出ました。
後、ドーベルはちゃんと引けました。
可愛いです。
ブライトと並走したその翌日、俺は新たな並走相手を求めて共用のトレーナールームへと足を運んだ。正式にドーベルと担当契約を結んだのは2日前なので、俺のデスクも一応はまだ残っている。久下トレーナーから引き継いだトレーナールームもあるし、近々こちらは引き払う事になるだろうが。そんな共有ルームにて、同期への並走申し込みの結果はというと、散々なものだった。
ある者にはいきなり名門メジロ家を相手にしては担当の自信を喪失してしまうと断られ、またある者にはメジロのウマ娘との担当契約を嫉妬され、そもそも先輩トレーナー達に目をつけられた相手とのトレーニングはリスクが高いと敬遠された。
まさか模擬レースでの一件が、ここまで影響を及ぼすとは思ってもみなかった。しかし、あの時点でドーベルがアルナイル所属だったのは事実だし、チーム残留を決めたのも彼女自身である。それを、なんでここまで根に持たれる様な事になるのか、理解に苦しむ。
もう並走相手を同期から探すのはやめて、エアグルーヴに頼んでトレーナーに取り次いで貰おうかと思い始めた頃、ふとある人物に目が留まった。その人物は、端にあるデスクでパソコンに向かってキーボードを叩いていたかと思えば、すぐ横に積まれている本を手に取って真剣な表情で忙しなくページを捲っている。
歳の頃は20に届くかどうか、まだ学生だと言われれば信じてしまいそうな、少女と言っても差し支えない様な幼げな顔に、襟にフリルのついたブラウスの上から黒いベストを着て、下はグレーのスラックスでキッチリと固めている。ボブカットの黒髪の左側を耳にかけ、それを菱形の髪飾りで留めている。頭の後ろで小さく括られた髪が、彼女の頭の動くのに合わせてピョコピョコと揺れていた。
見覚えのない女性だった。ベストの胸部分にバッジが着いているので、トレーナーである事は間違いない。はて、今年の新人の中にこんな女性が居ただろうか。とりあえずこれで最後とばかりに、ダメ元で声をかけてみる。
「どうも、お仕事中すいません。少しよろしいですか?」
「……あ、はい! なんでしょうか?」
声をかけられるとビクリと肩を跳ねさせて、大きな丸い目をさらに丸くして、慌てた様にこちらを振り返る。その様子がなんだか小動物の様で、なんとも可愛らしい。
「急にお声がけして申し訳ない。今年入られたトレーナーの方でしょうか?」
「えっと、はい。そうですけど……」
目の前の彼女は、俺に向かって訝しげな表情を見せる。まあ、知らない相手にいきなり話しかけられれば、誰だってそうなるだろう。これ以上の不信感を与えてしまう前に、さっさと要件を済ませてしまおう。
「不躾な質問になりますが、今担当している娘は居られますか?」
「居ます、けど……」
彼女は表情を変えず、ジッと俺を見ている。目つきが完全に不審者を見る時のそれだ。おかしい、丁寧な対応を心掛けているはずなのに。
半ば心を折られそうになりながらも、これも担当の為だと自らに言い聞かせながら、話を続ける。
「実は今、ウチの担当と一緒にトレーニングをしてくれる相手を探していまして。もしよろしければ、そちらの担当の娘と御一緒させていただけませんか?」
そう言って、なるべく好印象を与えられる様に笑みを作る。彼女は驚いたように目を瞬かせていた。そうして、どこか遠慮がちに聞いてくる。
「えっと、よろしいのですか?」
「……? ええ。貴女が良ければ、ぜひ」
彼女の言葉の意味はよくわからなかったものの、俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに顔一杯に笑みを浮かべ、弾かれたように立ち上がると、俺の手を取って勢いよくブンブンと上下に振り回す。
「ぜひ、お願いします!」
「おぉう……。こ、こちらこそ……」
俺は彼女の突然の変化と、その勢いに気圧されて返事がおざなりになってしまう。彼女はそんな俺の様子なんて気にも留めずに、両手を頭上に高く上げて全身で喜びを表現していた。
「実は私、こういうの憧れてたんです! 他の同期の方とは、余りお話する機会もなかったので、嬉しいです!」
「そうですか。それは良かったです。俺は関原と言います。よろしくお願いします」
「はい! よろしくお願いします! 私は———」
◆
「と言う訳で、今日一緒にトレーニングする桐生院トレーナーと、その担当のハッピーミークだ」
「いきなりすぎるでしょ」
トレーニングコースにて、アップを済ませて俺を待っていたドーベルの元に桐生院トレーナーと、セミロングの白毛に花の形の耳飾りをつけた担当ウマ娘のハッピーミークを連れていくと、ドーベルは半ば呆れを含んだ表情で俺を見ていた。そしてズイと俺との距離を詰めると、腕組みをして強い視線で俺を射抜く。
「事前連絡とかあるでしょ、普通」
「ビックリするかなって……」
「トレーニングにそんなの必要ないから」
「はい……」
俺よりも大分背の低い彼女に見上げるように睨まれて、俺は肩を縮こまらせる。そんな俺達のやり取りを見て、桐生院トレーナーは隣でオロオロとしていた。ドーベルはそんな桐生院トレーナーにチラリと視線をやると、ため息を一つ吐いて桐生院トレーナーの前に立つ。
「はじめまして、メジロドーベルです。今日はよろしくお願いします」
「えっ、あっ、はい! 桐生院葵です! よろしくお願いします! この娘は担当のハッピーミークです!」
「……どうも」
礼儀正しく頭を下げるドーベルに、ワタワタと挨拶を返す桐生院トレーナーと、どこかボンヤリとした様子で軽く会釈するハッピーミーク。それを見たドーベルがこちらを振り返る。後は任せるという事だろう。
「それじゃあ、まずドーベルはハッピーミークのアップと柔軟をサポートしてやってくれ。その後に坂路をやっていこう。まずはドーベルが先行して、ハッピーミークはその後に続いてくれ。その次はハッピーミークが前だ。数は休憩を挟みつつ交代で5本ずつ、タイムは1本60秒以内を目標にしよう。それで5本ずつ終わったら休憩して、休憩の後は桐生院トレーナーのメニューをやろう」
そこまで言ってから、桐生院トレーナーの方に視線で問題ないかを確認する。ポカンとした表情でこちらを見ていた桐生院トレーナーは、慌てた様に何度も頷いて了解の意を伝えてくる。それを確認した俺がドーベルに手で合図を送ると、ドーベルはハッピーミークと連れ立ってコースへと入っていった。その姿を見送りつつ、桐生院トレーナーへと歩み寄り声をかける。
「すいませんね、勝手に決めちゃって」
「いえ、それは構わないんですけど……。あの、担当の娘とは余り仲が良くないのですか……?」
俺の言葉にそう返しながら、上目遣いにこちらの顔を覗き込んでくる。こうして改めて見てみると、ドーベルよりも少し背は低いだろうか。そんな事をボンヤリと考えながら返事を返す。
「特別良いって事はないですけど、悪くはないと思いますよ」
「でも、さっき……」
そう言いつつ、ドーベルの方をチラチラと気にしている。その視線に釣られてドーベル達の方を見ると、足を開いて座ったハッピーミークの後ろに、ドーベルが膝立ちの状態で肩に手をかけている。柔軟の最中のようだ。
「あれはまあ、ちょっとしたじゃれあいみたいなものです。別に喧嘩とか、そういうのじゃないですよ」
「そうですか……。良かった。私のせいで、お二人の関係が悪くなってしまったらどうしようかと」
そう言ってホッとしたように胸を撫で下ろす桐生院トレーナー。今日初めて会って、たまたま一緒にトレーニングする事になった相手の人間関係なんて、放っておけばいいのに。どうやらこの人は、根っからのお人好しらしい。
「まあ、今回は担当に相談もなしに、勝手に話をつけてきた俺が悪いですから。後で怒られはすると思いますけど、それで関係が悪くなるような事にはならないと思いますよ」
「……そうですか」
ふと、桐生院トレーナーが何かを考え込むような素振りを見せる。何か気になる事があったのか、それを聞こうとした丁度その時。
「トレーナー。準備できたよ」
「ん……、おう」
ドーベルとハッピーミークが、柔軟を終えて戻ってきた。一瞬そちらに気を取られて、もう一度視線を桐生院トレーナーへと戻した時には、既に考え事をしている様子は見られなかったので、俺はそれ以上は気にしない事にした。何か聞きたい事があれば本人から直接聞きにくるだろう。
「じゃあ坂路トレーニングに移ろうか。さっきも言った通り、まずはドーベルが先行、その後にハッピーミークだ。ハッピーミークは蹴り上げたウッドチップが目に入らない様に、充分気をつけてくれ」
「……ん」
ハッピーミークが胸の前で両拳を軽く握り、むんっと力を込めてやる気をアピールする。ブライトとはまた違うタイプのマイペースさで、なんとも不思議な空気感のウマ娘だ。
坂路コースへと移動すると、スタートの合図を桐生院トレーナーに任せて、タイムを計る為に俺は坂の上で待つ事にする。坂路コースは800mの直線の坂で、前半230mに2%の勾配、後半570mに3.5%の勾配がついている。バ場にはクッション性の高いウッドチップが敷き詰められていて、脚部への負担を抑えながら高負荷のトレーニングを行う事ができる。
坂を登った俺は、少し息を整えてから下にいる桐生院トレーナーへと、持ってきた旗を振って合図を送る。それを見た桐生院トレーナーがスタートの合図を出したのと同時に、ストップウォッチをスタートさせる。
ドーベルのスタートから一瞬間を置いてハッピーミークがスタートし、ドーベルの後ろにピタリと着ける。こうして後ろに着けて走る事で、レース中に他のウマ娘のペースに合わせて走る練習にもなるし、前を走る方は後ろからのプレッシャーに慣らす事ができる。
ドーベルが坂を登りきったタイミングで、ストップウォッチを止める。タイムは55秒8と、なかなかのペースだ。ドーベル達にゆっくりと呼吸を整えながら歩いて戻るよう指示を出して、今のタイムを手元のボードに記録する。下に戻る頃には、2本目に入るのに十分体力も回復しているだろう。
そんな事を繰り返して、予定していた本数を終わらせてクールダウンさせている間に、今回の坂路トレーニングの内容を共有する為に桐生院トレーナーの元へと向かう。
「お疲れ様です。タイムはどうでしたか?」
「お疲れ様です。今回、タイムは最速で54秒、遅くても58秒と少し余裕があったので、次からはもう少し目標タイムを早めにしてもいいかもしれませんね」
手元のボードを桐生院トレーナーと一緒に見ながら、次に坂路トレーニングをする時の目標タイムや本数などの設定を詰めていく。そうしてタイムを見ていると、ハッピーミークが先行している時はタイムが安定しているのに対し、ドーベルが先行した時はタイムにばらつきが見られた。これはハッピーミークが普段先行策を取る事が多く、後ろに着かれる事に慣れているのに対して、ドーベルは差しの作戦を取る事が多い為、後ろに着かれる事に慣れておらず、ペースを一定に保てていない事が原因だと思われる。
これから先、レースを走る中でマークを受ける事も出てくるだろうし、それによってペースを乱されてしまう事もあるかもしれない。何かしら対策をする必要があるだろう。
そして20分程度休憩を取った後、今度は桐生院トレーナーの指導でインターバル走をする事になった。インターバル走とは、疾走と緩走を交互に繰り返し行う事で、心肺機能の向上や持久力の向上などを目的としたトレーニングである。また単純にスピードアップにも効果がある。
「今回は2000mを想定して、400mを5本走ります。400mを80%で走って、200mを軽くジョギング程度に、そこからまた400mという風になります」
桐生院トレーナーがコース上で準備運動をしているドーベル達に、今回のインターバル走の内容を説明している。インターバル走もかなりの負荷が掛かるトレーニングになるので、事前の準備運動と柔軟は欠かせない。
「このトレーニングに関しては、特に一緒に走る必要はありません。各自、自分の走りやすいペースで、怪我などに気をつけて走って下さい」
しっかりと準備運動と柔軟を済ませた2人がスタート位置へと着いた後、桐生院トレーナーが最終的な注意事項を確認してスタートさせる。2人同時に駆け出していくが、スピード自体はドーベルの方が速いのか、少し先行する形になった。そして25秒ほどで400mを進むとガクリと速度を落として、ジョギングに移る。それから1秒程度遅れてハッピーミークがジョギングに入る。
そんな2人を見ながら、桐生院トレーナーとこの後の事について相談する。
「この後は20分の休憩を挟んで400mのレペティションを3本、それからクールダウンをして終わりの予定なのですが、それで良いですか?」
レペティションは一定の距離を全力で走り、1本毎に休憩を挟むという、疾走と休息を繰り返し行うトレーニング方法だ。インターバル走と似ているが、レースペースで走るインターバル走に対して、レペティションはそれよりも速いペースで走る。また休息の仕方もインターバル走のジョギングとは別に、15分程度の完全休息になるので、インターバル走よりも1本1本を全力でこなす事ができる。その為、特にスピードアップに効果がある。
「……そうですね。今日は脚にかなりの負荷を掛けましたし、明日はジョギングで済ませるか、下半身は完全に休養させて上半身の筋トレでも良いかもしれませんね」
「筋トレの場合は、やっぱり体幹トレーニングをメインにするのが良いでしょうか」
「基本的にはそれで良いと思います。後はレース展開とか、位置取りの勉強のためにビデオ学習とかですかね」
そんな風に2人でトレーニングについて意見を出し合っていると、5本目を走り終えたドーベル達が戻って来た。膝に手をついて肩で息をしている担当達にタオルとドリンクを持っていく。受け取った2人はすぐに喉を潤し、汗を拭う。
「お疲れ様。休憩の後はレペティションの予定だけど、脚は大丈夫か?」
「ミークも、何かあればすぐに言ってくださいね」
「……うん、大丈夫。問題ないよ」
「……ん。大丈夫です」
2人共に問題は無さそうなので、予定通り休憩の後はレペティションをする事になった。休憩中、2人は脚を揉み解したり冷却スプレーで冷やしたりと、疲労の回復に努めている。
「そういえば、ハッピーミークはデビュー戦はいつの予定で?」
休憩の間手持ち無沙汰だったので、桐生院トレーナーと親交を深めておこうと話を振ってみる。
「来月の20日に函館の予定です」
「ああ、じゃあウチの一週後ですね。こっちは新潟ですが。参考までに、次回以降の出走予定をお聞きしても?」
「構いませんよ。9月21日に野路菊ステークス、11月22日に東京スポーツ杯ジュニアステークス、12月21日に朝日杯フューチュリティステークスの予定です」
「ジュニア王者決定戦ですか。……となると、来年はやっぱり三冠路線へ?」
「そのつもりです。関原トレーナーの方は?」
「ウチはまだ未定ですね。基本的にドーベルはマイラー気質なので、マイル路線かティアラ路線だとは思いますけど」
休憩が終わるまで桐生院トレーナーと雑談をしながら、2人がクールダウンする様子を眺めて、休憩が終わったところでタイム計測の為にそれぞれの担当のところへと向かう。隣に立ったところで、ドーベルに袖を引かれた。
「……何、話してたの?」
「ん?」
「桐生院トレーナーと、何話してたの?」
そちらの方へと振り返ってみれば、ドーベルが視線をどこかへとやったまま、そんな事を聞いてくる。
「や、別に普通に今後のレース予定とか、トレーニングの事とかそんな事だよ」
「……ふーん」
ドーベルはチラリとこちらを見た後に、何事かを言いたそうにモゴモゴと口を動かしていたが、結局何も言わずにスタート位置へと歩いて行った。
「何だったんだ……?」
ドーベルの行動を疑問に思いつつ、俺も遅れてその後に着いて行くのだった。
◆
「今日はご一緒させて頂いて、ありがとうございました」
「いえ、こちらも有意義なトレーニングができました。もし良ければ、またお願いします」
「ええ、ぜひお願いします」
トレーニングが終わってクールダウンをしている間に、トレーナーが桐生院トレーナーと話しているのを見ていた。なんだかいつも以上にニコニコと楽しそうにしていて、それがなんだか無性に面白くない。
別にトレーナーの交友関係に口を出す権利なんてアタシには無いし、トレーナーの名門である桐生院家と繋がりを持つ事は、決して悪い事ではない。
そもそもアタシは、一体何がこんなに気に入らないのだろうか。
「……じー」
そんな事を考えていると、横から何やら視線を感じる。と言うか、ご丁寧に自分で擬音を声に出している。その視線に堪えきれずそちらを見れば、白毛のウマ娘と目が合った。
「……えっと、何?」
「……ううん。なんでも」
そう言いつつも、ハッピーミークはアタシから目線を外さない。アタシも改めてハッピーミークを見る。身長はアタシよりも幾らか高い。セミロングの白毛の前髪を真っ直ぐに切り揃え、花形の飾りのついたヘアピンで留めて、右耳にも花の飾りを着けている。薄紅の瞳はただぼんやりとこちらを見つめていて、何を考えているのかいまいちよくわからない。
不意にハッピーミークの視線が横に逸れる。それを追ってみれば、未だ話し込んでいるトレーナー達がいる。
「……大変だね」
その言葉に視線をハッピーミークに戻すと、またアタシの方をジッと見ている。
「何が……?」
彼女の言葉の意味を理解できず聞き返すと、ハッピーミークはコテンと首を傾げて、トレーナー達の方をチラリと見てからまたアタシへと視線を戻す。
「……違った? ……無意識?」
「……?」
「お待たせしました。ミーク、帰りましょうか」
「ドーベルもお待たせ」
相変わらずよくわからない事を言う彼女に、アタシが困惑していると、やっと話が終わったのかトレーナー達がやって来る。ハッピーミークはスッと立ち上がり、桐生院トレーナーの方へと歩き出す。
と、その途中ではたと立ち止まると、こちらを振り返り両手の拳を胸の前で軽く握る。
「頑張れ」
そして一言そう言うと、今度こそ振り返らずに桐生院トレーナーと共に去っていった。
「ハッピーミークと何を話してたんだ?」
「……わかんない」
「……?」
こうして桐生院トレーナーとハッピーミークとの、初めての合同トレーニングは終了した。
トレーニング内容とかは一応調べながら書いてますが、フワッとした理解でなんとなく書いてるので、おかしな所があれば指摘していただけるとありがたいです。