体がダル重い。原因はまぁなんとなく察してはいて、この間馬鹿みたいに酒を飲みまくった、もとい飲まされたせいだろう。二日酔いというわけではないのだけど、やはり過度の飲酒は体に悪いということを自覚した。ちなみにCiRCLEは昨日は休業、今日から営業を再開したのだが、今日も今日とて俺はシフトが入っているので労働に励むわけである。
「はぁ……。そろそろ上がり、かな?」
背後の壁にかかった時計を……ん? どこだ時計。あったけど、いつもより遥かに高い位置に時計が掛かっていて、針が少ししか見えない。うん、まぁでもどうせそろそろ終わりだし、まりなさんは今日もほぼダウンしてるし上がりってことにしちゃっていっか。
とりあえず今日は帰って、ゆっくり寝ようか。そんな風に考えていた折、俺はふと違和感を覚える。
「……カバンでかくね?」
いや、確かに質感、色味は俺の普段使いの鞄そのものなのだが、俺の体よりカバンが大きいとはこれいかに。どういうことだと困惑していると、さらに大きな違和感が俺を襲う。
「腕……毛?」
気がつけば俺の手が白い毛に覆われている。慌てふためいた俺は取り敢えず思いのままに走ってみる。……四足歩行だ。え。
壁際に並んでいた姿見のような鏡を見て、俺は漸くその違和感の正体に気がついた。
「俺……犬になってる?!?!」
鏡に映っていたのは、それはもうただの犬であった。俺ではない、少なくとも俺の面影はないだろう。そこにいたのは白いチワワだったのだから。何がどういうわけでチワワになったのかは分からないし、いつどの瞬間にチワワになったのかすら分からない。どうして気がつかなかったんだ俺は……。
『……あれー?』
「な?!」
突如背後から声が聞こえて俺は飛び上がった。いやまぁ、CiRCLEの中だから、人の声がしたのは普通のことだが、その声の発生源はいつも俺が聴くよりもはるかに上の角度であった。
『こんなところに犬がいるよー!』
「はぐみ?!」
予想していなかった人間の登場に俺は焦る。ヤバいどうしよう、別に悪いことをしてないのに悪いことをした気分。ここで必死に俺だってことをアピールすべきか? いや、きっと分かりっこないだろう。だって普通に考えてありえないもん。
『はぐみちゃん、どうかしたぁ?』
『あ、りみりん! 見てみてー! 犬がいたよー!』
『本当だぁ、めっちゃ可愛い……よしよし』
「触るなくすぐったい!!」
『こんなに吠えて、元気だね!』
『私懐かれてないのかなぁ。……というより、どこから迷い込んだのかな?』
「おい高い! 高いから下ろせ! 俺の話を聞けよ!!」
俺の切なる願いも虚しく、聞き入れられることなく消えていく。さっきまでは天井がはるかに高くに見えていたので、持ち上げられたせいで俺の脚は宙ぶらりんで恐ろしいことこの上ない。
『あ、はぐみまりなさん呼んでくるね!!』
『う、うん!』
はぐみがまりなさんを呼んでくるとかけて行ったが、そもそもまりなさんは今日も気分が悪いとグロッキー状態だったはずだ。大丈夫だろうか。……いやいや、今は人の心配をしている暇なんてないぞ。なんで俺は今犬になっているのか、それが大事だ。
『ふふふ……可愛い……』
「おいりみ。いい加減俺を下ろせ!」
『わわ……、吠えちゃダメだよ? よしよし』
「え? 俺の声聞こえてないのか?」
どういうわけだかさっきから必死に下ろせと叫んでいるのに、ずっと持ち上げたまんまだ。……これは、もしかして俺の声が届いていない、もしくは鳴き声として聞こえているのだろうか。
『可愛い……ギュッてしておきたいなぁ……』
「おいちょ、苦し……」
『ふふ、スリスリ〜』
スベスベー^ ^。
じゃない苦しい苦しい! 息できないからそれ! なんとか吠えたのが功を奏したのか、苦しいということが伝わったらしい。そうこうしているうちに、別の足音が聞こえてきた。
『あれ、りみちゃん?』
『あ、レイヤちゃん』
『どうしたの、その犬』
『さっき受付でウロウロしてたんだ』
『受付で? でも飼い犬とかでもなさそうだよね……』
「ちょ、そんなジロジロ見んなって」
向こうには俺の言いたいことが伝わってないと知りながらも、こんな感想なんかはついつい口をついて出てしまう。が、悲しいことに通じることはない。
『飼い犬じゃないなら、野良の犬なのかな』
『うーんでも、あんまりチワワって野生で見ることないよね』
『捨て犬……。可哀想……ヨシヨシ』
ダメだ、これはメッセージを送るのは諦める他なさそうである。ついこの間3歳児ぐらいの体にされた俺からすれば、こうして甘やかされるのはトラウマを思い出すようで勘弁願いたい。が、そんな思いが通じるわけもない。
「ちょ、モフるなモフるな!」
『ふふ……。気持ちよさそうな声出してるね……』
『すごい……、さっき私が撫でたときはそんなことなかったのに』
あれ? 俺が吠えてるの気がついてないのか? というか俺のこの思いは犬としての俺の体に反映されていないのか? 俺の心の中ではくすぐったいからすぐさまその手を止めろと思っているのだが、現実問題俺は可愛くキャンキャン鳴いているだけらしい。
『私も撫でて大丈夫かなぁ……?』
『優しく撫でてあげたら大丈夫だよ。ほら……』
『わわ……。ほんまめっちゃ可愛い……』
『こうして撫でてあげたら……』
「ちょ、頭撫でんなって!」
ダメだ伝わんねぇ。
『つぶらな瞳……可愛い』
『うんうん、あ、なんだか雄緋さんに似てるかも……』
『本当だ……。なんだか面影があるような? しかも可愛いし……』
「俺だよ! 気づけ! あと可愛いってなんだ!」
いや、気付いたところで人間に戻れないから意味がないな。いや、というか持ち上げられてる今この状況で人間戻ったらそれはそれで最悪だよ。タイミングが。
『まりなさん呼んできたよー!』
『何の騒ぎ……? 私もあんまり元気ないんだけど……』
俺がか細い抵抗を見せていると、奥の方から元気な声と一緒にしゃがれた声のまりなさんがやってきた。まりなさんは完全に酒に喉をやられたダメな大人の典型例みたいな姿で、こちらを見下ろした。
『ちょっとちょっと、うちはペットの連れ込みはダメだよー?』
『それが、受付にいたんだよー?』
『受付に? なんでだろ? とにかく、あんまりライブハウスの中に動物なんか入れちゃったら、音に敏感な子なんかは危ないから、一旦外に連れて行こうか?』
「え? それは困るんですけど」
いや、まぁさっきから耳が良くなったとか嗅覚が強くなった気がするのは、そのせいか。1時間前ぐらいから店内を流れるロックなBGMがうるさいと感じていたのだが……。それはそうとこの、犬の姿で外に出されるのはそれはそれで危ない気もする。
『えー! でもそれじゃ可哀想だよー!』
「そうだはぐみ言ってやれー!」
『あ、ミッシェルランドに連れて行くなんてのはどうかな?』
「それははぐみやめてくれ……」
なんだか頭が最高にハッピーでスマイルになれそうなテーマパークだな。入った瞬間いよいよ出られなくなりそうだ。
『でもこのままは可哀想だから、はぐみが飼ってあげたいなぁ』
『はぐみちゃんってペットとか飼ってないよね?』
『でも千聖先輩のワンちゃんのお世話はしたことあるよ!』
レオンくんね。その節はお世話になりましたよ、えぇ。
『だからなんとかはぐみたちでなんとかしてあげたいんだけどなぁ』
『うーん、でも、とりあえずみんなも練習の時間があるでしょ? 私があとはなんとかしておくから』
『ありがとうございます、まりなさん』
「なんとかってなんですかまりなさん……」
どうやらその場を収めたらしいまりなさんは大きくため息を吐きながらキョロキョロしている。
『ちょっとー?! 雄緋くーん? 雄緋くーん!』
「はーい? って聞こえないのか、不便だな」
突然呼ばれたら返事をしてしまうのは反射的なものだから良いとして、どういうわけで俺を呼んでいるのか、まりなさんの独り言に耳を傾けた。
『いないのー? はぁ……。押し付けようと思ったのに』
「ダメだなこの上司……」
『というかまーたサボってんのー?! もーーー!! 絶対居酒屋さんでのこと根に持ってるでしょ……』
「その通り」
いやいや、サボってはいない。ついでにいえばもうシフトの時間は終わっている。あとは俺は帰るだけなのに、こんな姿で帰るとかどうこうの話ではなくなってしまった。けれど、まりなさんは俺を外のカフェテリアの方に連れて行こうとしているし、どうしようか。
『どうしたものかな……』
『あれ? まりなさん、どうかしたんですかー?』
『あ、七深ちゃん。実は犬が迷い込んじゃってねー』
迷い込んじゃったんじゃないんですよって言いたいけど、言っても無駄なんだよなぁ。悲しい。いや、儚い。
『ふむふむ、私に任せてくださいー』
『あれ? 何か良い案でもあった?』
『いつも仔犬みたいなしろちゃんをお世話してますからー』
確かに言われてみれば、あのオドオドしたところとか小型犬っぽいなぁ。いやいや、他人の心配をしている場合じゃなかった。今はとにかくどうしてこうなったのかと、どうやって戻るのか、それまでの間どうやって生きるかを考えなければ。
『うーん。なんだか変な感じですねー』
「ちょ! 変なところ引っ張るな! あと毛が、痛い!!」
チワワの耳らしき部分を軽く引っ張られたのだが、普通に痛い。あとついでに毛が巻き込まれて毛根が痛い。ここはやはり人獣共通なのか。
『……なんだか、雄緋さんに似てますねー』
『えー? そうかなぁ』
『あ、でも震えた感じがしろちゃんにも似てる』
『ましろちゃんに?』
『ライブ前のしろちゃんこんな感じなんですよ。で、とーこちゃんが緊張をほぐすためにこんなふうにビヨーンって』
「ちょ痛い!」
おそらく再現するためなのだろうが、軽く頬の毛を引っ張られた。これが猫なら思い切り反撃として爪で引っ掻きそうなものだが、いかんせん今の俺はチワワである。というかさっきからみんなして虐待しすぎだろ。生類憐みの令で江戸時代から罰するぞ。
『このワンちゃん可愛いですね。しろちゃんに似てるから、まっしろしろすけ、とかどうですか?』
『名前付けちゃうの?』
「え、俺名前つけられんの?」
『つーちゃんの呼び名と混ざっちゃった』
「そんな変な名前つけるからだろ……」
『……なんだか飽きました』
「え?」
『え?』
「いきなり? しかも飽きたって何?」
『あ、用事思い出したので失礼しまーす』
嵐のように来て、風のように去っていった……。あの飄々としたものは何か特別なものを感じる。まぁ俺からするとこれ以上の実害なく去ってくれたら万々歳ですけども。
『えー……。どうしよう』
『あれ? まりなさん、その犬、どうかしたんですかー?』
『あら、リサちゃんに、ひまりちゃん』
俺(犬)をカフェテリアのカウンター前の椅子に安置したまま困り果てた我が上司の元に訪れた2人。興味津々とばかりに、大きく目を見開きながら、しゃがみ込んできた。
『CiRCLEに迷い込んだみたいでね。2人は今帰り?』
『はい! リサ先輩のバイト先のスイーツ巡りに!』
バイト先……。本当なら俺もバイト上がりだー! 帰るぞー! アフターファイブだー! ってなってるはずだったのに。どうしてこうなったのか……。
『CiRCLEに犬かぁ。紗夜が居たら喜びそうだったんだけどなぁ』
『でもこのチワワ、目もくりくりしてて可愛いー! 抱き上げても良いですか?』
『良いんじゃない?』
「あ、俺が良くない!」
まぁ聞こえないんですけどね(n回目)。
『アハハ、ひまりすごい吠えられてるねー』
『私の抱え方がいけないのかなぁ』
『ちょっと貸してみて?』
『え、は、はい』
『こうやって……。胸元に抱き抱えてあげて、そうしたらこうやって、ヨシヨシ……ふふ』
「あ、聖母……」
『すごい……これぞ慈愛の女神……』
『頭を撫でてあげて……。雄緋をナデナデする場面想像したらいけそうでしょ?』
『た、確かに! よしよーし』
「痛い痛い撫で方痛い。あと、そんな想像すんな! 恥ずかしいから!」
『みんな雄緋くんに似てるって言うんだよねぇ……』
確かに、言われてみれば。自分で姿見で自分の姿を見たら似てるとなんて微塵も思わなかったのに、他人から見れば俺とこのチワワは雰囲気か何かしらが似ているらしい。あと瞳か。何が一緒なのかさっぱりだが。
『あ、雄緋と言えば。まりなさん、この間雄緋のこと、居酒屋さんでベロベロに飲ませてましたよね?』
『あ、そうだ! 見ましたよ動画!』
『……へ? なんの話?』
『アハハ……。惚けてもダメですよ?』
『あ、あ、あはは……。じゃあその犬よろしく!』
『あ、まりなさん逃げた!』
「ちょっと待って動画って何?」
聞き捨てならない単語が聞こえた。是が非でもここで、早急に追及したいのだが、生憎俺の声は届かない。くそう……口を滑らせろ……。
『あの動画、ヤバかったですよね』
『ね、お酒ってあんなに人を変えるんだねぇ』
『……というか、どうします? このワンちゃん……』
『あっ。……どうしよっか。連れて帰っても、飼えないよねぇ。アタシも友希那に散々猫を飼えないのに連れ帰っちゃダメだって注意したところなのに』
2人のため息が重なって大きなため息となる。いやはや……自分の存在がそこまで重荷になっているとは思わず逆に申し訳ない。本来なら元に戻ることで頭が一杯のはずだが、居酒屋さんの件だとかで多方面に迷惑をかけた覚えがあるので、これ以上誰かに迷惑をかけるのは忍びない。
『あら、ひまりちゃんにリサちゃん。こんばんは』
『あ、千聖さん!』
『やっほー☆ 千聖はレオンくんのお散歩かな?』
『そうなの。……えっと、その犬は?』
『あー、このワンちゃんはかくかくしかじかで……』
改めて俺が犬になってからの経緯を聞くと、完全にたらい回しにされている。千聖がレオンくんを伴って、現れたのだが、現状どうにもならない。
「おい、小童」
「……へ?」
「お前やお前。何よそ見てんねん」
「……え、レオンくん?!」
どこかから聞こえた声にびっくりしながらキョロキョロしていると、千聖の連れてきたレオンくんと目が合う。……が、チワワの俺からするとゴールデンレトリバーのレオンくんはデカすぎる。というかコテコテの関西弁。どういうことだ。
「あの、俺の声、聞こえるんですか?」
「犬やねんから当たり前やろ。お前なんで犬なってんや?」
「それが分かんなくて……」
『わぁ、レオンくんとこのワンちゃん、とっても仲良さそうですね!』
『ふふっ。そうね、レオンも、久々に他のワンちゃんと会うから、喜んでいるのかもしれないわね』
「で、犬になったお前は俺の話聞こえるんやな?」
「え? あ、はい、レオンさん」
いざ話してみるとこのレオンくん、貫禄たっぷりである。思わず自然と敬語が溢れる程度には。まさかこの犬の体になって誰かと話すことになるとは思っても見なかったので、困惑していた。
『やっぱり千聖は犬飼ってたら、扱いとか慣れてたりする?』
『そうね……。お世話したりはずっとしているから、分かるけれど』
「……まぁええわ。こないだは噛んだり舐めたりしてごめんな」
「……え? あぁ、そんな気にしてないから」
「一つ聞きたいことあるんやけど、ええか?」
「え? 何? ってうお」
レオンくんと話していると、突然俺は持ち上げられていて、千聖の膝の上に乗せられていた。
『……ふふ。こうしてみると、小さかった時のレオンを思い出すわね』
『千聖さんが小さかった時とかですか?』
『えぇ、今じゃこんなに大きくなったけど、あの頃はレオンも小さくて。昔はこんな風に膝の上でお昼寝してくれたりしたんだけどね……』
『レオンくん可愛いよねぇ。よしよし』
『っしょと。こんな感じで抱き抱えてあげると、顔をペロペロ舐めてきたり、懐かしいわね』
「……レオンさん可愛いとこあるじゃないすか」
「うっさいわ」
「ペロペロ?」
「しばくぞ調子乗んな」
「すいません……」
「で、聞きたいことやけど。自分、ご主人のこと誑してるけど、何考えとんねん」
「へ? 自分?」
質問の意図が分からず、俺はレオンくんに聞き返そうとした。その時だった。
『雄緋くーん! どこー!』
『あ、まりなさん。雄緋さん探してるんですか?』
『本当に、バイトサボってどこ行ったのよ!!』
まりなさんがそう叫んだ瞬間。
ボフン!! と大きな音と共に視界を煙が包む。
「きゃぁぁぁ何?!」
「ごほっ、ごほっ!!」
「ワンッ!! グルルル、ワンワンッ!!」
カフェテリアのテーブル丸ごと一個を覆うような白煙が辺りに撒き散らされて、むせた俺は咳き込む。数秒ぐらい何も見えなかったが、聞こえてくるのは周りの咳き込む声とレオンくんの吠える声。
「な、何この煙……って、……え?」
いつの間にか俺は元の体に戻っていて。
「……え?」
目の前には千聖の顔。俺は何故か千聖と向かい合って、千聖の膝の上に座っていた。
「……ゆ、雄緋? 何して」
そっか、さっきまで抱えられてたからこんな近くに、とか冷静なことを考えていたが、どうにかこの状況を打開しようとした俺は咄嗟に。
「……わ、わんわんっ」
「きゃああぁぁっっ?!」
「ぐほぉっ?!」
強烈なビンタを貰った。いやまぁそりゃそうなるよね……。遠のく意識。俺の耳には悲鳴と、遠吠えが響いていた……。
「