カールは呆けた顔で目の前のフィルバーと名乗った女性を見つめていた。
「ええと、僕の名前はカールと言いま………………!
すみません、今は道案内をしている場合じゃなくて、追われているんです!」
カールはぼんやりと自己紹介している最中に我に返ってハッとした。
フィルバーはさらに首を傾げた。
「追われている? 誰に? 何でですか?」
カールは焦った。
どうやらこの目の前の女性に今のひっ迫した状況を伝えられていないようだった。
「よく見ると、カールさん、怪我してるじゃないですか! 早く手当てしないと………………!」
フィルバーはまさかカールが命を懸けての大逃避行中だとは思いも寄らない様子だ。
(全く関係のないフィルバーさんを巻き込む訳にはいかない!)
カールはこの場を離れることにした。
自分と一緒にいては、フィルバーまで口封じに殺されてしまう。
そう考えてのことだった。
「とにかく、僕は今先を急いでいるので、失礼しま……………後ろ危ない!」
カールは、フィルバーの肩越しに鉈を振ろうとする老婆の姿を見た。
フィルバーに体当たりして、鉈の斬撃の軌道上から彼女の体を除ける。
「ッ!」
カールは背中に走る鈍い痛みに顔をしかめた。
どうやら一撃もらったようだ。
目の前で老婆が惜しい、と呟いた。
「いったい何が……! カールさん、大丈夫ですか!」
(くそっ! まずい、最悪の展開だ。)
カールは苦虫を嚙み潰したような顔をした。
自分一人なら心置きなく後ろを振り向いて一目散に逃げるのだが、カールの後ろには町の住民がいる。
『魔法使いたるもの、民草の命をその悪しき同輩から守ることは当然の責務である。』
カールの頭の中に、バルバロッサの口癖が思い浮かぶ。
そうでなくても、今この場で老婆と最低限戦うことが出来るのは魔法が使えるカールだけだ。
(魔法を仮にも学んだなら、一般人を見捨てるなんて、出来ないっ!)
カールは震える手で杖を構えた。
どう考えても老婆のほうが魔法使いとして格上だ。
それに加えて、既に長時間の逃走はカールから多くの体力と血を奪っていた。
カールの眼の前では、老婆がめんどくさそうな様子でいた。
「やれやれ、とんだお邪魔虫が入ってきたもんだねぇ。一人ならまだしも、二人もこの町から消えたとなると、多少は怪しまれるか………………。」
老婆は肩をガックシと落とした。
「少し遊び過ぎたかねぇ。
………………さっさとけりをつけるとするかね。」
次の瞬間、カールの胸元に鉈が添えられた。
(早いっ! 反応できない!)
カールは目で追うことすらできていなかった。
もう、鉈はカールの首元まで迫っていた。
カールは死を覚悟して思わず目を閉じた。
(フィルバーさん、巻き込んでしまってごめんなさい。
……………メディシー、ボッカチオ、さようなら。)
次の瞬間、カールは後ろにグイッと引っ張られた。
驚くカールが目を開けると、フィルバーが目の前で淡く青い光を放つ槍を構えていた。
カールは目を疑った。
フィルバーの放つオーラがさっきまでと様変わりしているからだ。
(凄い、雰囲気がまるで違う………………。)
どこかおどおどとしていた第一印象とは裏腹に、今のフィルバーは静謐な冷酷さを漂わせていた。
「どちらに非があるのかは、知りません。しかし、命を奪うのは行き過ぎでしょう。
これ以上彼に危害を加えるというのなら、それを阻止します。」
フィルバーは冷めきった声で告げた。
老婆はにやりと笑った。
「あんた、やるねぇ。さっきまでは何だい、猫でもかぶっていたのかい?」
フィルバーは沈黙を保っていた。
鋭い鷹のような目が老婆を刺す。
「まったく、返事をしてくれないと寂しいんだがねぇ。じゃあ、無理やりにでも──」
口開いてもらおうかい。
老婆が獣のように低い姿勢でフィルバーに襲い掛かる。
鉈の鈍色の軌跡と、深青色の軌跡が溶け合う。
老婆は、まるで猿のような奇妙な動きで相手を翻弄せんとする。
対するフィルバーは、ただひたすらに美しさすら感じさせる洗練された動きを見せていた。
と、老婆がさっと後ろに下がる。
パァンと何かがはじけた音がした。
「おおぉう、これはこれは………………。
かわいい顔をしてあんたもなかなかえげつないことをするもんだねぇ。
どちらかというと、こういうのはあたしの領分なんだけどねぇ。」
老婆は懐から潰れた猿か何かの頭蓋骨を取り出した。
どうやら、術者の代わりに魔法を引き受ける類の道具のようだ。
「まあ、そっちが魔法を使うんだっていうんなら、遠慮は無しさ。」
老婆が指をくいっと曲げる。
すると、血のように赤い針のようなものが次々とフィルバーに向けて放たれていった。
が、フィルバーに近づくにつれ、溶け始め、空気中に霧散していった。
お返しとばかりにフィルバーは空から白色に輝く槍の雨を一帯に降らす。
老婆は大きな陶器の瓶を割ると、その中身を頭上にぶちまけた。
ワイン色の中身の液体は瞬時に空中でどす黒く固くなり、槍を受け止めた。
いくつかの槍はそれを貫通して老婆を掠めたが、老婆に気にした様子はなかった。
と、老婆の体から無数の蟲が姿を現し、フィルバーに向けて飛び掛かる。
が、すべて、フィルバーの張り巡らせられた細い白色の光に切断され、バラバラにされた。
「そろそろ、死んでもらうとするかいっ!」
老婆の顔が険しくなった。
何やら大魔法を行使するつもりらしかった。
カールは目の前の老婆の放つオーラがさらに重苦しくなるのを感じた。
それに対抗するかのようにフィルバーの放つ魔力も高まる。
戦いはその絶頂を迎えたようだった。
老婆はいきなり口から黒い何かを吐き出した。
それは粘っこくて、地面にドロリと広がっていく。
ある程度、吐き出すと老婆は口元をローブで拭ってにやりと笑った。
「百年じっくりと醸成させた呪いを食らいな。」
黒い泥のようなものがブルリと震えたかと思うと、まるで意思があるかのようにフィルバーのほうに向かって近づいてくる。
カールはそれが近づくにつれて、その魔力を肌でしっかりと感じ取っていた。
(ふざけるな、あんなのバルバロッサ先生でも丸一日かけて浄化できるかって代物だぞ!)
フィルバーが目をつぶってぶつぶつと何か唱えた。
と共に、フィルバーを中心として純白の球が広がっていく。
カールはそのあまりにもの純粋な白さに眩しくて、目が開けていられないほどだった。
と同時に莫大な力が込められているのを感じ取った。
バルバロッサ先生の全力と同じ、いやそれを遥かに超えた………………。
(嘘だろ………………。)
もうカールは息をするのも忘れて目の前の二人の戦いに目を奪われていた。
まさしく、魔法の秘奥を修めた者同士の死闘。
カールはもはや恐怖どころか感動すら覚えていた。
漆黒の泥は今や路地裏全体を覆わんとしていた。
木製の壁、石畳の道。
全てが黒に飲み込まれていく。
遂には空さえも陥落していった。
そして、カールとフィルバーの全周囲を囲んだと同時。
一斉に襲い掛かってきた。
白色の光と、黒色の闇がぶつかる。
拮抗は無かった。
あっけないほどの一瞬で黒は光に触れた途端消し飛んでいく。
膨張する白色の光は辺りからそれ以外の色を奪った。
ガガガッ、ギギギギギギギッ!
最早人の発する声とは思えないものが白色のベールの向こうから聞こえてきた。
白い光がおさまった後には、倒れ込む老婆と、その前に超然と立つフィルバー、そして脇で二人の戦いを見つめていたカールだけだった。
老婆はカールから見ても、満身創痍だった。
常に体からは黒い蒸気が噴き出し、あたりには一面の赤が広がっていた。
どうやら、自らの行使した魔法が破られた代償を払ったようだった。
ふとカールは老婆のローブの汚れていない所が白色なのに気が付いた。
(マスター位! 道理でとんでもない魔法使いなわけだ。)
「ギッ、酷いじゃないか、ギッ、ギギギギッ、こんな年寄りに暴力をふるうなんてねぇ、ギッ。」
老婆はもはや地面に溶けたかのようだった。
全身からぼろぼろと魔道具らしきものが零れ落ちてくる。
全てが例外なく罅が入っていたり、破れていたりしていた。
「ギッ、あ~あ、ギッ、二百年かけて、ギッ、ギギギギギギギッ、ため込んだ身代わりの、ギギギッ、ムダニ、ギギギッ、ナッテ。」
もうすでに老婆の体は黒い粒子となって散り始めていた。
「コンナトコデ、ギギギッ、シンリ、ギギギッ、ヒオウ、ギギギッ、マホ………………。」
老婆はもう声を発することはなかった。
老婆の体は遂に完全に空に溶け込んでいき、石畳の上に黒い染みが残されているだけだった。