エンジンの音と振動が体の下から伝わってくる。きっと悪路を走行しているのだろう。市街地を走っていた時と比べると、その揺れはより一層激しくなったように思われる。
「うーん、結構目的地の近くまで来たと思ったんだけどな〜」
「……そっすね」
風景は最初こそビルばかりだったのに、今となっては緑が五月蝿いほどである。五月蝿いというばかりか、右を見ても左を見ても、進行方向を見ても、木々が見えない方角がない。植生の変化ぐらいはあれど、殆ど代わり映えのない景色とやたらと長く感じられる移動の時間に辟易としていた。
「どうしたの? 酔っちゃった?」
「うーん、まぁ。結構長く乗ってるので」
「そっかぁ。長旅でも疲れないって、評判はいい会社なんだけどなぁ」
「なんて会社なんですか?」
「『弦巻ツーリスト』ってところだったかな」
「あっ……」
俺が今乗っているバスもどうやらあの財閥関係のものらしい。今回の旅行も旅行代理店経由で申し込んだものらしいのだが、多分その代理店も系列のところだったのだろう。
「それでもそろそろ着きそうなんですけどね」
「そうだね! はぁー、楽しみ!!」
俺の隣の座席で、旅行への期待感を全身で表現しているのは我が上司、まりなさんである。恐らく年齢は俺より上だと思われるが、それでもこの若々しさは見習うべきものがあるだろう。
「あれ、雄緋くんは楽しみじゃないの?」
「楽しみですよ、楽しみですけども」
パワハラかな、とも思ったがこういう時でも決して嫌な顔をしないことが人生を生きる上で大切なことらしい。
何故俺がまりなさんと旅行に来ているのか? それは単にリフレッシュという名目で誘われたというだけなのだが、冷静に考えれば今俺は上司と旅行に来ているわけで。多分大半の社会人は休日を上司との旅行で潰されるのはたまったものではないと思うのではないかと、大学生ながらに感じる。まりなさんと仲が良いから旅行に行っても耐えているだけなのだ、多分。
「何、なんか文句ある?」
「え?」
「はぁー、まぁそうだよね? あんな可愛くて若い子達と普段からよくもまぁあんなに仲良さそうにね? 私なんてそりゃー、まぁ若さには勝てませんから?」
「ちょ、すみませんすみません」
「あ、悪いと思うなら旅行の代金全額よろしくね?」
「搾取だ……」
とまぁ、こんなやり取りが素で成立するあたり、俺はまりなさんと仲が良いのだ。あー、CiRCLEって本当にアットホームな職場だなぁ、うん、アットホームアットホーム。
「まもなく、目的地到着しますので、お忘れ物なきようご準備くださいませ」
くだらないやり取りに興じていると、ツアーコンダクターからのアナウンスがかかる。その案内に車内は色めき立って、あちらこちらから歓声が聞こえてくる。俄に車内は賑やかさを取り戻した。やたらとその声は若い女性が多いようにも感じられるが、まぁ多分今回のツアーのコンセプトがそんな感じなのだろう。
「雄緋くん、手荷物の準備とか出来た?」
「大丈夫ですよー」
それから数分もしないうちに駐車場らしい開けたところに出たバスはゆっくりと止まり、前の人に続いてバスから降りる。先程まではバス車内の独特な臭いに少し気分がやられていたが、降りた瞬間に鼻腔に広がったのは自然あふれる緑の香り。
「おおー! 生き返る……」
「よいしょっ、あー、自然に帰ってきた感じだね〜!」
伸びをすればそれだけで全身で感じることのできる自然の豊かさ。どうやら目的地たるこの場所は相当山奥で、高度も高いらしい。遊歩道なんかも見た感じ精美されているらしいが、もう少しで山頂に辿り着くとかで、そこからの絶景とやらが看板で大々的に宣伝されている。バスで行けるのはここまでで、ここから先は曲がりくねった遊歩道を登って山頂まで辿り着くよう地図でも示されていた。
「この後は歩いて山頂まで行くんだね」
「この暑さで歩いたら疲れるだろうなぁ……」
「私より若いんだからそんなこと言ってないで!」
「うわっちょ」
まりなさんに背中を押されるままに俺は遊歩道に繰り出す。既に前の方では先導の元同じツアー客が談笑しながら木々の隙間を抜けている。俺はそれに遅れを取らないように少し早めに歩き出す。バスを降りた瞬間から汗が噴き出してはいたが、歩き始めるとなお実感する。俺は遊歩道に点在する木陰へと急足で歩き続ける。
「ちょっと歩くの早いよ! まりなさんをもっと労りなさい!!」
「年寄りですもんね」
「今月分は給料無しね?」
「ご勘弁を」
軽口を叩いている間に俺の懐事情は危機を迎えているが、それでもそれぐらいの心の余裕を持たないと、あの体たらくで全盛期の溌剌さを失ってしまった肉体は悲鳴をあげそうだ。俺よりも元気そうなまりなさんには頭が上がらないほどである。
そんな足取りの軽そうなまりなさんについて行く形で俺たちは遊歩道をズンズンと歩いていく。山頂に向かっている以上、その道はやはり上り坂で、体力は徐々に奪われていく。とはいえ後ろからも他のツアー客がついてきているし、遅れをとるまいと息を荒くしながらも登り続けた。そして。
「おっ、もうすぐだって。って、大丈夫?」
「……大丈夫、じゃないです……」
なぜそんなにも元気なのだろうかと疑いたくなるほど声も明るいまりなさんが一段と大きな声を上げた。既に自分の足元を見つつあった俺もどうにか顔を上げると、それまで殆どが木々に覆われていた山道だったのに、青すぎるほどの空が見えるようになっていた。
その遠く高い空に向かうような錯覚に陥りながら少し歩くと、視界が一気にひらけた。影を作ってくれていた木々も姿を消し、そればかりか谷を挟んで向かい側の山々まで姿を現した。向かい側と言っても今いる山の方が標高は高いらしく、その峰の数々を見下ろすような視点に興奮すら覚える。それまでの疲労感や暑さだとか、マイナスな感情を全て吹き飛ばしたと言っても過言ではないほどの快感だった。
「お、おおぉ……!」
「絶景……!」
目の前にあるしっかりと組まれた丸太の柵に乗り出さんと言う勢いで呟くまりなさん。でもその気持ちも痛いほどわかる。ここまでそこそこに長い山道を歩き倒し、駐車場の看板に書かれた『もう少し』というワードに恨みすら感じながらも足を休ませることなく登り続けてきたというのだから感動も一入だ。それまでは色を失っていたようにも感じられた自然の数々も、より繊細な色彩を取り戻して目に飛び込んできていた。
「空気も……うーん……美味しい……!」
「……これがハイキングかぁ。なかなかいいものだなぁ……」
山の中腹まではバスで登ったものだから、多分ハイキングの楽しさのまだほんの少ししか味わえていないのかもしれない。それでもこの達成感は言葉にし難いほどである。
「どう? こっちから誘っちゃったけど、良かったでしょ?」
「はい、旅行の資金が大学生のちっぽけな懐から出ていなければなお良しだと思います」
「心配しなくても大丈夫だよ? 給料から天引きしとくだけだから」
やはり俺は上司からパワハラを受けているのかもしれない。でもそれでも良いと思ってしまうほどここの空気は美味しい。リフレッシュ目的で来たのであれば、この小旅行は間違いなく大成功だ。
「給料が減るのは見過ごせないですけど。……はぁ、生き返る」
この山頂にまで辿り着いた自分を労うように、カバンに入っていたひんやりとしたお水を口にすると、自然の風味が合わさって普段の10倍ぐらい水が美味しい気がする。無味のはずなのに、旨味成分がたっぷり出てる気がしている。俺の味覚や嗅覚がぶっ壊れたのかってぐらい美味しい水を飲んでいる。
「その水美味しいでしょ?」
「はい、天然水とかですか?」
「そうだよ! グルタミン酸ナトリウムもたっぷり入れてみたから美味しいと思う!」
「え? グルタミン酸ナトリウムって……」
「旨味成分だよ?」
まりな、それ天然水やない。水道す……いや水道水でもない。水に似た何かや。水を名乗るのも烏滸がましいぐらい変質した液体や。
「こうしたら普通の水も美味しくなるよね!」
「えぇ……」
まりなさんのシュールすぎる飲料生活を垣間見てしまった俺は気分転換に視線を目の前の山々に戻す。前代未聞の食生活を送るまりなさんの記憶を軽く吹き飛ばしてくれるほどに壮観と言うべき自然はやはり素晴らしい。すっかり見入っていると、隣で美味しく怪しい加工水に舌鼓を打っていたまりなさんも俺の眺める山を前にして立ち尽くしていたらしい。
「良いよねこの光景……。私、この光景見たらやってみたいことがあったんだよ」
「この光景?」
向かいに広がる薄霞の山々を指差しながら。
「そりゃあもちろん、やまびこだよ!」
「やまびこって、あの山に向かって叫んだら声が反響して返ってくるやまびこ?」
「そう! というより私はそれ以外のやまびこ知らないな!」
「ごもっともで」
たしかに、この高い山から向かい側に聳える山に向かって思い切り叫んだら、大きなやまびこが帰ってきそうだ。多分まりなさんもそんな気分なのだろう。荷物をわざわざ地面に下ろして、思い切り息を吸い込んで、両手を口元に添えてメガホンのように構える。
「すぅ……、……やっほーーー!!」
その瞬間返ってきたのはやまびこ……ではなく周囲からの目線。そういえばこれツアーで来てたんだったななんて思い返しながらも、大きな声が出せて満足げなまりなさんを見ると多少の注目を集める程度はやむなしか、なんて。そんな思惟が止んだ頃にまりなさんのやまびこが数々の山の斜面を反響して返ってきた。
「こんなに返ってくるものなんだな……」
「すごいよね、私もびっくりしちゃったよ〜。さ、今度は雄緋くんも思い切り叫んでみてよ!」
「え、俺も叫ぶんですかこれ」
まりなさんのやまびこですっかり周囲からの生暖かい目線を集めたはずなのに、またもや鋭い目線がこっちに注がれているような気がした。多分自意識過剰だとは思うのだが、それでもここでまた大声で叫べば更なる注目を集めてしまうに違いない。
「もっちろんだよ! 普段出さないぐらい大きな声を思い切り出すのって楽しいし爽快だよ?」
「い、いやーでも」
周囲をチラリと確認すると、やはり相当こっちの方を気にされているような気がする。この状況で叫べるほど俺の精神は残念ながら強くはない。だが、少々冷め気味の俺の反応はまりなさんの不興を買うには十分だったらしい。
「えー、上司の言うこと聞けないの?」
「まりなさんそれ完全にパワハ「教育的指導だよね?」はい」
「ならどうすればいいか……わかるよね?」
「はい……」
多分第三者がこの光景を見たとしても、まさかやまびこをやるように脅迫されているとは思うまい。もはやそれは親しい人を人質に取られて、凄まじい行為を要求されている時のやりとりのそれである。
どうやら俺がこの大変ありがたい教育的指導から逃れることは出来そうにない。周囲からの注目から逃れる術もないらしい。観念した俺は諦めてやまびこに励もうと、改めて目の前に広がる谷を見下ろす。
「すごい、いい風景ですよね」
「そうだね!」
「こんな素晴らしい自然に囲まれてたら、有象無象のことなんてどうでも良いって思ったりしませんか?」
「うん。それならやまびこも出来るよね?」
「くっそ逃げらんねぇ」
退路を完全に絶たれた俺は普通のやまびこじゃ味気ないと思い、叫ぶべき内容を思い起こす。
……そうだ。俺は、俺は虐げられるだけの存在じゃない。これまで沢山の辛いことを経験してきた。その苦しい過去が俺を強くする。俺はもう、権力に屈する、弱い人間じゃないのだ。
俺はこの
リフレッシュの旅行に連れてきてもらったことは感謝している。普段仕事を提供してもらっていることも大いに感謝している。だが、俺のような雑草の如き存在とて、成し遂げなければならないことがそこにあるのだ。
俺は、もう……負けない。俺はもう……負けないんだ……!
「すぅ……」
呼吸を整える。腹腔に寸分の余裕もないぐらいに空気を溜め込んだ。そして。
「CiRCLEはーー! 給料を上げろーーー!!」
「へっ?!」
「従業員へのー! パワハラをやめろー!!」
「ちょちょちょ雄緋くん?!」
俺の思いの丈が自然あふれる谷へと届いた。そして返ってきたやまびこにその思いの丈はしっかりと載せられていた。
『CiRCLEはーー給料を上げろーーー……』
『従業員へのーーパワハラをやめろーーー……』
俺の叫びに、周囲からはざわざわと声が聞こえてきた。明らかに慌て出したまりなさんに向かって、俺はこれでもかというほどのサムズアップ。
「ちょ、雄緋くん何言ってんの?!」
「……」
ただただ無言で、満面の笑みで、俺はまりなさんに微笑みかける。まりなさんはキョロキョロとして、そして大きく息を吸い込んだ。
「CiRCLEはーー親切丁寧な指導が売りのーーアットホームな職場でーーーす!!!!」
『CiRCLEはーー親切丁寧な指導が売りのーーアットホームな職場でーーーす……』
「賃金未払いもーー給料天引きもないーー、やりがいに満ちた仕事ができまーーーす!!」
『賃金未払いもーー給料天引きもないーー、やりがいに満ちた仕事ができまーーーす……』
「時給ベースもーーー高く設定されているのでーーーアルバイト募集中でーーーす!! 給料も上げまーーーす!!」
『時給ベースもーーー高く設定されているのでーーーアルバイト募集中でーーーす!! 給料も上げまーーーす……』
特大の叫び声をあげて、まりなさんは大きく息を吐く。周囲からの温かい拍手に、まりなさんは満足げに後ろ向きに倒れ込んだ。
俺は……勝ったんだ……。俺の労働環境は……守られたんだ……! 俺は
p.s.今月分と来月分の給料が0円にされてました。マモレナカッタ……。