放課後の校庭を、西陽に照らされながら一人の少女が走っている。
体操服は汗で肌に張りつき、朝方出かける前に母親に綺麗に整えて貰った尻尾も、砂埃でドロドロになってしまっているが、そんな事などお構い無しにただひたすらに走る。
少女はクラスのウマ娘の中で、一番足が遅かった。学年全体で見てみても、下から数えたほうがきっと早い。
少女はそれが堪らなく嫌だった。
だからこうして放課後になると、毎日一人で走る練習をしていた。
しかし、いくら走っても少女の足は一向に早くなる気配がなかった。
ついに足を止めて、両膝に手をついて肩で息をしながら、もう諦めてしまおうかと思った、そんな時だった。
———君さ、走り方が悪いんだよ
不意に背後から、そんな声がかかった。
少女が振り返って見てみると、一人の少年が立っていた。
身長は少女よりも少し低いくらい。ダボついた服から伸びる手足は、少し力を込めれば簡単に折れてしまいそうな程細い。
風が吹けば飛んでいってしまいそうな、ヒョロヒョロな体の上に乗っかった幼げな顔に、寝癖なのか癖っ毛なのかわからないような、クシャクシャの黒髪を撫でつけながら、ジッと少女を見ている。
その目は何か楽しい事でも見つけたかのように、妙にキラキラとしていた。
突然の事に呆気に取られる少女だったが、すぐに沸々と怒りが湧いてきた。
何故、良く知りもしない相手にそんな事を言われなければならないのか。
———あなたには関係ないでしょう!
そう言って、少年をキッと睨みつける。
少女の耳は絞られ、尻尾は不機嫌に揺れて、不快感を露わにする。
それを気にした素振りも見せず、少年は少女に一歩近づく。
———腕もさ、肘から先だけで横に振るんじゃなくて、もっと肩から全体を使って真っ直ぐ振らなきゃ
そして少女の腕を取ると、それを動かしながら続ける。
———こうするとさ、腕に引っ張られて体の軸が横にぶれちゃうでしょ? だから前に進むための力が弱くなるんだって
本で読んだんだ、なんて言いながら笑顔で顔を覗き込んでくる少年の異様な積極性に、少女はたじろぐ。
この少年は一体何なんだろうか。何故こんなにも自分に構ってくるのだろうか。そんな疑問が頭の中を駆けめぐる。
余りにも無防備に接してくる少年に、すっかり毒気を抜かれた少女は改めて少年の事を見てみる。
身長はこうして隣に並んでみれば、やっぱり少女の方が少しだけ高い。手首だって少女のあまり大きくない手でも、簡単に指が付いてしまう。
同じクラスではないと思う。と言うか、同じクラスなら忘れないと思う。それくらいの衝撃を、少年は少女に与えていた。
———歩幅も、もっと大きくした方がいいと思う。あと、足を着く時も踵からじゃなくて、爪先から着くようにした方がいいかな。
初めは訝しげに聞いていた少女も、意外と詳細な少年の指導に徐々に興味を引かれていった。
———詳しいんだ?
少女の問いかけに、少年ははにかんだ様に微笑んで答える。
———僕、体力なくて余り走れないから、ちょっとでも走れるように色々調べてるんだ。それで、君が走ってるの見えたから
つまりは、調べた事が実際に効果があるかを確認する為の実験台を探していたのだろうと、少女はそう思った。
しかし、自分一人だけでは手詰まりなのもまた事実。これから自分であれこれ調べるよりも、既にある程度まとまった知識を持った相手に聞いた方が確実に手っ取り早いだろう。
少女はコースに戻りながら、少年の方に振り返った。
———これで速くならなかったら、蹴っ飛ばしてやるから!
そしてその日から、二人の特訓が始まった。
初めはフォームの矯正の為に、ゆっくりとコースを周回する事から始めて、徐々に速度を上げていった。
フォームが治れば、今度はコーナリングの研究を始めた。
コーナリングが上達すれば、今度はペース配分に気を配った。
一月程で少女の順位は、学年の中間辺りになり、半年経つ頃には上位へと食い込んだ。
そして一年経った頃には、少女は学校で一番足の速いウマ娘になっていた。
そうなってからも、少女と少年は毎日走りの特訓を続けた。ただただそれが楽しかったのだ。
一緒にどうすれば速くなるかを考えて試してみて、そして実際にタイムが縮んでいくのがひたすらに楽しかった。
ずっとそんな日が続けば良いと、そう思っていた。
しかし、その日々はずっとは続かなかった。
卒業式を間近に控えたある日、少年は少女に校舎裏へと呼び出された。
そこは、今となっては使われていない錆びついた焼却炉があるだけで、日当たりも悪く、滅多に人の寄り付かない場所だった。
少年が着いた時には、少女は既にそこに居た。
普段の活発さは身を潜め、耳も尻尾も垂れ下がり、目を伏せてジッと佇むその様子に少年は何か言いようの無い不安を感じた。
———あの、さ……
少年の目を見る事なく、少女が話始める。
———私、引っ越す事になった……
今までの特訓やその成果を両親にも伝えていて、そこまでするのならレースに出てみないかと言われ、せっかくだからとトレセンを受験した所、最近合格通知が届いた。
寮には入らず自宅からの登校にするから、卒業後すぐに引っ越す事になる。
そういった事を、少女は言っていたと思う。
正直なところ、少女が話している間、少年は上の空だった。
ただ、やっぱりウマ娘なんだしそっちの道に進むんだなぁとか、それでも相談ぐらいして欲しかったなぁとかそんな事を考えていた。
それでも少女の決めた事なのだから、自分が口を挟むような事はないと思った。
———そっか
ポツリと、言葉が漏れる。
確かに少女に会えなくなるのは寂しいが、そんな自分の我儘に付き合わせるわけにもいかない。
何より、自分との特訓の成果を発揮する、またとないチャンスでもあるのだ。応援しない訳がない。
———うん、君ならどんな所でもやっていけるよ
だから、思った通りの事をそのまま伝える。実際、素人の自分の指導でここまで伸びるのだから、素質自体は十分だろう。
しかし、少年のそんな言葉を聞いた少女はほんの一瞬だけ表情を曇らせる。
ただ、それに少年が何かを思うよりも先に笑顔を浮かべ、少年の顔を見据える。
———うん、ありがとう
そうしてお礼を言う少女の顔は、何かを吹っ切ったかの様に晴れ晴れとしていた。
そして、その日を最後に少年と少女の特訓は終わりを告げた。
卒業式も終わると少女は引っ越して行き、少年はそのまま地元の中学校へと進学した。
そして月日は流れ、高校2年の夏。
そろそろ進路をどうするかを考えなければならない時期だが、少年は未だに何の答えも見出せていなかった。
結局あれから何か特別な事もなく、ただ時間だけが過ぎていった。
このまま何もなければ、とりあえず近場の適当な大学を受験するか、さもなくば地元の中小企業へと就職するか、二つに一つだろう。
そうやって何事もなく時間だけを浪費して、無為に人生を送るのだろうか。
陰鬱な気持ちを切り替えようと、何気なくテレビの電源を入れる。
そこに、"彼女"が居た。
その日行われる重賞レース、その前にある少年には名前もわからないオープンレース、その一つに彼女は出走していた。
髪はあの頃よりも少し伸び、身体つきもすっかりとアスリートのそれになっていたが、見間違える筈もない。
あの頃よりもしっかりとしたフォームに、綺麗なコーナリング。息の入れ方も、ペース配分も申し分なく先頭で駆けていく。
最終コーナーを周って、追い縋る後続を振り切って、そのまま先頭でゴール板を駆け抜ける。
その姿がただただ眩しくて、目が離せなかった。
ウィナーズサークルへとやって来た彼女と、その隣に並んで立つ男性、恐らくは彼女のトレーナーであろうその人に向けられる、彼女の心底嬉しそうな笑顔を見た時、少年は締め付けられるような胸の痛みを感じた。
そして、その時になって少年は自分の気持ちに気が付いたのだ。
———あぁ、そうか。俺はアイツが好きだったんだ
そして、あの時の少女の表情の意味も、今となってはこの気持ちが届かないだろうことも理解できてしまった。
そんな胸の痛みにそっと蓋をして、少年は画面の向こう側で、笑顔で手を振る少女に向かって静かに呟いた。
———おめでとう
そして、少年は大人になった。