この世界は残酷だ……。如月も終わりに近づくこの頃は身にも堪えるほどに冷えて、その寒さは部屋にいても変わらない。決してこれまでの20に近い人生で大病なるものを患ったことのない俺とて、この寒さは辛く苦しいものなのだ。
「……さ、寒い」
いや、この寒さは凡そ悪寒と言っても差し障りない。全身鳥肌が立ち、まるでこの世の終焉のような苦しみを味わいながら、襲いかかる悪夢に恐れ慄き、ただ身悶えることしかできない。
「……あぁ」
人類は無力だ。人の歴史が始まって以来、人はその手と知恵で数多くの発明により、その暮らしぶりを豊かにしてきた。身の回りにあるもの、テレビやエアコンなんかも、全てかつての人々が己の持つ知識と技術を組み合わせて、生み出してきたものなのだ。
「くっそ……」
まさにそれらは人類の叡智と言っても大袈裟ではない。今俺が包まる布団だって、そんなハイテクではなくとも立派な発明だ。ならば、今俺が心で、体で感じる悉くの痛みや苦しみだって、人類の知恵で解決できるはずなのに。
「あー、頭いた……」
例えば今ある頭痛の症状。それが何由来かは不明だが、人類は腫瘍の切除術や様々な病気の治療法を開発してきた。しかし、これは一体全体どういうことだろうか。
「なんで風邪のウィルスがやっつけられるような薬がねぇんだよぉ……」
なんと人類が生み出した風邪薬なるものは、症状を和らげるものではあっても、すぐさま完治を導けるというものではないのである。……俺が今どんな状況かって?
……なんだよ。笑えよ。変なプライドや正義感に駆られた結果風邪を引いた俺を笑えよ!! あっ力んだら頭もっと痛くなった……。
「ゆ、雄緋くん! 起き上がったらダメだって!」
「す、すんません……」
俺は花音に諭されるがままにもう一度ベッドに臥して……。
「……あ、あれ。なんで花音いるんだ?」
「看病のためだよ?」
「ああ、そっかぁ……」
あれは俺が夜中どうにもこうにも寝苦しくて、起き上がった深夜のことだった……。俺が部屋の隅の箱にしまってあった体温計を脇に差し、その液晶画面を見るや、あらまなんやこらびっくり仰天、37.9℃と表示されているではないか。その瞬間俺は察したね。あぁ、銭湯帰りのあの悪い予感はこういうことだったのかって……。取り敢えず薬箱にあった解熱作用のありそうな市販の錠剤を飲み込んで、なんとか寝ようとしたわけですが。
まぁ朝起きて熱下がってるかって問われたら、そんなすぐには下がんないよね。ぜーんぜん下がんないの。それで諦めてすぐ食べられそうなものだけサッと食べてまた寝に戻って今に至ると……。
「……あれ、やっぱり花音が居ることに繋がらない」
「わわわ、雄緋さん。起き上がったらダメですって」
「……今度はミッシェルかぁ」
「あたし今日はミッシェルじゃないですから! 病人は寝ててください!」
俺が起きたら部屋にクマがいたんだ……。俺はクマに諭されるがままベッドへともう一度寝かされ……。
「……あれ。なんで美咲いるんだ?」
「看病のためですよ?」
「……あぁ、そっかぁ」
あれは俺が(ry
「……あれ、やっぱり美咲が居ることに繋がらない」
「気にしすぎですよ」
「かもしれん」
俺はなんて幸せものだろうか。単に風邪を引いただけだと言うのにこんな可愛い後輩の……後輩? 歳下のバンド少女たちが看病に来てくれるだなんて。
「というかはぐみが何か迷惑かけたみたいで、すみません」
「はぐみが? なんで?」
「銭湯がどうたらって話を聞いたんですけど」
「あっ……」
覚えているようでそんなに覚えてない。でも言われてみればそんなにはぐみに振り回された覚えはないな。強いていうなら風呂場にコロッケ持ってきててドン引きしたことぐらい。
「はぐみには特に困ったことなかったから、大丈夫。何なら1番困ったの最後だったし」
「最後?」
「一緒に湯船入ってたら、六花に言われてみんなタオル取ろうとしちゃって、というか千聖とかリサの方がやばかった覚えが」
やばかった。主に俺の理性が。
「……一緒に湯船に入ってたら?」
「うん」
「……へぇ」
やばい。主に美咲と花音の雰囲気が。
「まぁ、今は雄緋くんの看病するから、問い詰めないでおくね?」
「今は……」
「今ぐらいはあたしたちに甘えてくださいね。後は知らないですけど」
「後は……」
実質的には後で尋問されるじゃないですかヤダー。というか混浴の一件に関しては俺は悪くない……はず……だよね?
「食欲あります?」
「今は秋じゃなくて冬だよね?」
「は?」
「ごめんなさい、あります」
めっちゃ怖いわ。でも、熱出してる時の方が多弁になりがちというか。辛いからこそ喋り倒してその辛さを自覚しないようにしようみたいな、分かってくれ。
「どれくらいなら食べれそう? カットしたりんごならあるよ?」
「あっ、それでお願いします」
花音がキッチンの方から持ってきたりんごはすっかり薄黄色の身の部分だけが晒されていて、綺麗に皮も剥いてくれていることがよくわかる。
「ごめんね、ナイフだけ借りちゃった」
「いやいや。看病してくれるだけ……よっこいせ」
俺は体を起こして、りんごに刺す爪楊枝を受け取ろうとした。が、空振りした。
「……え?」
「ふふっ。雄緋くん、お口開けて? あーん」
「いやあの、自分で食べ」
「あーん」
「自分で食べたいかなぁ……なんて」
「え、自分じゃ食べれない? うんうん……風邪で辛いよね……」
風邪で辛いからか僕の発音がおかしくなってしまったようです。そっか、風邪だもんね、仕方ない。
「あ、あーん?」
「うんっ、あーん。……どお?」
シャクシャクしてて。
「……美味しい」
「好きなだけ食べてね?」
冷たくてとても美味しゅう。
なんだろう……。献身的な花音にお世話される未来というか、風邪でダウンしている時に優しい花音に労られる未来……。
「悪くないね」
「えっ?」
「何でもない」
「……やっぱり疲れてるよね?」
「ん、疲れ?」
俺がふと湧いて出た疑問を投げ掛けようとした瞬間、俺の体に暖かな感覚が伝わってきた。
「え……花音?」
「いつもバイトで忙しいのに私たちみんなの我儘に付き合ってくれて……きっと雄緋くんも疲れてたんだよ?」
「そうですよ。そうでもないと、こんな風に倒れたりなんてしませんし」
「美咲……」
「今日ぐらい全部私たちに頼って、ゆっくりと心を落ち着かせてね?」
俺の体を包む温かさが背中へと回される。気がつけば美咲も俺を抱擁している。
「普段から頑張ってて偉いよ……雄緋くん……よしよし……」
「かのん……」
「むしろ頑張りすぎなぐらいですよ。もっと休み休みで良いんですよ?」
「みさき……」
だめだ……。2人の甘く蕩けそうな声が俺の考えを奪っていく。
「そんなに頑張りすぎないで良いんだよ? 辛いことだとか、全部私たちに押し付けて……雄緋くんはもっと楽に生きよう? もっともっと……甘えて良いんだよ?」
「そうです。もっともっと、あたしたちのことを頼ってくださいね?」
ばぶぅ……。バブバブ、ばぶぅ。バブバブバブバブ、バブゥ、バブゥ……。
「……こうしてみると、私より歳上の雄緋くんがまるで赤ちゃんみたいで、可愛いなぁ……」
「なんだかこう……もっともっと甘やかしたい欲が湧いてきますよねぇ……」
「バブゥ……」
「ふふっ……よしよし……。お腹いっぱいになるまで食べようね? あーん」
バブゥ……りんごおいしい……。
ばぶぅ……。
ばぶ。
……はっ?!
「お、オギャーー! 俺はまだ堕ちんぞ!」
「うわっ?!」
いかんいかん。あまりにバブみが凄すぎて、すっかり脳みそまでバブバブしてバブがバブバブするところだった。母性というかバブみというか、寂しさのせいなのかそういうものに縋ろうとしてしまった自分が情けない!
「そんなことないよ? 堕ちてもいいんだよ……?」
「あっ……ばぶぅ……」
花音ママ……。なでなでは反則だよ……。花音はぼくのお母さんになったかもしれない人、否、お母さんなんだ……。
「ちょ、雄緋さんが完全に言語能力とか失ってますよ?」
「……いいんだよ。みんなで雄緋くんのこと見守ってあげれば……」
「花音さんが完全に母親目線に……!」
心の中の甘えたいという欲求と、いや、このままではいけないという自律を促す理性が必死に戦ってる。それはもう関ヶ原の戦いぐらい激しく戦ってる。だって仕方がないじゃないか……、甘えたい時なんて人間いつしか訪れるんだよ……。それがたまたま今この時だったというだけだ……。だって風邪だからしょうがないよね。体だけじゃなくて心も弱くなってるから。
「ちょ、ちょ、ちょ、これもう流石に雄緋さん戻って来れなくなりそうですから! 花音さんストップです!」
「ふぇぇ? あっ、ゆ、雄緋くん?!」
「ふぇぇ……花音ママ……」
「ほら! 絶対にこれ精神イカれちゃってますって!」
「わ、わぁぁぁ?! 帰ってきてぇっ?!」
……ばぶぅ。
「……落ち着いたらまた頭痛くなってきた」
二重の意味でな。シンプルに悪寒が走るのに由来する頭痛と、生き恥を晒したという点でも頭が痛い。というか鳥肌が立ってる、自分の幼児退行のあまりの無様さに。なんだよ花音ママって……、たしかに花音の母性は強すぎたけど、完全に俺、側からみれば、というか自分で顧みてもやばい人だよ……。
「一応頭痛薬ならさっきドラッグストアに行ったときに買ってきたんですけど……」
「あ、それじゃあ私はお水入れてくるね?」
美咲がベッドサイドにかけてあったビニール袋をガサガサと漁り、取り出したのは頭痛によく効いて、痛みに負けなさそうな頭痛鎮痛剤が。
「頭痛薬最後に飲んだのっていつぐらいですか?」
「昨日の深夜かなぁ……」
「じゃあ多分大丈夫ですね」
「お水汲んできたよ」
「はい、飲めます?」
「うん、飲める」
「まぁもし万が一飲めなかったらあたしが口移「飲めます」……まぁ、流石に病人ですしね、自重しときます」
口移しなんかした日には確実に風邪を美咲に移しかねない。というか口移しされるのが頭痛薬とかそれはそれで嫌だし。
頭痛薬とは言っても気休めにしかならないかもしれないが、それでも態々買いに行ってくれて、飲ませてくれるのは本当にありがたい。なんだか、大学に入ってから親元を離れて、一人暮らしをすることになってからこんな風に風邪ひいて寝込んだりなんて経験もそうなかったので、尚の事そういったありがたみが身に染みる。
「ど、どうかした? 雄緋くん」
「……いや。2人とも本当にありがとうな。なんか、風邪引いて寝込んだ時、特に昨日の深夜なんかどうにも心細かったというか、不安もあったから」
「そっかぁ……一人暮らしだもんね」
「だからもう、話し相手がいるだけでも本当に心強いのに、それどころか看病までしてもらって、頭が上がらないな」
「そんなの気にしなくたって良いんですよ。あたしたちだって雄緋さんには毎日のようにお世話になってますし。あたしもアドバイス通り病院行ったら症状も落ち着いてきましたし」
「アドバイス? 病院?」
「雄緋さんのおかげってことです」
ガールズバンドのみんなからはこうやって感謝されることも多いけど、自分ではそんな風にはあまり思わない。俺はバイトで彼女たちにスタジオなんかの環境を提供するぐらいしかしてないし、他にはせいぜい……せいぜい、えっと家の中で姉の良さを語ったりだとか、取調べを受けたりだとか、花咲川の生徒会室に誘か……呼び出されて仕事をしたりとか。あれ……?
……うーん。まぁ、それでも彼女たちのおかげで日常に彩りが増えたことは確かだし、そういった意味でむしろ俺の方こそ感謝しているのだ。
なんて、風邪を引いたせいだろうか、柄にもなくセンチメンタルになってしまっているな。
「……ま、何にせよ、ありがとう」
「……お役に立てたなら、良かったです」
「うんうん。……私だっていつも迷子になったら雄緋くんのこと頼りにしてるんだから、雄緋くんに辛いことがあったら遠慮なく私を頼ってね?」
「それは勿論」
贅沢を言えばもうちょっとだけ理不尽なことに巻き込むのはやめて欲しいけど。まぁそれも非日常を味わうと思えば……思えば……うん。まぁでも、暴走するのさえやめてくれたら……ね?
「そういえばお腹空いたりとか、喉渇いたりしてないですか? 薬だけじゃなくて色々買ってきたんですけど」
「お、何かあるのか?」
「えっとね、ヨーグルトとか、ゼリーみたいなのとか」
「おー。食べやすくて良さそう。けど、ちょっとだけ喉が渇いたな」
「あっ、それならこんなの買ってきましたよ」
「こんなの?」
そして白いビニール袋から取り出されたのは。
「牛乳というか、ミルクというか」
「うーーーん?」
おっかしいなぁ。パッケージに可愛らしい赤ちゃんが見える。おめめクリクリしてて可愛いねぇ。
「じゃねぇ! おい、乳児用の粉ミルクじゃねぇか!」
「あっ、哺乳瓶買うの忘れてました」
「えっ? ……よ、よし! そ、それなら私が頑張って……、で、出るかな?」
「やめろぉ!!」
暴走さえしなかったら……。
あ、この後ちなみに、全力で花音の暴走を止めて、ゆっくり寝ることにしました。寝る子が一番育つ……じゃない、寝ないと風邪治んないからね。みんな寒くなってきたから風邪には気をつけるんだぞ!!!! ばぶぅ。