トレセン学園に入って数か月でメイクデビューをするウマ娘は少ない。そもそもトレーナーを得られるウマ娘の方が少ないからだ。
中央トレーナーとしてトレセン学園に在籍しているトレーナーはおよそ150人。それに対してウマ娘の在籍数は1000人を超える。トレーナーの人数からして、1人頭10人弱は見る必要がある。
さらにさらに、全員が全員多くのウマ娘と担当契約を結ぶことができる『チーム』を結成しているわけではない。ある者は大きめのチームにサブトレーナーとして在籍する者もいるし、何より誰もは最初は専属トレーナーとして活動を始める。
すばるトレーナーも例にもれずトレセン学園最大手のチームリギルにサブトレーナーとして業務に慣れた後でトレーナーとして活動を始めようとした矢先に彼のサイレンススズカと出会った。
スズカには思い入れがあったし、美人だし、綺麗だし、何より楽しそうに走る*1。
今では大切な担当で、割とスズカに対しては過保護に接している。沈黙の日曜日を出来得るだけ回避、できなくとも度合いを軽くできるはず。
その為に彼はなんでもした。ウマ娘の脚はガラスの脚。
だからこそ、疲れは取るべきだと完全休養日を設けたりしたし、スズカが珍しくトレーナーさんと一緒に買い物に行きたいですと言えば、インプレッサを引っ張り出して買い物へ行ったり。
挙句の果てには、トレーニング終了後にアイシング及び炎症を和らげる足マッサージを施すなんてこともした。
ウマ娘の脚はガラスの脚であるというのは、トレーナーになる上では当たり前の事であり、炎症防止や疲れを抜くマッサージ手法なんてのも場合によっては習得している場合もある。
まぁ、それはそれとして。彼がスズカに許可を得てマッサージの施術をしているとき、若干艶やかな声にちょっと困るのは余談である。*2
そんなスズカを支えるトレーナーの姿を見た彼女は、無事男性観が破壊されたと同時に自身にあるまじき独占欲が首をもたげ始めたことを自覚していなかった。
ある意味孤独でも走れてさえいればよかったスズカ。そんなスズカを常に、長く走れるように支える男性を前に僅か数か月という期間でありながら掛かりかけていた。
さぁ、そんなスズカの最初のレースだ。
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初めてのレースで気負っている他のウマ娘を尻目にスズカはゲートに向かった。自分のトレーナーさんはどこかなと見渡してみると、居た。
少し遠くの最前列の席だ。軽く彼に向かって手を振るとゆっくり歩をゲートへと進める。
頭を撫でられた感触を思い出しながらゲートに入る。ゲートに入れば、いつもの練習通りレースのスイッチが入る。
集中力が一気に増し、頭が冴え始める。少し目を閉じ、ゆっくりと目を開ければ緑に色づいたレース場の芝が広がる。
いつもの練習と同じことをやればいいだけ。だけどもそれが一番難しいのだが。
彼女は難なくやり遂げるだろう。
『ゲートイン完了、全ウマ娘の出走の準備が整いました』
女性実況者の声がレース場内に響くが、もう彼女には聞こえなかった。
ゲートが開いた。
ゲートが開いたと同時に真っ先に飛び出てきたのは誰か。
そう、サイレンススズカである。誰よりも早くゲートから飛び出し、だれよりも早く先頭に立ち、だれよりも早く走り、だれよりも早くゴール板を通過する。言うが安しと言うのはまさにこの事。
だが、スズカにとってはどうだろうか。言うまでもない、簡単な事だった。
ゲートが開く音を置き去りにして、だれよりも早く、ゲートのドアを押し開けたのごとく一番最初にゲートから飛び出た。
『スタート、全ウマ娘揃って綺麗なスタートを切りました』
誰よりも早く先頭に立つ。スズカは間髪を入れず先頭へと躍り出た後に加速した。ちょうどスタートした直後は下り坂。スズカは重力に逆らわずに重力を利用して加速する。
ハナを奪ってしまえば後は逃げ切れ。そんなトレーナーの練習中のアドバイスを思い出しながら駆ける。目の前にはカーブ。
コーナーの半ばまでは上り坂、そしてコーナー出口に向かって下り坂の山がある。上り坂が問答無用で速度を削るため、コーナーワークでの差は出にくいはずだ。いや、そんなことは無い。
スズカは坂道でも緩やかな加速を続けていた。レースのセオリーでは、上り下り関係なくゆっくり上りゆっくり下る。これがセオリーだ。坂道で加速しても体力を余分に取られ、下り坂は速度が上がる為心理的にブレーキを掛ける。
スズカにはそんなことは関係なかった。坂道なんていくらでも走ったしあまり疲れないコツもつかんである。何なら下り坂でも重力を使って加速するし、坂道でも若干加速しながら登る。
当然後方に置いてかれたウマ娘達は追いつけないでいた。
下り坂で重力を使用し一気にコーナー後半を脱出していく。
若干膨らみながらもカーブを曲がっていった。他のうるさい音は後ろに既に置き去りにした。カーブを曲がり切れば直線。直線においても先頭は絶対に譲らない。
音が彼方後方にあることを確認すると、今までの緩やかな加速を辞めて様子見をしてみる。加速を辞めても音が近づいてくる気配はない。
ちなみに、強い逃げウマが居るとレースはハイペースになる。するとどうなるか。全体的に出走しているウマ娘たちの体力が削られて行く。
後ろのウマ娘たちは当然焦る。逃げウマと言うのは大抵途中でスタミナを切らし垂れてくる。だがレースが中盤を過ぎ終盤と言ったところでもなかなか垂れてこない。
そんな中でも自分の体力は刻一刻と削られて行く。
さぁ、そろそろ最終コーナーと言ったところ。そこで一人のウマ娘が大博打に出た。
後方に付けていたため比較的余っていた体力をすべて使い切ってでも早く仕掛け、目の前の逃げウマを差し切らねばならないと。そうしなければ自身の勝利は危ういと。
後方から若干加速を始めるが、コーナーが来たため加速の脚を止める。距離は縮まってはいないが、離されても居ない。最後のコーナー終わりから全力で加速し差し切るしかなかった。
スズカはターフの上を気持ちよく走っていた。うるさい音も聞こえなくなってきており、自分が立てている音しか聞こえなくなってきた。走ることしか考えなくなりそうな予兆だった。
最後の直線、ゴールへの道。スズカは其処を気持ちよく思いっきり走ろうとしていた、そんな時。
後ろから急に雑音が混じり始めた。その音はだんだん強くなり始めてきた。
煩い、あっちに行って!
ここは私だけの場所なんだ、静かな場所、静かな道だったんだ!
彼女はゴール手前残り400mで再加速した。後方にいた追い込みウマ娘が1バ身へと迫った時の事だった。
サイレンススズカの再加速はまさにフルスロットル、サイレンスズカに装着されている
残り200m。もうすでに3バ身差をつけている。そんな時、スズカの前に静かな道が現れた。一気に周りの雑音が掻き消え、自分の呼吸の音しか聞こえなくなり……
どこで静かな光景が一気に消えた。ゴール板を過ぎ去ったからである。
きょろきょろと見まわすと残念そうに悔しがりながら俯く他のウマ娘達。だが、スズカにとってはそんな事よりも。
先ほど見た、あの見たかった景色がわずかながらも見えた事と自分のトレーナーにそのことを早く伝えたいという衝動に駆られていた。
多分、いや高確率で。自分のように喜んでくれるから。あのいつもは仏頂面で、杓子定規で、決まり事には徹底的に従う公務員気質の自分のトレーナーでも。
担当バである自分の目標を達成する事が彼のトレーナーの目標でもあるのだと、彼自身が語っていたから。
だから喜んでくれると信じて。
芝が一面に広がるターフから離れ、URA職員に連れられて来たウィナーズサークルでもそのことを考え。
彼が迎えに来た事を見ると、意識外にいつもより揺れるしっぽを感じながら歩み寄った。
「トレーナーさん、私……勝ちました。
そして……見たかった景色も見えました」
「そうか、良かったな」
ちょっと頭を再度撫でてもらう事を期待したけども、撫でてはくれなかった。その代わりに彼はいつもの仏頂面を崩していた。
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スズカは危なげなく無事にメイクデビューに勝った。しかも先頭の景色における綺麗で静かな美しい、あの景色を少しだけ見れたという。
その事を聞いた時少しホッとした気分になった。スズカが満足に走れなかったらどうしようか、とか万が一差し切られたらとか余計なことをレース中に考えてしまった。
けれど、本当に危なげなく勝ってしまったし、先頭の景色も見れたと言う。それを聞いただけで今日のメイクデビューだけで自分自身の肩にのしかかっていた重みが少しだけ減った気がした。
もちろんこれで私達の歩みが止まるわけでは無い。メイクデビューの次は重賞、その次がGⅠレースである。彼女が担当契約の解除を申し出るか、彼女が引退するその時まで。
私は、そして私たちは。
走り、歩み続けるのだろう。