いつまで経っても更新速度が上がらず、申し訳ない限りです。
今回は理事長のURAファイナルズ開催宣言を入れるタイミングが、この後全然ないなって事に(今更)気がついたので、過去回想回です。
年も明け、3ヶ日も過ぎた1月のある日の事。メジロの本邸での新年の集まりも終わり、学園へと帰ってきたアタシは、トレーナーへと新年の挨拶をするために、トレーナールームへと向かっていた。学園内は年明けすぐという事もあってか人の数は少なく、いつもの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
真冬の空気はキンと冷えて足元に纏わり付き、屋内だというのに吐く息が白く靄になって大気へと溶けていく。窓から外を見てみれば、空には厚く雲がかかって、今にも雪でも降ってきそうな天気だ。
前の年に本格化を迎えて、トレーナーと契約を結んでからトレーニングを重ね、模擬レースにも何度か出走したものの、未だにこれと言った結果は残せていない。こんなアタシでも見捨てずにしっかりとトレーニングを見てくれるトレーナーの為にも、今年こそ結果を出してトレーナーに恩返しをできるように頑張らなければ。
トレーナールームの前へと辿り着き、ノブをひねるとなんの抵抗もなく回った。そのままドアを開けて中へと入ると、暖房の効いた部屋の空気が体を包み、僅かに痺れていた指先を温かくほぐしていく。そんな部屋の中、トレーナーはデスクに向かってパソコンを見ながらコーヒーを飲んでいた。
「トレーナー、あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「あら、ベルちゃん。あけましておめでとう。ちゃんとノックして入らなきゃダメよ」
「はぁい」
トレーナーの言葉に生返事で返しつつ、自分の分の紅茶を淹れる。最近ではティーパックの紅茶も飲み慣れてきたと思う。砂糖を1本混ぜ込んで、トレーナーの後ろからパソコンを覗き込む。
「何見てたの?」
「ん? 理事長さんがね、何か大切な発表があるんですって」
画面の中にはどこかの会見場が映っていて、その端の方に学園の理事長である秋川やよいが立っている。見た目は10歳かそこらだがちゃんとした大人……なんて事はなく、見た目通りの年齢である。そんな歳で学園理事長とは、日本の法律はどうなってしまったのだろう。
さて、そんな秋川理事長だが、今は多くの記者の見守る中、壇上へと上がり今まさに第一声を上げようという所だった。
『感謝ッ! メディア諸君、よく来てくれた! 静聴ッ! この度わたしが提案するのは——』
『あのっ、理事長〜……! 台に乗って話して頂かないと、お姿が……!』
『むっ。そうであった! 失念、失念ッ!』
しかし、体の小ささから会場の後方に設置されているのだろう中継用のカメラには、記者達の頭越しに帽子とその上の猫しか映っていない。
横合いからたづなさんが慌てて声をかけてその事を伝えると、理事長は近くに用意されていたらしい台の上へと飛び乗った。
『——よしッ、これでよいな。では改めて!』
そうして記者団へと向き直ると、手に持った扇子をビシリと突きつけて高らかに宣言した。
『提言ッ! トレセン学園理事長の名において、ここに新レース『URAファイナルズ』の開催を宣言するッ!!』
理事長のその言葉で、会場がにわかにざわめき始める。皆一様に隣の者と顔を見合わせて、今の宣言についてあれこれと憶測を飛ばしている。そんな状況から真っ先に立ち直ったのは、1人の女性だった。
『秋川理事長! 『月刊トゥインクル』の乙名史です。ご質問よろしいでしょうか?』
乙名史と名乗ったその女性は白いジャケットにグレーのパンツスタイルで、腰まで伸びた焦茶色の髪を1つに括り、サイドの髪は胸の前へと流している。そんな彼女は他の記者達が困惑している中、真っ直ぐに理事長を見つめて手を挙げていた。
『許可ッ! 何かね、乙名史君!』
『ありがとうございます。では。——新レース設立との事ですが、こちら、どのようなお考えによるものでしょう?』
『僥倖ッ!! よくぞ聞いてくれた!!』
乙名史記者はポケットからメモ帳とペンを取り出すと、何事かを書き記しながら理事長へと質問を飛ばす。それを聞かれた理事長は、大仰な動作で扇子をバッと勢いよく広げると、得意気な様子で会場を見回す。
『『URAファイナルズ』とは、言うなれば『全てのウマ娘にチャンスを与える』レース。あらゆるウマ娘が、己の全力で以て、頂点を! 最強を! トップの座を!! 競うことができるレースなのだッ!!』
理事長のその言葉で、会場のざわめきは更に大きくなった。理事長はそれを満足そうな様子で見渡すと、パチンと大きな音をたてて扇子を閉じる。マイクによって拡散されたその音が会場に響き渡ると、記者達は理事長へと注目する。
『日程などの調整の都合上すぐの開催とはいかないが、現在3年後の開催を目処にスケジュールや詳細などの調整中である!』
「なんだかすごい事になってるわねぇ」
「そうだね」
会見の様子を見て呑気に呟きながら、トレーナーは一口だけ残っていたコーヒーを一気に呷る。アタシも紅茶を飲みながら、トレーナーに相槌を打つ。しかし3年後とは、随分と気の長い計画だ。
画面の中では会見も終わったのか、記者達が立ち上がり何やら話し合いながら出口へ向かって歩き始める。その様子を見たトレーナーはウィンドウを閉じると、空になった紙コップを持って2杯目を淹れる為に立ち上がる。それをなんとなく目で追っていると、パソコンからポンッと軽い音が聞こえてくる。どうやらメールを受信したらしい。
「トレーナー、メール来てるよ」
「あら、何かしら?」
トレーナーがコーヒーの事は置いておいて、メールを確認しにパソコンの前に戻ってくる。トレーナー個人に連絡を取るのであれば、個人端末の方に連絡を入れれば良いので、こうしてパソコンにメールが届く時はまず仕事の連絡だと思っていい。
「何のメール?」
飲み終わった紙コップをゴミ箱に捨てながら、トレーナーにメールの内容を訊ねる。トレーナーは暫くパソコンの画面を見ていたが、やがて顔を上げて老眼鏡の分厚いレンズ越しにアタシの方を見る。
「1週間後に、今度は学園関係者に向けて『URAファイナルズ』の説明会をするんですって」
「そうなんだ」
年明けにレースがある娘なんかは帰省せずに学園に残っているけど、1週間後には休みも終わって皆学園に戻って来ているし、そのタイミングで全員に説明をしたいという事だろう。
ともかく当初の目的は既に果たした事だし、そろそろお暇するとしよう。
「それじゃあトレーナー、アタシはもう戻るね」
「あら、そう? じゃあまた明日、トレーニングの時にね」
トレーナーに手を振って部屋から出ると、それまで忘れていた冬の冷気が、待ってましたと言わんばかりに全身に纏わりついてくる。アタシは肩を窄めて身震いを一つすると、コートの襟元を擦り合わせて足早に寮へと向かう。
同室の友人の自分より少し高い体温が、この時ばかりは少しだけ恋しかった。
◆
それから1週間後、学園に所属しているトレーナーとウマ娘達が全員体育館へと集められる。今回の理事長の発表については、トレーナー達はどこか否定的なようで、不安気に同僚達と話し合っていた。
「『URAファイナルズ』か……。大丈夫かしら、新レース設立だなんて大きな事をやって」
「そうだなぁ……。理事長って言ったって、まだ子供だもんな。先代は本当に優秀な方だったけど、必ずしもその娘が有能ってわけじゃ——」
「……お話しのところ、申し訳ございません」
そんな話をしていたトレーナー達の背後へと、いつの間にか音もなくたづなさんが立っていた。驚いて振り返った2人へと、たづなさんはニコリと笑いかける。
「質疑応答の時間は、説明の後に設けますので。何かあれば、その時にお尋ねくださいね?」
「し、失礼しました……」
笑顔でありながら有無を言わせぬ迫力に、トレーナー達も小さくなって頭を下げる。たづなさんもそれを見てから、周りでその様子を見ていたアタシ達に一礼すると、またもや音もなくスルリとその場から去っていった。
その背中を見送っていると、にわかに会場がざわめきだす。もしやと思って壇上へと視線をやれば、丁度理事長が壇上へと上がってきた所だった。
「諸君ッ! まずは集まってくれた事に感謝をッ!」
理事長は集まったアタシ達を壇上から見渡すと、両手を広げて声を張り上げる。
「急な発表に戸惑い、不安を感じた者も多いことだろう。だがッ! まずは聞いてくれたまえ! 『URAファイナルズ』、その意義をッ!」
「意義……?」
集まったトレーナーやウマ娘達が隣の者と顔を見合わせて、ざわめきだす。そのざわめきの小さくなった一瞬を見計らって、理事長が再度声を張り上げる。
「諸君ッ!!」
その声に釣られて、全員の視線が理事長へと集められる。それを確認した理事長は一拍置いてから、先程とは打って変わって厳かな口調でゆっくりと語り始める。
「——悔しい思いを、した事はないか?」
誰も、何も言わない。ただジッと理事長の言葉を聴いていた。
「『有馬記念で勝ちたい』『ダービーを取りたい』『最強ウマ娘になりたい』そう思っても、距離やコースへの適性がどうしても合わず、己の実力すら発揮できずに終わった事は? 『自分の真の力は、担当ウマ娘の力はこんなものではない』と、唇を噛んだことは!?」
何人かが息を呑むような音が、あちこちで聞こえる。
誰もが一度は思い描く事だろう。昔見た憧れの舞台、夢の景色。そこに自分もいつか必ず、と。しかし、それは必ずしも叶うものではない。理事長の言う通り、どうしても長い距離を走れなかったり、芝のコースに合わなかったり、適性の壁というものは確かに存在する。
「諸君ッ! わたしが目指しているのは、『レースを志す全てのウマ娘が輝く世界』だ! 走るウマ娘の輝きとは、即ち意志の激突ッ! ウマ娘達が全力で頂点を競い合い、輝きを放ち合う事こそ我が理想ッ!」
理事長の言葉が、段々と熱を帯びていく。その熱に当てられたかのように、アタシの周りの人達も熱の篭った視線で壇上の理事長を見つめている。
「畢竟ッ! 全てのウマ娘が全力を発揮できる、その舞台を! わたしは用意したいのだ!」
「理事長……」
ここで理事長は一呼吸おいて、会場全体を壇上から見渡している。その様子を、誰もが理事長の一挙一動その全てを見逃さぬとでも言うかのように、瞬きをする間も惜しんでジッと見つめていた。
「通常のGⅠであれば、距離やコースはレースによって制定されているもの。だが——!」
理事長が腕を大きく横に薙ぎながら、手に持った扇子を勢いよくバッと広げる。
「刮目ッ!! URAファイナルズにおいては、『全ての距離』『全てのコース』を用意する!」
「全ての距離……!」
「全てのコース……!?」
理事長のその宣言を聞いたウマ娘達から驚きの声が上がる。トレーナー達も皆似たような反応で、一度は落ち着いていた会場のざわめきがまた大きくなり始める。
理事長は慣れた様子でそれを眺めていて、ざわめきがある程度落ち着いてきた所で再び語り始める。
「参加資格を得られるのは、『有馬記念』や『宝塚記念』同様、ファン投票で選ばれたウマ娘! 即ち、トゥインクル・シリーズにて活躍し、多くのファンを獲得した代表的なウマ娘——"スターウマ娘"にのみ、出走権が与えられる!」
『有馬記念』と『宝塚記念』は共にファンによる人気投票によって出走者が決まり、それぞれ『URAの1年を締め括るレース』、『上半期の実力No.1決定戦』と称されるグランプリレースである。
ファン投票による結果なので、実力的には多少見劣りする者であっても、人気が高ければ出走できる可能性のあるレースだ。そして出走さえできれば、もしかしたら勝つ事だって不可能ではないのだ。
「ウマ娘諸君! 己の全力を出せる舞台で走り、『URAファイナルズ』のトップ、『ファイナルズ・チャンピオン』の称号を掴んでみないか!? トレーナー諸君! 己の担当ウマ娘の才能を全力で伸ばし、初代チャンピオンの栄誉に輝かせてやりたくはないか!?」
理事長は大仰な身振りで会場全体へと聞こえるように、朗々と語りかける。誰もが皆、熱に浮かされたかのようにそれを見上げている。
「さあッ! 皆、3年後新年の初開催に向け、ファンを集め、"スターウマ娘"となるのだ! 激励ッ! 期待ッ! わたしは——諸君の活躍を待っている!!」
一瞬の静寂。
しかし次の瞬間には、会場全体から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こる。説明会が始まる前の状況とは全く違う空気の中、理事長は会場を満足気に見渡してから軽く一礼して、壇上から姿を消した。
◆
その日の夜。もうそろそろ日付も変わろうかという頃、アタシはベッドに横になって天井を見つめていた。同室のタイキは既に夢の中で、時折むにゃむにゃと何事かを呟いている。
「URAファイナルズ、か」
さっきから考えるのはその事ばかりだ。
全てのウマ娘がバ場や距離に囚われる事なく、己の全力でもって競い合える、その為のレース。出走条件の制限自体はあるものの、流石に全員を出走させようというのは常識的に考えても無理があるので、そこは仕方ないだろう。それでもバ場や距離などの適正を気にせずに走れるというのは、やはり大きいと思う。
「開催は3年後か……」
目を閉じる。今もまだ、あの時の会場の様子が目に浮かぶ。友人と手を取り合って喜ぶウマ娘達、拳を突き上げてやる気を漲らせているトレーナー。誰もが熱狂の渦の中にいた。
アタシは、どうだろうか。徐々に薄れていく意識の中で、ボンヤリと考える。3年後の開催。その時には、アタシも———
「……アタシも、レースを走れるようになってるかな」
そのまま、アタシの意識は闇へと落ちた。
◆
『さあ最後の直線、フレイシュタットが逃げている。フレイシュタットまだ先頭、ソルダパシオーネが追っている。フレイシュタット、フレイシュタットこのまま逃げ切れるか。残り400m。ソルダパシオーネが迫る。内を割ってイースタンダイナーも上がってきた。フレイシュタットはもう一杯になったか。先頭がソルダパシオーネに変わった。ここで外からアウトスタンドギグ! アウトスタンドギグが追い込んでくる! あと200! ソルダパシオーネも粘っているが、アウトスタンドギグがかわすか! かわすか!? イースタンダイナーも追っているが、届かないか! ソルダパシオーネとアウトスタンドギグ、今2人並んでゴールイン! 際どい勝負になりました! 1着は……ソルダパシオーネ、ソルダパシオーネです! アウトスタンドギグは僅かに届かず2着! 3着にはイースタンダイナーです』
「ハァッ……ハァッ……。……くっ」
乱れた呼吸を整えながら、その場を後にする。新年一度目の模擬レースは、先頭から1秒以上遅れての7着に終わった。コースを出て、観客席に居るトレーナーの下へと向かう。
「ベルちゃん、お疲れ様」
「……トレーナー、ごめん。またダメだった……」
「……ええ、そうね。でも、中盤の位置取りは良かったわ。前よりは落ち着いてレースができるようになっているわよ」
トレーナーはそう言ってくれるけれど、だからと言ってそれで納得できる訳もない。契約してから既に半年以上経過している。だと言うのに未だに模擬レースでの勝利はおろか、入着すら覚束ないようでは本番への出走など叶うはずがない。アタシは顔を上げることが出来ずに、ぎゅっと唇を噛んだ。
「……とりあえず、今日はもう着替えて帰ってもいいわ。反省点については、また明日のミーティングで話し合いましょうか」
「……うん。ごめんね、トレーナー……」
トレーナーはそんなアタシの様子を見ても、気づかなかったふりをしてくれる。その気遣いが有り難くもなんだか情けなくて、アタシはトレーナーの顔を見れずにそのままコースから引き上げる。
このままではいけないとは思いつつも、自分ではどうしようもない現状に歯痒さばかりが募っていく。こんな調子では、レース出走は一体いつになるだろうか。そんな事を考えながらシャワーを浴びて、着替えてから寮の自室へと帰る。
「ハァイ、ドーベル! おかえりなサーイ! 今日はどうでシタカ?」
扉を開けた瞬間にタイキが出迎えてくる。その明るさが今のアタシには少し眩しくて、思わず目を逸らす。
「……ただいま。今日は、まぁ……、いつも通り……かな……」
「オゥ、そうデスカ……。でも、次こそはきっと大丈夫デース! だってドーベル、たくさんガンバって来ましたカラネ!」
一瞬しょんぼりと肩を落としたタイキだったけど、すぐに笑顔を取り戻すと、アタシをギュッと力強く抱き寄せて頬擦りをする。タイキから視線を外していたアタシは、突然の抱擁に反応出来ずにアッサリと捕まってしまう。
「ちょっと、タイキ……! 力、強い……!」
「オゥ、ソーリー!」
アタシが腕を叩いて抗議すると、腕の力を緩めてはくれたものの、解放まではしてくれなかった。タイキはそのまま半ば抱えるようにして、アタシをベッドまで連れて行く。そしてベッドに腰掛けるとアタシを膝の上に乗せて、後ろから抱き竦めて頭を撫でたり頬擦りしたりする。
アタシが落ち込んでいるのを見て、タイキなりに励ましてくれているのだろうけど、正直ちょっと苦しいし、何よりも恥ずかしい。
「もう、タイキ離してってば。アタシは別に大丈夫だから」
「ンー……。……アイシー、ワカリマシタ。でも、ムリはキンモツですからネ」
一瞬訝しげにアタシの顔を覗き込んだタイキは、渋々といった様子でようやくアタシを解放する。アタシはさっさと立ち上がると、少し乱れた髪や衣服を軽く整える。
「もう……。心配してくれるのは、まぁ、ありがたいんだけど……。でも、タイキはちょっと大袈裟すぎ。アタシだって、いつまでも落ち込んでるだけじゃないんだから」
「……ソーリー。……でもドーベルが元気ないと、やっぱりワタシ心配デース」
タイキはベッドの上でシュンと肩を窄めて小さくなっている。その様子を見たアタシは、小さく息を吐くとタイキの隣に腰掛ける。
「……まぁ、いきなり抱きつかれるのは、確かにその、恥ずかしいけど。でも、別に嫌な訳じゃないから」
「……ドーベル。……ン〜! ドーベル〜!」
「だから力が強いってば!」
その後暫くの間、感極まったタイキにもみくちゃにされた。これからはあまり軽率な事は言わないようにしようと、抱きついてくるタイキを引き剥がしながらそう思った。
◆
それから何ヶ月か経ったある日の事。選抜レースを見に行っていたトレーナーが、何やら上機嫌で帰って来た。アタシは読んでいたレースにおける戦術論の本から顔を上げて、トレーナーに声をかける。
「トレーナー、随分と機嫌良さそうだけど、何かあったの?」
「ん? いえね、ちょっと良さそうな子がいたのよ」
「ふぅん」
なんとなくそのまま流しかけて、ふと契約の時にトレーナーが言っていた事を思い出した。
「トレーナー、担当するのはアタシで最後って言ってなかったっけ?」
「ああ、いやいや。ウマ娘じゃなくて、トレーナーよ。トレーナー」
「トレーナー?」
トレーナーはコーヒーを淹れると、アタシの正面へと座った。
「ええ。私もベルちゃんが引退したら、トレーナーを引退するでしょう? だからその前に、私の今までの経験を誰かに伝えておきたくって」
「お弟子さんを取る、みたいな事?」
「ええ、そうね。とりあえずサブトレーナーとして、多分明日から来てもらう事になると思うわ。きっとベルちゃんとも上手くやっていけると思うわ」
「……サブトレーナー、かぁ」
確かにトレーナーももう結構な歳だし、補助する人がいるのはいいかもしれない。それにトレーナーが見込んだ人であれば、良い人なのは間違いないだろうし、何も心配はいらないだろう。そう思ったアタシは、レース戦術論の本へと視線を戻した。その日は戦術の組み立て方や、有効なコース取りなどの勉強をして終わった。
◆
そして次の日。昨日は選抜レースがあってコースが使えなかったので、今日はしっかりと走っておきたい。そう思っていつもより少し早くトレーナールームへと向かったアタシは、軽くノックをしてドアを開いた。すると奥の長机にトレーナーと、その正面に誰かもう1人座っているのが見えた。ドアの開く音に反応して、2人揃ってこちらへと振り向く。
その人は皺一つない真新しいスーツの襟に、こちらも同じく新品の汚れ一つないピカピカのトレーナーバッジをつけていた。細身の体にフワフワとあちこち跳ね回る黒髪と、優しげな瞳が印象的な男性がそこにいた。
「あら、ベルちゃん。今日は早かったのね」
「模擬レースも近いし、少しでも多くトレーニングしたくて……。それで、その……」
トレーナーの言葉に上手く返事ができない。アタシの視線は、さっきからトレーナーと話していたであろう男性から外せないでいる。ドアを開いた所で固まってしまったアタシの下にトレーナーが歩いてきて、肩に手を置くと男性の方へと振り返る。
「それじゃあ、紹介するわね。この娘はベルちゃん、メジロドーベル。私の担当ウマ娘よ。ベルちゃん、コチラは関原トレーナー。昨日話したサブトレーナーさんよ」
「……どうも」
初対面の人に対してあまり相応しい態度とは言えないが、正直アタシはそれどころではなかった。いきなり男性が目の前に現れて、しかもサブトレーナーになる。それだけでアタシの頭の中はいっぱいいっぱいになっていた。
男性、関原トレーナーは立ち上がるとアタシの前まで歩み寄ってくる。身長はアタシよりも随分と高い。170の半ば程はあるんじゃないだろうか。そしてアタシの前に立った彼は、右手をスッと差し出した。
「初めまして、メジロドーベル。関原一輝だ。これからよろしく」
これが、アタシとトゥインクル・シリーズでの3年間を共に駆け抜ける事になるトレーナーとの、初めての出会いだった。
来年はもう少し早く更新したいです。