時は江戸……。将軍様のお膝元で、武家のお屋敷に悪事を働く世紀の大盗賊がいた。氏を北条、彼が名家の生まれであることなど世の者たちは知る由もなく、ただ貧民を救う彼の生き様を義賊と慕う。去り際に鮮やかな緋の閃光で追っ手の目を眩ませることから、彼を英雄と崇め奉る者は皆、彼をこう呼んだ。
『また出たぞ! あの小僧だ!!』
江戸のとある武家屋敷に怒号が鳴り響く。それは民衆からは英雄と慕われ、世の権力者からは大罪人と蔑まれた、彼が現れたからに他ならなかった。利を貪り、たらふく富を蓄えた者たちから根こそぎ財を奪い去り、それを以てして貧民を救う英雄の凱旋であった。
『ふっ。どこの家も我欲に眩み、財貨を蓄える悪党の多きことよ』
人知れず屋根の上に飛び乗った彼は、呆れたように吐き捨てる。彼の声を聞いたことがある者は誰一人としていなかった。主人が寝ている隙に犯行を済ませ、貧民たちが汗水を垂らして耕作に励んでいる間にその獲物を配り渡すのだ。彼の救済を期待してなのか、自力で開墾を進めて、彼の助力なしに貧しさから抜け出した者も居るとかいないとか。
しかし、その日は何かがおかしかった。そんな仮面の中の素顔を決して知られることもなかった彼を呼び止める者がいたのだ。
『待てぇ! そこの小童めが!』
『な?!』
彼は今回も余裕綽々と逃げ果せたことで油断していた。だからだろうか、一瞬のことに反応が遅れる。僅かにいなしたその場所を、一筋の太刀筋が空を切る。
『あっぶねぇ?! 人を斬るとか何考えてやがる?!』
『たわけ! 罪なき者から金銭を奪う子悪党が何を言うか!』
『……そうか。その声は』
陰になっていたその顔に、月明かりが差し込んだ。
『貴様のような悪者は、私、若宮
名乗る若武者を嘲り笑うように、かつて相見えた際の余韻を思い出したように乾いた笑いをぶつける彼。それはその侍の誇りをも軽んじ、若き侍の心はぼうと燃えた。
『やはりか。だが以前我が其方から逃れたこと、忘れたわけではあるまい?』
『ふ、ふん! 今度こそは!』
彼女は武士として仕える身、敗北は二度と許されることではない。一度目は不意をつかれた敗北だったとはいえ、彼女にとってそれは屈辱の敗北に他ならず、彼女なりの、武士としての誇りを、気高きブシドーを貫き通すためには、絶対にこの者だけは我が手によって斬り捨てねばならないと、血判の誓いを立てていたのである。
『……まぁその心意気や善し。買ってやろう』
『……その腰に据えたるは仕込み刀であろう? ならば、私と刀で勝負で……、勝負だ!』
「はいカットォォォ!!」
……凄まじい声が屋根の下から響き渡る。
「ご、ごめんなさいマヤさん! ユウヒさん!」
イヴは屋根の下で待ち構える監督——麻弥のことだが、それと俺に向かって一言詫びを入れると、ぶつぶつと台詞らしいものを暗唱して確認しているようだった。
「大丈夫です! イヴさんは台詞大丈夫ですか?」
「……はいっ、次こそは!」
「よーい……アクション!」
『ならば、私と刀で勝負だ! この誇り高き妖刀・熊正で貴様を斬り捨てようぞ!』
『……女人を斬る趣味はないが。そういうことならば受けて立とうか』
彼は腰布に隠した刀を抜くと、中段に構える。
『女と見て油断すれば……痛い目を見ようぞ!』
『くっ、速っ……だが』
彼女の研ぎ澄まされた太刀筋は最初に彼を斬りつけようとした時同様、凄まじいスピードとその体躯からは想像もつかないほどの威力で襲いかかる。彼はなんとかそれらを受け流した。
『やりおる……。だが私とて1人の武士なのだ。勝たねばならんのだ!!』
『ぐぉっ?!』
鍔迫り合いに持ち込んだ彼女の膂力に、彼は履物を屋根瓦に押し曲げながら踏ん張り続ける。なんとかそれを押し返すが、彼女の追撃の手は緩められない。
『私のブシドーを、……思い知れぇ!!』
『ぐっ……、知らねぇなぁ……武士道なんざ……』
『私のブシドーを愚弄するなぁ!!』
『そんな夢や生き方はな……とっくのとうに、捨てたんだよぉっ!!』
『なっ、どこからそんな力がぁっ?! きゃああっっ!』
彼の押し固められた恨みの心が彼女の正義なるブシドーを跳ね返す。そして彼の刀が彼女の刀を持つ手を、峰で叩き打った。
『がっ……あぁっ!』
彼女の手を離れた名刀が急な屋根を滑り落ちて、やがて屋根から飛び出して剥き出しの地面へと落ちてゆく。それとともに彼女は膝をついて俯いた。
『……なんだ。若宮イヴよ。その態勢は』
『私の……負けだ。……好きなように斬るがいい』
『残念だが俺は無闇矢鱈と人を斬り捨てるようなつもりはない』
『……そんなものは関係ない、私は負けた。武士でありながら子悪党にすら刀で及ばぬ私に何の価値があるのだ! ……お願いだ、……殺してくれ……』
『……ほぅ』
彼は興味深そうに彼女を見下ろす。武士という誇り高き地位にありながら、所詮盗人に過ぎない緋色小僧にすらも、自ら刀での決闘を挑むも無様にも負けを晒した。その恥に耐えられぬから、介錯をしろと、せめてそのちっぽけな誇りだけでも守らせてくれと、彼女はそう乞うのである。
だが、彼の答えは「否」、であった。
『……無益な殺生などはしない』
『……なぜだ、なぜそこまでして情けをかける! こんな無価値な私に!』
『誇りなどなくても生きてゆける。……死ぬ必要のない者が、無闇にその命を散らす必要などない』
『……私には、誇りしか……ブシドーしか残されていないのだ! そんな詭弁に弄されるか!』
『……まぁ分からないならば、仕方がない』
『な?! 峰……打ち……』
とどめを刺せと喚き散らす彼女を憐れんだのか、それとも煩わしいと思ったか、彼以外の人にそれがわかる由などない。
彼女の中に僅かに残されたブシドーの誇りなのか、峰打ちを食らいながらも歯を食いしばり、意識を保たせている。しかし最早反撃は及ばない。
『そんなつまらぬ誇りなど捨ててしまえ』
『まだ……愚弄するか……』
『貴様にとって誇りとはなんだ?』
『誇りとは……ブシドーだ……。刀で高みを目指すこと、己を高める……それが、誇りなのだ……』
『ならばその刀、俺が譲り受けよう。貴様の刀に貴様を斬らせる意味はない』
『な……ふざけ……』
『……貴様のような美しき娘が、武士の誇りという名の呪いに縛られ死に晒す必要などない』
『な……に……を』
『……生きたくても生きられない者もいれば、死にたくても死ねない者もいる。生が辛くて死にたい者が無闇に命を散らす意味はない。俺はそう思う。例え一時生を諦めるほどに貧しかろうと辛かろうと、俺がその者を、この身を捧げ掬い上げよう。……それが貴様の言う、俺のブシドーだ』
『……そう……か』
『……気を失ったか。……何故こんなにも無駄に語ってしまったのか、自分が情けないな』
自らを嘲りながら、そして何故こんなにも素直になれたのかを不思議に思いながら、彼は刀を仕舞う。
『……ブシドーか。……俺が武士を語れるわけなどなかろうに』
何かを忘れるように彼は大きな息をつくと、力の抜けたうら若き元武者を抱きかかえた。
『よっと……。……倒したはいいが、このまま寝かせるわけにも行かない、か』
そして彼は彼女を抱きかかえたまま屋根の低いところから地面へと飛び降りる。地面に誇りを忘れて突き刺さった悲しき刀を腰に差す。しかし彼は確信していた。この呪いから彼女を解き放つには今しかないと。今解き放たなければ、彼女の呪いは彼女の身を滅ぼすと。
『ふぅ。此奴はこの館の者か。……ならばここで寝かせておけばよいか』
彼は中庭から家の中に入ろうと戸を横に開く。……そこには。
『あ、あれ?』
「か、カットォォォ! 薫さんどこに行ったんですか?!」
……予定ではここに薫がいるはずなのだが。どういうわけだか座敷に薫の姿はない。
「薫さーん?! 薫さーん!」
「おや……どうしたんだい……。私をそんなにも呼んで」
「呼んでも何も出番ですよ?!」
薫……。薫はフェンスの近くの花を見て愛でていたらしい。……いや撮影中ぐらい集中しろよ。
「あ、あの……ユウヒさん……」
「ん、どうしたイヴ? あぁ、ごめん。下ろすな」
「ま、待ってください! もう少しだけ……このままで……」
「え?」
「あ、もっと抱き寄せていただけると……」
「こ、こう?」
「あ、あと。そのさっきのセリフを……耳の近くで言ってください……」
「……さっき?」
「えっと、『貴様のような』からを……」
「えー……。ごほん。『貴様のような美しき娘が、武士の誇りという名の呪いに縛られ死に晒す必要などない』……でいいか?」
「はぅ……。えへへ……耳が幸せです……。私の生涯に……一片の悔いなし……」
「よーい、アクション!」
『おやおや、私の子猫ちゃんに手を出すとは、無粋な輩もいたものだ……』
『……この館の主人か?』
『いかにも……。それで、何用かな?
『なっ、どこで……。くっ、この子は返す』
『……ふっ。悪くない判断だ……。儚い……』
不気味に感じたのだろうか、彼は慌てて、若宮イヴを畳の上に寝かせると、気高く揺れるその男から目を離すことなく後ずさる。
『まぁ。君のことは言わないでおこう。江戸の街が大混乱になるだろうからね』
『……そうしてくれると助かる』
『一つ、貸しというやつさ』
『……くっ。失礼する』
『まぁ待て……坊や。彼女の……妖刀はどうしたのかな?』
その男は彼の腰に差された、禍々しい雰囲気を放つ銀刃を見つめていた。気を失った若武者の魂をも抜かんとする妖刀を隠すことなど叶わなかったのである。
『……彼女にこの妖刀は必要ない』
『何故だい? それはこの熊正がその主を誑かして支配することを知ってのことかい?』
『……やはりそうか。そうであれば尚更だ。彼女が命を散らす必要などない』
『……命を絶つことまで見抜いていたのかい?』
『その誇りに従えば、間違いなく彼女はこの刀を自らに向けるであろう。……それを止めない理由などあるか?』
『……君は何も知らないようで、察しているようだね。……儚い』
『失礼する』
彼は家を飛び出すと、塀の上を風のように走り去る。今日はやけに身の上を語りすぎたな。そんにゃ……そんなことを悔いながら。
「ちょっと待った」
「……な、なんですか雄緋さん?! じじじ、ジブンは噛んでないっすよ?!」
「丸わかりだから隠さなくて良いぞ……」
「大丈夫さ麻弥。失敗なんて誰にでもあることさ」
「さっきお前は出番をすっぽかすとかいうありえないミスをしていたけどな」
「か、薫さん……」
「というか麻弥も、ナレーションなんか後で吹き込んだら良いだろ」
「拘りです!!」
「えぇ……」
……そんなことを悔いながら。そして彼が緋色の閃光を放つ。
『きゃあああ! 緋色小僧がまた出たよ!!』
『オッちゃんの眼の色に似てるっ』
彼は緋色の閃光に姿を隠した。緋色小僧の名を体現してみせて、またも己の考えを貫徹しようと駆け抜け続けたのである。
『ん……んんっ……』
彼が逃げ去った後の瀬田家の和室で、彼女は意識を取り戻す。
『おや、子猫ちゃんのお目覚めのようだね』
『……カオル様……。はっ?! かの者は?! 熊正が?!』
『緋色小僧のことかい? 彼ならもう去っていったよ』
『う、嘘……。私は……私は……っ』
彼女は自らが完膚なきまでに敗北したという事実を改めて悟り、そして自らのブシドーの拠り所ですらあった刀を奪われたことに酷く落胆していた。そして、この敗北が彼女にとって二度目の過ちであることにも。
『さて、イヴ……。この家は緋色小僧に2度も押し入られ、財物を盗られてしまったのだよ。……君というものが警備していながら、ね』
『も、申し訳ございません!! 私の、私のお命でどうかお許しを……!』
『……まさか命まで取りはしないさ。彼に救って貰った命を、無駄にするわけではないだろう?』
『彼……?』
『盗賊でありながら、卓越した刀術の腕を持ち、それでいて紳士だなんて……儚いことだ。相手が彼でなかったなら、君は今頃辱めを受けて慰み物に成り下がって、命を捨てていたかもしれないというのにね』
『な、慰み物っ?!』
『……だが、私は君に暇を出そう。済まないね、今までの礼を言おう』
『はっ……。……ありがとう……ございました』
『……彼はどのような意味でも君の命の恩人のようだ。彼に助けて貰った命を大切にするが良いさ……。彼の持つブシドー、私も感服したよ……』
『……カオル様に。一つだけ。彼は何者なのでしょうか……』
『……ふぅむ。難しい質問だね……だが』
畳の上の空気が凛と研ぎ澄まされる。
『彼の名は雄緋。その渾名が緋色小僧だなんて、儚い偶然だね……』
『雄緋……殿……』
彼女は突然訪れた先の見えない暗闇に畏怖を感じながら、屋敷を後にする。彼——世間を賑やかす緋色小僧。いや、雄緋と呼んだ方が良いだろうか。かの者に恨みを覚え、また一方では憧れを持ち、心の奥隅ではそれとは分からぬ恋心を抱いた若き少女の揺れる思いは今日も変わらぬ江戸の町へと溶けていく。雄緋とイヴ。武士を捨て去りし2人を狂わせる物語は始まったばかりである。
『まさか彼が……。それに、この家には雇い人はおろか財貨も何も残っていないなんて……。……儚い』
……儚くても続く!!