この世界にはありとあらゆる不幸、鬱々しい出来事に溢れかえっている。貧困、紛争、気候変動。世界に目を向ければそんな解決が極めて困難な課題に溢れかえっている。
だが、我々の生きる社会にも、程度の大小はあれど、人を苦しめて止まない事柄はごまんと存在するのだ。
蒸せ返る満員電車の通勤通学、万事を否定してくる頑固な上司、何度提出しても修正されるレポート。ため息が止まらなくなるような、憂鬱を、俺たちは。いや、俺は——。
「やってらんないわよもおおお!!」
「はいはい……飲みすぎないでくださいね……」
「本当どういうことなのよねぇ?! みんな来て『雄緋さんって今日シフト入ってますか?(裏声)』って聞いて『いないよー』って言ったら何も言わずに帰ってくなんて、ねぇっ、えぇっ?!」
「大変ですね……」
「大変ですねじゃないわよ他人事みたいに! あんたのせいでしょおがぁぁぁ?!」
発狂する上司を宥めるという憂鬱と戦っているんだ……。あの……、一応言っておくと、ここ、居酒屋なんです。バイト上がって、今日はお客さんも来ないから早いうちに店締めるねーって言われて、誘われて行ったらこれだよ。着いた瞬間いきなりお通しが来る前にハイボールを出せと店員を脅し、届いたばっかりのハイボールをものの5秒ちょっとで飲み干した瞬間、そのジョッキを店員に突き返すなどということをしておりました、まりなさんが。
さっきからもう周りの視線が怖い。いや、カウンター席に座ったから周りのお客さんは見えないんだけど、明らかに関わっちゃやばい雰囲気を出してるものだから、何だったら店員さんでさえビクビクしながら注文を取りに来てくれたりしています。……どうしよう。
「ねぇ聞いてんの?! えぇ!!」
「すいませんすいません。聞いてます、聞いてますよ」
だがこの飲んだくれを抑えるのは最早俺以外いない。同伴者たる俺がどうにかこうにかしてこのモンスターを抑えないとこの店に平穏は訪れない。いやまぁ、もう出禁確定だろうし、関係ないけど。
「何よアンタたち青春しやがって!! アンタらみんなバンドのためにライブハウス来てんでしょ?! 男に会いに来るために来てんじゃないよ!!」
「ご尤もです……」
「ねぇ客寄せパンダくんよぉっ?!」
助けて……。この哀れな客寄せパンダを助けてください……。上司の
「おかげで今月は収支マイナス! 機材だけはぶっ壊れたりして修理代金とか新しいの買い換えたりで大赤字よ、潰れる! このままだと店潰れるから!!」
貴女は今、一軒の居酒屋さんを潰そうとしているんですよ? きっと常連さんに親しまれた愛嬌のある頑固そうな店長の親父さんが白目剥く程度には、この店を潰そうとしてますよ?
「客呼ぶならせめてちゃんとバイト来いやぁ!! サボりすぎというか雑談しまくってんじゃねぇよ就業中によぉっ!!」
「それはほんと……すいません」
「で?! 私がキツく言ったら匿名アンケートで『雄緋さんにキツく当たらないでください』とか『雄緋さんの休憩時間増やせ』だの、私が悪いんか?! あぁっ?! CiRCLE畳むぞこらぁぁぁっっ!!」
貴女は今、一軒の居酒屋さんを畳ませようとしていますよ? ほら、私たちの背中にいた、店員さんと仲良さそうな常連客っぽい人たちが渋い顔しながら、釣りは要らんとばかりに万札投げつけて帰りましたよ? 絶対あの人たちブチギレてるよ?
「何よ?! 店員虐めて楽しいんか?! 格差社会見せつけて楽しいんかぁぁっっ?!」
貴女は今、一軒の居酒屋さんの店員を虐め倒してますよ? さっきから明らかに貴女が注文した料理持っていきたいけど荒れ狂う貴女に話しかける勇気がなくて、皿を持ったまんま店員さん困り果ててますよ?
「ちょ……まりなさん。その辺で……」
「……はぁっ。分かってんのよ私だって……、ね? みんなバンドは勿論だけど雄緋くんに会うのを楽しみにしてんのかなって。バンド真面目にやってるならそれぐらいのご褒美みたいなのあってもいいんじゃないかなって」
「え? あ、はい」
「みんなの目見たら、若き日の自分を思い出すというか……。心のときめきに直向きに生きていた、若いあの頃を思い出して……うう。……うわーん!!」
うわぁめんどくさいこの上司。さっきまで台パンしまくってたのに急にそんな号泣しないでくれ……。ほらもう、店員さんが申し訳なさそうに俺の横に皿置いて、そそくさと退散したし。少しだけ声のボリューム下がったから、迷惑度は下がったけど、泣き上戸とか途端になられると温度差で風邪ひくよ。
「ちょ、あの、よしよし」
「ほら、それ、それよ馬鹿野郎!!」
「へぁっ?!」
嗚咽を上げるまりなさんの背中をトントンと叩こうとした瞬間、まりなさんはぐわっと起き上がってこちらを振り返る。こちらに向けた人差し指を震わせながら、目までもが血走ってる。獲物を捕食せんとする肉食獣のようなギラついた目をしている。うんやばい、怖い。
「あんたもあんたよ?! 散々バイトサボる癖にあんなに女の子侍らせやがって!! なんじゃお前は王侯貴族か?! 一夫多妻を超えるハーレム形成しやがって!!」
「え、えぇ……」
「泣いてる女の子見て優しくするからよ! どこで習ってきやがったのよそんな技術ぅ!!」
「ぐぇっ、くるし、苦じぃでず……」
突然カツアゲがごとく、俺の胸ぐらを両手で鷲掴みにしたまりなさんは俺を物凄い剣幕で揺さぶりながら、俺を詰る詰る。もしも俺がベロベロに酔っていたらこの揺さぶりに撃沈されて、食べたもの、飲んだものの悉くをリバースすることになっていただろう。なんとかギブアップの意思を伝えて酸素を補給した俺は、まりなさんの主張を掻い摘みながら、苦し紛れに答えた。
「ぐほっ……、え、っと、父親から人には優しくしなさいって……」
「どこで習ってきたのよ!!」
「え? は、ハワイに家族旅行で……」
「やっぱり!! じゃなくて真面目か!! 優しくしなさいの意味履き違えてんじゃないわよ!!」
「あ、え、え? 俺が悪いの?」
「そんなことばっかするからあの子たちみーんな恋する乙女みたいになってんじゃないどうしてくれんのよ!!」
「こ、恋する乙女?」
もう話が飛び飛びというか、CiRCLEが潰れそうだって話から飛躍しすぎて。序でに言えば酸欠状態でボロクソに言われたおかげで、まりなさんの言っていることの意味がよく分からなくなっていた。優しさの話だとか、王侯貴族がどうとか、色々ありすぎて、脳内で整理が追いつかない。
「スケコマシもいい加減にせぇよ?!」
「す、すけこまし?」
「何?! スケコマシ知らないの?!」
「えっと……」
どこかでは聞いたことがあるような単語だが、よくわからず首を傾げると、またもやグイと胸ぐらを掴まれる。
「天然ジゴロとか、タラシとか、分かんない?!」
「あ、そ、それはわかります」
「ジェ、ジェネレーションギャップだとでも言うの……? ナウでヤングなとか分かんないの?!」
「意味の想像はつきますけど、あんまり聞いたことは……」
「くっそぉぉぉ私には若さもないのぉ?! はぁぁぁぁぁ」
ああっくっさ! ため息が既にアルコール臭いよ!! そういやこの人こんなになるまでに既にジョッキ何杯も一気に喉に流し込んでるんだから、そりゃあこれぐらい酒臭くても当然かと納得する。が、納得したとしても堪えられるかは別の話である。
「ていうかね?! 雄緋くんも飲みなさいよ!!」
「アルハラですよそれ……」
「だーーーー! 近頃は全部が全部ハラスメントハラスメントって……。どうしろってんのよ!!」
飲まさなきゃ良いんだよ……とは怖くて言えない。俺まで酔ったら不味いなと思い、さっきからお酒はちょびちょびとしか飲んでいない。しかも、酎ハイ。お陰様で頭は揺さぶられたこと以外はノーダメージなのだが、頭よりも心が痛い。
「はぁ。店員さん! 日本酒! 2合!!」
「ちょ、まだ飲むんですか?!」
平身低頭の店員さんを乱暴な物言いで呼びつけると、またもアルコールを注文するまりなさん。これ以上飲んだら流石に店に迷惑……いやもう十分すぎるぐらいかけてるけど! もうこれ以上飲まれると、収まりがつかなさそうな気がしたから、慌てて店員さんにバツ印を送ろうとした。
「何言ってんの? 雄緋くんが飲むに決まってんでしょ!!」
「えぇっ?!」
「飲まないとは言わせないわよ?! まだあんた酎ハイ一杯も飲んでないでしょおが私を見習え!!」
反面教師ですか?
「ちょ飲みますから待って、待って……」
結局、鬼気迫る表情で早く飲めと視線を送るまりなさんに耐えきれず、俺は半分ぐらい残っていた酎ハイを一気に流し込む。さっきまでちょびちょびとしか、アルコールの流入に慣れていなかったからか、喉が灼けるような感覚がした。
「お、お待たせしました……。日本酒、熱燗2合です……」
「す、すいません」
「ほら、飲む! 私が注いであげるから!!」
「自分のペースで飲むんで……」
急いで退散した店員さんに軽く会釈をしながら、強引に徳利を持とうとするまりなさんから酒を死守する。流石に熱燗をラッパ飲みなんかするわけないと思うが、万が一されたらそれこそ阿鼻叫喚の事態になるし、喉が大火傷、なんてなってもおかしくはない。
「私の酒が飲めないっての?!」
「出たよこれ……」
もうお決まり。何回となく聞いたそんな文句。酒なんてのは自分のペースで飲むから勘弁してくれと言いたいのだが、まぁそんなこと酔っ払いに言おうが通じるわけもない。
「飲めないなんてないわよね?! 聞いたわよ?! 酒癖悪いって!!」
貴女だけには言われたくないです……。え、もしかして俺、もうこの場から逃げ出してもいいのかな? もうこの人放って帰ってもいいかな……。
「だからちゃんと自制して飲むんですよ」
「本当? 酔って千聖ちゃんとか薫さんやらレイヤちゃんとかますきちゃんとかに手出したって聞いたけどぉっ?!」
「待って待って話盛らないで?! 手出してないから!!」
「乙女心弄んでおきながらよく言えたわね!! ABCで言うとどこまで行ったの?!」
「ABCって何?!」
「はーーーー?! 通じないの?! キスはした?! キスはアウトよ!!」
「……は、はぁ? え、あ、はい」
「あーーー!! 黙れよロリコンうわぁぁぁ私なんかもうおばさんなのよ!! あーーあーーー!!」
……あ、店の奥で店長さんが泡吹いて倒れた……。そりゃそうだよなぁ、こんな厄介な客が来て常連離れてって。出禁確定だよ。いやまぁ、俺も二度とこのお店に顔出したくはないけど。まりなさんが変な話ばっかするせいで俺が年下の少女たちに片っ端から手を出す節操なしみたいなことになってるし。さっきまで同情の目線を投げかけていた店員さんも完全に軽蔑、まりなさんに向けられるそれと同列の目線に成り下がったんだけど。
「まりなさんはまだお若いですし……。その、悲観的になるほどではないかと」
「五月蝿いわね?! そこまで優しいならもうちょっとマシな慰め方があるでしょうがぁぁぁ!!」
「どうしろと!」
「そんなのピーーーー(自主規制)とかピーーーー(自主規制)とか!」
「あー待って待って公衆の面前でそんなこと言っちゃダメですって!!」
「うるさいわね! 公衆の面前でクソほど騒いでる私が今更何を取り繕うことがあるってのよ!!」
自覚あるなら自重しろよ……。というか、開き直っていうセリフではないよ、間違いなく。
「はぁ……。やっぱり若さって、武器なのよね……! 気付くのが遅かったぁ……」
「えぇ……。まだ、そんな言うほどじゃ」
「本当? でもピッチピチで可愛い、ガールズバンドの子たちの方が可愛いでしょ? こんな生きる希望も見失った老害よりもさぁ……」
「い、言い方……。いやいや、その誤解とかされるんで言っときますけど、手出してないですからね?」
本当に、一線は超えてない。……多分。どこからが一線かと問われるとその定義は非常に曖昧として難しいが、少なくとも捕まらない程度には理性を保ってる……はず。襲われそうになっても奇跡的な回避を続けているから。
「じゃあ、私は雄緋くんのストライクゾーンに入る?」
「……はい?」
ストライクゾーンという単語が飛び出てきて思わず俺は聞き返した。いやいや、流石に俺とて野球の話をするほど頓珍漢ではない。……違うよね?
「私はまだまだ現役かって言ってんのよぉぉぉ!!」
「わーー?! 現役です! 多分!! 分かんないけど!!」
現役って何? もしかして実は野球の話してたりする? 俺が話を聞いてなかっただけでプロ野球の話になってたりした?
「はぁ……そうよね。悔しいけど私じゃあの子たちに勝てないし、メンタルも、体も……。ファンの数も多そうだし……はぁ。くぅぅぅ」
あの子達に勝てる? ファン? え、まりなさんプロ野球の選手ってこと? もう訳がわからんぞ。
「というかまだ酒減ってないじゃない! 早く飲みなさいよ!!」
「結構飲みましたっでぇっ!!」
「それ飲んだら、可愛いと思う子1人叫びなさい!!」
「へぇっ?! 好きなプロ野球選手の話ですか?」
「はぁ?! 揶揄うのも大概にしなさいよ!!」
それから先も物凄い量のお酒を飲まされ、財布から札が飛んでいった。勿論お店は出禁だと言い渡されたけど、とてもじゃないが俺もこのお店に来られるほどメンタルは大丈夫じゃない。そして二日酔いも……。
いつもご愛顧いただきありがとうございます。
本日、月島まりな、二日酔いにつき、臨時休業とさせていただきます。
ご理解の程、よろしくお願いいたします。
「あれ……、何だろうこれ?」
「そういえば昨日泥酔したまりなさんと雄緋くんを見たような……? 見間違えだと思ってたけど」
「そっかそっか……」
「……お説教」