集会の時間が押しているせいもあってか、バルバロッサ先生は二人を今すぐここで搾り上げるようなことはしなかった。
これ幸いとばかりに二人は、バルバロッサ先生のいる演壇の前からそそくさと去り、大広間の中にぎっちりと置かれた長椅子の列の後ろのほうに座る。
多くの生徒の背後に隠れたにも関わらず、カールにはバルバロッサ先生のもの言いたげな視線がありありと感じられた。
それからしばらくして、バルバロッサ先生は話を再開した。
しかし、その話はカールが初めてこの学院に足を踏み入れてからずっと耳にタコができるほど聞いてきたことで、正直カールは退屈していた。
バルバロッサ先生は魔法使いとしての責務や使命など堅苦しい話をよく好んだ。
厳格なバルバロッサ先生らしいことであった。
ふとカールが隣を見ると、すでにメディシーは舟をこぎ始めていた。
「おい。」
トンッとカールの肩が叩かれた。
後ろを振り返ると、ニヤニヤしながらこちらに小さな声で話しかけてくる少年がいた。
「なに、ボッカチオ。」
カールは半ばうんざりしながら小さな声でまた答えた。
南部の商業都市、ヴェネーノの大商人の一族出身のボッカチオという少年はとにかく自尊心が強く、いつも主席のメディシーに突っかかっていた。
自称メディシーの好敵手であるボッカチオは自然とそのそばにいるカールとも顔見知りになっていった。
しかし、やたらと気取った態度をとるので、ボッカチオ自身に悪気はないにしても、カール本人は苦手としていた。
「なんだ、その態度は。ここからこのボッカチオの偉大な伝説の一幕が明けるというのに連れない態度だな。後で後悔しても知らんぞ。」
ボッカチオは憮然として鼻を鳴らした。
カールはその大仰な態度にもうすでに面倒くささを感じ始めていた。
もういっそのこと、ボッカチオのことは無視してやろうかと思い始めたが、カールは思いとどまった。
そうすると、この後さらに何倍も面倒な絡み方をしてくるからだ。
あきらめたカールはボッカチオに乗ることにした。
それに、カールは並大抵のことは自分にとって不相応だと不満を漏らすボッカチオは、御師様のこともただの踏み台で特に気にもかけないと思っていたので、ボッカチオのさっきの発言はカールにとって意外で、そのわけを知りたいというのもあった。
「で、どうしたの、ボッカチオ。」
途端に、ボッカチオは満面の得意顔を浮かべた。
「そうか、そうか。そんなにこの俺に運命づけられた御師様について聞きたいか。」
そのもったいぶった言い方に、カールは早くも聞き返したことを後悔し始めたが、ぐっとこらえた。
「実は、とある信頼できる筋からの話だが、今回の御師様の中にバルバロッサの師匠がいるらしいぞ。」
いったい何の話なのか、さっぱりカールにはわからなかった。
確かにバルバロッサは学院でも珍しいマスターの称号を持つ優れた魔法使いで、その御師様もまた同様にたいそうな魔法使いなのだろうが、ボッカチオがわざわざ言及するほどのことに思えなかった。
ボッカチオはぴんと来ていなさそうなカールの様子を見て取ったのか、舌打ちをした。
「いいか、バルバロッサ先生の御師様はだな………………」
「ガイウス=マリウス=アントニウス。通称、偉大なるガイウス。歴史上もっとも優れた魔法使いとして歴史家ヘロドロスが提唱した八賢人のうち、唯一未だ存命で、五百年の長きにわたって世界最高の魔法使いの名を背負う伝説の英雄。実はこのボルドウィンドの学院の創立にも深く関わっているとか………………。
ねえ、ボッカチオ。それ、本当? 嘘だったら承知しないわよ。」
いつの間にか、メディシーが起き上がってこちらに目を向けていた。
そして、カールにも事の重大さがようやく飲み込めてきた。
そんな馬鹿な! カールは確かにガイウスのことを知っている。とはいってもそれは歴史の資料や古い文献、おとぎ話によるものだ。
カールは正直ガイウスがまだ生きていると聞くたびに疑いの念を抱いていた。
それはそうではないか。ただの人間が六百年や七百年など、生きられるものか。
「ねえ、二人とも。本当にガイウスなんてまだ生きているの?
正直なところ、その話が眉唾物にしか聞こえないんだけど。」
カールはふと自らの疑念を口に漏らした。
メディシーとボッカチオは二人で顔を見合わせて、ため息をついた。
「お前はどこか世間知らずなところがあるな。ガイウス先生は王都の魔法士院の院長を現在も務めておられる、立派にご存命のお方だ。」
「カトリーヌ辺境伯家とも親交があって、時折お父様が手紙をやり取りしてるわ。
この前の夏季休暇の間も返事の内容をうんうん考えていたわよ。
私が言い忘れていたのかしら?」
二人に暗に常識がないと言われてカールは顔から火が出る程恥ずかしくなった。
しかし、もしボッカチオの話が本当だとすれば、かの生ける伝説の魔法使いに直接教授を乞うことが出来る誰かは、今年の卒業生の中で最も幸運な者に違いない。
誰であろうとそうと望まずにはいられないだろう。
いったい誰をガイウス様は選ぶのだろうかとカールは思いを巡らせた。
しかし、カールは選ばれる可能性があると感じたのは二人だけだった。
今代で最も才気に溢れる稀代の天才、メディシー。
その天才に限りない自尊心と努力で食らいつく秀才、ボッカチオ。
この二人を差し置いて、ほかの誰かが選ばれるだろうとは思えなかった。
「メディシー。ヴェネーノの誇りに懸けて、俺はこの機会だけは逃せない。今回ばかりはなりふり構わず行かせてもらうぞ。」
ボッカチオの眼に真剣な炎が宿った。
「もちろんよ。受けて立つわ。こんな千載一遇の機会を逃すぐらいなら死んだほうがましよ。」
メディシーも重い口調で返した。
メディシーとボッカチオはバルバロッサ先生の長い話が終わり、御師様達のお披露目が始まるまでずっと睨みあっていた。
「………………以上、魔法使いとしての自覚を諸君に期待して、このバルバロッサからの訓示を終わりとする。
それでは、遅くなったが、諸君の魔法の研鑽の道しるべとなり、薫陶を授けていたただく御師様達の紹介に入るとしよう。」
バルバロッサ先生がさっと手を振ると、大広間中に風が駆け抜け、鎧戸を次々と閉じていった。
大広間の中は暗く、ろうそくのゆらゆらと揺れる炎の光だけがまばゆく輝いていた。
そこに、バルバロッサ先生の低く、とどろき渡るような声が響き渡る。
「三年前、キメラの討伐でその武勇を轟かせ、現在はヘンドリング伯爵家に騎士として叙勲された口寄せ魔法使い。
アルクイン=アクィナス、獣の如しアルクイン!」
バルバロッサ先生が演壇を風で押し脇にどけていく。
バルバロッサ先生自身も大広間の端によけると、全身を白いローブで包む大男がのしりと奥の暗がりから姿を現した。
鍛え抜かれた肉体からは思いがけないことに、その目は鋭く、深い知性を感じさせた。
その男がいきなり大きく腕を広げ、息を吸った。
カールは何かがこの大広間の中に入ってくるのを感じた。
それは、石畳の間であったり、扉の隙間などからであった。
この世ならざる気配をした何かは、渦巻くようにして、その大男の口の中に吸い込まれていった。
ぶるっと男の体が震えた。
そして、男の体ははちきれんばかりに膨らんでいく。
目には狂気の色が浮かび、全身の筋肉が痙攣する。
その男は今や巨人のような圧迫感を感じさせた。
男が足を前に一歩踏み出すと、大広間中が大きく揺れた。
すさまじい咆哮が響き渡った。
力強く、あたりを震撼させるような不気味な声であった。
カールはまるで自分が猛獣の前に放り出されたかのように感じ、身をすくませた。
パァンッ!と大きな音が響き渡る。
気が付くと、大男の様子はすっかり元の理性を感じさせるものに戻っていた。
そっと、男は大広間の端、バルバロッサ先生の隣にはけていった。
「恐らく太古の神話時代の巨人の魂の一部を自分に憑依させたんだわ。
すごい、巨人の狂気をあんなに抑え込めるなんて。」
どうやら、メディシーにとってもとんでもないことだったらしい。
カールはいったい何をどうしたらそんなことが出来るのかと感嘆した。
やはり、マスターの称号を得たものは違う。
学院ではマスターはバルバロッサ先生を除いてほとんどいないからこそ、カールは大いに感銘を受けた。
その後も、思わずメディシーがうなってしまうような魔法が次々と披露されていく。
大広間の天井に星空を作り出すもの。
無数の分身を生み出すもの。
大草原の幻を見せるもの………………。
カール達が学院で一度も目にしたことのない魔法の秘奥が惜しげもなく披露される。
カール達は目を奪われ、ただただため息をつくばかりであった。
そして、そのお披露目も終盤に差し掛かり始めた。
カールはメディシーとボッカチオの緊張が高まっているのを感じた。
カール自身もまた、否が応でも二人につられていく。
バルバロッサ先生の声が少し震えたように感じた。
「そして…。六十年前不肖このバルバロッサを弟子に取られてからは、王都の魔法士院に乞われ、院長を務められている世界最高の魔法使い………………。
ガイウス=マリウス=アントニウス、偉大なるガイウス!」
ついに、その時が来た。