曇天、いや、雨が降り続いている。外に出るのも億劫になりそうな空気の重さにも負けず、俺は自分の通う大学の図書館に出向いている。不幸中の幸いか、雨のせいで人の入りも少なく、大学図書館でありながら貸切気分を味わえるなんていう貴重な瞬間を享受している。
「にしても、本当に人っ子一人見ないな……」
俺がそんな感心の独り言を呟けるぐらいには人がいないということがお分かりだろう。普通図書館と言えば『お静かに』なんて注意書きがされているし、うちの図書館だって御多分に洩れず、基本的には静かにしろというルールがある。俺の今いる自習室なんてスペースは、机の上の高い仕切りで周りからは隔絶された感覚すらある。その仕切りの向こう側に人がいる気がして喋ることなんて憚られるが、俺は事前にどの席にも人がいないことを確認済みである。
「……この文献読み込まないとダメ、か」
そんな訳で堂々と独り言をぼやきながら自身の勉学に励んでいるというわけである。……真面目だろ?
と、その時、仕切りの向こう側、自習室の入り口のドアが開く音がした。俺は口をつぐんで、自身の文献に目を向ける。足音からしてやってきた学生は2名。しかも運の悪いことにどうやら俺のスペースとは仕切りを挟んで向かい側に座ったらしい。その仕切りのおかげでまるで顔は見えないが、人がいるという気配だけがする。
『そういえばこの間のアンケート、なんて答えたんだ?』
小声でボソボソと向こうから声が聞こえてくる。友人同士でこの自習室にやってきたらしい来訪者だが、ここが図書館だという自覚があるのだろうか。自分のことは棚にあげるが自習室で雑談なんて論外だ。が、まぁ俺にそれを注意する度胸などなく、机の上に数冊積み上がった文献の読込のBGMぐらいにその雑談とやらを聞いていた。……いや、まぁ、難解な文章の読解に気を取られすぎてよく聞き取れない部分もあるのだが。
『私? 好きなコンビニスイーツはなんですかっ、て』
『そんなこと聞いてどうすんだよ……』
『えー、でも好みのタイプとかを質問するよりも答えてくれそうじゃん?』
『返ってきた答えが使えるのかって話だよ』
『まーまー、私たちにはコンビニのプロがいるでしょ?』
『プロっていうか店員だけどな? ……置いてあるパン以外を覚えてるのか謎だけどさ』
……一体何の話なのだろうか。『コンビニ』って単語とか、『プロ』がどうとかって話は聞こえてきたな。コンビニのことを隅から隅まで知り尽くしたプロの話だろうか。……いや、図書館の自習室でする話ではない、か。
『でも何が好みなのかなぁ。質問して答えてくれたらなぁ』
なるほど、どうやらコンビニのプロが選ぶオススメのパンの話らしい。朝はパンもそれなりに食べる俺からすればそれはかなり気になる情報だ。少しだけ耳をそばだてて、この子達には悪いが盗み聞きしてしまおう。好みのパン……、俺の好きなパンはそうだなぁ。
『和風とかいいんじゃないか? 前にさ、ほら』
和風のパン……? 和食×パン……? 抹茶を練り込んだパンとか、そういうのが最近の流行りなのか?
『あ、蘭の赤いやつだよね。写真で送られてきてたやつ?』
蘭? 花を練り込んでんの? 赤い蘭の花を練り込んだパン? やまぶきベーカリーでも取り扱いなさそうじゃない?
『あー。後で聞いたら、目が血走ってたらしいぞ?』
『えっ、絶対フェチじゃん。今度みんなで着て試してみる?』
『だな。絶対堕とせるよな』
目が血走ってる? 何その依存性100%のパン。フェチがどうとかいうレベル超えて、それは最早薬物を超えた何かじゃない? それは『堕とせる』がどうとかじゃなくて、行きすぎて命を落とすレベルだよね? それをパクパク食うパンのプロはやばいよ。モカのパンを食べるスピードのそれよりやばいよ。これ以上この話に踏み入ると俺はやばいことになるかもしれない、そう思って俺は目の前の本に集中することにした。
『やべっ、そろそろ時間だ。いくぞー?』
『えっ? 待ってよ〜、とーもーえー』
トタトタと駆けて行く音が聞こえる。少し騒がしさも落ち着いた俺は、最早暗号と化した文章のそれから一旦目を離し、薬物中毒不可避パンのことを改めて考えた。
「……いや、俺が触れちゃあいけない世界だな、多分」
この世界には知らなくて良いことが一杯あるらしい。そう思ってまた手元にある漢字と英文だらけの意味不明な文章に目を戻した。
……なるほど。何が書いてあるか分からない。英語が苦手でも得意でもない俺だが、この引用部分の文章を日本語に直すと意味が成立しなくなっている。そんなことに悩みながら唸っていると、またもやドアが開く音がした。俺は口にチャックをして、その意味不明な文章に目を落とす。
どうやらその足音からして、来訪者はさっきと同じで2名。忘れ物を取りに来たのかと思ったが、椅子を引いて座るらしい音がしたからさっきとは違う2人なのだろう。しかも、またもや仕切りの向かい側の席のどこかに座ったらしく、こちらからでは誰がきたのかとか、そういうことすら分からない。
『裁判凄かったねー。断罪、って感じがして』
『うんうん。すっごくカッコ良かったし、私もあそこに座って有罪とか言ってみたいなぁ』
なるほど、裁判の話をしている辺り法学部の学生あたりだろうか。……裁判か。俺からすればとても嫌な記憶である。つい先日のことなのだが。ちなみに無理やり捕まって保護という名目の監禁を受けそうになったが、一瞬の隙をついて逃げてきた。テストも近づいてきたこの時期に監禁なんてされてちゃ溜まったものじゃない。
『どうするんだろうね。追加の取り調べかな?』
『うんうん。きっと吐くまで問い詰めるんだよー』
数日前の辛く苦しい裁判の記憶に想いを馳せていて、途中のところを聞き逃してしまっていたが、恐らく一審で控訴がなされた後とかの話だろうか。俺も裁判の詳しい手順がどうたらなんてことは知らないが、やはり実際の裁判に伴う取り調べだと、厳しい取り調べになるのだろうか。
『私もやってみたいな〜。誓って、って普通にその場で迫ったらいいんだよね〜?』
『そ、そうなの? それなら私も……』
『学級委員長はみんなのまとめ役だから、取り調べには参加できないんじゃない?』
『そ、それは差別だもん』
俺の知ってる取り調べじゃないぞ……? 『神に誓って犯罪はしていません』みたいなことを刑事の前で誓うってことか? まぁ冤罪だとかも怖いもんなぁ……。
というか学級委員長って、中学校とかなのか? 一応ここ大学の図書館なのだが。ちなみにだが一応大学にもクラスという概念自体はある。もはや忘れたけど。
『取り調べだって、私わかるよ?』
『おー。自信満々だね〜。それじゃあどうやるのか教えてよ』
『えっまずは……』
『キスからだよね?』
『……えっ?!』
「え?」
やばい。衝撃的すぎて思わず声が出てしまった。キスから始まる取り調べ? 新しいラノベのタイトル? あ、いや、違うな。そういう趣向の大人向けのビデオとか? とにもかくにも俺のこれまで生きてきた常識の中にはそのような取り調べの概念はないぞ?
『キスして、次は普通に襲うんだよね?』
あ、やっぱりそうだ。そういうコンセプトのビデオなんだ。凡そ図書館で話すべきではない不埒な話なんだ、多分。もう1人の子も驚いてる感じだったし。
『……そ、そうだよね。動けなくして……食べて……はぅっ』
「……えっ?」
食べる? もしかして……。いやいや、取り調べで『食べる』といえばカツ丼。そうだ、カツ丼の話なんだこれは。
『美味しく頂きます〜ってね』
『どんな味がするんだろう……』
「味?」
『あっ』
カツ丼なのに味が分からない? え、もしかしてカニバリズム的なそういう話をしてる? そうだよね、食べるだもん。うん、食べるんだもんね……。
というか不意をつく形で声が出てしまったせいで、きっと話していた2人と俺の存在に気がついたのだろう。物凄く小声でボソボソと喋るようになってしまった。それはそれで勉強している身としては気になるのだが、微妙に内容も聞こえなかったからか、俺は良い加減に文献の方に目を向けた。
『つーちゃんも初心だねぇ。キスぐらいで声出ちゃうなんて』
『だ、だって……。キスだけじゃなかったじゃん! 七深ちゃんだって顔赤いし……』
『キスの話の時に赤くなるのって普通だよね?』
『むむむ……』
俺が暫く勉学なるものにひたすら意識を向けていると、いつのまにかその雑談の2人は自習室から出て行っていた。集中すれば周りの声や音が聞こえなくなるというのはどうやら本当らしい。
うん、折角自習室に来てるんだ。俺は大学生であり本分は勉強、研究だ。ここは俺の集中力を総動員してこの厄介な文献たちを討伐し
ガラガラガラ。
俺が意気揚々と勉学なるものに本気を出そうとした瞬間、水を差すようにまたもや人が入ってきた。今度は静かな人たちであればいいのにな、なんていう淡い期待も抱いたが、どうやら向こうの通路のところに座ったその来訪者は早速とばかりに話し始めた。
『この間、大変だったね』
『いきなり呼び出された時、何のことか分からなかったよ』
何やら話し始めたようだが、よくよく考えるとここは自習室なのに、どうしてみんな雑談に興じて、終いには大した時間も滞在せずにすぐに出て行くのだろうか。そもそも雑談に興じることが論外といえばそうなのだが。
『でも最終的に、のらりくらり逃げられちゃったもんね』
『そうなんだよねぇ。上手くいかないなぁ』
逃げられた? どうやら追いかけっこかなんだかの話らしい。
『でも、女の子に迫られて、逃げるのって、どうしてなんだろう』
『そうだよね。逃げずとも喜んでくれたりぐらいはしそうなのにね』
『恋愛感情とか、そういうのがないのかな』
『あはは、それはあるかも』
恋愛感情? どうやら女の子から迫られて、情けなくも逃げる腰抜けがいるらしい。事情を詳しく聞いているわけでも何でもないが、そういう根性なしには強気に迫ったりするのも一つの手かもしれない……なんて、自分のことを棚に上げながらふと考える。俺の場合はまぁ、社会の目というか、複雑だから仕方ないとして。
『でも、直接好きですって伝えてるんだけどな』
『……えっ、言ったの?』
『うん』
『大胆だなぁ……。どんな状況で?』
『押し倒して』
『……わぁ』
『襲って良いですかって聞いて』
『……うそぉ』
『キスしたよ』
『……それで?』
『逃げられちゃった。しくしく』
『そっかぁ……』
女の子にそこまで言わせておいて逃げるようなチキンもいるらしい。明らかに仕切り板の向こうの女の子はその男に恋をしているだろうに、その想いを無碍にするようなけしからん男の顔が見てみたいものである。
『私それ以上のムードとか作る自信ないなぁ』
『逃げられない状態にしちゃうとか?』
『逃げられない状態?』
『監禁する?』
『それは物騒すぎるかなぁ……』
……その男の子は逃げて正解だったかもしれない。ナチュラルに監禁という発想が出てくる辺りはぶっ飛びすぎている。かといっていつまでも先延ばしにするところは感心できないが。
『も、もうちょっと無難というか、平穏な手段もあるよね?』
『でも、告白とかしても言いくるめられそう』
『それはそうだけど……』
ここまで好意を大胆かつ明確に見せられているというのに告白を受けても返答すらしないとは。据え膳食わぬは、とはよく言ったものだが、そこまでいかずともせめてその気持ちに何らかの答えぐらいは返してあげるべきであろう。何なら俺がそいつに厳しく言い聞かせてやりたいぐらいである。
『ライバルも多いなら、手を抜く余裕はないよね?』
『それは……うん。そう、だよね』
しかも極め付けはそいつはモテているということらしい。完全にそれじゃあ誑かされているみたいなものではなかろうか。話を聞いているだけの身とはいえ、幾らなんでもその子が可哀想である。
『私ももうちょっと頑張ろうかな、なんて』
『2人で襲う?』
『そこまでの勇気はなぁ……。嫌われたくないし……』
『大丈夫だと思うけどなぁ』
ここまで一途に恋慕われていて、それに応えずして何が男か。甲斐性なしという言葉だけでは片付けられないほどのチキン具合はまるで聞いていられない。できることであれば俺が一肌脱いでやりたいぐらいである。……まぁ、他所の話に首を突っ込むような真似もしないのだが。
『また今度全員で追いかけ回す?』
『楽しそうだけどね?』
『みんなで協力して、捕まえたら好き放題』
『……ちょっといいかもって、思っちゃった』
どうやら逃げ続けた罰が当たったらしい。その女タラシの健闘を祈ろう。まぁ自分がここまで女の子たちの心を弄び続けたことのお返しとしては可愛いぐらいだろう。
話を終えたらしい2人の方からガラガラと椅子を引く音が聞こえてくる。本当に雑談をしにきただけらしいが、俺は気にせず自分の勉強に集中することにした。
『蔵に閉じ込めて襲えば良いのかな』
『だねぇ。ありったけのパン持ち込んでそのまま泊まり込みとかも楽しそう』
『もしまた逃げ出そうとしても、出口はないから、だね』
まぁ俺の知らないところでどんな物騒なことが起きようが、ましてやそれが女タラシの自業自得とあらば、俺からすれば関係のない話だ。
精々頑張り給へ、女タラシくんよ。
俺はそんな哀れで救えない、監禁の危機に瀕した女タラシくんの幸運を祈りながら、図書館で1人静かに、それこそガールズバンドの誰とも会わずに勉強に励むのであった。