(おかしい、何かが絶対におかしい………………。)
カールは一人、図書室にこもりながら一人ごちた。
メディシーとボッカチオの様子がおかしいとわかり、何か異常なことが起きていると気が付いたあの日から、もう二週間が経っていた。
カールは、周囲の人々に気取られないよう注意を払いながら、この事態を探っていた。
まず、カールはどんな人にどんな影響が出ているのかを調べた。
どうやら、気力を失っているのはボルドウィンド城の学徒や先生、御師様などに限られ、町の住民には一切の被害は出ていないようだった。
また、最も精神に支障をきたしているのはメディシーだ。
というよりも、メディシーを中心として被害が広まっているようだった。
そして、例外として、ハインリヒだけ何の変化も見られなかった。
ハインリヒは、いつも通りオドオドしているが、目から生気が失われたりしていることはなかった。
何かしら、この魔法学院の惨状に関わっているのは明白だ。
次に、カールは原因は何かを調べることとした。
無論、怪しいからといってハインリヒの元にいって、「最近皆の元気がなくなっているけど、君何したの?」なんて聞くわけにもいかない。
なので、図書室に籠って似たような事例が過去になかったか、こっそりと調べてみるのだった。
すでにカールが図書室に日が昇ってから暮れるまで立てこもるようになって一週間が経とうとしていた。
しかし、成果は芳しくなかった。
(かつて、古代ロンゲルニア帝国では人の精神に干渉する魔法が統治に利用されたって書いてあるけど、もうそんな何千年前のことなんてほとんど伝承が途絶えてしまっているからなぁ………………。)
カールはパタンと、古びた分厚い本を閉じた。
ついでに、ほこりが辺りに舞い、咳き込んだ。
ボルドウィンド城の図書室は、この王国の中でも三本指のうちの一つに数えられるほどの蔵書数を誇っている。
代々の御師様やそれに付き従った卒業生たちが、遠い後輩たちのために旅先の出来事や学んだり編み出したりした魔法を羊皮紙にまとめ、それが何代にもわたって積み重なってできた。
先が見えないほど長い書庫の列は三階層にまでまたがっている。
書庫と書庫の間に置かれた長机からは吹き抜けを通してその巨大さが感じられた。
古びた本棚から、あれやこれやとすり切れてボロボロの本を取り出す。
何百年もの間受け継がれてきた記録の数は膨大で、カールの調べ物が終わる気配は感じられなかった。
長机のカールの座る席の両側にうず高く積まれた鈍器のような本の山。
それを見て、カールはめまいがした。
深いため息をつき、椅子の背もたれにのしかかる。
全身の体重を委ねる心地よさに酔いしれながら、体をぐっと伸ばす。
ギシギシと椅子がきしむ音がテンポよく響く。
仰向けになって、書庫と書庫の隙間の窓から見える青空に目を細める。
何とも心地よさそうな日差しの一日だ。
外からは賑やかな小鳥のさえずりが聞こえてきて、冷たく陰気くさい図書室に閉じこもっている自分が際立って野暮に思えてくる。
(もういっそのこと、全部忘れて外に行って中庭で日向ぼっこでもしようかな………………。)
カールの瞼がそっと落ちていく。
と、冷たい石畳の床から伝わる冷気にカールは身を震わせた。
自分で自分のほっぺたをひっぱたく。
(いけないいけない、今は大変なことが起こっているんだから、怠けている暇なんてないぞ!)
自分の頭ほどもありそうな巨大な本『堕落の告白録』を一苦労しながら開く。
嫌気が差しながらも序章から読み始めたカールに声が掛けられた。
「カール、何調べてんだぁ………………。」
カールは飛び上がらんばかりに動揺した。
さっと何でもないようによそよいながら、積み上げられた本を背中に隠す。
そうして、カールは向き直った。
声の主はボッカチオだった。
十日前にもまして生気がなくなっていた。
全身はけだるそうに弛緩し、目元は落ちくぼんでいる。
ここ数日まともに食事を取っていないのか、腕は既に枯れ木のように細くなりかけていた。
そんなボッカチオをカールは悲しみを湛えた目で見る。
どう考えても、正常ではなかった。
今更ながら、カールはボッカチオの唯我独尊を貫く自信にあふれた態度を思い返した。
かつては疎ましく思っていたが、失って初めてその有難みに気がつく。
やはり、ボッカチオは威張っていなければいけないのだ。
このような、最早生きる希望すら失っていそうな今の姿はただただ痛ましいだけだった。
カールは慎重に言葉を選んでボッカチオに返した。
「いや、お恥ずかしながら御師様を誰にすればいいのか分からなくて、いろいろと調べているんだ。」
カールは、正気を失った周囲の学生や先生に調べ物の内容を伝えるのは、なんとなく嫌な予感がししていた。
だから、訝しまれても、御師様探しのためだと押し通してきたのだった。
「へえぇ~~~~。だとしたらカールは即刻この学院を出ていくべきだな。
『闇の告白録』は禁術に手を出し外道に身を堕とした魔法使いの自伝だ。
もし禁術を教わるんだったら、東にいるって言われている伝説の樹海の魔女にでも会いに行くんだな。
ボルドウィンドにそんなもん教えてくれる御師様なんていないぞ。」
まずい、カールは冷や汗を流した。
よりにもよってとんでもない本を読んでいるときにつかまってしまった。
「あ、あはは………………。」
苦笑いを浮かべることしかできない。
ボッカチオは長机の上の他の本も覗き込んできた。
「『王国禁術大全』、『闇の魔術に関しての詳細な報告書』、『絶望、あるいは深淵な闇』………………。
おいおい、本気で闇に堕ちるつもりかよ。
まるで初心者向けの暗黒魔法の手引きみたいな取り合わせだな。」
カールの調べ物の性質上そっち方面に文献が偏るのは避けられないことだった。
「………お前、ほんとに御師様探しのためか、これ。」
ボッカチオが核心をついてくる。
その光のない目がカールの顔をしっかりととらえた。
「っ!」
カールはたまらず、立ち上がった。
これ以上はもっとボロが出て、取り返しのつかないことになる。
「ごめん、僕用事思い出した!」
取ってつけたかのような言い訳をして、さっと杖を振る。
「『風よ わが意に従いたまえ』!」
途端、図書室の窓という窓から風が吹き込んでくる。
それらの風は優しく書籍を持ち上げると、めいめい元あった場所へと運んでいく。
時々制御を誤り、本を壁や棚にぶつけてしまう。
メディシーほどうまくはいかなかったが、何とか机の上に積まれた本を棚に戻すことが出来た。
その間、カールは自分の背中にボッカチオの粘着質な視線が注がれているのを感じた。
(何だか、監視されているみたいだ………………。)
そのまま、カールはくしくも二週間前のフィルバーと全く同じようにボッカチオから走って逃げたのだった。
ずっと、その背中にボッカチオの眼が注がれるのを感じながら。
その翌日。
ボルドウィンド城に再びやってきたカールは自分に無数の視線が注がれているのを感じた。
振り返ってみると、近くの先生や生徒がさっと目をそらす。
どこに行っても監視の目があるかのようだった。
大広間。
中庭。
図書室。
はてはお手洗いまで。
ありとあらゆるところで生気のない目が必ずこちらをじっと見つめているのを感じている。
目を合わすと、まるで偶然だとでも言わんばかりに目線をごまかしてくるが、最早、カールには明白だった。
背筋に冷たいものが走る。
学院は不気味な雰囲気に包まれていた。
(確実に、昨日のボッカチオとの一件のせいだろうな。)
恐らくは、この学院の者はほとんど全員が操られたり、寝返ったりしているに違いない。
調べ物をこっそりとしたときの悪い予感が的中してしまった。
(思った通りだと喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか………………。)
しかし、最大の問題は、あからさまに調べ物を邪魔しようとしてくることだった。
図書室で本を取ろうとすると、横からかっさらわれる。
長机に座ろうとするも、ガラガラな普段と違って満席にいきなりなる。
生徒に何か変わったことが無かったか聞こうとしても、はぐらかされる。
これらはまだましで、本を読んでいるときに火の玉をぶつけられそうになったこともあった。
事態は、カール自身がなんとかできる領域を超えていた。
学生であるカールには深刻過ぎる。
何より、学院全体が敵のようなありさまだった。
(どうしよう…………。)
カールは頭を抱えた。
(誰も頼れる人がいないな…ん……て…………!)
カールははじかれたかのように顔を上げた。
(いるじゃないか! 今この学院に誰よりも優れた最高の魔法使いが!)
階段を駆け上がる。
たしか、この城の客室のうちあの人に割り当てられた部屋は最上階だったはず。
(ガイウス様なら必ずこの異常事態に気がついてるはずだ!)
あった!
普段生徒の通らない城の一角。
赤い絨毯の敷かれた廊下の一番突き当りに、ひと際豪華な扉がこしらえられていた。
待つ暇すら惜しいと言わんばかりに勢いよく扉をたたく。
(早く、早く!)
何度も、手が痛くなるほど頑丈な木の扉にこぶしを打ち付ける。
何度も。
何度も。
何度も。
………………。
返事は、ない。
(もしかして、留守なのかな。)
カールは心が落ち着いてきた。
(ガイウス先生は偉いお方だし、当然と言えば当然か。…………後でまたこよう。)
カールは踵を返した。
パリッ。
何か、乾いた音が響いた。
カールは何の気なしに足元を見た。
初めは何もおかしいところなどないように感じられた。
ただの赤い絨毯だ。
しかし、次第に何がその音を立てたのか気が付くにつれて、顔から血の気が引いていった。
赤い絨毯に。
違う赤が混ざっている。
その赤は。
絨毯の赤とは違って。
どす黒く。
乾燥して、ひび割れて、こべりついて、染みになって。
つまり。
血だった。
その血はガイウスの部屋の扉の下から流れ出てきたようだった。
カールは、ドアノブに手をやる。
動く。鍵がかかっていない。
すこしずつ、扉が動く。
カールは全身が震えた。
早く開けろと促す意識とは裏腹に、体は緩慢にしか動かず。
そうして、露になった光景を。
カールは信じたくなかった。
一面の血。
もう何日も前にぶちまけられ、乾ききった血痕が部屋全体に飛び散っていた。