感謝の限りでございます
携帯のアラームが朝を告げる。
枕元に置いたそれを手探りで探りあて、けたたましく鳴り響く電子音を止め、時間を確認する。
午前5時。前日に設定した時間通り。まだ覚醒しきらない頭を振ってベッドから出る。
そのまま窓際まで歩み寄りカーテンを引けば、朝の日差しが部屋の中を優しく照らし出す。
春らしい穏やかな光は、夜の間に冷えてしまった室内をゆっくりと温めてくれる。
そうして室内に明かりを入れてから、キッチンへと向かう。
電気ケトルへ水を入れ、お湯を沸かしつつトースターにパンをセットする。
冷蔵庫から、前日に用意しておいたサラダを出して食卓へと並べ、今度はその足で洗面台へ。
顔を洗っている間にトースターからチンっと音がして、パンが焼き上がった事を知らせてくる。
顔を拭きながらキッチンへと戻り、パンにジャムを塗って皿に乗せる。
マグカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、その上から既に沸いていたお湯を注ぐ。
そしてそれらを持って食卓へ。
一人暮らしを始めてから試行錯誤の末に生まれた、一番効率の良い朝の流れがこれだ。
そもそも自分は、そんなに要領の良い方ではない。あらかじめ行動を決めておかないと、いつまでも考え込んでしまう。
それを慎重だと前向きに捉える事は出来るだろうが、やはり何事も効率良く進めるに越した事はない。
食べた後の食器を洗い、着替えて身支度を整える。
ネクタイは曲がっていないか、髭の剃り残しはないかなど、いつもより念入りに確認しておく。
社会人生活の1日目なのだから、やはりそれなりにキチンとしておきたい。
何も問題がない事を確認したら、テーブルの上に置いてあるバッジを手に取る。
蹄鉄を模した、金色にキラリと光るそれを暫し眺めた後、スーツの襟につける。これで準備は完了だ。
買ったばかりのまだ硬い革靴を履き、寮の部屋を出る。春とはいえ、朝のこの時間はまだ空気が温まっておらず、少し肌寒い。
冷たい空気の中を日差しに温められながら、歩を進める。
これから朝練だろうか、赤いジャージ姿のウマ娘が数名、世間話をしながら歩いている。
それを横目に見ながら、暫く歩いていると目的地が見えてくる。
総勢2,000人を超えると言う膨大な数の生徒に、教職員を全て収容する事ができる巨大な建築物、大講堂だ。
この大講堂に加え、自分が数日前から新しい生活の場としている職員寮、生徒全員が生活出来るだけの規模を誇る学生寮が2棟、ウマ娘がトレーニングする為のコースやジムなどのあらゆる施設、一般教育を受ける為の学舎、その他にもカフェや食堂などを広大な敷地の中に内包した、全国に存在するウマ娘トレーニング施設の中でも最新鋭かつ最大規模を誇る、競争ウマ娘育成を担う教育機関。
"日本ウマ娘トレーニングセンター学園"、通称"トレセン学園"。
それが、今日から自分が働く場所の名だ。
大講堂の入り口へと近づくと、そのすぐ横に『第○○回入学式』と書かれた看板が立てられている。
入り口をくぐれば、既に結構な数の新入生達が整然と並べられたパイプ椅子に腰掛けて、式の始まるのを落ち着かない様子で待っている。
さて自分の座るべき新規職員の席はどこだろうかと、キョロキョロと辺りを見回していると、背後から声がかかった。
「あの、新しいトレーナーの方でしょうか?」
その声に振り返ってみると、緑色のスーツに緑色の帽子を被った女性が立っていた。
「あぁ、はい。そうです」
「それでしたら、今年からの新規採用の方の席はあちらになります」
女性の指し示した方を見てみれば、確かに自分と同じ様な真新しいスーツに身を包んだ何人かの男女の姿が見える。
女性にお礼を言ってから、そちらへと歩いて行き、周りに軽く会釈をしながら適当に空いていた椅子に腰掛ける。
開始時刻までは、まだもう少しだけ余裕がある。
隣に座っていた男性と軽く自己紹介などをしながら、新入生と同じくどこか落ち着かない気持ちで式の開始を待った。
始まる前の緊張感に対して、式自体はアッサリと終わりを告げた。
理事長挨拶の時に子供が出て来たのには驚かされたが、というか、何故頭に猫を乗せていたのだろうか。気になって仕方がなかった。
おかげで話が全く頭に入ってこなかった。あの子供は、あの猫は一体……。
そしてその次に出て来たのは、生徒会長を務めているウマ娘、シンボリルドルフ。総てのウマ娘の幸福という、余りにも大きな夢を掲げてクラシック戦線をデビューからの無敗で駆け抜け、最終戦績は16戦13勝、史上最多のGⅠ7勝を挙げた最強の呼び声高い"皇帝"。
今は現役を退いているが、その存在感、威圧感ともいえるだろうか、それは全く衰えていない。
そんなシンボリルドルフの挨拶の終わりに、それは起きた。
「これからの皆の活躍に期待してい"きたい"、という所で私からの挨拶は以上だ」
初めは誰もわからなかった。「何か妙な所を強調するな」という程度の認識だったのだ。
それが「あれ? 今のもしかして……?」という波紋となって広がっていき、徐々に「やっぱりそうだよね……?」と大きくなって、最終的に「ダジャレだ今の!」という波になった。
最強の皇帝が突然ぶっ込んできたダジャレに、会場は騒然となった。おかげで何か良いことを色々言っていた筈が、全て吹き飛んでしまって何も覚えていない。
生徒会メンバーと思しきウマ娘が会場の端で頭を抱えているあたり、おそらくは予定にない事だったのだろう。
なお、当の生徒会長は会場の反応にご満悦だった模様。大きく頷きながら壇上から去っていった。
そんな会長の暴挙による興奮冷めやらぬ中、新入生代表挨拶が開始され、無難な内容故に皆の印象に残らずひっそりと終わった。
それまでのインパクトが大きすぎたのだ。代表者は泣いていい。
そうして式は終了となり、新入生はそれぞれの教室へと移動、職員も自分達の仕事場へと戻って行く。
◆
新規採用でトレーナーとなった自分は、他の新人トレーナー達と共に一つの部屋へと集められる。
そこは事務机が複数並べられた、見た感じ職員室のような部屋で自分のような新人や担当ウマ娘のいないトレーナーが仕事をする部屋らしい。
大体は新人も担当の着かなかったトレーナーも3年もすればこの部屋を出て行くそうだ。
前者は担当したウマ娘がトゥインクルシリーズを走り抜き、引退もしくはドリームトロフィーリーグへと移行する大凡の期間。そして後者の方は、推して知るべしと言う所か。
そもそも担当の着いたトレーナーに関しては、共用部屋とは別に個別のトレーナールームが与えられるので、殆どの場合そっちに移動するらしいが。
まぁ、担当のトレーニング内容や今後のレース方針などは他のトレーナーには知られたくはないだろうし、個室があるならそっちに移るのが当然だろう。
ひとまず新人トレーナー達は、一ヶ月後に行われる選抜レースで自分の担当したいウマ娘を探す所から始める事になる。
しかし、自分の考えはそれとは少し違っていた。
自分は決して優秀な人間ではない。トレーナー養成校でも成績は中間辺りをウロウロしていたし、トレーナー試験でも合格ラインギリギリだった。
そんな自分がいきなり担当を持って、上手くいく訳がない。
トレーナーは、担当するウマ娘の人生の一端を背負うと言っても過言ではない。それを自分のような凡庸な人間が、なんの準備もなく成せるとは思っていない。
だから自分は、既に担当ウマ娘のいるトレーナーの下でサブトレーナーとして一度経験を積もうと思っている。
そうしてトレーニングの組み方や、レースの選び方などのノウハウを学び、自分なりの指導の仕方を組み上げてから担当を決めればいい。
自分はあまり要領の良い方ではない。あらかじめ行動を決めておかなければ、いつまでも考え込んでしまう。
そして、彼女達にはそれをいつまでも待っていられる程の時間はない。
ならば、担当を持つ前に自分の行動を決めておけば良いのだ。
他のトレーナー達が選抜レースに向けてウマ娘の情報を得ようと動き出す中、自分は既にチームを組んでいるトレーナーや担当を持ったトレーナーの情報を集めるべく、動き出す。
先ずはパソコンで学園のデータベースへとアクセスして、チーム毎の所属人数や戦績などを見ていく。
そして確認したデータを基に、実際にトレーニングしている所を見学に行く。それで指導方針が自分に合いそうかどうかを判断して、教えを乞うかどうかを決めるのだ。
とはいえ、すぐにどうこうするものでも無いので、何チームかピックアップして最終的に一番良いと思えるチーム、もしくはトレーナーの所へ付けるようにすれば良い。
焦る事はない、焦って情報収集を疎かにしてはいけない。時間はまだまだある。じっくりと吟味して、自分にとっての最良を探るのだ。
◆
そうしてチームやトレーナーの情報を集め続けて一ヶ月、遂に選抜レースの日がやって来た。
共用のトレーナールームには自分一人だけが残り、他のトレーナー達は選抜レースを見にコースへと出払っていた。
そして自分はと言うと、未だにこれだと思えるようなチームには、出会えていない。
そもそも上位のチームには既に複数のサブトレーナーが付いている事が殆どで、これ以上は必要ないと断られている。
一人でやっているトレーナーはチームの人数が少ない、若しくはまだチームを組んでいない等の理由で、こちらもやはりサブトレーナーは必要ないと断られていた。
パソコンの画面から視線を外し、思い切り背を反らして伸びをすると凝り固まっていた背中の筋肉に鈍い痛みが走る。
流石に疲れも出てきたので、気分転換に選抜レースでも見に行ってみようかと考えた。
それに選抜レースなら、スカウトの為に先輩トレーナー達も出張ってくるだろう。そこで自分の師事するトレーナーを探すのも良いかもしれない。
そうと決まれば話は早い。パソコンの電源を落とすとコースへと向かった。
◆
選抜レースは1日に芝とダート、それぞれ12本ずつ行われる。ウマ娘達はその中で自分の得意な距離を選んで出走するのだ。
出走できるのは12本のうち1本のみ。ただし芝とダートは別らしい。
そして少数とはいえ観客も入っていて、本番さながらのレースが繰り広げられる。
そんな選抜レースを見た自分の感想は……。
「……すごい」
まさに圧巻の一言だった。
凄まじいまでの気迫、熱量。見ているこちらも熱くなる様な、そんな光景が目の前にあった。
自分の師事するトレーナーを探すという目的も忘れて、ただひたすら目の前のレースに夢中になった。
そうだ、自分はこの光景に惹かれてトレーナーを志したのだ。
そうやって夢中でレースを見ていると、隣に人の立つ気配を感じた。
「貴方、新しいトレーナーさん?」
そうしてかけられた声にそちらを見ると、一人の女性がにこやかにこちらを見ていた。
服装はベージュのブラウスの上にグレーのカーディガン、ゆったりとしたパンツスタイルで、年齢は既に60を過ぎているのではと思えるような、高齢の女性だ。
「ええ、そうですが。貴女は?」
「あら、失礼。私は
言われて女性、久下さんのカーディガンの襟を見れば、確かに多少色褪せてはいるが自分の物と同じバッジが付いている。
こんな高齢になってまでトレーナーをしているとは、と驚きながら相手にだけ名乗らせるのは失礼なのでこちらも名乗る。
「俺は
「あら、これはどうもご丁寧に。……ところで、関原さん。一つ質問をしても良いかしら?」
「……何でしょうか?」
互いの自己紹介を終えてから、久下トレーナーは頬に手を当てて、こちらを見ている。
表情こそ笑みを浮かべているものの、まるで自分を見定めようかと言うような真剣な瞳に、思わず姿勢を正す。
「貴方、新人トレーナーという事は担当ウマ娘を探しに来たのでしょう? スカウトには行かなくても良いのかしら? それとも、御眼鏡に適う娘が居なかったかしら?」
既に選抜レースは12本のうち8本を終えている。自分が来たのは3本目の途中からなので、都合5本はここで見ていた事になる。
それだけの間、ただレースを見るだけでスカウトに動かない自分は、確かに周りから見ればおかしく思えるだろう。
無論、出走者の中には目を引く娘が何人か居た。それは事実である。
しかし、自分の目的はそうではないのだ。
「……実は、俺はサブトレーナーになりたくて、今は指導して頂ける方を探している所なんです。選抜レースは、その息抜きに見に来ただけで……」
隠しても仕方がないので、正直に言う。それに久下トレーナーに嘘を言っても、なんだか簡単に見破られてしまいそうな気がしたのだ。
「あら、そうなの……」
それだけ言うと、久下トレーナーはジッとこちらを見つめてくる。
なんだか罰が悪くて、曖昧に笑って誤魔化しつつレースへと視線を戻した。
「うん、なら丁度良いわね」
と、久下トレーナーが言った事が分からず、もう一度視線をそちらへ戻すと、久下トレーナーはニッコリと微笑んでこう言った。
「貴方、私のサブトレーナーにならないかしら?」
とても今更ながらこの作品のトレーナーには名前がついております