頑張って欲しいですね。
模擬レース前日。トレーニングは軽めのものにして早めに切り上げ、トレーナールームへと戻って来た。もうやる事も特にないので、久下トレーナーには先に上がってもらい、この一週間のトレーニング結果をまとめておく。
とは言っても、特段難しい事は何もない。ラップタイムの平均値を確認して、コースのどの辺りで速度が落ちているかとか、逆に速すぎるだとかそういう事を抜き出して今後の課題として共有し、次回のトレーニングメニューを組んだり、作戦をたてたりするだけだ。
そして現状トレーニングメニューは久下トレーナーが組んでいるし、俺にできる事は本当に少ない。
一応仮のメニューを組んでみて、久下トレーナーに採点してもらったりもするが、それも今の所あまり結果が芳しくない。なんでも、ウマ娘の能力と比較してトレーニング内容が軽すぎるらしい。
行き過ぎたトレーニングで怪我をさせてしまうよりは良いだろうが、あまりに軽すぎると効果がない。キツ過ぎず、軽過ぎず、丁度いい落とし所を見つけなければならない。
そうやって俺がトレーニング内容をまとめていると、少し控えめなノックの音が部屋の空気を震わせる。部屋の主が居ないとしても来客を追い帰す訳にはいかないので、「どうぞ」と声をかけて中に招き入れる。
すると遠慮がちに扉が開いて、ドーベルが部屋へと入って来た。
「おや、もう寮に帰ったと思ったけど」
「……まあ、少し。……トレーナーは?」
「やる事がないから、先に上がってもらったよ。何か用だったか?」
「……別に、たいした事じゃない」
そう言うとドーベルは、キャビネットから紙コップを取り出してティーバッグを放り込むと、そこにお湯を注いでパイプ椅子へと腰掛ける。
珍しいな、と思う。ドーベルとは、この一週間である程度は話すようになった。しかし、それはこちらから話しかけた場合のみで、彼女の方から話かけられた事はない。こうしてトレーナールームで2人きりになる事も、当然なかった。
避けられているというよりは、警戒心が拭いきれないといった感じで、この一週間を過ごして来た。
そんな彼女が、久下トレーナーを探しにとはいえ俺の所に来て、その上2人きりの空間を共にするというのは、少しは信頼を得ることができたと思って良いのだろうか。
とはいえ今は別に用もないので、話しかける事はせずに自分用にインスタントコーヒーだけ淹れて作業に戻る。しばらくの間、カタカタと不規則なタイピングの音だけが、静まり返った部屋の中に響いていた。
ふと時計を見ると、寮の門限が迫っている。これ以上残らせるのも良くないし、何より明日はレース本番だ。今日のところはゆっくりと体を休めて、しっかりと本番に備えてもらおう。
「ドーベル、もう門限が近い。今日はもう帰りな」
そうやって俺が声をかけると、ドーベルは手元で弄んでいた紙コップを置いて、ジッとこちらを見つめてきた。
本当に珍しい事もあるものだと思っていると、何度か逡巡する様子を見せつつ、ドーベルが口を開いた。
「その、明日のレースなんだけど……」
「うん」
そこでもう一度黙ってしまう。しかし急かすような事はせずに、じっと次の言葉を待つ。
ドーベルも何度か口を開こうとはするものの、なかなか次の言葉が出てこないようだ。
「ごめん、やっぱりなんでもない」
これ以上は門限に間に合わないと思ったか、はたまた決心がつかなかったか、それは定かではないがドーベルは何も言わずに席を立つ。
そうして扉へと歩いていくその背中に向かって、俺は声をかけた。
「いつも通りやれば勝てるよ」
ノブに伸ばしていた手が止まる。振り向きこそしなかったものの、聞いているだろうとして、そのまま言葉を続ける。
「ドーベルなら、今の実力的に十分勝てる。少なくとも、俺はそう思ってる」
ドーベルは何も答えなかった。ただ黙って俯いて、そのまま部屋を出て行ってしまった。
その背中を見送って、一言だけポツリと呟いた。
「……間違ったかなぁ」
明日のレースに対する不安を払拭する為に来たのだと思って、自分なりに激励してみたのだが、どうにも上手くいかなかったようだ。
それどころか逆効果だったように見える。と言うか、あの言い方だと却ってプレッシャーを与えてしまったのではなかろうか。
「上手くいかないもんだなぁ……」
1人取り残された部屋でごちる。手元のコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。
◆
そして迎えた模擬レース当日。この日は朝から雲一つない快晴で、絶好のレース日和だと言えるだろう。
模擬レースは学園のトレーニングコースを貸し切って行われる為、午後からのコースを使って行われるトレーニングは全て中止となる。その為、事前に開催日を告知してトレーニングの予定を調整出来るように配慮がなされている。
その他にも実況や解説を入れたり、開催日の情報を聞き付けてやって来た人を観客として招き入れたりと、実際のレースと近い状況で行われる。
俺と久下トレーナーは、トレーニングコース全体を見渡せるように併設された観客席にいた。
トレセン学園の観客席は流石に屋内席はないものの、かなりの席数が用意されていて、この日も午後のトレーニングの潰れた生徒や自分の出走順を待つ生徒とそのトレーナー、学外からの見物客で溢れかえっていた。
ドーベルはというと、俺達とは少し離れた場所で、1人のウマ娘と話をしている。
緩くウェーブのかかった明るい鹿毛を腰まで伸ばし、両の耳元から左右に三つ編みを垂らしている。右耳にはドーベルのものと似たデザインのリボンをつけて、頭頂部からは髪が一房、ピョコンとアンテナのように跳ねている。幼げな顔にはおっとりとした笑みを浮かべ、琥珀色の瞳は楽しげに細められている。
メジロブライト、ドーベルと同期で同じメジロのウマ娘である。
対するドーベルは、ブライトとは違い表情が暗い。ブライトの言葉も聞こえているのか、上の空に見える。
俺は昨日のトレーナールームでの事を思い出していた。結局あの事は久下トレーナーには言っていないが、大丈夫だろうか。やはり俺のあの言葉がプレッシャーになってしまっているのだろうか。
俺としては、『気負わずにいつも通り行けば大丈夫』だと伝えたかったのだが、あの言いようでは『実力はあるのだから勝って当然』という風にも聞こえないだろうかと、後から思ったのだ。
今からでも久下トレーナーに相談すべきかと、チラリと横目に様子を窺うと、心配そうにドーベルを見つめる久下トレーナーの姿があった。意を決して久下トレーナーへと話しかける。
「あの、ドーベルの事なんですけど……」
そこまで言うと、久下トレーナーはゆっくりと首を振ってこちらの言葉を遮った。
「今は、見守ってあげていて」
その言葉の真意はわからないものの、俺の思っている事とはまた別の問題があるのだと、それだけはなんとなく理解できた。そしてそれは、ずっとドーベルの事を見てきた久下トレーナーでさえも、簡単には解決できない事なのだとも。
そうこうしている内に、ドーベルの出走するレースの時間が近づいて来た。ドーベルは暗い表情のまま観客席を離れ、コースへと入っていく。ドーベルと話していたブライトも、ドーベルがその場を離れると幾分その表情を険しくした。
今回ドーベルが出走するのは芝1600m左回りで、出走人数は16人のレースだ。普段のトレーニングでのタイムは充分勝ちを狙えるものだが、人数が増えればその分位置取りが重要になってくる。
並走トレーニングでは仕掛けやスパートの練習はできても、大人数での位置取りまでは無理だ。もしかして、久下トレーナーやドーベルが気にしているのはその辺りの事だろうか。しかし、その程度のことで、ここまで気にかけるような事があるだろうか。
そんな事を考えている内にゲート入りが進んでいく。ドーベルはゲート前でジッと目を閉じて、集中しているようにみえる。
そしていよいよ出走するウマ娘16人が、全員ゲートへと収まった。
『各ウマ娘ゲートイン完了、出走の準備が整いました』
実況者のアナウンスが流れる。一瞬の静寂が辺りを包む。
ガコンという音と共にゲートが開き、中から一斉にウマ娘達が飛び出した。
◆
……暗い。暗い所にいるような気がする。視界の隅から徐々に暗くなって、意識が遠のく感覚がする。
全身の血が冷たくなって、体に力が入らなくなるような、そんな錯覚を覚える。
なのに、顔だけがやけに熱い。周りの音が消え去って、自分の鼓動の音だけがうるさい。
———ガコンッ
急に聞こえたその音に、咄嗟に走り出す。
『スタートしました。6番メジロドーベル、少し出遅れたか。3番リフレクター、15番エキサイトスタッフは良いスタートをきりました』
出遅れた。前が詰まっている。前に出れない。
『まずは先行争い。3番リフレクター、8番ハードラッカー、11番ネレイドランデブーが前に出ました。そこから少し開きまして内に9番ロイヤルマリーン、外に12番ボルテクスツイスト、その間をついて4番クレイジーインラブが上がって行きます、現在4番手。その後1番アンペールユニット、7番ハルモニアグレイス、10番リボンメヌエットが追走、ここまでが先頭集団。好スタートの15番エキサイトスタッフは少し下がりましてこの位置につけています。2番ジュエルトパーズ、内に6番メジロドーベル、外から14番シンスフィールドが続きます。その後ろ13番ヴァイスグリモア、5番ガーリースマイルと続きまして、16番アットワンマイルは最後方からのレースになりました』
ここからじゃ前に出れない。外に出ないと。
『6番メジロドーベルが集団の外に出て、そのまま上がっていきます。先頭集団の後ろにつけました、現在7番手』
『掛かってしまっているようですね。冷静さを取り戻せると良いですが』
『各バ第3コーナーをカーブ。ここで動きました16番アットワンマイルが上がって行きます』
外に出た。前は空いてる。後はこのまま、直線まで。
だから見るな。見るな。見るな。
『第4コーナーから直線に向いて、最初に立ち上がったのは4番クレイジーインラブ、そのすぐ後から15番エキサイトスタッフが上がってくる』
観客席なんか、見るな。
———ワアアアアアアァァァァァッ!!
「……ッ」
◆
「……今のは」
模擬レースが終わった。ドーベルは結局最後に伸びず、8着でゴールした。
エアグルーヴとの並走で見せた力強い走りも、勝負根性の強さも無い体軸のブレた弱々しい走りに、出遅れや掛かりなど普段のドーベルらしからぬ失策も気になるが、今はそんな事よりもっと気にかかる事があった。
「久下トレーナー、ドーベルなんですけど。第4コーナーを抜けて歓声が大きくなった瞬間、失速したように見えたんですけど」
そう、あの歓声を浴びた瞬間、ドーベルは明らかに失速した。体をこわばらせて、外へとよれていく姿はいっそ痛々しい程だった。
久下トレーナーはゆっくりと息を吐くと小さな声でポツリと呟いた。
「やっぱり、こうなってしまうのね……」
「あの、どういう……?」
「……あの娘を迎えに行きましょう。その途中で話すわ」
そう言うと久下トレーナーは席を立ち、コースへと降りていく。俺は慌てて立ち上がるとその後を追った。
「ベルちゃんはね、小さい頃に辛い事があって、人前に出るのが苦手になってしまったみたいなの」
コースへと向かう途中、久下トレーナーは今のドーベルの不調の理由を語ってくれた。
「それでも、メジロの広い敷地のなるべく人目につかない所で、トレーニングだけはしていたらしいんだけど、ずっと同じウマ娘やメイドさんしかいない環境だったからか、大勢の人の前、特に男性の前に出るのが今も苦手なの」
「そうなんですか……」
「だから、大勢の人の視線が集まるレース本番だと、殆ど実力を出せなくなってしまうの」
ドーベルはコースの隅でブライトと一緒にいた。ブライトが何やら声をかけているが、ドーベルは俯いたままだ。
「レースに出たくて、勝ちたくてここに来たのに、辛いわよね……。ずっと、辛そうだわ」
「……でも、それなら———」
———それなら、無理をしてまでレースに出る必要はない。
そう、言おうと思った。
実際、全てのウマ娘がレースに出ている訳でもない。レースを走らずに別の道に進むウマ娘だって、幾らでもいる。レースの世界に憧れがあって来たというなら、諦めるのは辛いかもしれないが、今のまままともに走れないのならいっその事、別の道に進むのもありだろう。
時間は有限だ。いつまでも同じ所で足踏みをしていられない。
そこで、顔を上げたドーベルの眼を見た。
その眼に浮かぶ感情は、諦念ではない。悲嘆でもない。
「でもね、あの娘はまだ、諦めていないの」
そこには、純粋な闘志が燃えていた。次こそはという、決意に満ちていた。
俺は、今の自分の考えを恥じた。ウマ娘を支えるべきトレーナーがしていい思考ではなかった。本人が希望を捨てていないのに、勝手に結論付けして、未来を閉ざしてはいけないのだ。
「トレーナー。すいません、今回も……」
「良いのよ。また次、頑張りましょう」
ドーベルの肩に手を置いて、そっと寄り添う久下トレーナーを見て、俺はトレーナーとはどうあるべきかを学んだような気がした。