千恋*万花~Another Tale~   作:もう何も辛くない

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第二話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 久方ぶりに故郷に帰ってきて、買い物ついでに叢雨丸の継承者の顔を拝んでやろうと─────そう思って建実神社に来たのは良いのだが…。

 目的通り、叢雨丸の継承者の顔も拝めたし、そこに関しては満足しているのだが…。

 

「どうか…どうか地下労働施設行きだけは…」

 

「…」

 

 何故かその継承者殿が俺に向かって土下座を始めた。

 

 はて…?俺はこいつに何かしたか?もしかして、俺が覚えてないだけで過去にこいつと会った事がある?

 だとすれば正直お手上げなのだが、地下労働施設とかペリカとか、こいつは絶対に何か勘違いしている。俺をヤが付く何かと絶対勘違いしている。

 

「あの、俺は別に─────」

 

「ひぃぃいいいいいいいいいい!!?」

 

「…」

 

 とにかく誤解を解こうと話し掛けてみるが、継承者殿は顔を真っ青にして後退りしてしまう。

 

 いや、本当に大丈夫かこいつ。何が大丈夫なのかって、叢雨丸に選ばれたのがこいつで本当に大丈夫なのか?

 

「…ムラサメ様。こいつを落ち着かせてください。じゃないと誤解を解くどころか話も出来ない」

 

「う、うむ…。わかっ…待て。お主、吾輩の姿が見えるのか?」

 

「え?…あー。まぁ、はい」

 

 継承者殿の阿呆さにすっかり忘れていたが、普通の人にはムラサメ様が見えないんだった。

 これはまたムラサメ様に警戒されてしまうか…?いやそれよりも、まずこいつを落ち着かせないと。

 

「俺を警戒する気持ちは分かりますが、まずはこいつを落ち着かせてください。話はそれからです」

 

「…分かった」

 

 ムラサメ様が震える継承者殿に寄り添い、背中を擦りながら声をかけ始める。

 大丈夫と繰り返し言い聞かせたり、深呼吸をさせたり、いや、本当に不安になる。叢雨丸の継承者がこいつで本当に大丈夫なんだろうか。

 

「…す、すみません。気が動転してしまって」

 

「あー、気にしなくていいさ。それと多分、俺と同い年くらいだろ?敬語も外してくれていい」

 

「…そうか?それならお言葉に甘えて」

 

 数分後、何とか落ち着きを取り戻した継承者殿が立ち上がり、俺の方へと歩み寄ってきて謝罪してきた。

 

 その謝罪に俺も返事を返しつつ、未だに少々畏まっているその態度を止めさせる。

 

「あと、俺は別にお前を迎えに来たヤクザじゃないから。地下労働施設とか連れてかないから」

 

「ほ、本当にすまん」

 

 それと、そこの誤解だけはしっかり解いておく。誰がヤクザじゃ。

 

「…それじゃ、まずは自己紹介だけしておくか。俺は若狭陽明。叢雨丸に選ばれた人間が現れたって聞いて、顔を拝みに来た」

 

「顔を拝みに来たって…。俺は有地将臣。叢雨丸に選ばれた、らしい」

 

「らしい、じゃなくて選ばれてんだよ。刀が抜けてんのがその証拠」

 

 ふむ、どうやら町の外の人間だからか、自分がした事の凄さを分かっていない様子。

 駒川も言っていたが、まさに事情を知る人間からすれば蜂の巣をつついたような騒ぎになるべき大きな事件なのだ。

 それを引き起こした本人は全く自覚がなく、呑気にして─────はいなかったか。ヤクザに連れてかれるなんて勘違いして恐がってたし。

 

「む?若狭じゃと?」

 

 すると、不意にムラサメ様が俺が口にした姓に反応し、復唱する。

 

 その声は俺の耳に届き、俺は視線を継承者殿─────有地からムラサメ様へと移す。

 

「こうして顔を会わせてお話しするのは初めてですね、ムラサメ様。若狭帯刀と恵津子の息子、陽明であります」

 

「おぉっ!あの二人の息子であったか!なるほど、道理で吾輩が見えて…。いやしかし、大きくなったのう」

 

「…?」

 

 ふわふわと浮きながらムラサメ様がこっちに近付いてくると、俺の周囲を回りながらまじまじと俺の立ち姿を見つめてくる。

 

 ()()ムラサメ様と顔を会わせるのは初めてだが、()()()()()()初めてではない。

 何度かこの神社にも来ているし、それこそ朝武の家には何度も遊びに行った事がある。その時に、ムラサメ様は子供の時の俺を見ている筈だ。

 

「えっと…、二人は知り合いなの?いやでも若狭は話すのは初めてって…え?」

 

 畏まる俺と懐かしむムラサメ様を交互に見ながら、矛盾した事を口にする俺とムラサメ様に有地は戸惑っている様子。

 

「ご主人、さっきも言ったであろう。吾輩の姿は普通の人間には見る事が出来ぬと」

 

「あぁ、確かに言ってたけど…」

 

「この者は昔、穂織に住んでいてな。その頃の陽明は吾輩の姿を見る事が出来なかった。そういう事じゃ」

 

「あー…。あれ?でも、何で今はムラサメちゃんが見える様になったんだ?」

 

 この町に住んでいた頃の俺はまだムラサメ様の姿が見えていなかった。

 だが、今はムラサメ様の姿を見て、話をする事が出来る。

 有地が口にしたのはこの話を聞けばごく自然に湧く疑問だ。

 

 とはいえ、その疑問に対する答えも単純なものなのだが。

 

「若狭家は陰陽師の家系なんだ」

 

「え?陰陽師?」

 

 首を傾げる有地。まあ、この町に来るまでは─────というより叢雨丸を抜くまでは普通の男子高校生だったのだろうし、陰陽師なんて言われたって反応に困るのは当然だろう。

 

「それって、あの陰陽師?それじゃあ何か術とか使えるのか?」

 

 なんて思っていたのだが、有地の反応は思っていたのとは少し違っていた。

 

 何か、テンション高くないか?

 

「えぇっと…」

 

「…」

 

「…ほれ」

 

 何だろう。物凄い期待の面持ちで見られてる。もしかして有地って、陰陽師とかそういう異能力者に憧れる中学二年生だったりするのだろうか。

 

 いやまあ、こんなにもキラキラした目で見られたらその期待を裏切る訳にもいかない。

 だから、一枚のお札を懐から取り出し、軽く宙へ放る。

 

「っ!?おおおおおおおっ!!」

 

 宙を舞う札はぼふんっ、と白い煙を立ててその姿を白い小鳥の姿へ変える。

 これはさっき、神社に来る前に駒川の動向を探るために使用した式神だ。

 陰陽師としては基本中の基本、それこそ半人前の陰陽師でも使用できる簡単な術なのだが、有地はそれだけでも目を更に輝かせる。

 

 いや、そんな反応をされるとむず痒い。

 もっと派手な術見せてあげた方が良かったか?(陽明君はちょっとチョロい)

 

「ムラサメちゃん!動いてる!どうなってんのこれ!?」

 

「ご主人…。ただの式神じゃぞ、これ」

 

「式神…!」

 

「…他の術見てみるか?」

 

「いいのか!?」

 

 ここまで喜ばれると気分が良い。よっしゃ、他の術見せちゃるけんのぉ。

 

「─────」

 

 今度は軽く指先に火でも灯してやろうと思ったのだが、直後この場所に近付いてくる複数の気配を捉える。

 

 急遽予定を変更。懐から一枚の札を取り出し、札を掴む指を通して妖力を注ぐ。

 そんな俺の姿を有地はワクワクしながら見ている。…少し罪悪感はあるが、ここに来る何者かに見つかったら面倒だ。

 もしかしたら駒川かもしれないし…だからここは隠れさせて貰う。

 

「将臣」

 

「おおおおおお!消えた!どこに─────へ?」

 

 術の発動は間に合い、本殿に一人の老年の男が姿を現す直前に俺の姿は有地の視界から消える。

 勿論有地だけでなく、今現れた男の視界にも俺の姿は映っていない。

 

「じいちゃん?」

 

「む?話し声がしていると思っていたが…、お前一人か?」

 

「え?えっと…」

 

 有地が返答に言い淀む。

 というより、何とか答えれば良いのか分からないのだろう。

 

 有地本人からすれば、刀の精霊、陰陽師と話していたなんて答えづらいだろうし。

 しかも二人の内一人は有地の視界から消えてるし。刀の精霊、ムラサメ様に関してはともかく俺の事を話してもまず間違いなく信じてくれない。

 

 ─────というかこのじいさん…もしかして、玄十郎さん?

 

 何と答えようか迷っている有地から本殿に入ってきた老年の男性に視線を移し、改めてその顔を拝む。

 そこでふと、その顔に既視感を覚えた。その直後、その顔を、この男の名前を思い出す。

 

 鞍馬玄十郎。穂織の顔役の一人であり、昔からこの町に居を構える、代々朝武に仕えてきた家系の一つ、鞍馬の現当主であり、今は穂織にある旅館、志那都荘のオーナーを勤めている。

 そして、穂織に着く前に刃を交わした妖、鞍馬信孝の末裔だ。

 

 しかし、有地は玄十郎さんをじいちゃんと呼んでたな。もしかして親族…、孫か?

 だとしたら、穂織にも来た事があるんだろうか。会った記憶はないが、もしかしたら記憶がないだけで実は、という事もあり得るかもしれない。

 

「将臣っ!その刀は…!」

 

「え?あ、これは、えっと…」

 

 ちょっとした別の可能性に思考を馳せていると、玄十郎さんが驚愕の声を上げたのが聞こえた。

 

 何事かと視線を向けると、玄十郎さんの視線は有地が握る叢雨丸に注がれていた。

 

 ここでふと疑問に思う。玄十郎さんは有地が叢雨丸を抜いた事を知らなかったのだろうか?今の反応を見る限り、そうとしか思えないのだが。

 しかしそれはあり得ない。顔役が集まって有地についての談合が行われ、その談合に玄十郎さんも参加していた筈だ。有地が叢雨丸に選ばれた事を玄十郎さんが知らない筈ないのだが──────。

 

『見ての通り叢雨丸は直りました!』

 

 そういえば、有地がこんな事を言っていたような?

 もしかしてこいつ、叢雨丸を折った?その光景を玄十郎さんが見ていて、その後すぐ談合が行われたのだとしたら、先程の玄十郎さんの反応の辻褄は合うのだが。

 

 …いや、まあどちらでもいいや。

 それよりも、叢雨丸の継承者の顔は見れたし、有地に俺がここに来た事の口止めをしてから戻るとしよう。

 

 そっと、足音を立てずに玄十郎さんの背後に回り込む。

 今、玄十郎さんにムラサメ様が刀を直したのだと説明している有地の視界に映るよう立ち位置を調節し、一度術を解く。

 

「やっぱり、じいちゃんには見え─────」

 

「む?どうした将臣」

 

 有地からすれば何もいなかった空間に、何の脈絡もなく俺が現れた風に見えただろう。

 大きく目を見開き、言いかけの台詞を途切れさせ、俺に視線を向ける。

 

「あ─────」

 

 有地が口を開き、何かを言いかけるのを、口許で人差し指を立てる事で止める。

 

 無言のジェスチャーで俺の事は他言無用という意思を有地に伝えようとする。

 とりあえず、有地が俺を呼ぼうとするのは止められたが、俺の無言のジェスチャーが伝わったかまでは分からない。

 

 が、この状況では有地に確かめる事も出来ず、ただ伝わったと信じるしかない。

 

「いや、何でもない。ただの見間違いだから、気にしないで」

 

「そうか。…それでだな、将臣。お前に紹介したい方がいる」

 

「紹介したい方?」

 

 さあ、これからは二人、或いはそれ以上になるかもしれないが、俺が聞くべきではないやり取りが行われる。

 とっととここから離れて帰って、夕飯食って風呂入って寝よう。

 

 そう、思っていたのだが、本殿に入ってきたその人を見て、俺は足を止めた。

 

「初めまして、有地将臣君。僕は朝武安晴。建実神社の神主です」

 

 開いているのか疑わしい程に細い目。小さい頃の俺はこの人を狐のおじさん、なんて呼んでたっけか。

 おばさん─────この人の奥さんと同じくとても優しい人で、たまにキャッチボールして遊んでもくれた。

 

 懐かしい。少し老けただろうか?あれから五年、優しい雰囲気は変わらずとも見た目は少し変わってしまったらしい。

 

 ─────芳乃

 

 この人を見ていると、思い出す。この人と、その家族と、毎日のように関わってきた過去の日常を。

 この人の娘、芳乃の事を。

 

 芳乃もきっと、大きく成長しているのだろう。流石に俺よりは小さいだろうが…、もし大きかったらビビる。

 そんで、おばさんに似て綺麗になっているに違いない。

 

 ─────会いたいな

 

 芳乃に会いたい。

 芳乃だけじゃない。目の前のおじさんと、茉子と、顔を会わせて話がしたい。

 

 だが、あれから五年。すぐに帰ってくるという約束を破り、特に芳乃に何を言われるか分からない。

 もしかしたら素直に再会を喜んでくれるかもしれない。だが、約束を破ってしまった事を責められるかもしれない。

 そう思ったら、勇気が出ない。

 

「芳乃、入ってきなさい」

 

 おっと、いけない。いつの間にか話は進んでしまっていた。

 いつまでもここに留まる訳にもいかない。早く本殿から出なければ─────って、え?

 

 今、おじさんは何と言った?

 考えが纏まる前に、本殿に一人の少女が入ってくる。

 

 白い巫女服を身につけ、赤い帯を腰に巻き、巫女服の上に一枚の着物を纏った少女。

 その少女に視線が吸い寄せられ、釘付けになる。美しい、綺麗だ、そんな感想しか湧いてこない。

 

 サファイア色の瞳は俺を映さない。ただ、それでもその姿を目にしただけで、俺の心は舞い上がってしまう。

 

「初めまして、朝武芳乃です」

 

 有地に名前を名乗るその声は、少し鋭さを感じさせる。

 何か…不機嫌?なのだろうか?もしかして、有地が気に入らない、とか?

 

 いや、そんな器量の小さい奴ではなかった筈だ。というよりむしろ、叢雨丸に選ばれた人間が現れた事を、芳乃は喜ぶべき立場にいる筈なのだが。

 

「初めまして、有地将臣です」

 

「…あの、叢雨丸を抜いたっていうのは本当なんですか?」

 

「うん。抜いたというより、折ったんだけど…」

 

「間違いないんですか?」

 

「うむ、間違いないぞ。目の前の者が、吾輩のご主人だ」

 

 有地と自己紹介を交わし、有地とムラサメ様に、本当に有地が叢雨丸を抜いたのかを確かめる芳乃。

 だが、その表情はどこか固く、有地に向ける態度も少々冷たい。

 

 本当にどうしたのだろう。もしかして人見知り…してる訳ではなさそうだ。

 それに、確かに有地に対して冷たい態度を向けてはいるが、どうも違和感を覚える。

 その違和感の正体までは分からないが…、芳乃は一体どうしたのだろうか?

 

「あれ。朝武さんもムラサメちゃんが見えるの?」

 

「ムラサメちゃん…?」

 

「吾輩のご主人だからな。そのくらいは許したのだ。ご主人、芳乃は吾輩と話が出来る数少ない者の一人だ」

 

「そうなんだ…。巫女だから?あ、もしかして神主さんも?」

 

「安晴でいいよ。僕も将臣君と呼ばせて貰う。…それと、僕にはムラサメ様の姿は見えないんだ。入り婿だからね。あくまで直系の者じゃないと─────」

 

「お父さんっ、そういう事は言わなくていいです。ムラサメ様も」

 

 有地は叢雨丸に選ばれたのだから当然として、芳乃もムラサメ様を見て話す事が出来る人物の一人だ。

 さっきおじさんが言った通り、基本は朝武の直系にあたる者のみがムラサメ様を見る事が出来る。

 

 俺のように、修行を積んだ陰陽師でも見る事は可能なようだが。

 

「そうは言うがな…吾輩のご主人になった以上は─────」

 

「大丈夫です。私が何とかしますから」

 

「…やれやれ」

 

「強情じゃのう…」

 

 ─────…なるほど、そういう事か。

 

 芳乃の態度が有地に対して冷たいのは、今朝武が抱える問題に有地を関わらせたくないかららしい。

 勿論、有地が余所者だからという理由からではない。ただ、有地を危険な目に遭わせたくないから。

 

 穂織を取り巻く因縁を何も知らない有地を巻き込む事が嫌なのだろう。

 

「あの、何の話ですか?」

 

「有地さんには関係のない話ですから、気にしないでください」

 

 話が呑み込めない有地が口を開くが、芳乃が突き放すように冷たく言う。

 意図は分かるのだが…、それは事情が分かる俺だからであって、何も分からない有地からすればその態度の方が逆に気になると思うのだが。

 

「とにかく、これが僕の娘。芳乃だよ。それで、こちらが叢雨丸を抜いた有地将臣君」

 

「よろしくお願いします」

 

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 気まずい雰囲気が流れかけた所で、おじさんが仲介に入り、改めて互いに互いを紹介する。

 

 芳乃と有地が向き合い、互いに頭を下げ合う。

 

「でだ、ここからが本題。叢雨丸を抜いてしまった以上、将臣君をこのまま帰す訳にはいかない」

 

「…それは、責任を取らされるという事ですか?」

 

「そういう事になる。訳も分からずこちらの都合に巻き込んでしまって、本当に申し訳ない」

 

「いえ。俺が出来る事なら何でもやります」

 

 ん?今、何でもって言ったか?

 これはネタではなく、おじさんは基本優しいが割といい性格をしているから、そういう台詞を軽々しく言うと後で後悔する事になるぞ有地。

 

「ありがとうそう言ってくれて助かるよ。芳乃も、理解できるね?」

 

「…はい」

 

 有地を巻き込みたくない。ただ、状況が状況だけに有地を帰す訳にもいかない。

 芳乃もそれは分かっていた。おじさんの問いかけに渋々といった感じではあるが頷く。

 

「うん、理解が得られて嬉しいよ。じゃあ、叢雨丸を抜いた責任として─────」

 

 あ、まずい。

 咄嗟にそう思う。

 

 こういう時のおじさんはとんでもない事を口にする。過去の経験上、簡単に予測できた。

 そして、その予測は本当に的中する事になる。

 

「将臣君。君には芳乃と婚約者になって貰う」

 

「…え?」

 

「っ─────」

 

 呆けた声を漏らす有地。

 そして、俺もまた思わず息を呑んだ。

 

 その音は他の誰にも聞こえていなかったのが幸いした。

 この術は姿は隠せても音までは誤魔化せない。もし、さっきの息を呑む音を誰かが認識すれば、たちまち術が解かれてしまう。

 

 だが、術が解けた様子はない。とりあえずそこに関しては一安心なのだが─────

 

「婚約者…?」

 

「うん、婚約者。二人には結婚して貰う」

 

「「…はぁっ!?」」

 

 声を揃えて驚愕する二人。俺だって声を上げたい。

 

 というかまずい。自分でもかなり動揺しているのが分かる。

 術の行使に必要なのは明鏡止水の心、要するに冷静でなければならない。

 正直、さっきの音がどうこう以前にまず俺自身が術を維持する精神状態ではなくなってしまった。

 

 早くここから離れなければ。

 最後まで話を聞きたい気持ちはあるが、やむを得ない。

 大騒ぎの本殿を後にして外へ出る。ある程度本殿から離れてから、術を解く。

 

「…結婚って」

 

 久しぶりに芳乃の姿が見れた。それはとても嬉しい事で、言葉を交わす事は出来なかったが駒川の注意を無視して本殿に来て良かったと心の底から思う。

 

「マジ?」

 

 ただ、そこで聞いた話が衝撃的すぎて、同時に複雑で。

 

 胸中はここに来る前とは打って変わり、ぐるぐると定まらないまま俺は帰路に着くしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 お父さんの口から告げられたのはあまりに突拍子のない、私と有地さんの婚約話だった。

 

 当然私も有地さんも混乱して、有地さんなんて聞いてもないのに自分の結婚観について語りだして─────って、そうじゃない!そうじゃなくて…

 

「お父さん!いきなり何を…」

 

「芳乃もついさっき、将臣君をこのまま帰す訳にはいかない事に理解を示してくれたじゃないか」

 

「それは…そうだけど…」

 

 そう。お父さんの言う通り、有地さんをこのまま帰す訳にはいかない。それは分かってる。

 そして、有地さんの立場上、私の婚約者として据える事が最善手だという事も分かってる。

 

 それでも…、それでも、私は…。

 

「…芳乃」

 

「お父さん…」

 

「将臣君も。いきなりこんな事を言われて戸惑うのは当然だ。だが…これは必要なのは事でね。勿論、今すぐに結婚しろと言っている訳じゃない。これから先、君達が望むのなら婚約を解消するのだって構わない。だが今は…、呑み込んでくれないか」

 

 有地さんを─────叢雨丸の継承者を帰す訳にはいかない。それ相応の持て成しをする必要がある。

 その持て成しをするべき立場を持った者が。そう、穂織を管理する朝武の家の者が、叢雨丸の継承者を迎えなくてはならない。

 

 ただ、そういった事情を知らない、特に穂織の外の権力者から見ればどこぞの男が朝武の家に居座っているという風に見られてしまう。

 それを避けるための、私との婚約。飽くまで形式上のだと、分かってはいる。

 

 それでも…、複雑なのだ。

 

「…いや、ちょっ、本当に?え?えぇっ!?」

 

 戸惑う有地さん。この人と、婚約者同士になる。

 仕方のない事だ。だけど─────

 

 ─────陽くん…。

 

 脳裏に浮かぶ、とある男の子の笑顔。

 私と約束を交わしてから五年、帰ってこない男の子。

 

 もしかしたら、約束の事を覚えているのは私だけかもしれない。陽くんはもう私との約束なんて忘れてるかもしれない。

 

 でも…、私は。

 

 私は、私の役目を果たすためにお父さんの提案を呑むしかない。

 

 それが巫女姫。この地を守る者としての役割なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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