次の日、トレーナールームで次の模擬レースの出走ウマ娘のデータを纏めていると、ドアが控えめにノックされた。
「どうぞ」
ドアの向こうへ声をかける。しかし、なかなか入ってくる様子がない。気配はまだあるので、何処かへ行ってしまったという訳ではなさそうだ。急かす様な事はせずに、ただジッと待つ。やがて遠慮がちにドアが開かれ、気まずそうにドーベルが顔を出した。
「やあ、ドーベル。来てくれて嬉しいよ」
「っ、別に、アタシはただ……!」
ドーベルは暫し視線を泳がせると、一度目を閉じてから真っ直ぐにこちらの目を見据える。
「……ただ、勝ちたいの。勝てるように、なりたい……!」
その目に迷いは無く、声にも力が溢れている。ただひたすらに勝利に向かって努力を積み重ねる、いつも通りの『強い』メジロドーベルがそこにいた。
「お願い。……アタシを、鍛えて。勝たせて。次の模擬レースが、トレーナーに勝利をあげられる、きっと最後のチャンスだから……!」
「ああ、一緒に勝とう。必ず」
俺の言葉に、ドーベルは強く頷いて返す。俺はドーベルへ歩み寄ると、右手を差し出す。ドーベルは不思議そうな顔をして俺を見上げた。
「あの時は出来なかったからな」
俺がそう言うと、ドーベルは一瞬キョトンとして、次いで笑みを浮かべると俺の手を取った。
「改めて、これから宜しく」
「うん、宜しくね。サブトレーナー」
こうして、俺とドーベルの模擬レースに向けた特訓の日々がスタートした。そして恐らくはこの瞬間に、俺とドーベルは始めの一歩を踏み出したのだろう。
◆
「良いタイムが出たぞ、ドーベル」
夕陽に照らされたトレーニングコース。目の前をドーベルが駆け抜けたタイミングで、ストップウォッチを止める。膝に手をついて息を整えているドーベルに、タオルとドリンクを手渡しながらタイムを見せる。
もとよりドーベルは、素質としては素晴らしい物を持っている。幼い頃からメジロ家のトレーニングを受けていたという事もあって、基礎的な能力も高く、飲み込みも早い。それもあって、特訓の成果は割と早い段階で出てきていた。
しかし、問題は———
「……でも、さ。結局は大勢の前でも、レース本番でも、この走りができるかどうか。そこなんだよね」
「……そうだな」
ドーベルの言葉に、歯痒さを感じつつ頷きを返す。
そう、結局はそこに行き着いてしまう。実際に普段のトレーニングでも、十分に勝ちを狙えるだけのタイムは出ている。それが本番でできないから、こうして頭を悩ませているのだ。
「……もう一本、走ってくる。タイムお願い」
どうしたものかと考えていると、答えの出ない問題に焦れたのか、それだけ言ってドーベルは駆け出した。幼い頃から抱えてきたドーベルの精神的な問題は、とても根深い。
しかし、ドーベルはその問題と向き合おうとしている。何か、ほんの些細な事でも良い。きっかけさえあれば、変われる筈なのだ。
そう思いながら、走るドーベルを見つめる。ドーベルはちょうど4コーナーから直線へと差し掛かろうという所だった。
レースの時には大勢の人で埋まっている観客席も、今はチラホラとトレーニングの見学に来た生徒がいるだけで静かなものだ。ドーベルも数人程度であれば気にする事もないのか、普通に走れている。
と、そこまで見ていて違和感を覚えた。そうして思い返してみれば、それは今だけの事ではなく、今日までの特訓の日々の中でも、サブトレーナーとしてトレーニングを見ていた中でもそうだった。
ドーベルは決して———
「観客席を、見ようとしない……?」
それは決して偶然や思い違いなどではなく、確実に彼女が自分の意思でそうしている。そして、恐らくはコレこそが今求めている"きっかけ"なのだろうと、直感的にそう思った。その直感に従って、とりあえずドーベルにその事について尋ねてみる。
「……普通、そうじゃない? 走ってる時は、レースに集中するべきでしょ」
ドーベルの言う事は正しい。全くもってその通りだろう。だがそれはそれとして、だ。
「『見ない』って意識が強すぎるんだと思う。逆にそのせいで集中力が削がれて、走りに影響が出てしまってるように思う」
「……それは」
そもそも、その事柄について意識しない様にする、という時点で既に意識を向けてしまっているのだ。観客席の目の前を走らなければならない以上、完全に意識から切り離すというのは難しいだろう。
……それならば、いっそのこと考えを逆転させてみれば良い。
「……ドーベル。次の模擬レース、出走前なんだが」
「出走前に、何?」
「……一瞬でも良い。観客席を見てくれないか」
「……は!?」
俺の言葉が予想外だったのか、驚きの声を上げるドーベル。耳も尻尾もピンと跳ね上がり、驚きを表している。
「む、無理……! だって、アタシは……!」
言って、自らの肩を抱く。自分に注がれる大勢の視線を幻視したのか、その体は微かに震えている。視線を合わせる様に腰を屈めて、その手の上に自分の手を重ねる。
「俺がそこで、君を見てるから」
「っ、でも……!」
ドーベルの瞳が不安に揺れる。その瞳を見つめながら、なるべく優しく語りかける。
「『強い』ドーベルを、見てるから」
「……!」
「だから、大丈夫」
唐突に、ドーベルに体を押し退けられる。尻餅をつきそうになり、抗議の視線を向けると、妙に顔の赤いドーベルと目があった。瞬間、ドーベルはサッと顔を背けると、タオルやドリンクなどを手早く回収して、こちらに背を向ける。
「とりあえず、今日はもう帰るから!」
そう言うが早いか、俺が何かを言う前にサッサと走り去ってしまった。後に残された俺は、その背中をただ呆然と見送る事しかできなかった。
「……何だったんだ、一体」
一人取り残された俺の呟きは、誰に届く事なく宙へと消えた。
◆
そうして、とうとう迎えた模擬レース本番。天気は快晴で、絶好のレース日和と言えよう。しかし、俺の心はそんな天気とは裏腹にどんよりと雲がかかっていた。
理由は単純だが、原因は不明である。最近、ドーベルとの間に距離を感じる。目も余り合わせてくれないし、一歩距離を空けて接してくる。かと思えば、ジッとこちらを見つめている事がある。その癖、こちらが視線をやるとサッと逸らしてしまう。一体俺が何をしたというのか。
いや、思い当たる事がない訳ではない。やはり少し位打ち解けたからといって、いきなり距離を詰めすぎただろうか。このままでは、今日のレースが終わってから即チーム脱退待ったなしだ。後を任された直後だというのに、チーム解散の危機である。こうなったら地面に頭を擦り付けてでも、許しを請うしかない。
「あら? そちらにいらっしゃるのは〜」
俺がそんな事を考えていると、背後から妙にのんびりとした声が聞こえてきた。振り返ってみれば、そこには3人のウマ娘が立っていた。その内の2人には見覚えがある。メジロブライトとエアグルーヴだ。
そしてもう1人、直接の面識はないが名前は知っている。ベリーショートにした色濃い鹿毛の頭頂部から前髪にかけてが白く染まっていて、右耳にピアスが2つ。青みがかった吊り目がちな瞳は、活発そうな光を湛えている。メジロライアン。クラシック三冠に挑みつつも後一歩の所で届かず、しかしその翌年の宝塚記念で見事勝利を収めた、ドーベルやブライトの先輩にあたるメジロのウマ娘だ。
「まあ〜、やっぱりドーベルのサブトレーナーさま〜」
ゆらゆらと俺の隣に歩み寄って来たブライトが、ふわりと両手を合わせながら笑う。自然と、後の2人も俺の隣へと並ぶことになる。
「ご機嫌よう。今日はお天気も良くて、良い1日になりそうですわね〜」
「ああ、ご機嫌よう。3人はドーベルの応援に来てくれたのか?」
ニコニコと微笑んでいるブライトから、隣の2人へと視線を移す。
「はい。やっぱり気になりますから」
少し照れくさそうに頭を掻きながら、ライアンが肯定し、それに同意する様にエアグルーヴも首肯する。
「それにしても、今日は随分と沢山の方が見に来られていますわね〜」
キョロキョロと辺りを見回していたブライトが言う。確かに今日は前回と比べて、観客の数が多い。それに、気の所為かもしれないが、今回は特にトレーナーが多い気がする。そしてそれは、次のエアグルーヴの発言で確信へと変わった。
「久下トレーナー御退職の件が、既に噂になっているからな。ドーベル獲得に動き出したトレーナー陣が来ているのだろう。レース出走に難を抱えているのは既に知られているが、それでもお前たちと同じメジロのウマ娘だ。注目は避けられまい」
そう言うエアグルーヴの顔は、不機嫌さを隠そうともしていない。普段からドーベルの事を気にかけているエアグルーヴとしては、この状況に思う所があるのだろう。
「そっかぁ……。ドーベル、大丈夫かな……? あの子、無理ばかりするから……。もしそれが、怪我にでも繋がったら……!」
ライアンの心配そうな言葉を受けて、俺はドーベルの姿を探す。ドーベルはゲートの前で、胸の前で両手を握り締めながらジッと目を閉じていた。そんなドーベルの姿を見た俺は、堪らず柵から身を乗り出した。
◆
(トレーナー……、きっと見に来てくれてるよね……)
数日前、退院の連絡があった自らのトレーナーの事を思う。彼女の事だ。きっと自分のレースを見に来ている事だろう。
(勝ちたい……)
胸の前で、両手を強く握り締める。
(勝ちたい、勝ちたい……! 今度こそ……!)
強くそう思う。コレが最後のチャンスだ。負ける事は許されない。だというのに———
(ダメ……、また、心臓がうるさくなって……!)
呼吸が乱れて、視界が狭まる。手足の感覚が薄れてきて、顔が熱くなる。このままでは、またいつものようにまともに走れなくなってしまう。
(イヤだ……、イヤだ! 勝たなきゃいけないのに……!)
最後なのに。トレーナーに勝ちをあげられるのは、トレーナーの下で走るのはコレが最後なのに……!
「ドーベル! こっちだ!」
「っ……!」
突然、大声で名前を呼ばれ、咄嗟にそちらの方を向いてしまう。途端に目に飛び込んでくる、観客席を覆い尽くす沢山の人の群れ。
(見、ちゃった……、観客席……)
そしてそんな沢山の人の中、最前列で柵から身を乗り出しながら、こちらに向かって叫び続ける1人の男の姿を、確かに見た。
(いる……、あそこに……!)
いつもの余裕は何処へやら、必死な顔で、ただ真っ直ぐにこっちを見ている。そんな姿に、何故だか不思議と安心感を覚えている自分がいる。
「ドーベル! 大丈夫だ、君は強い!」
「っ、何回言う気よ……、バカ……」
そんな姿を見て、また顔が熱くなっていくのを感じる。でも、今度のそれは、なんだか嫌な気はしなかった。
◆
「失礼、今のは……?」
ドーベルのゲート入りを見ていると、横からエアグルーヴに声をかけられる。今の、と言うのはドーベルへの声かけの事だろう。まぁ、しかし、何かと聞かれても答えられる事は特には無い。強いて言うならば、そう。
「おまじない、みたいなモノかな?」
「はあ……」
いまいち納得していなさそうなエアグルーヴを他所に、ゲート入りは着々と進んでいる。ドーベルは、先程よりは落ち着いているように見える。
「……ドーベル、落ち着いたみたいですね」
「ああ、そう見えるな」
ライアンとエアグルーヴの会話で、それが自分の願望からくる見間違いではない事を確認して胸を撫で下ろす。ドーベルには大丈夫だなんだと言っておきながら、やはり不安の方が大きい辺り、余りドーベルの事を言えないなと思う。
「サブトレーナーさま、ドーベルなら大丈夫ですわ」
不意に、ブライトから声をかけられる。いつもの間伸びした声とは違う、しっかりとした物言いに、思わずそちらを見る。ブライトもまた、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「……そうかな」
「ええ、久下トレーナーさまも、貴方さまも付いておりますもの」
そう言って微笑むブライトが、何故だか無性に頼もしく思えて、思わず俺も笑ってしまう。
そんな時だった。
「ああ、良かった。間に合ったみたい」
後ろから、そんな声が聞こえてきたのは。
『各ウマ娘ゲートイン完了。出走の準備が整いました』
そして、俺達が振り返って確認する間もなく———
『スタートしました。横一線、揃ったスタートになりました』
———最後の模擬レースがスタートした。
次回でアプリキャラスト4話まで終了予定です。