———貴方、私のサブトレーナーにならないかしら?
あの言葉から、明けて翌日。
俺は久下トレーナーに指定された、ある部屋の前に立っていた。一度、目を閉じて深呼吸。そして意を決してノック。扉の内からの『どうぞ』という声に、ノブをひねり扉を開ける。
「あら、いらっしゃい」
「…どうも」
入って来た俺を見て、久下トレーナーはニコリと微笑む。俺は軽く会釈をしてそれに応える。
ここは彼女に割り振られたトレーナールームだ。
左手側の壁際に本棚が置かれ、その中にはスポーツや医療関連の本が並べられている。その隣にはスチールラックや書類棚があり、トレーニング内容やレース場の情報などをまとめたファイルが収められている。右手側の壁際にはキャビネットと小型の冷蔵庫があり、キャビネットの隣にはウォーターサーバーが置かれている。そしてその前にはホワイトボードと、その正面に長机が2つ合わさるように置かれていて、そこにパイプ椅子が3脚、ホワイトボードに向き合う様に並んでいる。ホワイトボードには今後のレーススケジュールや、それに向けたトレーニング内容などが書かれている。
久下トレーナーは扉の正面、窓を背にする様に置かれた事務机から立ち上がり、長机の方へとこちらを促す。机の上には開かれたノートパソコンの他にファイルや書類、何らかの本が積まれていて、今まで作業をしていた事が窺える。
とりあえずいつまでも入り口に突っ立っていても仕方がないので、久下トレーナーに促されるまま、パイプ椅子を一つ反対側に持って行き、座る。
「それで、こうして来てくれたという事は、昨日のお返事を頂けるという事で良いのかしら?」
久下トレーナーは、キャビネットから取り出した紙コップにお湯を注ぎながら言う。紙コップのふちからは紐が垂れ下がっていて、湯気と一緒に微かに紅茶の香りが漂ってくる。
「ええ、そうですね」
その一言を言うだけで、何故か奇妙な緊張感が全身に走る。出された紅茶を一口含み、喉を湿らせる。
そう、俺は昨日のあの言葉に返事をしていない。サブトレーナーとして指導してくれる人を探していると自分で言っておいて、少し考えさせて欲しいなどとよくも言えたものだと、我ながら思う。
しかし、こちらも誰でもいいという訳ではない。指導方針の合う、合わないは誰にでもあるし、そもそも彼女がどんな人物かを、俺は知らない。
だから、それを知るための時間が欲しかったのだ。あの後、選抜レースを最後まで見ることもせずに、共用のトレーナールームに戻り、学園のデータベースから久下トレーナーの過去の担当やチーム戦績などの情報を引き出した。
その結果は、
「貴女さえ良ければ、どうかよろしくお願いします」
そう言って、頭を下げる。久下トレーナーの過去の実績は、それは申し分無いものだった。過去の担当はその殆どが重賞レースに勝利しているし、GⅠバも何人か輩出している。入着率も非常に高い。つまり、それだけ指導力と見る目が良いという事だ。
それになにより、担当ウマ娘に故障が殆どない。これは担当に無理なトレーニングはさせず、それでいて重賞に入着できるだけの強度と高効率のトレーニングを行えるという事。そんな優秀なトレーナーに指導を受けられるなんて、願っても無い事だ。
俺の返事を聞いた久下トレーナーは笑みを深める。
「ええ、ええ。勿論ですとも。こちらこそ、お願いね」
「はい、精一杯頑張ります」
そうしてお互いに今後についてを話し合おうという時に、控えめなノックに続いて扉の開く音がした。その音に振り返って見てみると、一人のウマ娘が入って来た所で立ち止まり、こちらを見ている。
黒みを帯びた鹿毛の髪を背中まで伸ばし、左耳に緑色のリボンを着けている。薄紫の綺麗な瞳は、今は警戒の色を持って俺へと向けられていた。ジャージを着ているので、おそらくトレーニングの為に久下トレーナーを呼びに来たのだろう。
「あら、ベルちゃん。今日は早かったのね」
「模擬レースも近いし、少しでも多くトレーニングしたくて…。それで、その…」
ベルちゃんと呼ばれたウマ娘は、俺を見て口籠る。来客中に返事を待たずに部屋へ入ってしまった事を気にしているのだろうか。
久下トレーナーはそんなベルちゃんに近づくと、その肩を持って俺の前まで連れてきた。
「それじゃあ、紹介するわね。この娘はベルちゃん、メジロドーベル。私の担当ウマ娘よ。ベルちゃん、コチラは関原トレーナー。昨日話したサブトレーナーさんよ」
「…どうも」
ベルちゃん、メジロドーベルは視線をこちらから外したまま軽く会釈をする。というか、久下トレーナーの中では、俺は昨日の時点で既にサブトレーナーになるのは決まっていたらしい。穏やかそうに見えて、結構押しが強いタイプなのだろうか。
とりあえずこちらも立ち上がり、ドーベルへと向き直る。
「初めまして、メジロドーベル。関原一輝だ。これからよろしく」
そして一歩近づいて、握手でもしようと手を差し出す。するとドーベルの体が一瞬強張るのがわかった。やはり年頃の少女にいきなり身体的接触は良くなかっただろうか。
俺は自分の失態を曖昧に笑って誤魔化しながら手を引っ込める。それを見たドーベルは小さく「あっ」と声を漏らして、申し訳無さそうな表情を浮かべた。
「それじゃあトレーニングに行きましょうか。関原トレーナー、早速で悪いけれど、タイム計測と記録をお願いして良いかしら?」
「あ、はい。分かりました」
微かに漂い始めた気不味い空気を、久下トレーナーの声が掻き消す。俺は長机の上に置かれていたバインダーとストップウォッチを手に取って、先に部屋を出た二人を追いかけた。
◆
(…やってしまった)
メジロドーベルは自己嫌悪に陥っていた。きっかけは、自身のトレーナーである久下の連れてきたサブトレーナーの握手を、拒絶してしまった事だ。別に明確に言動で拒んだ訳ではない。しかし、その意思は確実に彼に伝わっていただろう。
差し出した手を、困った様な笑顔を浮かべながらそのまま下げた彼の姿を思い出す。
(…どうして、アタシはこう…)
そもそもお互いに初対面で、これから一緒にトレーニングをしていく関係で、挨拶の握手ぐらい普通の事だ。そんな普通の事も出来ない自分が、ほとほと嫌になる。
その彼、関原は今、久下の隣でストップウォッチを構えて、ドーベルの準備完了の合図を待っている。ドーベルは今、トレーニング用の芝コース、その1600mのスタート位置に立っている。
トレセン学園のトレーニングコースは外周から、ポリトラック、芝、ダート、ウッドチップと4つのコースが並んでおり、その隣に直線の坂路コースが設置されている。
芝コースは一周2000mの綺麗な楕円形をしており、高低差のほぼない平坦なコース構成となっている。1600m地点はゴールの丁度反対側、第2コーナーを抜けた先になる。
(今は、集中…)
一度大きく息を吐き、手を上げて準備ができた事を知らせる。それを見た関原はスターターピストルを上空へと構えて、引き鉄を引いた。破裂音と共に、ドーベルは地を蹴って勢いよく飛び出した。
◆
「…良いスタートだな」
本日3度目となるドーベルのスタートを見て、俺は感心していた。
ゲートがないと言っても、スタートはピストルの音から大きく遅れる事もない。手元のボードに記されたラップタイムも、それ程バラツキもなく正確に刻めているし、上がりの3ハロンのタイムもかなり良く思える。次走が模擬レースという事はまだデビュー前なのだろうが、これなら普通にレースに出走しても勝負ができるのではないだろうか。
ドーベルが目の前を駆け抜けるのと同時に、ストップウォッチを止めてタイムを確認する。起伏のないコースとは言え、やはりそこそこのタイムが出ている。
「お疲れ様。良いタイムが出てるぞ」
タオルとドリンクを差し出しながら、肩で息をするドーベルへ声をかける。ドーベルはこちらにチラリと視線をやるものの、すぐに逸らしてしまう。やはり初日から打ち解けるのは難しいようだ。
「…どうも」
それでも小さくお礼を言って、タオルとドリンクを受け取ってくれている辺り、完全に拒絶されている訳でもなさそうだ。
「今日は後2本走ったら30分休憩して、その次は並走の予定が入っている。しっかりと柔軟とクールダウンをしておいてくれよ」
「…わかってる」
ドーベルはタオルとドリンクをこちらに押しつける様に渡してくると、そっぽを向いてしまう。しかし耳は絞られていないし、尻尾の揺れも穏やかで特に機嫌が悪いという事はないらしい。ときたまこちらにチラリと視線をやって様子を伺ってくるが、向こうから何かを仕掛けてくる事もない。
年頃の少女の事は、やはり良くわからない。
「…じゃあ、もう一度行ってくるから」
そう言うと、スタート位置へと歩いて行ってしまう。その背中を暫し見送ってから、俺は背後で黙って様子を見ていた久下トレーナーへと振り返る。
「嫌われては、ないんですよね?」
「大丈夫よ、理由もなく誰かを嫌うような娘じゃないから」
ずっと見てきた久下トレーナーがそう言うなら、とドーベルの方へ視線を戻すと彼女は丁度スタート位置に着いた所だった。その場で軽く跳躍したり、足首を回したりして準備を整えると、手を上げて合図を送ってくる。
それを見た俺はピストルを構えると、今日4度目の引き鉄を引いた。
◆
タイム計測後のクールダウンの最中に、どこかで見た事のあるウマ娘がやって来た。色味の薄い鹿毛をボブカットにし、大きめのウマ耳の左側に黄色いリボンと金のチェーンの装飾を着けている。赤いアイシャドウに縁取られた意志の強そうな薄紫色の双眸は、見る者に尊敬と畏怖の念を感じさせるに相応しい。
"女帝"エアグルーヴ、GⅠレース「オークス」の母娘2世代での制覇を達成した実力者。シンボリルドルフと共にトレセン学園生徒会を支える副会長であり、入学式でその会長の暴挙に頭を抱えていたあのウマ娘だ。
「失礼、並走相手に参りました。大丈夫でしょうか」
エアグルーヴは計測結果をまとめている久下トレーナーに声をかける。久下トレーナーはバインダーから顔を上げてエアグルーヴの姿を認めると、ふわりと笑みを浮かべた。
「ああ、エアグルーヴさん。いつもありがとうね。並走は、そうね…」
そこで久下トレーナーは言葉を切って、こちらを見遣る。どうやら並走ができる状態かどうかを判断しろという事らしい。
俺はチラとドーベルの様子を伺う。整理運動も完了しているし、息も整っている。休憩時間が終わるまではまだ5分程あるが、今からでも並走自体は可能だろう。そう判断した俺は、久下トレーナーに向かって頷いてみせる。
そんな俺の様子を見た久下トレーナーは、満足したように頷き返してきた。どうやら彼女も同じ結論に達したらしい。
「それじゃあベルちゃん、今度はエアグルーヴさんとの並走よ。さっきと同じ1600の左回り。行けるわね?」
「はい、大丈夫です。先輩、よろしくお願いします」
「ああ、全力で来い」
そうして2人でスタート位置へと歩き出す。流石にデビュー前のドーベルと、GⅠバであるエアグルーヴとでは実力差が大きいのではと思うが、当の本人も久下トレーナーも特に気にする素振りもない。
まあ、これに関しては今日加わったばかりの俺が何か言う事もないだろう。黙ってピストルに火薬を詰める。そして、準備ができた2人からの合図で空に向かって引き鉄を引く。
破裂音と同時に、2人が弾かれるように飛び出していく。
先手を取ったのはエアグルーヴだ。ドーベルはその後ろ、1バ身程離れた所に位置取っている。そのままの位置関係でコーナーへと入る。大きな動きのないまま4コーナーを回り、その立ち上がり。ドーベルが外からエアグルーヴを抜かしにかかる。
ドーベルの体が低く沈み込み、思い切り踏み込んだ脚が芝を引きちぎり、空へと蹴り上げる。目を見張るような加速で、エアグルーヴの横につける。そのまま前に出るかと思った、その次の瞬間にエアグルーヴも速度を上げる。縮まった筈の距離が開き始める。
しかし、
「ぁぁぁああっ!」
ドーベルが吼える。そして、目の前の女帝に喰らいつかんとばかりに駆ける。もう後半バ身まで迫る。
結局、そこから先へは行かなかった。そのままエアグルーヴが先行してゴールした。それでも俺は、今のドーベルの走りが鮮烈に脳裏へと焼き付いていた。
瞬間的な加速も、最後まで走り抜く勝負根性も素晴らしいモノを持っている。
俺は興奮のままに、久下トレーナーへと振り返る。
「ドーベル、凄いじゃないですか。このままデビュー戦でもいけそうですよ」
しかし、そんな俺とは対照的に久下トレーナーの表情は暗い。久下トレーナーは俺と視線を合わせると、力なく笑う。
「そうね、私もそう思っているけれど…」
その言葉の意味を聞くよりも先に、ドーベル達が久下トレーナーの元に戻って来た。
「トレーナー、どうでしたか?」
「良かったわよ、ベルちゃん。また速くなったわね」
そしてドーベルに話しかけられる時には、先程までの表情は鳴りを潜め、いつもの柔和な笑顔を浮かべている。
「先輩、もう一本お願いしても良いですか?」
「何本でも構わんぞ。私も、お前と走るのは良い刺激になる」
そして、2人はまたスタート位置まで歩いて行く。その背中を見送りつつ、久下トレーナーの隣へ並ぶ。
「あの、久下トレーナー。さっきのはどういう…?」
「…いえ、なんでもないのよ。貴方にも、心配かけてごめんなさいね」
久下トレーナーはそれ以上何も言わなかった。スタート位置では、ドーベルとエアグルーヴが何事か話しながら準備を整えている。それを見て何を思うのか、久下トレーナーの表情から読み取る事は今の俺にはできそうもない。
きっと何かはあるのだろうが、別に俺に対して隠し事をしようという訳ではないのだろう。時がくれば、話してくれる筈だ。
ドーベルが手を上げる。俺はそれに合わせてピストルを構える。今日何度目か、破裂音が鳴り響く。
模擬レースが、来週へと迫っていた。