いつも以上にフワッとした内容になっております。
日中の暑さも厳しくなってきた7月、俺はある書類を提出するために学園の職員室を訪れていた。扉を開けると、エアコンによって冷やされた中の空気が流れ出し、俺の体をヒヤリと撫でた。一歩中へと踏み込むと、夏の日差しに熱された体によく冷えた空気が心地よい。
少し周りを見回してみれば、目的の人物はすぐに見つかった。俺はその人の所へと歩いて行き、声をかける。
「野口先生、よろしいですか」
その人、高等部の学年主任である野口先生は、パソコンの画面から目を離してこちらを向く。どこか冷たい雰囲気を感じさせる痩せぎすの男性で、眼鏡の奥の神経質そうな瞳で俺を見ている。
「……トレーナーさんですか。何か?」
一瞬だけ俺の胸元のバッジに目をやって素性を確認してから、感情の読み取れない平坦な声で言う。俺は手元のクリアファイルから書類を取り出して、野口先生へと差し出す。それを受け取りサラリと内容を確認すると、軽く片眉を持ち上げて俺の顔を見る。
「公欠申請ですか」
「ええ。私の担当のメジロドーベルが、今月の13日に新潟でデビュー戦がありますので、その前日の12日の午後の授業を欠席させて頂きたくて」
野口先生は俺の言葉に「そうですか」と一言だけ返すと、再度書類へと視線を落とす。
「メジロドーベルさんは、前のトレーナーさんの時から学内の模擬レースで余り結果を出せていませんでした」
そうして、そのまま書類から顔を上げずにポツリと呟くように語り始める。
「それを、随分と気にしていたのを覚えています」
「……ええ」
「その彼女が先日の模擬レースを勝利で飾り、こうしてデビュー戦を迎えられることを、一教育者として喜ばしく思います」
そして書類の署名欄にサインをして確認の判を押すと、俺の方を振り返り軽く笑みを浮かべる。
「応援していますよ」
「……ありがとう、ございます」
その笑みは、普段の雰囲気からは想像できない程に柔らかなものだった。
◆
そして迎えた12日の昼、俺は校門前にレンタカーを停めてドーベルがやって来るのを待っていた。待つ間、地図アプリで目的地までのルートをしっかりと確認しておく。一応カーナビもあるが、こういうのはやり過ぎるという事はない。
「トレーナー」
呼びかけに顔を上げると、校舎の方から小走りにやって来るドーベルの姿が見えた。携帯をポケットに捩じ込みながら、片手を上げて応える。
「この車は?」
「借りた。結構するのな。忘れ物はないな?」
「大丈夫だと思う」
宿泊荷物の入っているであろうボストンバッグを受け取って、トランクに積み込みながら会話を交わす。ドーベルが助手席に座るのを見てから、運転席に乗り込んでエンジンをかける。
「シートベルト締めたか?」
「うん」
「じゃあ行くぞ」
横目にドーベルがシートベルトを締めたのを確認して、アクセルを踏み込む。音も無くスルリと滑るように、俺達を乗せた車は走り出した。
「借りて来た時にも思ったんだけどさ、最近の車ってすげえ静かなのな」
「技術の進歩ってやつだね」
そんな何でもないような事を話しつつ車を走らせ、国立府中インターチェンジから高速へと入る。そのまま会話も途切れて、中央自動車道を八王子の方へと進んでいく。
「……どれぐらいで着くの?」
なんとなくカーラジオをつける事もせず、沈黙の中ぼんやりと車の流れに乗っていると、窓の外を眺めていたドーベルがそう聞いてくる。
「大体4時間ぐらいかかるかな。向こうに着く頃には夕方だ」
「……そう」
「昼飯まだだろ? 次のサービスエリアで休憩がてら飯にしよう」
「……ん」
言葉少なに相槌を打つと、ドーベルはまた窓の外へと興味を移した。車内に沈黙が戻ってくる。そして高速に乗ってから1時間程経ったところで、昼食を摂る為にサービスエリアへと入る。フードコートは平日の昼間という事もあってか、あまり人の姿はない。人が多いとトレセン学園の制服で来ているドーベルが目立って、注目を集めてしまっただろうから、丁度良かったかもしれない。
「何食べたい?」
物珍しげにキョロキョロと周りを見回しているドーベルに訊ねる。ドーベルは軽く目を閉じて、顎に手を当てて考える仕草を見せる。
「どうしよう。どっちかって言うと、軽めのものが良いかな、とは思うんだけど」
「なるほど。じゃあ、うどんとかでも良いか?」
たまたま目に入った店を指してドーベルに確認する。特にこだわりがある訳でもないようで、ドーベルが首肯したのを見て食券機にて同じ物を2枚、片方は大盛りで購入しカウンターへと持って行く。ウマ娘はその身体能力の高さに比例して、消費するエネルギーも膨大だ。なので殆どのウマ娘は、摂取する食事量も人よりも多い。
「いらっしゃい。……おや、そっちの娘はトレセンの生徒さんかい」
カウンターで食券を受け取った男性店員の視線が、俺の後ろに立っているドーベルの方へと動く。ドーベルの肩がピクリと小さく震えた。
「ええ。明日レースがあるので、移動中なんです」
「へえ、そうかい。頑張りなね」
「ありがとうございます」
「……ありがとう、ございます」
俺の言葉に合わせて、ドーベルが消え入りそうな声でお礼を言う。俺はそんな彼女の肩に手を置いて、曖昧に笑みを浮かべて男性へと軽く頭を下げる。
「すいません。この娘、人見知りするもので……」
「そのぐらい構いやしないよ。ちょっと待ってな」
男性は呵々と笑いながら、うどんを茹ではじめる。そしてその間に2人分の丼を用意すると、茹で上がったうどんを手際良く盛り付けて盆に乗せてカウンターへと置く。
「はい、お待ちどうさま。熱いから気をつけなよ」
にこやかに笑いながら言う男性から盆を受け取り、空いている席へとかけて食べはじめる。しっかりとコシのある麺に、関西風のあっさりとした出汁がよくあっている。正直なところ、こういう所での食事はあまり味は期待していなかったのだが、意外に美味しいものなのだなと認識を改める。チラリとドーベルの様子を伺ってみると、一見するといつもの澄まし顔のようだが、頭上の耳がぱたぱたと上機嫌に動いているので、どうやらお気に召したらしい。
「ごちそうさま」
「はいよ。またどうぞ」
食べ終えた器をカウンターに返却し、諸用を済ませて、自販機で飲み物を買ってから再度車へと乗り込む。
「結構美味かったな」
「そうだね」
買ってきた飲み物をドリンクホルダーへと立てながら、隣の席のドーベルへと話しかける。ドーベルはシートに深くもたれ掛かり、ゆっくりと息を吐いた。
「こういう所でご飯食べるの初めてだったけど、意外と悪くないね」
「ああ。……ちょっとは緊張もほぐれたか?」
「……えっ?」
ドーベルが驚いたようにこちらを見るのを、視界の隅に認識しながらハンドルに手をかける。
「いや、向こうを出てからずっと黙り込んで、落ち着かない様子だったから。やっぱり、初めての遠征は緊張するか?」
「いや、そうじゃっ、なくは……ない……けど……」
そう言ってドーベルの方を見ると、ドーベルは何故か慌てたように否定しようとして、途中で勢いをなくして歯切れ悪く口籠る。視線で先を促すと、ドーベルはばつが悪そうに目線を逸らして口を開く。
「……助手席、特に何も考えずに乗ったけど、なんか、思ったより緊張して……」
「……席、動くか?」
「……いや、いい。もう大丈夫」
「……そうか」
そのままエンジンをかけて、車を発進させる。そうしてゆっくりと動き始めると、駐車場を後にして直走る車の流れへと合流し、目的地へと向けて再度走り出すのだった。
◆
僅かに振動を感じて、ドーベルは目を覚ました。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。軽く身動ぎして、もれてきた欠伸を噛み殺しながら目元を擦る。
「起きた?」
ボンヤリとした意識のまま、隣から聞こえてきた声にそちらを見ると、自らのトレーナーである関原が顔を前に向けたまま、視線だけを自分の方にやりつつハンドルを握っている。その光景を見て、ドーベルは自分の置かれている状況を思い出した。
「……トレーナー。アタシ……」
「良く寝てたよ。もうすぐ高速降りるから、その時に起こそうかと思ってたんだけど」
視線を前に戻した関原の横顔を、暫くボーっと眺めていたドーベルだったが、不意にある事に思い至った。
(……寝顔、見られた!?)
瞬間、カッと顔が熱くなるのを感じた。頬に手を当ててみれば、冷房の効いている車内で、それでも僅かに汗ばむほどに熱を持っているのがわかる。そのまま掌で顔を覆って、縮こまってしまいたくなる。
(うぅ……)
ドーベルがチラリと関原の方を窺ってみれば、コチラの様子に気付いた素振りもなく、真っ直ぐ前を向いている。運転中で赤くなっているであろう顔を見られずに済んだのは、幸いだったかもしれない。ドーベルは熱を持った顔を冷やそうと、こっそりと手で扇いで風を送る。
「暑いか、ドーベル? 温度下げようか?」
そしてそういう時に限って、関原はそんなドーベルの様子を目敏く見つけるのだ。エアコンに伸びる手を、ドーベルは慌てて静止する。
「大丈夫だから! 今、寝てたから! それでちょっと熱くなっただけだから!」
「そうか……? 無理はするなよ?」
エアコンに伸ばしていた手をハンドルに戻して、再び運転へと意識を集中させる関原を見て、ドーベルはなんだか無性に腹が立ってきた。
(アタシがこんなになってるのに、何でコイツはいつも通りなのよ)
完全なる八つ当たりであったが、今のドーベルにはそんな事は関係なかった。寧ろコチラの気持ちを推し量れないトレーナーが悪いと、責任転嫁までし始める。そんなドーベルの内心なんて露知らず、関原は呑気に話しかける。
「ホテルに行く前にコンビニとか寄るか?」
料金所はとっくに過ぎていたらしく、車はいつの間にか市街地を走っていた。時刻は17時を回っているものの、夏ということもあって日はまだ高く、強い日差しが建物の間を通り抜けて車内へと差し込んでくる。
「……別に」
「え、なんで機嫌悪いの? 俺なんかした?」
「何でもない」
「えぇ……」
ドーベルの突然の態度に困惑しつつも、車はホテルに向かって走り続ける。少し重くなった車内の空気に、ドーベルは流石に悪い事をしたかと自己嫌悪に陥った。
◆
チェックインを済ませて、ホテル内にあるレストランで夕食を摂った後、トレーナーと別れて自分の泊まる部屋へと帰ってきたアタシは、ベッドに寝転がって天井を見上げていた。
思い返すのは車内での事。トレーナーは何も悪くなかったのに、あんな態度をとって。そもそも苦手な男性と狭い車内に2人きりとは言え、トレーナーとは一緒にいる時間もそこそこ長い筈なのに、変に緊張して、それである程度緊張がほぐれたら寝て、寝顔を見られたのを勝手に怒って。一体何をしているのだろう。もう自分でも自分の気持ちがよくわからなかった。
トレーナーは怒ってはいなかったけど、きっと嫌なヤツだと思ったに違いない。アタシだって、あんなに理不尽な詰められ方をしたら『何なんだ』と思う。
「……とりあえず、明日謝ろう」
今日はちょっと、気持ちの整理がつかないから、明日の朝一番に謝ろう。これが単純に逃げているだけなのはわかっているけども、今のアタシにはそれが精一杯だった。
「……そうだ」
気分を変えるためにアタシは携帯を取り出して、メッセージアプリを起動させる。その中から1人の友人の名前を選択し、メッセージを送信する。
「『ホテル着いたよ』と……」
そしてそのまま携帯を枕元へ置いて一息つこうとした時、枕元へと置いたばかりの携帯から着信音が鳴り響く。手にとってみればたった今メッセージを送った友人からだった。メッセージを送ってから30秒しか経っていないというのに、もの凄い反応の早さだ。とりあえずあまり待たせても悪いので、通話に出る。
「もしも……」
『ウエエエェェェン! ドーベル〜!』
通話を繋げた瞬間、部屋の中に泣き声が響き渡る。あまりの大きさに驚いて携帯を落としてしまった。ポスンとベッドの上に落ちた携帯から、なおも友人の泣き声が聞こえてくる。
『ドーベル〜! 寂しいデース!』
「……まだ1日経ってないのに、そんなので大丈夫なの? タイキ」
携帯を拾い上げ、電話の向こうの友人——タイキシャトルへと苦笑まじりに問いかける。寮の同室の友人であるタイキは非常に寂しがり屋で、朝起きた時にアタシがいなければ落ち込み、寝る時もアタシの姿を確認してからでなければ寝付けない程だ。今回の遠征についてもアタシが居なくなる事で前日から随分と落ち込んでいて、夜中にアタシのベッドの中に潜り込んで来た。この調子で自分のレースの時にはどうするつもりなのだろうかと、心配になったものだ。
『ドーベル〜! 早く帰ってきてクダサーイ!』
「いや、今日来たばっかりだし。まだレース走ってもないんだから……」
『タイキ、あまり無茶を言うな』
タイキの無茶な要望に呆れながら返すと、電話の向こうから微かにタイキ以外の人の声がする。誰か近くにいるのだろうか。
『トレーナーさぁん!』
『俺にあたるなよ』
どうやらトレーナーと一緒にいたらしい。という事は、自室ではなくてトレーナールームにでもいるのだろうか。一先ずは、この寂しがり屋の友人をなんとか宥めなければならない。
「明後日には帰るから、それまで我慢しててよ」
『うぅぅうぅ〜……』
タイキが駄々をこねるように唸り声を上げるが、そんな事をされても無理なものは無理なのだ。
『ほら、タイキ。あんまり先方さんを困らせるな』
と、そこで先程まで微かにしか聞こえなかったタイキのトレーナーの声が、すぐそこまで近づいてきていた。ボスンと何か大きな物が柔らかい物の上に落ちたような音がする。ソファの隣にでも座ったのだろうか。それからタイキが鼻を鳴らす音と、何か衣擦れのような音が聞こえてくる。おそらくは背中でもさすられているのだろう。
「タイキ、大丈夫なの? そんな調子で今日ちゃんと寝れる?」
『うぅ……』
「なんだったら、眠くなるまで電話しとこうか?」
それから「アー……」だとか「ウゥン……」なんてタイキの唸る声が聞こえていたが、暫くしてポツリと呟く。
『……今日はトレーナーさんの所で寝マース』
「え」
『ダメに決まってんだろ』
タイキの言葉に対して、即座にピシャリと否定の意を示すタイキのトレーナー。しかし、当然タイキもそれに反抗する。
『でもトレーナーさん。ワタシ1人は寂しいデース』
『なら誰か同期か後輩の所行けよ。何でよりによって俺なんだよ』
2人の言い合う声が聞こえて、それが段々と大きくなって、ドタンバタンと物音が混じり出した頃、アタシは通話を切った。そして一言『おやすみ』とだけメッセージを残しておく。まあ、気持ちの切り替えという当初の目的は達成されたので、良しとしておこう。
とりあえず今日はシャワーでも浴びて早く寝てしまおう。そして明日の朝、トレーナーに会ったらまず第一に謝ろう。そう決心を固めて、シャワールームの扉を開いた。
◆
翌朝7月13日。時刻は6時をまわった頃、ドーベルは目を覚ました。1人で眠るには少々大きいベッドの上、ムクリと体を起こして大きく伸びをする。その長くて綺麗な黒髪は、寝ている間に枕と擦れてあちこち跳ね回り、くしゃくしゃになってしまっている。
ベッドから降りてシャワールームへと向かい、冷たい水で顔を洗う。軽く櫛を通せば、暴れ回っていた髪もスッキリと纏まっていつも通りだ。そうして身嗜みを整えた所で携帯を確認すると、関原からメッセージが入っている。
『おはよう。よく眠れた?』
そんな短いメッセージが5時30分頃に届いていた。一体いつ起きたのだろうか。慌ててメッセージを返す。
『おはよう。ちゃんと眠れたよ』
部屋着から制服に着替えている間に、再びメッセージが届く。朝食の誘いだった。どうやら既に各階にある談話スペースに居るらしい。部屋を施錠して、関原の下へと向かう。
関原は大きなソファにゆったりと腰掛けて、携帯を確認していた。青い半袖のシャツに黒いジャージというラフな格好で、髪だっていつも以上にボサボサでなんともだらしない。
ドーベルはそんな関原の近くへ歩み寄ると、そのボサボサの髪を指で梳かす。突然の事に関原は驚いたように顔を上げて、ドーベルの姿を認めると笑みを浮かべてされるがままになる。
「髪ぐらいちゃんと整えなよ」
「あぁ、ありがとう。飯食うだけならいいかと思ってさ」
そうしてドーベルがすっかりと髪を梳かし終わるのを待ってから立ち上がると、ドーベルの頭の上から足の先までを流し見る。そんな関原の様子を、ドーベルは訝しげに見ていた。
「何? どうしたの?」
「いや、制服なんだなぁって」
訳を尋ねてみても、いまいち要領を得ずにドーベルは首を捻る。それを見た関原は悪戯っぽく笑った。
「部屋着姿も見てみたかったかなって」
その言葉にドーベルは一瞬その様子を想像して、途端に顔が赤く染まる。この男はいつもそうだ。普段は距離を掴みかねているかのような態度を取っておいて、時折こうやって勢いよく踏み込んでくるのだ。ドーベルはプイとそっぽを向いた。
「絶対に嫌」
「そうか。それは残念」
軽く笑いながら言って、エレベーターの方へと歩き始める。ドーベルもその後へ続いた。2人並んでエレベーターを待っている間に、ドーベルはおずおずと切り出した。
「……トレーナー。その、昨日はごめん……」
「……何が?」
ポーンと軽い音がしてエレベーターが到着すると、関原は先にさっさと乗り込んだ。その言葉の少なさと素っ気なさに、やはり怒らせていたかと思ってドーベルの胸がぎゅうと痛む。気まずさを感じながら、ドーベルも一緒にエレベーターへと乗り込んだ。
「ほら、車で……」
「ああ、アレ。いいよ、別に気にしてない。そういう気分の時もあるでしょ」
「……ありがと」
次の階で別の人が乗ってきて、ドーベルは関原の方へと体を寄せる。微かに部屋に備え付けられているボディソープとは違う石鹸の匂いがして、ドーベルの心臓が軽く跳ねた。自前の物を使ったのか、大浴場の方に行ったのだろうか。
レストランのある2階でエレベーターから降りる。朝食はバイキング形式で、和食と洋食の両方が用意されていた。2人共洋食を選んで料理を取る。ウマ娘は普通の人よりも食べる量が多いとは言え、関原の倍近くの量を盆に盛っているのを、ドーベルはなんとなく恥ずかしく思った。
ドーベルが食べ終わるのを待って一度部屋へと戻り、一息ついたらレース場へと向かう事にする。ドーベルの出走するメイクデビューは12時35分からだが、念の為早めに控室に入っておこうという話になったのだ。
関原はドーベルの部屋の前まで着いてきて、中に入るのを見届けて去っていった。ドーベルはそこで、関原の部屋の番号を聞いていない事に気がついたが、別に後で聞けばいいかと深くは気にしなかった。
10時、いよいよレース場へと移動することになり、ドーベルはホテルロビーへと向かう。関原は既にいて、ドーベルの姿を見つけると手を振って迎えた。
「忘れ物ないか? 部屋の鍵は?」
「もう。大丈夫だから」
ホテルを出て、駐車場へと向かう。関原はホテルの駐車場ではなく、近くのコインパーキングに車を停めていた。ドーベルはホテルの駐車場を使えばいいのにと思っていたが、関原がそう決めたのならと、何も言わなかった。
車へと乗り込むと、先程エレベーターで感じた石鹸の匂いが仄かに漂っていた。まるで匂いの素となる物が、ずっとここに置かれていたかのように。
「……トレーナー」
「どうした?」
「昨日、どこで寝たの?」
カーナビに目的地を入力していた関原の手が、一瞬止まる。ドーベルはそれを見逃さなかった。
「部屋、取ってないの?」
「いや……、その……」
「答えて」
有無を言わせぬドーベルの迫力に押されて、関原はとうとう観念した。
「いや、2人で2泊ってなると、やっぱり宿泊費が結構してな……」
「それで節約するのに、って事?」
「まあ、うん。そんなとこだな……」
頬を掻きながらばつが悪そうに関原は笑う。ドーベルはすっかり呆れてしまって、大きく溜息を吐いた。
「……今日はちゃんと部屋取りなよ」
「いや、でも……」
「こんな所で寝てて、それで体調でも崩して運転できないってなったら、アタシ帰れなくなるんだからね」
尚も渋る関原の鼻先に指を突きつけてドーベルが言うと、関原も観念して首を縦に振った。
「……そうだな、それは困るな。わかった。今日はちゃんと俺も部屋を取るよ」
「ホントにもう……。しっかりしてよね」
腕を組んで唇を尖らせたドーベルに睨まれて、関原は誤魔化すように頭を掻いた。そうして2人視線があって、どちらともなく笑う。
「さあ、レース場に向かおうか。予定よりも少し遅れてるから急がないとな」
「誰の所為だと思ってるのよ」
軽口を言い合いながら、車を走らせる。新潟レース場まではおよそ10分程度。その間、会話が途切れる事はなかった。
本当はパドックまで行きたかったけど、好き放題書いてる所為で大分長くなりそうなのでレース場は次回からです。