ずっとチマチマ書いてました…。
最近、トレーナーの様子がおかしい。
アタシがはっきりとそう認識したのは、アルテミスステークスから2週間ほど過ぎた頃だった。
その日は朝から雨が降っていて、トレーニングではなくてレース展開についてのビデオ研究をする予定だった。トレーナー室の扉を開けると、トレーナーがホワイトボードに向かってプロジェクターの映像を投射して、調整している所だった。
調整を待つ間手持ち無沙汰だったアタシは、ソファへと腰掛けて置いてあったクッションをなんとなく抱き抱えた。するとクッションから、普段使っている時よりも強く、消臭剤の匂いを感じたのだ。
確かにアタシはアロマの勉強をしていた分、人よりも匂いには敏感な方だと思う。それでもここまで強く消臭剤の匂いを感じるとなると、かなり念入りに消臭しているという事で、それはかなり珍しいというか、多分初めての事だろう。
まあでもそんな日もあるかとクッションを置こうとしたアタシの脳裏に、ふとある出来事が過ぎった。それは今から4ヶ月ほど前、アタシのデビュー戦のあった新潟での事。まさかと思いつつ、ベッドとしても使えるというソファへと顔を寄せてみると、そちらからも微かに消臭剤の匂いを感じた。
ここまでくると疑念は更に強くなって、アタシはぐるりと部屋を見回す。そうすると、他にも気になる所がいくつか出てきた。
まず、トレーナーの使っているデスクの横に栄養ドリンクの空き瓶を入れたビニール袋が2つ、片方は固く口を縛った状態で、もう片方はまだ開いたまま置いてある事。あまり意識していなかったせいで、前回この部屋に来た時はどうだったかは記憶にないが、これだけの量となると昨日今日の事ではないだろう。おそらくはもっと前から置いてあった筈だ。
デスクの上の資料も、先週のミーティングの時よりも増えているように見える。手に取って見てみれば、阪神レース場のコース図と阪神JFへの出走が予想されるウマ娘のデータだった。誰が出走するかなんてまだわからないだろうに、可能性のあるウマ娘のデータを片っ端からかき集めているようだ。
「……トレーナー」
「何? どうした?」
プロジェクターの調子が悪いのか、バシバシと軽く叩いて首を傾げているトレーナーの背中に声をかける。トレーナーはアタシの方には振り返らずに、プロジェクターのコードをいじりながら答えた。
「ちゃんと寮に帰ってる?」
そしてアタシが続けてそう声をかけると、ピクリと肩を震わせて一瞬作業の手が止まる。そのいつか見たような反応に、アタシの疑念は確信に変わった。
「……もしかして、ここで寝てる?」
「……何でそう思った?」
平静を装いながら作業を続けるトレーナーに、クッションを押し付ける。受け取ったトレーナーは一度確かめるようにクッションをポンと叩くと、怪訝そうな顔をアタシに向ける。
「……? 何だ? これがどうした?」
「匂いがする」
「えっ? ちゃんと消したはず……」
「……消臭剤の」
「……あっ、いや違う。今のナシ」
トレーナーが慌てて否定しようとするがもう遅い。単にいつもよりも消臭剤の匂いが強いというだけなら、気のせいか単なる偶然だと言われてしまえばそれまでだ。
でもその可能性は、今のトレーナーの言葉で消えた。トレーナーは間違いなく、この部屋にいつもよりも強く残った自分の痕跡を消そうとしていたのだ。そしてそれが意味する事は一つ。アタシは溜息を一つ吐いてソファへと腰を下ろした。
「レースまではまだ時間あるんだから、今からあんまり根を詰めてもしょうがないでしょ」
「……そうかもしれないけど、できる事はなるべくやっておきたくて」
トレーナーは観念したように肩を竦めながら、バツの悪さを誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべる。それがどうにも気に入らなくて、アタシはトレーナーをジロリと睨みつけた。耳が自然と後ろへと倒れていき、尻尾の制御が効かなくなる。トレーナーもアタシの機嫌が悪くなったのに気が付いて、表情を真面目なものへと変える。
「本当に大丈夫だって。確かに作業量は増えてるけど、別にそこまで無理してる訳じゃない。ちゃんと休みだって取ってる」
そう言いつつトレーナーはクッションをソファへと戻して、アタシの隣に腰掛ける。
「ただ、次のレースは万全を期したい。初のGⅠだからって訳じゃなくて、来年のティアラに向けて、ドーベルの目指す"メジロの新しい栄光"の為にも、確実に勝たなきゃいけない」
「そ、れは……」
そんな言い方はずるいと思う。それを持ち出されてしまったら、アタシは何も言えないじゃないか。それでも何か言わなければと思い考えを巡らせて、結局何も思い浮かばずに、もう一度アタシは深く溜息を吐いた。
「……そういう事なら、仕方ないけど。……でも、本当に無理はしないでよ。新潟でも言ったけど、アンタに倒れられるとアタシが困るんだから」
「ああ、わかってる」
トレーナーは小さく笑うと、アタシの頭を軽くポンと叩いて立ち上がった。そして長机の方へと向かって、プロジェクターに繋がれたパソコンの前に陣取ると、パイプ椅子へと腰を下ろす。
「じゃあビデオ研究を始めよう。今回は過去5年間の阪神JFのレース映像を用意した。これを見て傾向と対策を考えていこう」
そう言ってトレーナーは動画を再生させる。
アタシもパイプ椅子の方へと移動して動画へと集中しようとしたが、最後まで胸の中のモヤモヤとした物を拭い去る事ができなかった。
◆
「……ああ、まったく」
ドーベルも帰り、1人になったトレーナー室の中で、俺は深く溜息を吐いた。日は既に沈み、窓の外には暗闇が広がっている。校舎にも殆ど人の気配はない。そんな中で俺は1人残って、今日のビデオ研究で見つかった課題点をまとめていた。
「なんだってあんなに勘が良いかね」
そうしながらも思い返すのは昼間の出来事。ドーベルに自らの行いを見破られた時の事だった。新潟で一度同じような失態をやらかしているとはいえ、4ヶ月も前の事をよくもまあ覚えていたものだと思った。
「……それでも」
それでも、俺は今の状態を改めるつもりはなかった。
少なくとも、今はまだ。
「ドーベルにはああ言った手前、悪いとは思うけど……」
阪神JFまでは残り3週間。もうあと3週間しか残されていない。
それまでの間に、出走する可能性のあるウマ娘の情報を少しでも多く集め、採ってくるであろう作戦を見極めなくてはならない。そして出走者が決まってからはそれを踏まえたレース展開の予想に、それに合わせて採るべき作戦など、詰めなければならない事は山程ある。時間はいくらあっても足りない状態だった。
そうなると自然と寮に帰るまでの時間も惜しく感じて、俺はここ2、3日はトレーナー室に寝泊まりしていた。ソファベッドのおかげで寝る場所には困らない上に、近くにシャワールームもあるこの環境は、時間のない身にはありがたいものだった。
「でもそれも阪神JFまでだ」
レースが終わればこんな無茶をする必要はない。
ドーベルには悪いが、俺はさっき少しだけ嘘をついた。この状況は少しずつではあるが、確実に俺の体へと疲労を蓄積させている。日中に意識が飛びかける事も多々あった。だがそれも2週間後に出走者が決定すれば、精査する情報も減って今よりは多少マシになるはずだ。そしてレースが終わりさえすれば、その時にゆっくりと休めば良い。
こんな所で、俺が足を引っ張る訳にはいかない。
「なんとしても、ドーベルに勝利を」
俺はデスク下の小型冷蔵庫から栄養ドリンクを1本取り出して、それを一息に飲み干すと再び作業へと戻っていった。
◆
阪神JFまで残り2週間となった日曜日。出走申請者のリストを眺めながら、俺は頭を悩ませていた。というのも、リストの中にある名前を見つけたからだ。
「シーキングザパール……」
大層な気分屋だそうで戦績にムラはあるものの、調子の良い時の模擬レースではドーベルはおろか、あのタイキシャトルすら寄せ付けなかったというドーベルの同期だ。
適正は本人の言を信じるのであれば、脚質は先行差しの王道で、距離も短距離から中距離まで対応できると豪語している。それが事実であるならば、間違いなく能力はこの世代の中で上位だと言って良い。
そんな相手と、よりにもよって来年のティアラ路線を占おうかというレースで当たるのは、なんとも幸先が良くない。
いや、逆に考えてみよう。
どうせこの先も当たる可能性があるのなら、先にここで当たったとしても同じことだ。むしろ今の段階でどこまで通用するのかを確認するチャンスでもある。それにもしかしたら、調子の悪いタイミングに当たるかもしれない。
「何見てるの?」
「おわぁっ!?」
いつの間に部屋に入って来たのか、急に肩越しに手元を覗き込んできたドーベルに驚いて、思わず声をあげてしまう。早まった鼓動を抑えようと、胸を手で押さえながら振り返る。
「後ろから急に話しかけないでくれ。心臓に悪い」
「入る前にノックもしたし、入った時にもちゃんと声かけたけど?」
「……マジ?」
頷いてみせるドーベルを見て、思わず呻き声が漏れる。まるで気が付かなかった。少し周囲への注意が散漫になっているのかもしれない。
「……ねぇ、大丈夫? 目の下にくまができてるし、顔色も少し悪いんじゃない?」
ドーベルが心配そうに顔を覗き込んでくる。言われてそっと目の下に触れてみるが、流石にそれでは自分でどうなっているかはわからない。
「今日は休んだ方が良いんじゃない?」
「……いや」
ドーベルの言葉に首を振って応える。
シーキングザパール程の実力者ならば、まさか抽選とはならないだろう。確実に出てくるのがわかっているならば、その分対策は取りやすい。休んでいる暇なんて無い。
「確かに多少の疲れはあるかもしれないが、問題はない。阪神JFまであまり時間もないし、早速今日のミーティングを始めよう」
ドーベルの脇を通って長机へと移動する。ドーベルは尚も心配そうな顔で立ち尽くしていたが、俺が促すと渋々といった様子で俺の正面へと腰を下ろした。それを確認してから、ドーベルにも見えるようにリストを広げる。
「さて、じゃあこれを見てくれ。阪神JFの出走申請者リストだ。見ての通り、シーキングザパールが出走申請してきている。彼女の出走は確実だと言って良いだろう。代わりに、バトルオブエラかオリジナルシャインのどちらかは除外になると思う。そうなると前目につける娘が減って、全体のペースが落ちる可能性がある。そうなった時は———」
2人でリストを確認しながら、出走してきそうな娘の名前にチェックを入れつつ、同時にレース展開も予想する。そうして幾つか予想パターンを作っておいて、実際に出走者が決定してから最終的な調整をするという方針でいこうと思っていた。
———この時は、まだ。
◆
その日、関原はトレーニングの時間になってもコースに姿を見せなかった。朝の内は晴れていた天気も午後を過ぎてから次第に悪くなっていき、いつ降り出してもおかしくない状態だった。
先にコースへと来ていたドーベルは、関原がトレーニングの時間に遅れるとは珍しい事もあるものだと思った。まあでもそんな事もあるかと先にウォーミングアップを始めたが、ウォーミングアップが終わってもなお関原が来る気配がないと、流石にこれはおかしいと思い始めた。
試しに携帯へと電話をかけてみても一向に出ず、どうしたものかと考えて、ふとある事を思い出した。
(……そう言えば、あの時もこんな天気だったな)
それは今から半年前の事。忘れもしない、5月も終わりの頃だった。あの時も久下トレーナーが時間になっても現れず、関原が携帯にかけても繋がらず、それでドーベルが呼びに行く事になったのだ。
前日も特に異常は見られなかったし、それどころか午前中に顔を合わせた時も関原と楽しそうに談笑していたものだから、まさかあんな事になるなんて思ってもいなかった。
そこまで思考が及んだところで、とある考えに行き着いたドーベルの背筋に冷たいものが走る。
「……まさか、トレーナー……?」
いや、まさかそんな筈はない。久下トレーナーに関しては年齢に依るところが大きかった筈だ。関原はまだ若い。確かに最近は多少の無理をしていたようだが、それでもあの時のようにはならない筈だ。
しかしいくらそう思った所で、ドーベルはその考えを振り払う事ができなかった。呼吸が段々と浅くなり、心臓がギュッと掴まれたかのように痛む。不安に揺れる瞳は、焦点の合わないままにトレーナー棟へと向けられる。
気がつけば、トレーナー室へと向かって走り出していた。
必死の形相で廊下を駆けるドーベルとすれ違ったウマ娘やトレーナー達が、一体何事かと怪訝そうな顔で振り返るが、今の彼女にそれを気にするだけの余裕はない。
息を切らせてようやくトレーナー室の前へと辿り着き、ノブへと手をかけるが、何故かそこから先へと踏み出すことができない。
このドアを開けて、部屋の中がどうなっているのかを見るのが怖かった。またあの時と同じ光景を見る事になるのではないかと思うと、それだけで震えが止まらない。大きく息を吸い込んで、意を決してノブにかけた手を捻る。鍵はかかっておらず、ノブは何の抵抗もなく回った。そのまま軽く押せば、キィと軽く音を立ててドアが開いた。
中を覗いてみれば、室内は電気がついておらず薄暗いままだ。ドア横の壁を探り、スイッチを入れて明かりをつける。明かりがついてすぐ目に入る正面のデスクにはトレーナーの姿はない。それを確認したドーベルは、恐る恐るソファの方へと視線を移す。そこにはソファに深く腰をかけ、俯いたまま微動だにしない関原の姿があった。足下には直前まで目を通していたのであろう資料が散乱している。
それを見た瞬間、ドーベルは全身から血の気が引くのを感じた。
「トレーナー!」
慌てて駆け寄り、その肩に手をかけて顔を覗き込む。すると穏やかに閉じられた眼に規則正しく繰り返される呼吸、それに合わせて微かに、しかし確実にゆっくりと上下する胸が目に入る。急に動かされたからか、小さく「うぅん……」と唸って眉間に軽く皺が寄るが、それでも目を覚ます気配はない。
その様子を見て、ドーベルは全身から力が抜けていくのを感じた。思わずその場にへたり込んで、安堵の溜め息を吐く。
そうすると今度は、体の奥底から沸々と怒りが湧き上がってきた。こんなに人に心配をかけておいて、自分は一体何を呑気に寝こけているのか。先程まで冷え切っていた血流が、瞬時にグツグツと煮えたぎっていくのを感じる。
その熱量の赴くままに関原の耳へと手を伸ばし、自らの眼前へと引き寄せると同時に大きく息を吸い込んで、耳元へと口を寄せる。
「わっ!」
「おわぁっ!?」
突然耳元で大音声を聞かされた関原は、飛び上がりながら目を覚まし、勢い余ってそのままソファから転がり落ちた。慌てて起き上がりながら周囲の状況を確認する。そうして周りを見回して、ようやくドーベルの存在に気がついた。
「ドーベル……? 今のは君が……」
「アンタ、何してんのよ!」
疑問を最後まで口にする前に、ドーベルの怒声に遮られる。彼女のあまりの剣幕に、関原はビクリと肩を跳ねさせる。
「な、何って……」
「いつまで経ってもトレーニングに来ないし、電話しても出ないし……。また何かあったんじゃないかって、そう思って……」
そう言うドーベルの瞳からはポロポロと雫が溢れ出す。その様子を見て、関原は今の状況がどういう物かに思い至った。
あの時の状況は、後から同僚に聞いて知っている。あの時、久下トレーナーを最初に見つけたのはドーベルだ。自分が彼女を向かわせたのだ。その後の彼女の様子も、良く覚えている。酷く落ち込んでいて、とても見ていられなかった。
そして、ああ——。自分は愚かにも、彼女にその時の事を思い起こさせてしまったのだ。
関原は今更になって、自分のしでかした事の重大さを思い知った。
「……ごめん」
「無茶して倒れられたら困るって、言ったでしょ……」
「……本当ごめん」
尻もちをついたまま立ち上がる事も、ドーベルの顔を見る事もできず、関原は視線を足下に落とした。部屋にはただ子供の様に泣きじゃくるドーベルの声だけが聞こえていた。
◆
どれくらいの時間が経っただろうか。先程まで空を厚く覆っていた雲もいつの間にか晴れて、部屋には夕陽が差し込んでいる。ドーベルもある程度は落ち着いて、今は軽く鼻を啜る程度に収まっていた。
「……落ち着いたか?」
「……うん。……ごめん、取り乱した」
「いや、今回は完全に俺が悪い」
立ち上がり、グイッと背中を伸ばす。バキバキと背骨が鳴り、凝り固まっていた筋肉がほぐれていく。軽くではあるが睡眠もとれた事で、いくらか頭もスッキリとしていた。
ふと足元に視線をやれば、寝る前まで目を通していた資料が散らばっている。幾らかは踏みつけられて破れてしまったものもあるようだ。とりあえず拾い上げて束ねていく。
「あっ……。ごめん、アタシ資料を……!」
「あぁ、大丈夫だよ。どうせデータはパソコンに入ってるから。紙で欲しければ、また印刷すればいい」
慌てて資料を拾い集めるドーベルにそう言って資料を受け取る。ドーベルはまたすぐに用意できるとは言え、重要な内容の記された資料を一部ダメにしてしまった事を気にしている様だった。
別にそこまで気にする必要もないのだが、真面目な彼女の事だ。こちらがどう言った所で、多少は気になってしまうのだろう。どうしようかと考えて、とりあえず手元の無事な資料共々握り潰して、丸めてゴミ箱へと放り込む。
「……あっ!?」
ドーベルの驚きの声を背に受けながら、パンパンと手を払う。
最初からこうしておけば良かった。
「ちょっと、アンタ何してるの……!?」
「いや、何。ちょっと色々と余計なことを考えすぎてたかな、と」
「……?」
俺の言葉の意味を飲み込めなかったのか、ドーベルは首を捻っている。
「さて、今日はもう解散。また明日な」
「えっ? トレーニングは?」
俺が解散を告げると、ドーベルは驚いたように声を上げる。確かにもうじき日が暮れるとはいえ、コースには夜間照明もある。多少暗くなったところで大した問題ではない。
レース本番も近い事だし、ほんの少しでもトレーニングに費やしたいというのは理解できる。実際、俺も本来ならそのつもりでメニューを組んでいた。
だが、しかし。
「今日はもうトレーニングって感じじゃないだろう? それに考えて見れば、レース前にあまり詰めすぎて疲労を溜めるのも良くないし、ここからは軽い調整で済ませてしまおう」
「でも……」
俺の言葉に、ドーベルは少し不満気な様子を見せる。
俺はその様子を横目に見つつ帰り支度を始める。なんならドーベルに向かって笑顔さえ浮かべて見せた。
「まあ落ち着きなって。焦ってやったって碌な事にならないさ」
そうだ。俺は焦っていたのだ。
ドーベルの目標であるメジロの新たな栄光。それを得るために俺が足枷になる様な事があってはならないと無理をして、その結果彼女に要らぬ心配をかけさせてしまった。
桐生院トレーナーに担当との距離感やコミュニケーションの大切さなんかを説いておきながら、自分は1人で勝手に先走って、何でも自分だけでやらなければならないと思い込んでいた。
そもそもそれが間違いだったのだ。
ドーベルの目指すものは彼女1人で成し得る様な物ではないし、ましてや俺1人の力でどうこうできる様な物でもない。俺達が2人で足並みを揃えて、協力して当たらなければならない物の筈だ。担当と共にトゥインクル・シリーズを駆け抜けるというのは、つまりそういう事の筈だ。
俺はそんな簡単な事さえ見落としてしまう程に、視野狭窄に陥っていたのだ。
「でも……」
「大丈夫だよ。ドーベルなら勝てるさ。……いや、まあ。俺がこんな事言っても説得力ないかもしれないけどさ……」
そこは焦ってやった結果やらかした先達の忠言とでも思って貰おう。とりあえず今日はもう体を休めるようにとドーベルに退室を促すと、些か不満はありそうながらも渋々といった様子で従ってくれた。それを見送ってから戸締りなどを確認して俺も部屋を後にした。
◆
12月1日、阪神レース場。空は雲一つない晴天で、バ場状態は良。絶好のレース日和と言えるだろう。今日は朝から大勢の人で賑わい、真冬の寒さの中でも独特の熱気がレース場全体を包んでいた。
そんな中、控室でドーベルは勝負服に身を包み、眼を閉じて精神を集中させているようだった。ノースリーブの白いブラウスに緑色のリボンタイ。黒色のスカートの上には青緑色のオーバースカートを大きなベルトで留めて、腰元には大きなリボンをあしらったデザインは、清楚さの中に華やかさも感じられ、ドーベルの大人びた雰囲気と良く似合っていた。
「———よし」
「落ち着いてるな」
眼を開けて小さく拳を握ったドーベルに声をかける。
ドーベルはこちらに横目で視線をやると、不満気に鼻を鳴らした。
「アタシが落ち着いてたら変って言いたいの?」
「いや、そういう訳じゃ……」
大事なレース前に余計な一言で機嫌を損ねてしまったかとオロオロとしていると、そんな俺を冷めた目で見ていたドーベルが不意に表情を緩ませる。そして堪えきれないと言ったように小さく吹き出した。
「ふふっ、何その顔」
「……いや、そういうのやめてくれよ。焦っただろ」
「ゴメンって」
冗談だと気がついて胸を撫で下ろす俺を見て、微かに肩を振るわせながら口元に手を当ててくつくつとドーベルが笑う。そうして一頻り笑った後に、自分を落ち着けるように「ほぅ」と一つ息を吐いた。
「まあ、自分でもちょっと驚いてるけどさ。……今日は、結果を出したい。アタシでもティアラ路線で戦えるって、自信が持てるような、そんな結果を……!」
「ブライトとも誓ったしな」
力強く頷いて返すドーベルの目を見る。そこには静かに、しかしハッキリと闘志が燃えている。
体からは余分な力も抜けて、適度な緊張感を保てているようだ。これならば、安心して送り出せる。
「バッチリ結果を出してこよう!」
「言われなくてもそのつもりだってば」
そう言ってドーベルはドアノブに手をかける。
そして肩越しに俺の方を振り返った。
「じゃあ、行ってくる———」
ドーベルの姿がドアの向こうへと消える。その背中を見送ってから、俺もパドックへと向かった。
◆
パドックでは本日のメインレースである阪神JFに出走する、10人のウマ娘のお披露目が行われている。
1番人気は前走のGⅡデイリー杯ジュニアステークスにて、レコードで勝利を飾ったシーキングザパール。ドーベルは僅差ながら2番人気となっている。
そしてそのパドックの舞台の真ん中に、1人の少女が立っている。大勢の観客の視線を、歓声を、衆望を一身に浴びて、それでも一切怯む事なく、それどころかむしろ堂々と、自信に満ち満ちた様子で大きく手を広げ、舞台上から客席に向かって声を張り上げる。
「さぁ、見せてあげるわ! この私のウルトラな輝きを、余す事なくッ!」
少女の宣言を受けて、観客から再度大きな歓声が上がる。
シーキングザパール。
随所に星の意匠の散りばめられた真紅のオフショルダーのジャケット、自らの名前にもある真珠のついたベルトで白いスカートを留めて、足元はコーンヒールのパンプスに首元には真珠のネックレス、額にはサングラスといかにも派手な勝負服だが、それが彼女の自信に満ちた表情と、底抜けの明るさに非常によく似合っていた。
「すごい……! パールさんだって、初めての大舞台の筈なのに……!」
(流石、『世界を見据えている』って普段から豪語しているウマ娘……)
舞台脇からそんな彼女を眺めながら、ドーベルはふと自分の中に不安が擡げるのを感じた。せっかくかき集めたなけなしの自信も、彼女の持つ絶対的な自信と比べると、なんと小さな事だろうか。
(……気持ちで負けちゃダメだ。アタシも、出来る限り堂々と……!)
それでも顔は下げなかった。
今はまだ、絶対勝てるだなんて言えやしない。そこまでの自信は、残念ながら持てていない。それでも、気持ちだけは。勝ちたいという、この気持ちだけは、誰にも負けないように……!
「フフッ、いい顔ねドーベル。戦意と決意で満ち満ちているのがわかるわ」
「パールさん———」
舞台から降りてきたシーキングザパールと視線が合う。
シーキングザパールはドーベルの前まで歩いて来ると、ビシリとドーベルに向かって指を突きつける。
「今日という素晴らしい日に、私たちの可能性をぶつけ合いましょう。ショウタイムは間もなくよ!」
「負けるつもりは、ありません。全力で……勝負です!」
ドーベルも負けじと、シーキングザパールを睨み返す。暫し2人で睨み合っていたが、やがてシーキングザパールはフッと小さく笑ってドーベルに手を振り離れていく。
その背を暫く目で追って、そして目を閉じて一つ深呼吸をしてからドーベルは舞台の上へと出て行った。
『6番、メジロドーベル。本日は2番人気です』
『1番人気は僅かにシーキングザパールに譲りましたが、彼女も同じくここまで無敗。実力は負けていませんよ』
舞台に上がると同時、歓声が彼女を包む。
これで4度目。しかしこれまで以上の熱気に、一瞬ビクリと体が竦む。それでもしっかりと前を向いて、客席へと一礼する。再び上がる歓声に、押し出されるようにして舞台裏へと戻る。
既に慣れたつもりでいたのに、心臓がうるさくて仕方がない。
そして返しウマのためにターフに出た時、ドーベルは思わず足を止めた。
スタンドを埋め尽くす人の波。止む事のない歓声。そのどれもが、今まで体験してきたどのレースよりも凄まじくて。
「すごい……。これがGⅠの歓声……空気……」
会場の空気に当てられたのか、体がビリビリと震えている。レース場も、いつもよりもずっと広く感じる。
足元の感覚が曖昧になって、確かめるようにその場で強く踏み締める。ターフから熱が立ち上っているかのように、足が熱い。
「ふーっ……」
浮き足だった気持ちを落ち着けるように、大きく息を吐く。肺の中の空気を全て吐き出すように、大きく大きく息を吐いて、そして大きく息を吸い込んで、ピシャリと頬を叩く。
「……大丈夫。絶対、大丈夫」
しっかりと自分に言い聞かせる。
視界も思考もハッキリとしている。
「落ち着いてる。やれる。いける———」
キッと前を睨む。
そして一歩を踏み出した。
「アタシは……走れる!」
『ジュニア級の女王を決める大一番。『阪神JF』のゲートインは間もなくです!』
次回はレース回です。
早めに…できたら…良いですね…。