それはあまりにも突然訪れた。お天道様が春の訪れを教えてくれるぐらいのある春の日のこと。俺は物凄く静かで、有意義で、充実したお一人様ライフを楽しもうとしていたのだ。
バァン!
という凄まじい音とともに家のドアが開く。鍵が閉まっているはずなのにドアが開くことに関してはもう何も驚かない。その程度で驚いているようではこの世界において精神衛生的に健康に生きて行くことなんて不可能である。だが、そのドアの開閉音はおよそ通常の状態を保ってはいなかった。
「すみません雄緋さん! 助けてください!」
「はいっ? どなた、ってどうした紗夜」
礼節を重んじる彼女らしくない荒々しい入室に俺は困惑しながらも、息の上がっている彼女に何事かと問う。どうやら走ってここまできたらしく、顔も赤らんで、相当な事態だったようだ。これでは事情を聞くこともままならないか、と思っていたら、紗夜がやっとの思いで呼吸を整えて口を開く。
「……実は、追われていて」
「追われてる?」
俺にとって誰かに追いかけられるとかは日常茶飯事というか、それも日常を彩る1ページというか。そんな程度のものでしかないので、そう焦るほどのものでもないだろうと思っていたが、あまりにも急迫したように見える。鬼気迫る様子で追われていると説明した紗夜は一体どんな凶悪な組織か何かに狙われているのかと思った。
……が、事態は俺の想像の5倍ぐらいはしょぼかった。
「日菜と、羽沢さんと、桐ヶ谷さんに……追われています……」
「はぁ?」
日菜に関してはいつも通りでは、と思ったけど、よくよく考えたらいつも通りにプラス2名だろうと、普通なら別にこんな息が上がるまで逃げることもない。
「なんで追われてんの?」
「その……お恥ずかしい話なのですが、……浮気と言われてしまって……」
「は?」
「風紀委員でありながら、そんな社会的良識の欠如にも気がつかなかった私は愚かです……」
「えぇ……」
もっのすごい反省をされているのは分かるんだけど、訳がわからないよ? 浮気って言ったこの人? まぁ最近色んなガールズバンドの女の子たちをタラシこんでるなぁぐらいは思ってたけど、でもそんな深刻なことにはならないだろと軽く考えていた。でも、それで追われて浮気と言われたならば、この部屋に来て、男の部屋に来ているのはもっと浮気では? 話を軽く聞いたところで未だに状況がさっぱりである。
「日菜とつぐみと透子でしょ? それは浮気ではないんじゃない?」
「いえ……最初は街で会った羽沢さんと出かけるという話になったのですが、そこに偶然居合わせた桐ヶ谷さんにギターを教えてくださいと泣きつかれ……。そこを日菜に目撃されたものですから、『あたしにも教えてー!』なんて言われまして……」
「あぁ……。大変だったな……」
同時に3人と遭遇して、各々から引っ張りだこになったというわけか。たまたまその場所に4人が居合わせる確率というのは相当低そうだが、そうなってしまったのであればまぁ仕方がない。それはそうとして、なぜ紗夜が逃げるような状況になっているのか。
「それなら、最初につぐみと会ったんだから、つぐみを優先すれば良かったんじゃ」
「その……選ぶのは、可哀想じゃないですか。羽沢さんを優先したら桐ヶ谷さんと日菜を蔑ろにしてしまう気がして」
「え、えぇ……」
「し、仕方ないじゃないですか! 普段はおちゃらけた桐ヶ谷さんが私にギターを教わる時は熱心に指の一本一本にまで力を込めて、難しかったフレーズが上手くいったらあんなに可愛らしい笑顔をこちらに向けてくるんですよ?! 日菜だって以前こそ粗雑に扱ってしまうこともありましたが、『おねーちゃんおねーちゃん!』と慕ってくれる妹はやっぱり可愛いもので……。も、もちろん羽沢さんだって可愛いところあるんですよ?! 日菜がいつも迷惑をかけていないか心配で、かと思えばカフェでも熱心に働いて……そんな健気で可愛らしい後輩が慕ってくれるのは嬉しいのですが、そんなの選べるわけないじゃないですか!」
逆ギレされても……。めっちゃ早口で説明されたけど、とりあえず言いたいことは。
これは浮気です。完全に浮気です。どうみても浮気です。本当にありがとうございました。順番が順番だったとはいえ、つぐみも透子も日菜もこれは怒っていいよ。
「……で、擬似トリプルブッキングみたいになって浮気だと泣かれたと」
「……はい」
「で、そっからなんで追われることになってんの?」
「ギターを教えてという桐ヶ谷さんと日菜、それからつぐみさんとのお出かけ、どれを優先するのかと詰め寄られまして」
「え、それで逃げたの?」
「はい……」
ラブコメやんけ! 羨ましい……。じゃなくて、なぜ逃げたのか。そこは流石に誰かを優先するのが忍びないとしても順番に回るとかするなりあったろうに。絶対に逃げたからそんなややこしいことになってるんでしょうよ。
「と、いうわけで匿っていただ「いたよおねーちゃん!!」日菜?!」
「窓?! って、え、ちょおい俺を引っ張って行くなよ?!」
「あーー! おねーちゃんが雄緋くんも連れて行こうとしてる!」
「紗夜さん! 浮気なんて悲しいですよ?! あたしたちをほっぽって男に行くんですか?!」
修羅場じゃねーか! というか匿うのは100歩譲って分かるとして、なんで俺を連れて逃げたの? そんなことしたら確実にその3人から果てしない恨みを俺までついでに買うことになるんですけど? って言いたかったけど、既に命の危機に瀕して逃亡を図る紗夜に引きずられるまま俺は家を飛び出す。
「待ってください紗夜さん! 一緒に買い物に行こうって話してたじゃないですか!」
「ご、ごめんなさい羽沢さん! 私には選べません……!」
「いやそれは行ってやれよじゃなくて俺を巻き込むなぁーーー!」
かくして、俺と紗夜の逃避行が始まった……!
「とにかく逃げます! それしかありません!」
「逃げるったってどこに?!」
「知りません!!」
勝手に俺を巻き込んでおきながら、そんな無責任なことをほざく紗夜。そんな2人の足は商店街の方に向かっていた。
「商店街……?」
「ここなら皆さんの目を掻い潜れそうですかね……?」
「人もいっぱいいるしな……ん?」
人をかき分けて商店街の中でも人通りの多い、交差点のあたりに来た俺は目を凝らした。何やらこちらに向かって走ってくる人影が、あ。
「見つけましたよ紗夜さん!」
「羽沢さん?!」
そうか……。よくよく考えればここはつぐみにとってはホームグラウンド! くっ、どうするんだ?!
「買い物に行くって話をしたじゃないですか……!」
「そ、それは……」
「紗夜もなんで行ってあげないんだ?」
「わ、私だって羽沢さんとの買い物は楽しみにしていましたよ?」
「なら!」
「で、ですが……ギターが上達せずに困っている2人を捨て置くわけには」
「さ、紗夜さんの浮気者ぉっ!」
つぐみ泣いちゃってるんだけど? 俺はこの状況に居合わせてどうすればいいんだ……。あの、みなさんここどこか覚えてます? 商店街のど真ん中もど真ん中よ。つぐみが今大声で叫んだから明らかにこの集団は触れたらいけないという雰囲気が出て、俺たち3人の周りだけスペースが出来ました。野次馬も大量に集まっている。しかも、この状況で『浮気者!』なんて叫ばれたらだぞ? 俺がつぐみの恋人で紗夜に浮気したみたいな構図に見えるじゃん? どうしてくれんだ……。
「おい貴様……」
「……え?」
「つぐみちゃんは商店街の宝なんだが? ……そんな可愛い子がいるにも関わらず浮気したのかぁーーー?!」
「うわあああ違うんですぅぅっっ! ほら勘違いされたじゃん! 逃げるぞ紗夜ー!!」
「は、はい!」
「待ってください紗夜さん!」
商店街の大人たちを敵に回した俺はどうすればいいんだ……。それはさておき、最早戦場と化した商店街に居座ることなんて出来ず、思わず紗夜を連れて逃げてきてしまった。冷静になって考えると俺が紗夜を伴って逃げる意味はまるでなく、紗夜だけつぐみに任せれば良かったのに。……やっちまったぁ。
「紗夜とかのせいで俺これからもう商店街利用できなくなったんだけど。……っておい、なんで顔赤くしてんの?」
「私が浮気相手……。興奮しますね」
「正気に戻れ」
「あっ、紗夜さんはっけーーーん!」
「なっ?!」
背後から殺気……! 振り返るとそこには大きく手を振ってこちらに駆けてくる透子。
「探しましたよ紗夜さん! ギターを教えてください!」
「ほら、言われてんぞ紗夜。教えてやれよ、早く」
「な、なんだか雄緋さんの私の扱いが段々適当になってきている気が……」
何をおっしゃいますか、そらそうよ。ここまで巻き込んでおいて通常の取り扱いをしてもらえると思うな。
「桐ヶ谷さんに教えてあげたい気持ちはやまやまなのですが……」
「じゃあ良いじゃないですか!」
「私には……日菜が……」
「や、やっぱり……! 紗夜さん、浮気なんて酷いですよ!」
「す、すみません」
……この流れ、デジャブか? この女性2、男性1の状態での浮気に対する詰りはまず間違いなく男の方に飛び火が行くんだよ。
『浮気……? 浮気だって……』
『あの男かしら。サイテー……』
『修羅場じゃん。撮ってアップしよ』
ほらこうなった。
「日菜さんに教えるのは家でも出来るじゃないですか! あたしとじゃダメなんですか?!」
「そ、そう言われてしまうと」
「あ、いたー! おねーーーちゃん!!」
街中のあらゆる雑音をかき消すほどの大声で紗夜を呼んだのは、間違いなく紗夜の妹で。
「日菜?! ど、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ! 追いかけたら雄緋くん連れて逃げちゃうし……」
「そ、そうですよ! 紗夜さんはあたしたちじゃなくて雄緋さんを選ぶんですか?!」
『よく分かんないけど、三股ってこと?』
『うっわサイテー』
俺の社会的評価死んでない? いやもう、ここまでなった以上どうにもならない気がしてならない。それはそうとして、最初はつぐみと透子と日菜の3人で浮気者だという話が始まっていたはずが、紗夜が俺を連れて逃げたせいで完全に浮気の対象相手が俺になった。本当に万引きの冤罪を押し付けられたような気分なんですけど。
「雄緋さんを選んだわけでは……。わ、私だって桐ヶ谷さん、日菜にギターを教えてあげられるなら、してあげたい気持ちはあります!」
「どうしてそれで雄緋さんを選ぶんですか?!」
「そうだよおねーちゃん! ずるい!」
「羽沢さんや桐ヶ谷さん、日菜の中から選ぶのは他の人との差が不公平ですから……」
「俺を選んだら、つぐみも透子も日菜も可哀想にならない? それ」
「……コラテラルダメージというやつです」
致し方ない犠牲。
「ぶーぶー。雄緋くんばっかりおねーちゃんを独占してずるい!」
「そうですよ! ついでに言うなら雄緋さんを独占して紗夜さんもずるいですって!」
「どっちかハッキリしろよ……」
お前らの目的は紗夜じゃないのか……。そんな恨言を吐いてもまるで埒が明かない。俺の優雅なお一人様タイムも、紗夜とつぐみのお買い物タイムも、紗夜と透子のギターのレッスンも、紗夜と日菜の姉妹水入らずタイムも、それら全てが犠牲になりかねない。ここいらで流石に決着をつけて欲しい。
「あ、紗夜さんいた!」
「羽沢さんまで……」
遂にさっき逃げ切ったばかりだったつぐみにも追いつかれ、浮気の当事者たちが一堂に会する。いや俺は当事者ではなかったんだけども。
「さぁ、紗夜さん! 選んでください!」
「あたしと一緒にギターを弾くか!」
「いっぱいいっぱいるんってするか!」
「私と一緒に、お買い物に行くか!」
「「「どれ?!」」」
「わ、私は……」
水を打ったように辺りが静まり返る。世界中の空気が流れを止めたように物音一つしなくなる。3人の視線は紗夜の口元へと注がれ、その神経は紗夜の唇がなす空気の波にのみ集中していた。
鳥は囀りを止め。
人は呼吸を止め。
空気は凍りつき。
地球は回転を止めた。
紗夜が。
答えを。
「……や、やっぱり決められません! 雄緋さん逃げましょう!!」
「はい?!」
出せなかった。
紗夜は、優柔不断で。
天然ジゴロだった……。
「この浮気者ーーー!!」
「待ってください紗夜さん!」
「本当に上手くならなきゃルイに怒られるんですって!」
「皆さん、ごめんなさい! ごめんなさい!」
「謝るぐらいなら俺を巻き込むなぁ?!」
後日、商店街の掲示板には『WANTED』と銘打たれて顔写真が掲載されていました。紗夜、許すまじ。やはり彼女はタラシでした。