雷鳴が轟き、奇怪な影が月夜に照らされる。透き通るような白い月光が紅く
「次は……あははっ、そっかぁ」
血塗られた声が美しく闇夜の空気に溶ける。人々を恐怖と混乱の渦に陥れ、尊き紅血を吸い続けた悪魔が高らかに笑う。紅玉に染まった瞳が哀れな犠牲者を捉えた。
「待っててね……有咲♪」
吸血鬼、香澄。
3連休のゴールデンウィークとやらも明け、中途半端な平日に苦しめられた俺は、やたらと重たいお腹を摩りながら、夜食を買いに外に出ていた。今宵は最近にしては珍しく、吹き抜ける風は涼しい。雲の隙間から覗いている月も綺麗で、静かな夜だった。
だからであろうか、そんな静寂が破られた時のことははっきりと覚えている。
「っ?! うわぁ!」
「うわっ、……って、有咲? どうした?」
もう少しでコンビニに着くだろうという路地の角で、その静寂は破られた。俺が曲がろうとした角っこで、急に人が飛び出してきたのだ。しかも、落ち着いて見ればその人は、俺のよく見知った顔であった。
「あ、ゆ、雄緋さんかぁ……。びびらせんなよ……はぁっ、はぁっ」
「あぁ。悪い悪い。マスクつけてたら不審者みたいに見えたか」
「そ、そういうことじゃねーけど、はぁっ、はぁっ」
余程角から人が飛び出してきたことに驚いたのか、将又走ってきたからなのか、有咲の息は荒い。いや、おそらく後者だ。有咲の表情は、光源の下ということを加味しても赤く見える。恐らくここに来るまでに相当に走っていたのだ。
「どうした? というかこんな時間に出歩くなよ。迷子か?」
「迷子じゃねー! じゃなくて、いやっ、その」
有咲は説明に四苦八苦していた。かなり複雑な事態らしく、どう説明しようかと考えあぐねた様子の有咲はポリポリと首筋を指で掻いていた。そんな仕草に自然と目線がいった俺は、有咲の首筋の不自然な傷に気がついた。
「……有咲? 首のそこ、怪我してんのか?」
「え? く、首?」
「ここだよ、右の顎の下あたり。気がつかなかったのか?」
有咲は手鏡だとかは持ち合わせていなかったのか、俺がスマートフォンを内カメラにして渡してやる。そこに映ったであろう首の傷に、有咲は相当驚いたようだった。
「って、うっわ……。最悪だ……」
「傷に心当たりでもあるのか?」
「さっき香澄に……」
「……おお」
なんだろう、仲良いな。って、そんな風に茶化そうとした瞬間、有咲が勢いよく拒絶する。
「違いますから!」
「激しかった?」
「そういうことじゃないからな?!」
「キスマークぐらい今更気にしないぞ」
「気にしろよ?! じゃなくて、そう! 香澄! 香澄だよ!」
「は?」
なんだ今から惚気でも聞かされるのかと思って身構えた俺は、どうせほのぼのとした話をさも特別大きな出来事のように語られるのだろうと思っていた。有咲はなんだかんだ言って香澄からの絡みに嬉しそうな反応をしているから。
しかし、俺の期待は裏切られた。有咲の口から語られた事実は俄には信じ難いことであった。
「……は? 香澄に噛みつかれた?」
「そうなんだよ! 蔵で話してたらいきなり!」
「……お前ら、なんかアブノーマルな関係なんだな」
「アブ? はっ、違う! 違うから!! 普段からそう言うことしてるわけじゃない! んで、いきなり首筋に口を寄せてきたから何だと思ったら、噛みつかれたんだよ!」
「なるほどね……。その時の傷ってことか」
首筋に口を寄せてきたくだりで拒否しない辺り、キスマをつけられることへの抵抗はなさそうだが、傷となればそりゃあ痛いし別問題らしい。にしても首筋に噛み付くなんてまるで。
「吸血鬼みたいだな」
「だろ?!」
「分かった、分かったから落ち着け。それで、どうしたんだ」
「え? 香澄の様子が変だったから、引き剥がしてどうしたのか聞こうとしたら襲われそうになって……。命からがら逃げてきたんですって」
それはまた大変だったなと声をかけようとしたところで、ふと、全身を強い悪寒が襲った。違うぞ、オカンじゃないぞ、悪寒だぞ。どうやら有咲も同じようで、急にガタガタと震え出した。しかし、その震えようは異常だ。俺の感じた悪寒とは比べ物にならないほどの。
「どうした?」
「なんか、香澄が……。ちょ、そこの角曲がった電柱の影に隠れるから、上手く香澄のこと誘導してくれ!!」
「は、はぁ?! ……わかったよ」
どうやらこの怯えよう、それなりに恐怖の中襲われたらしい。ここまで懇願されてしまっては、見捨てるわけにもいかないし、現れるかもしれない香澄の出現を待った。そして10数秒が経ち、向こうの方から一陣のそよ風が頬を撫でた。俺はその風に震えながら目を凝らした。
「……あれ、ゆーひくんだ、おーい!」
「あ、あれ? お、おー、香澄じゃないか」
遠くの方からかけてきたのは、いつもと同じようなテンションの香澄だった。その様子に何らおかしいところはない。
「こんな時間にどうした? 流石に帰らないと怒られるんじゃないか?」
俺は時計を見るフリをして、スマートフォンを覗き込む。そこにはどうにかしてこの状況をなんとかしろとのお達しが。
「もう10時とかだし、そろそろ帰らないとまずいだろ」
「そうだけど、あっ! 有咲のこと見てないですかー?」
「……有咲? いやぁ、見なかったけど」
がんばれ、俺。何も知らぬ存ぜぬを貫き通すんだ。態度に出すな。俺は有咲の居場所を知らない。有咲の首にキスマに似た傷があったこととか知らない。
「……本当に?」
「ちょ近っ……」
笑うな……。幸い口元は花粉症予防のマスクで隠れている……。これならバレないはずだ。そんな風に考えていたところで、道の電柱に取り付けられた光に照らされて、香澄の顔がはっきりと見えた。普段とそれほど変わらないように見えた香澄の表情だったが、一つだけ気になる部分を見つけた。
「……あれ、香澄って、そんなに瞳の色、赤かったか?」
俺の記憶では香澄の瞳は紫に近かったはずだ。それが急に赤、それも炎が揺れるような真紅の輝きに変わることなどありえるのだろうか。
「え? あ、あーこれはねー、カラコンだよ! うん!」
「そ、そうか」
途端に空気が冷える。
「で、有咲の居場所、本当に知らない?」
「知らない知らない」
「電柱の影に居るって知らない?」
「知らない知らない、曲がり角の先の電ち……え?」
「えへへ、教えてくれてありがと♪」
「しまったぁ?!」
俺の馬鹿アホスカポンたん。そんな幼稚な言葉では片付けられないレベルでのやらかし。いや、というかそもそも香澄はなんで電柱の影に居るって知ってたんだ? まぁそれはいい、兎に角有咲に逃げるように叫ばなくては。隣を駆け抜けようとする香澄の左腕を掴みながら、マスクを外して思い切り叫んだ。
「有咲すまん! 逃げろ!!」
「は?! ちょっ」
「あっ。ちょ、……離してって、ぐ、ぐふっ……」
「え?」
急にフラフラと香澄の足取りが覚束なくなる。そして、大きな声を上げたかと思うと、俺の腕を振り切って、全速力で反対方向へと逃げていった。そんな叫び声と足音が聞こえたのか、曲がり角の方から有咲が顔を出す。
「ちょ、大丈夫……ですよね?」
「あ、あぁ。香澄は逃げていったから、大丈夫だぞ」
「てか何居場所バラし、って、ちょ……くっさ!」
「え?」
「喋らないでください! 公害ですから!!」
「そこまで言われる?!」
どうやら臭いと言われたのは俺が原因らしい。中でも俺の口。それに気がついた俺は慌てて外していたマスクをつける。
「ニンニクの臭いが凄いんですけど……。なんか食べました?」
「え? あー。晩飯は巴に誘われて濃厚背脂ニンニク山盛り特大チャーシュー乗せラーメン食べてきたからな……。お陰で今もちょっとだけ気持ち悪い」
「絶対口臭の原因それですって……」
「だよな……。って、ニンニク? あっ」
「どうかしました?」
俺は脳内で改めて吸血鬼に関することを思い出す。別段吸血鬼に詳しいだとかそういうことはないが、日光に弱いだとか、そういうこと以外にも確か吸血鬼には弱点が多い。弱点の中にはニンニクの臭いもあったはずだ。とすれば、さっき香澄が急に調子を崩したのは俺のニンニクの臭いが原因だろうか。撃退できたことの安堵の反面、ちょっと嫌だな、歯磨きしたい。
「香澄が逃げたのは、ニンニクの臭いがしたからかもな」
「な、なるほど……。じゃあ、丁度良いですね!」
「何が?」
「なんとかして私を家まで送り届けてください! 夜遅いんで!」
「あぁ。……それは勿論」
この際夜食が云々なんてどうでもいい。有咲が無事に帰ることが出来たらそれでいい。帰って香澄が待ち伏せしているんじゃないかなんてことも考えたが、そんなことを言っているとキリがないので、俺は快諾して、有咲の家を目指すことになった。
……のだが、意外なほどに、何も起きないままに有咲の家に着いた。ある意味では拍子抜けだった。震え上がるような冷気を纏って有咲を付け狙っていた香澄の影はどこにもなく、すんなりと家に帰れてしまったのだ。
「……なんとか、着きましたね」
「だな。今日は早く寝るんだぞ」
「分かってますって!」
「部屋まで送ろうか?」
「は、はぁぁ?! 変態! 悪魔! 吸血鬼!!」
「また縁起でもないことを……。兎に角、暫く香澄とは距離を置いて大人しくしてるんだぞ」
まぁ有咲が香澄と距離を置こうが、香澄の方から距離を詰めてきそうだけれども、何もしないよりかはマシであろう。それに吸血鬼ならば、昼間は日光の下では活動できないとかありそうだし。
突然ミッシェルになったり突然商店街に違法建築物が林立したりしても、数日後には何事もなかったように戻っているこの世界なのだ。1人や2人吸血鬼が出てきたところで多分明日ぐらいには元に戻っているだろう。香澄の記憶からも何が何やら有咲の首筋に歯を突き立てた部分の記憶だけがすっぽり抜け落ちて日常に戻るに違いない。
俺は結局、当初の目的であった夜食云々は買うことなく、家まで帰り、いつも見たような光景に安堵した。男子大学生の寂しい一人暮らしの部屋。
シャワーを浴びて、歯を磨き、戸締りを確認して俺は床に就く。
世界よ、おやすみ……。
「……ん?」
寝入ろうとした。その時だった。
ベッドの横の窓が急にガタガタと揺れ出した。それだけではない。閉めていたはずのカーテンがいつの間にか開け放たれている。雲の隙間からこちらを睥睨した月明かりが部屋を照らし出した。
「さっむ……」
目の前で突如発生した超常現象に冷や汗を掻きながらも、俺の体は恐怖心か寒さなのか分からない震えに襲われていた。俺が触ってもいないのにゆっくりと窓が開いて、隙間風がうるさく騒ぎ立てながら俺の肌に纏わりついた。
突然。
月明かりが一気に遮られて部屋が暗くなる。いや、部屋は明るかった。暗いのは、俺の視界だった。窓からの光を吸い込むように、俺の眼前に黒い何かが聳え立っていた。
「だ、誰だ……」
「やっほーゆーひくん!」
「……は?」
聞きなれた声。いや、1時間ほど前にも聞いたであろうかその声は。
「……香澄?」
ついさっき、俺を、というか有咲を慄然とさせるに至った吸血鬼。得体の知れない変貌を遂げたかつての戸山香澄であった。
「って、バケモノォ?!」
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って! 私はバケモノとかじゃないですってば!」
夜中に部屋を荒らして、人の寝込みを襲う正体不明のそれをバケモノと呼ばずして何と形容しようか。というか仮に香澄が相手だとしても寝込みを襲ってくる奴は問題児である。
「は、ま、まさか……。俺の生き血を?!」
「違います! そもそもヴァンパイアって美しい女性の血しか吸いませんから!」
「へ? そうなの?」
「はいっ!」
だから有咲は哀れなことに被害者になったのか。まぁ、香澄に敵意がないのだとしたら話し合う余地はあるかもしれないいやまぁこの時間に人の家に来る不届き者の考えを理解するための話し合いの余地はないですがえぇ。
「……てか、血を吸いに来たんじゃなかったら何で来たんだよ」
「え、ダメでした?」
「ダメだろそりゃ」
どこの世界に24時間フリーアクセスの一人暮らしの部屋があるんだよ。
「有咲のことか? 有咲なら知らないぞ」
「え? でも、有咲の首に私が吸っちゃった時の傷があること、知ってますよね?」
「え? あぁ。……あっ」
どういうことだ。今日の香澄は妙に聡い。まるで誰かから悪知恵を吹き込まれました、みたいなレベルの。というか俺が眠気に負けそうなせいかボロを出してるだけかもしれないけど。
ピンポーン。
俺が額に噴き出る焦りの汗を隠せなくなってきた折、こんな時間にも関わらずインターホンが鳴る。俺の前に立ちはだかる香澄も突然の来訪者に驚いたような素振りを見せた。
「なんだこんな時間に……」
「出ないんですか?」
「……あー。ちょっと出てくるわ」
一応誰が来たかぐらいは確認しておこうと、香澄を待たせたまま俺は玄関へと赴き、ドアの覗き穴を見る。そこにいたのは、有咲だった。
今、ここに来るのは不味かろうと俺は焦る。だが、有咲も俺がドアの裏側にいる気配を感じ取ったらしく、再度ピンポンが鳴らされる。これでは香澄に誤魔化すことも出来ず、俺は背後を振り返り、香澄がこちらを見ていないことを確認してからドアを静かに開けた。
「おいっ、何してんだ?」
「いや、その……」
「今、部屋の中になんでか知らないけど香澄がいるから、有咲は逃げ、え?」
突然ガッとドアを開けられる。驚いた俺は完全にドアの方へと意識を取られる。その瞬間、有咲が俺の首筋の近くまで顔を寄せ。
「いたっ……」
痛みと共に力が抜けた。急に貧血を起こしたかのような。
「……ちゅる。すみません、雄緋さん。私、ヴァンパイアなので」
「……は?」
「香澄に血を吸われて、なっちゃいました」
妖しく微笑んだ有咲の瞳は燃えるような紅だった。血で染めたような興奮の色に変わっていた。
「……はぁ?!」
「あ、有咲ー! って、先に吸うのずるい! 私も!」
「ま、待て……!」
俺はどうにかフラフラな体を起こして、後ずさる。だが、すぐに背中が壁とぶち当たる。
「吸血鬼って……美しい女性の血しか吸わないんじゃ……」
香澄の方をジロリと睨むが、虫の息の威嚇など何も効かないらしい。香澄が俺の前に腰を下ろした。
「有咲の血も美味しかったけど、ゆーひくんの血も試したいなって……」
「いやちょ……さっき吸われて、もう無理……」
視界が霞む。
だが、歳に似合わぬ妖艶な表情で耳に囁きかける香澄の甘い毒が、俺の思考回路を溶かした。
「拒否するなんて悪い子ですね……。ふふっ、吸っても、いいですよね?」
「あ、あ……」
俺の答えを聞く前に、牙が皮膚を貫いた。鮮血に濡れた声が
さぁ、今宵は誰の生き血を吸おうか。俺は昏い街に旅立った。