中秋の名月。秋に空に浮かぶ極上の月、それも惚れ惚れするほど明るい満月。風情あふれる秋の光景を楽しむ文化である。今宵の満月もその名に恥じないほどに輝きを放っている。少し眠い中呼び出されて、どこか複雑な俺の心を晴らすぐらいの清々しさを持っている。
「ようやく着いた……」
バイト帰りに訪れたのは有咲の家。月見がしたいというなんとも風流な誘いを受けたから足を運んだのだ。門扉を通り、少し古めかしい家屋を通り過ぎて離れの方に向かう。その先からは声が聞こえてくる。
「あっ、雄緋さんだ」
「たえか。有咲はいないのか?」
「お団子作ってます」
縁側に腰掛けて、どこかを見つめるでもなくぼーっとその辺りを眺めていたのはたえだった。俺の足音に気づいてようやくこちらの世界に帰ってきたらしく、あからさまにピクッと体を跳ね上げた後、ぺたぺた自分の頬を触っていた。
「というか浴衣着てるのか」
「雰囲気出るかなと思ったので」
兎を大量に飼い、大切に育て上げているたえは流石というべきか、その浴衣の柄にまで兎が描かれている。なかなか絵柄で兎をチョイスしたものは見たことはないが、きっと本人も探し続けて見つけたものとかなのだろう。
中秋とは言ったってまだまだ暑さは残る。夜こそ少し涼しくなって来ていて、風が吹けば肌を滑る感覚が心地よく感じることもあったが、今夜は風も吹かずにじんわりと暑さが漂う空気だった。縁側の付近も涼しいというほどのことはない。その証拠にたえの襟元、浴衣の合わせが少し開いたところから見える皮膚は汗ばんでいる。
「どこ見てるんですか?」
「あぁ、悪い」
あまりにセンシティブな部分を見続けてしまっていたらしく、たえから怪訝そうな目線が飛んできて慌てて目を逸らす。だが、思いの外たえは怒ってもいないらしく、普段と変わらない淡々とした声色のままだった。
「というより、座らないんですか?」
「座る?」
「ここ」
「あぁ」
庭に面した床面をたえが叩くと静かな辺りに低く鈍い音が響く。ここに座れと言われてるみたいで、促されるままにたえの隣に腰をかけた。俺が腰を下ろすとほぼ同時に、しゅっと音を立てながら右隣にスライドしてくるたえ。
「……近くない?」
「近いですか?」
「うん」
「私はそうは思わないです」
「俺はそう思うかな」
「なるほど、じゃあ平行線ということでこのままで」
言いくるめられた。日中労働をした疲れのせいだろうか。俺もそれ以上反論する気力も起こらない。まぁこれぐらい静かなのであればこういう穏やかな時間でも構わないか、なんて自分で納得する。なんだかたえの体の柔らかさみたいなのが直に伝わってきて恥ずかしいが、本人が近くないって言っているなら気にしても仕方ない。
「団子できたぞー……って雄緋さん?! おたえ近えって!!」
「あっ、有咲だ」
「お邪魔してるぞ」
「あっどうも……。じゃ、なーくーてー! おたえと雄緋さん近くないですか?!」
「近いとは言ったけど……なぁ」
「心の距離が近いなら体の距離も近くないと」
訳の分からない論理が展開されているが、そもそも俺とたえの心の距離はそんなにも近かったのだろうか。まぁそんな些細な疑問はどこへやらと追いやって、カンカンに騒ぎ立てる家主の怒りをどう鎮めようかと思案する。呼ばれたとはいえいきなり上がり込んでダラダラと過ごしているわけだから、有咲がイライラとするのはご尤もで。
「たえはいいとして……、確かに招かれたとは言いつつ何もしないのは気がひけるな。準備手伝うよ」
「そーじゃなくて……ってはぁ。準備できることもうないんですけど」
「あれ、そうなのか?」
団子を用意することのほかにお月見で何を準備すればいいのかは俺も詳しく知らないが、それでも座布団を出したりとか色々することはあるだろう。そう考えて俺も立ち上がろうとするが、たえが俺の右腕を引っ張ったまま離そうとしなかった。
「有咲、何時間も前から準備するぞーって張り切ってたもんね」
「あー!! おたえも余計なことは言わなくていいからな!」
「あれ、そうなのか。なら余計に何の手土産もなかったのは申し訳ないな……」
「今から一緒に買いに行きます? 私も何もしないのはどうかとは思ったので」
「行かなくていい!! おたえも変なことはせずにそこにいろ!」
「やったー」
……今までの会話の流れから察するに、もしかしてたえは準備段階から何もしていないのだろうか。2人の性格からすれば有咲が相当ケツ叩きをしなければたえは梃子でも動かなさそうではある。
「というか準備はもう粗方全部終わりましたから。ほら、雄緋さんもおたえも立てって」
「座布団か。ありがとうな」
硬い板張りの廊下の上にずっと座っていて、そろそろお尻が痛くなってくるかもしれない頃合いだったのでありがたく座布団に尻を乗せる。そして座ると同時に今度は反対側に有咲が陣取った。
「……有咲も近くない?」
「近いってなんですか?」
「……まぁいっか」
そんなわけで思考を放棄して、遂に今日呼ばれたメインの、月見を始めるに至ったのである。ここまで短いようで長かった。
……なんて振り返りたかったのだが、生憎にも先ほどまであまりなかった雲が今は空に見えている。月の周りに薄い雲が引いているだけだったのが、いつのまにか空を覆うような形で広がっていた。
「……月見えませんね」
「いや本当にな」
「有咲が叫んだりしてるから」
「私のせいなのかよっ?!」
「ちょ、暴れんなって」
俺を挟んで、有咲が普段通りのマイペースなたえに振り回されているのだが、俺の腕を抱え込んだまま急に振り向いたり体を捻るのは本当にやめてほしい。俺の腕、そんな方向に曲がるようには出来てないんだ。
「有咲そうだよ。アピールも大概にしなきゃ」
「アピール?」
「さっきまでおたえだってしてただろ?! ……うぅ、えいやっ」
「え?」
いきなり抱え込まれていた腕をさらに強く巻き取られる。有咲が前に体重をかけるようにして俺の腕は有咲の胸と両腕に沈む。
「えっと、……ど、どうですか雄緋さん……!」
「どうって……何が?」
「えっ、そりゃ」
「あっ、有咲の浴衣も似合ってると思うぞ」
「あっじゃねー! そういうことじゃねーー!」
「ぐっはぁ……」
その時パッと思った感想を口にした瞬間、俺の腹にすごい衝撃が走る。決して心にもないことを言ったわけでもないし、有咲が召している紫の花柄の浴衣は本当に似合っていると感じたのにどういうわけか俺は鉄拳を浴びたのである。続いて頬に走る凄まじい風圧と痛み。
「この朴念仁が!!」
「だから色仕掛けはダメだって言ったのに」
「そんなつもり……! なんで分かんねーんだよ!!」
あぁ……確か俺は月を見に来ていたはずなのに……。俺の視界には星が見える。お星様が見える。子どもの頃にクレヨンで描いた黄色よりも明るいお星様の周りでぴよぴよとひよこが鳴いている。
「有咲が強く叩いちゃうから雄緋さんの意識飛んじゃった」
「私か?! 私が悪いのか?!」
「いや、雄緋さんが鈍感なのが悪いと思う」
「……そ、それなら、仕方ない……よな?」
掠れていく視界。失われていくお星様の色。消えていく2人の声。薄れていく感触。俺の意識はみるみるうちに薄くなっていった。
次に目を覚ましたのは、変わらず空に月が浮かんでいる時だった。いや、最初に道すがら眺めた月なんかよりももっと明るい月だ。
そして、そんな明るさの月に目が眩まされながらも、やたらと柔らかい感触に困惑していると、俺の後頭部はどうやら柔らかく厚みのある何かに乗っているようだった。
「……ん、って、たえ……?」
「あっ、雄緋さん目が覚めました?」
「さっきはすみません! 私が雄緋さんビンタして気絶させちゃって! あとその……色々と変なことを」
「変なこと? あぁ、まぁ気にしてないけど」
俺が起きるのを見てやたらとあわあわする2人。どうやら俺が気絶するレベルだったことを相当気に病んでいるらしい。まぁ当たり前か、ただのビンタだと思ったらその人が気絶するだなんてのを目の当たりにすれば気が気ではないだろう。
「ほら、それよりあれ、見ろよ」
「えっ? ……あっ」
「あれ、さっきまで曇りだったのに」
俺が指差した先には下半分は少し雲に隠れつつも光を放つ月が。それに気がついたのか2人も俺の指差す方向を見て言葉を失ったように黙り込んでいる。
「すごい光景だな……」
まさに圧巻という表現がぴったりの、思わず見惚れてしまうほどに大きく、神々しい光を放つ月。こんなに綺麗な月を目の前にしては、このまま止まっているのももったいない気がしてならない。
「それじゃ早速」
「月も見えたことですし」
「月見をするか」
「兎を探そう」
「え?」
「え?」
よし、一旦落ち着こう、俺。今何を言われたのか、それから整理しよう。考えはさっぱり分からないが、今俺は兎を探そうと聞かれたらしい。何故兎。
「えっ、お月見って兎を探すんですよね?」
「お月見? 兎……? ……あっ、満月にいる兎を探すってこと?」
「はい。餅つきをする兎がいるらしいんです」
どうやら俺の隣で空を一生懸命に指差している少女はどこまでもピュアらしい。俺が見習わなくてはならないほど純粋な存在らしい。だって、満月の頃に餅つきをしている兎が月面にはいるんだってことを信じ切っている訳なのだから。煩悩なんてかけらもない、純真無垢を体現しているのだろう。
「いやいや流石にそれは」
「満月になったら餅つきをして、できた餅を食べたら美味しいらしいです。早く食べたいですよね。お腹すいたなぁ」
前言撤回。どうやらこの子は兎を追いつつ、その兎が作る餅を目当てで、その食欲で動いているらしい。完全に食欲で動いていたらしい。ただの煩悩の塊だった。
「いやいやおたえ……。月に兎はいねえって……」
「流石有咲」
「絶対いるよ」
有咲に諭されても頑なに指をあっちにこっちに伸ばして探そうとするたえ。そこまでの兎への執念には敵わないが、まぁ月を見るという当初の目的が達成できているならよしとしよう。
「……月って綺麗だよな」
「えっ」
「ん?」
俺がふとぼやいた月の綺麗さに途端に声をあげたのは隣にいた有咲だった。有咲は急にあわあわと辺りを見回したり、口をパクパクとさせたりして、明らかに様子がおかしい。
「大丈夫? 有咲」
「あ、え、いや、え、え、綺麗ってつまり」
「ん? いやだから、月って綺麗だなぁって」
「やっぱりだつまりこれってそういうことなんだよなきっとそうだ間違いない」
有咲はレスポンスするなりぶつぶつと何かを言うだけだし、いつのまにか抱え込まれていた俺の左腕も解放されている。
「わかります。ものすごく綺麗ですよね」
「おたえ?!」
「……? 月って綺麗ですよね?」
「あぁ、別にたえは変なこと言ってないと思うぞ?」
「ですよね」
たえと顔を見合わせてうんうんと頷き合う。どうして有咲がここまで取り乱すのか訳がわからないが、訳がわからないなりにたえと2人、うーんと首を傾げる。
「そうじゃなくて! おい! おたえ!」
「ずっと見てても飽きないもんな」
「分かります」
「はぁっ?! ちょい! おたえ待てって!!」
「もっと近くで見たいですよね」
「わかる」
「いやいや待てって!!」
「変な有咲。有咲は思わないの?」
「思うけど!! それってつまり!! 月が近くで見たいってことは!!」
「近くでもっと綺麗な月を見たいってことだよな」
「近くでもっと兎を探したいってことですよね」
「え?」
「え?」
「え?」
辺りを包む沈黙。兎というワードが出てきて思わず俺も思考回路が止まってしまったが、完全に意識が飛んでしまったらしい有咲はさておいて、俺はその兎を追い続けている花園の方に振り向く。
「兎?」
「はい。あっ、兎が見えた」
「えっ、いやいや見えない見えない」
「兎、見えないんですか?」
そんな顔で見られたところで見えないものは見えないし、月面に兎がいるわけでもない。兎が月でぺったんぺったんと餅をついているわけはないし、けれどもたえを納得させるのは俺にはできる気がしない。月の綺麗さ云々が興醒めしてしまうほどの苦労を要するだろう。
「私には兎が見えるんだけどなぁ」
「だから月面には絶対に兎なんかいないって……な、有咲。……有咲?」
「綺麗な……月……見たい……あぁ」
「どうしたの有咲?」
「……あう」
「有咲ー?!」
力が抜けてふらふらと後ろ向きに倒れた有咲。結局風流な月見など殆ど出来ないままに、兎を探し続ける月見は終わりを告げたのだった。