべく、話を続けた。

 

「背格好についても、誰なのか分からなくなるくらいに変装してしまえば問題ないわよ」

「ふむ……バレないような変装、オレには想像もつかんが」

「あら、そんなの簡単よ」

「ほう?」

「良いアイデアがあるの、まぁ当日を楽しみにしてなさいな」

 

 言葉を濁しつつ、クスクスと笑う織愛。

 その様子に何か背筋に寒いものを感じつつも、紫乃は了承する。

 続けて、織愛はロゼに視線を向ける。

 

「朗報よロゼちゃん。あなたにこれを」

 

 そう言って織愛が手渡したのは、モンストリキッドだ。

 しかも従来のものとは形状が異なっており、ソニックペガサスのように二つ組み合わせるタイプとも違う。

 最初から二つ分のモンストリキッドが一体となった形状で、上下で色が半分に分かれ、それに合わせて薔薇の花のレリーフが彫られているのだ。

 上側が赤薔薇(ローズレッド)、下側が紫薔薇(ローズパープル)といった具合に。差し色として入ったローズイエローのラインも鮮やかに際立っている。

 

「これは……!」

「名付けてデュアルリキッド。きっと今のあなたなら、使いこなせるわ」

 

 織愛に言われて満足気に頷き、ロゼはそれをグッと握る。

 こうして、作戦会議は終了となった。

 

※ ※ ※ ※ ※

 

 遺物オークションの開催当日。

 図書館から大きく離れた、磐戸市の港。

 そこに城のように佇むのは、巨大なクルーズ船だった。

 船体に傷などは全く無いのだが、明かりを全て消して色彩にも目立たない細工がされているため、豪華客船ではなくむしろ幽霊船と呼べる不気味な雰囲気を醸し出している。

 封魔司書を代表して潜入捜査に向かう紫乃たち三人の仮面ライダーは、倉庫の屋上からその船を眺めていた。影はそれぞれ、スーツ姿のものとドレス姿のものが見られた。

 

「まさか会場が船の中とはねぇ」

 

 上下に灰色のフォーマルスーツを纏い、ベネチアンマスクで顔を覆った灰矢が言う。髪色は特殊染料によって金色に変わっている。

 

「これはまさしく海に漂う孤島、結界は決して届かないし、一度乗り込んで海に出れば助けは期待できない……けれど、それは向こうも同じのはず」

 

 次に口を開いたのは、ロゼだ。彼女は男装しており、暗い赤色の礼服姿だ。紅髪はいわゆるマンバンヘアのようにしており、刈り上げてはいないが高い位置で団子状にしていた。

 また、シークレットブーツで僅かに身長を高くした上で、胸にサラシを巻く事で体格を誤魔化しているようだ。

 

「となりゃ、騒ぎを起こすヤツが出るのを想定して準備してるはずだ。ちゃんと警戒して行こうぜ、なぁ紫乃!」

 

 ニィッと唇を歪めて、灰矢は後ろに控えるその人物に声をかける。

 そこにいたのは――。

 

「なぜだ……なぜ、またオレが女装しなければならないんだ!?」

 

 紫色のフォーマルロングドレスに身を包んだ、銀髪のウィッグを着用している紫乃の姿であった。

 両肩の出るデザインで、胸には目立たない程度に詰め物をして膨らみが加えられており、スカート丈は長いものの深くスリットが入って太腿がチラリと覗いている。

 

「似合ってるぜそのドレス、とても同じ男とは思えねぇ」

「ふざけるな!! オ、オレはこんな事などもう二度としたくなかったんだぞ!?」

「慌てんなって大丈夫大丈夫。支部長も言ってたろ、お前は元々線が細いから違和感ないし、ロゼも身長高いから簡単に欺けるはずだってな!」

「何も大丈夫じゃない……!!」

 

 羞恥と怒りで頬を赤く染めて灰矢を睨んだ後、紫乃はドレスの布を手で引っ張り、スリットを隠そうとする。

 これが織愛の策。若葉の力を借り、三人の正体がバレないようなコーディネートを依頼したのだ。

 彼女は喜んで協力し、特に紫乃の衣装を決める際は一番気合を入れたという。

 

「ロゼ! お前からも何か言ってくれ!」

 

 抗議するように言い放つが、しかしロゼは今の紫乃の姿をじっと眺めて顔を緩ませているだけだ。

 

「綺麗……」

「何を言ってる!?」

 

 うっとりとしていた彼女であったが、紫乃に声をかけられると慌てた様子で咳払いし、何事もなかったかのように表情を引き締めた。

 

「とにかくこれでドレスコードも万全なのだし、後は中に潜入するだけ。紫乃くんも、そろそろ覚悟を決めた方が良いわ」

「くっ……仕方ない」

 

 顔を赤くし、渋々と言った様子で紫乃が頷く。

 かくして、潜入調査の任務が始まった。

 参加者は船の内部へ入る際、招待状の提出が必要になる。

 ここは事前に織愛が手引しており、身柄を確保した顧客を追い詰めて無理矢理『参加者からの紹介』という形で招待状を発送させ、三つ分入手してある。

 よって三人は真正面から堂々と侵入できる。問題はモンストリキッドやレリックライザーを持ち込めるのかどうか、という点なのだが、それについても問題はない。

 なぜならば、手荷物の検査が一切行われないからだ。どんな危険物を持ち出そうと、決して咎められないのだという。

 

「余程の自信があるんだろうな。どんな騒動を起こそうとも、確実に対処できると」

 

 招待状の確認が終わった後、実際に検査が行われなかったため、紫乃はロゼたちにそう言った。

 

「もしかしたら今回もギガノイドが来ているのかも」

「だが、海の上なら連中も下手に手出しはできねぇはず……っと、そろそろ着くぜ」

 

 人差し指を自らの唇に当て、灰矢はウィンクする。二人も頷いて、作戦に集中する事に。

 ここから三人は単なる招待客として振る舞い、客からの聞き込みによって情報収集を行う。

 会場となる大広間の扉を開き、各々が行動に移ろうと気を引き締めた。

 だが、その時。扉の先から飛び込んできた光景を目にして、紫乃たちは目を見張る。

 

「こ、これは!?」

 

 会場内には、既に多くの顧客が集まっていた。それ自体は大して驚くほどの事ではなく、せいぜい復活を目論む神が想像以上に多いという程度の感想しか出て来なかっただろう。

 問題は、客たちの中に角や翼などの異形のシルエットを持つ者が混ざっているという事だ。明らかにそれらは戯我であり、人間たちとも普通に会話している。

 

「なんだ、こりゃ」

「まるで地獄ですね……」

 

 灰矢とロゼが呟く。そして紫乃は気付いた、検査が行われなかった最大の理由に。

 

「これだけ戯我や神の狂信者がいる中でオークションの邪魔をすれば、全員から袋叩きにされるだけだ。しかも結界の範囲からは外れている……そういう事だったんだな」

 

 二人にだけ聞こえるように紫乃が言うと、ロゼが息を呑む音が微かに聞こえた。

 仮面ライダーが三人集まっているとはいえ、これではあまりに多勢に無勢が過ぎる。

 もしも、正体が露見してしまったら。そう思うと、恐怖を感じずにはいられないのだ。

 そんな彼女を励ますかのように、紫乃はロゼの背に手を添える。

 

「目的は戦闘行動じゃない。ロゴス・シーカーを探り、ラジエルの書と遺物の流出を阻止する事だ」

「それは、そうだけれど」

「あまり深刻な顔をしていると怪しまれる。今はとにかく、調査するんだ」

 

 紫乃にそう言われると、幾許か心が落ち着いたのか、彼女は微笑んで頷く。その様子を見ていた灰矢も、フッと唇を釣り上げていた。

 そうして今度こそ、各々散開して調査が始まる。

 相手が戯我であろうと構わず話を聞き、時にさりげなく立ち聞きし、稀に彼らの狙っている遺物を尋ねて情報を集め続ける。

 

「ふぅ」

 

 ワイングラスに注がれたジュースを一口飲み、紫乃は息をつく。

 一通り聞き込みを行った結果。ロゴス・シーカーやこのオークションについて、様々な事が理解できた。

 まず、このオークションでは遺物だけでなく人身売買も行われているそうだ。キュクロプスの眼によって鍛えられた子供たちは、ここで人間や戯我に売られる事もあるのだ。

 さらにこの遺物オークションを開いている人物。それはやはりロゴス・シーカーであり、しかも五人いる内の幹部格の一人だという。

 ジュゼッペ・バルサーモ、自称をアレッサンドロ・ディ・カリオストロ伯爵。稀代の詐欺師(アバンチュリエ)と名高い人物だ。

 医師にして錬金術師でもあり、国を渡り歩いて胡散臭い商売で金を稼ぐ犯罪者。1795年、獄中にて死亡が確認されていたはずの男である。

 

「それすらも詐欺だった、という事なのか……?」

 

 呟いた後、紫乃はすぐに頭から考えを振り払った。今はカリオストロがどのようにして生き残ったかを考えるべきではない。得た情報を纏めるべきだ。

 今回のオークションの目玉のひとつは『英雄の髄液』。ギリシア神話のヘラクレスや日本神話のヤマトタケルのような半神半人、あるいはジークフリートのように後天的に戯我と同等の力を得た人間。流石に神血(イコル)に比べれば純度は低いが、そういった者たちの体液もまた戯我のインクと同質のものになり、恩恵を与えるのだ。

 さらに、もうひとつ。それすら凌ぐ、遥かに希少な遺物が発見できたという。

 それこそまさしく、ラジエルの書の一頁。読んだだけで人間の体内に薄く残る神血を励起させ、神々の領域へと到達させる、危険な遺物の断片。

 必ず、この遺物だけは回収しなければならない。できなければ人の手で神々は復活し、世界は混沌に――。

 

「君、楽しんでいるかね?」

 

 思考に耽っていた紫乃の耳にそんな声が聞こえ、振り返る。

 そこにいたのは、仮面を付けた小太りの中年の男。キャメルカラーのスーツ姿で、その頬肉はいやらしく歪んでいる。

 紫乃は彼の言葉を無視し、ジュースを一口飲んでから去ろうとする。

 が、キャメルスーツの男はそんな紫乃の腰に素速く腕を回し、そのままゆっくりと手を太腿へ這わせた。

 

「何をする!?」

「そう邪険にしないで欲しいな、んん?」

「触るな!」

「ハッハッハ! どうだね、オークションが終わったら私の部屋で一晩中……」

 

 男の目が赤く光り、角が伸びて手が紫乃の尻に向かう。

 インキュバス・ギガだ。声には出さなかったが、紫乃は確信した。

 本来なら標的は女性になるのだが、恐らく女装しているせいで標的を間違えてしまったのだろう。

 

「貴様……!」

 

 苛立ちと不快感で紫乃の眉間に皺が寄り、拳が強く握られる。

 だが、その時だった。

 突然二人の間にひとつの影が介入し、紫乃の身体は男から引き剥がされた。

 紫乃は驚きつつも、その人物の姿を見る。

 短い黒髪で、黒い燕尾服を纏った仮面の姿。首には蝶ネクタイがされており、両手はシルクの手袋で包まれている。仮面で包まれているとはいえ、年齢は紫乃とそう変わらないように見える。

 

「お客様。他の方々のご迷惑になります、そのような事はお控え下さい」

「なんだね君は! 私は客だぞ!」

「存じ上げております。しかしながら、ここにおられる方々もお客様でございますので」

「ふざけるな! 私は毎回、このオークションで多額のカネを落としているんだぞ! 大体……」

「はぁー、めんどくせ」

 

 突如、溜め息と共にその人物の口調が変わる。

 紫乃もスーツの男も一瞬呆気に取られ、直後に大きな異変が起こった。

 スパンッ、という短く小さい打擲音のようなものと共に、男が目眩でも起こしたかのようにフラフラと後ずさりし始めたのだ。

 燕尾服の人物は自分の体を遮蔽にしていたが、紫乃には全て見えていた。素速いジャブで顎を殴りつけた瞬間が。

 

「おや、飲み過ぎですかお客様。さぁここに座って」

 

 言いながら燕尾服の人物は男を椅子に導き、今度は両腕で素速く首を拘束し、凄まじい早業で捻じ曲げる。

 パーティの喧騒が音と行動を掻き消す中、インキュバスの男は静かに息絶えてドス黒く変色。そのまま消滅した。

 

「ご無事ですか、お客様?」

 

 そんな一瞬の殺人劇を繰り広げた後でも、燕尾服の人物は静かに笑みを湛えて話しかける。

 ハッと我に返り、紫乃は咳払いして一礼すると、一応正体を隠すために演技の口調で話した。

 

「助かりました、ありがとうございます」

「いえ、お気になさらず。しかしレディがお一人では危ないですよ、しばらく私の側にいますか?」

 

 またも異性と間違われている事に複雑な気持ちになりながらも、紫乃は首を横に振る。

 

「ごめんなさい、この後友人と合流する予定なので」

「そうですか……アタ、いえ私はクリスと申します。何かあればいつでもどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 クリスと名乗ったその仮面の人物に再びお辞儀をして、紫乃はその場を後にする。

 そんな彼の背中を見送って、クリスはまた溜め息を吐いた。

 

「……似てたな、アイツに。まさかな」

 

 

 

「なるほどね。まさかあのカリオストロ伯爵が、今も生きてるとはな。しかもオークションとは」

 

 一度集合し、情報共有した後。灰矢はそう言って、壁に背を預ける。

 

「後はラジエルの書や他の遺物がどこに保管されているのか、なのだけれど」

「船内をある程度調べたが、倉庫はやはり厳重に警備が敷かれている。侵入は不可能と見るべきだろう」

「時間も足りないわね」

 

 ロゼと紫乃がそんな会話をして、唸って考え続ける。オークションの開始はもう間もなくだ、絶対に間に合わない。

 しかし、灰矢は不思議そうに首を傾げていた。

 

「何言ってんだお前ら、このくらいなら簡単だろ」

「なに?」

 

 さも当然というように言い放つ灰矢に、紫乃は目を見張る。

 

「要するにラジエルの書のページが手に入って、他の遺物が流れなきゃ良いんだ。なら方法はひとつだろ」

「……まさか、お前」

 

 猛烈に嫌な予感がしたのか、紫乃は仮面の内側で眉をひそめる。

 そして灰矢の肯定するかのような自信満々の笑顔で、全てを察して頭を抱えた。

 直後。室内の照明が徐々に暗くなっていき、三人だけでなく全員の視線が一点に集まる。

 壇上だ。幕が開くと、そこに二人の男が立っていた。

 

「本日はオークション会場へお越し頂き、誠にありがとうございます」

 

 その姿を見て、紫乃たちは愕然とする。

 

「なっ……!?」

「あの野郎は!?」

 

 そこにいたのは、貴族風の衣装を纏った金髪の男――だけではない。

 屈強な筋肉と粗暴な雰囲気を真っ白な紳士服で覆い隠し、髭を剃ってドレスコードを整えた、死んだはずのあの男。

 アダン・アルセニオ・エスカルラータが、微笑みながら立っていた。

 

「どうか楽しんで下さい、お客様……」




付録ノ十七[インキュバス]

 サキュバスと同様、淫魔の一種。人間の女性を襲って欲望を満たし、悪魔の子を孕ませる下劣な存在。
 一説によるとこれらの淫魔は生殖能力を持たないが、自由に雌雄を入れ替える事ができ、人間の男から精気を奪って繁殖するのだという。
 また、アーサー王伝説に登場する魔術師、マーリンは人間とインキュバスの間に生まれた子供とも言われている。真偽は不明。
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