模擬レースで勝利を収め、無事にドーベルと担当契約を結んだ、その翌日。今日から本格的にトレーニングを進めていく事になるが、その前にまず、今後の予定を考えなくてはならない。具体的には、デビュー戦の時期と、その距離である。
とはいえ、今までドーベルはマイルレースのトレーニングを中心にして来たし、わざわざ距離を変える必要もないだろう。とりあえず、次走も1600で考える事にする。後は時期だが、この初勝利の手応えの消えない内に、勢いに乗って済ませてしまいたいところだ。
「と、いう事で。来月にデビュー戦を入れようと思う」
「急すぎるでしょ」
ドーベルがトレーニング前にトレーナールームへとやって来た所で今後の予定を伝えると、少し呆れたような反応が返って来た。確かに、来るなり開口一番にレース予定、というのは少し急だったかもしれない。
「それで、レース場はどこにするの?」
スクールバッグとジャージの入った手提げ鞄を長机の上に置いて、ドーベルがこちらへと振り向く。その問いに、顎に手を当てて考える。ドーベルの武器は末脚と、競合いに負けない勝負根性だろう。ならば、それを活かせる所を選ぶべきだ。
「新潟レース場、1600の外回り。……とか、どうだろう?」
「良いけど、何で?」
ドーベルの疑問を受けて、俺はホワイトボードの前に立つと、新潟レース場の大まかなコース図を描く。そしてその図に文字を書き足しながら、一つずつ説明していく。
「新潟レース場の外回りは、最終直線が658.7mと全レース場で一番長い。この直線を意識して、前半はスローペースになる事が多い。だから全体的に脚が残りやすい」
俺の説明を、ドーベルはフンフンと頷きながら聞いている。そんなドーベルの様子を確認してから、俺はもう一度ホワイトボードへと向き直る。
「だから最後は、直線での末脚勝負になる。つまり、瞬発力と持久力が物を言う。この辺りは、ドーベルは同世代の他の娘と比べると現状は頭ひとつ抜けていると思うし、問題にならないだろう。それに3コーナーから4コーナーはスパイラルカーブで下り勾配になっているから、速度に乗りやすい。つまり、後ろの脚質の方が有利になる」
「なるほどね」
「それに……」
「……それに?」
俺の説明を聞いたドーベルは納得したように頷いていたが、俺が言葉を切ると、先を促すように視線を寄越してきた。
「4コーナーからスタンドまでは少し距離があるから、本当に終盤になるまでは、観客もそこまで意識しなくてもいいと思う」
「……アンタのそういう所、良くないと思う」
模擬レースでの事を思い出しながらそう言うと、ドーベルは頬を膨らませて、そっぽを向いてしまう。確かにああいう失敗は、そう何度も触れられたくはない物だろう。しかし、普段から走り慣れている学園のコースで行う模擬レースと、年に数回程度しか走らないレース場で行う実戦とでは、感じる空気や周りの熱量などはまた違ってくる筈だ。備えておくに越したことは無い。
「とりあえず、瞬発力とスタミナを鍛える為に、暫くは坂路を中心にトレーニングを組んでいくつもりだ。あと、少しでも勝負勘を養うのに並走もなるべくやっていきたいな」
「良いけど、並走は誰にお願いするの? またエアグルーヴ先輩?」
ホワイトボードの図を消しながら、今後のトレーニング予定を伝えると、ドーベルは2人分のティーバッグを用意しつつ背中越しに聞いてくる。そんなドーベルの言葉を聞いて、顎に手を当てて暫し考える。
俺の答えを待つ間にドーベルは2人分の紅茶を淹れて、その片方を手渡してくれる。鮮やかな赤褐色の水面をボンヤリと眺めてから、ドーベルへと目線を移す。
「……どうしような」
「ちょっと」
俺の言葉に、ドーベルの語気が少し強くなる。幾分か温度の下がった視線から逃れるように、目を逸らしつつ紅茶を一口含む。しかしドーベルは、逃がさないとばかりに逸らした視線の先へと回り込んでくる。
「……いや、仕方ないじゃないか。俺、エアグルーヴのトレーナーとは面識ないし。と言うか、先輩とはほとんど面識ない」
「じゃあ、並走なんてどうするつもりだったのよ」
ジトリとした視線に耐えきれず、なんとか絞り出した言い訳も、バッサリと切って捨てられる。まあこれは普通にちゃんと考えてなかった俺が悪い。
一応、サブトレーナーとして所属チームを探している時に声をかけたトレーナーが何人かいるが、そのトレーナーが俺を覚えているかはわからないし、覚えていたとしても並走を受けてくれるかもわからない。
「……とりあえず、並走に関しては次までに同期に聞いておくよ。今日は一先ず坂路トレーニングにしよう」
両手を頭の高さまで上げて降参のポーズを取りつつ、トレーニングを促す。腰に手を当てて俺を睨め付けていたドーベルも、一つ大袈裟に溜息を吐くと、手提げ鞄を持ってトレーナールームを出て行く。
耳と尻尾の動きを見る限りは、怒っているという訳ではないようだが、少なくとも良い印象は与えなかっただろうなと思う。正式に担当契約を結んでから初めてのトレーニングだと言うのに、なんとも締まらないスタートになってしまったものだ。
この失点は、これからのトレーニングで取り返すとしよう。俺はバインダーとストップウォッチを手に取ると、トレーナールームを後にした。
◆
ドーベルがアップの為に軽く流しながら一周回っているのを、トレーニングコースの脇で見ていると、これからトレーニングなのだろうか、近くを通りかかった生徒達の話し声が聞こえてきた。
「あ、あれドーベル先輩だ」
「本当だ。今日もかっこいいなぁ」
「流石メジロのウマ娘って感じだよね」
「昨日の模擬レースも凄かったよね。デビュー戦、観に行きたいな〜」
どうやら普段から彼女に期待を寄せている生徒も、それなりにいるようだ。背後の会話を聞きながら、改めてドーベルに視線を移す。長く艶やかな髪と切れ長の目、それに凛とした雰囲気も相まって、いかにもクールビューティーといった風情で、なるほど人気があるのも頷ける。
そんなドーベルだが、先程より少し表情が硬い。ウマ娘は耳が良い。どうやら、自分に注目している声を拾ってしまったらしい。彼女が大勢の前で普段通りに振る舞えるまでは、もう少し時間がかかりそうだ。
とりあえず、一周回って戻ってきた所でタオルを手渡すついでに声をかける。
「お疲れ様。やっぱり見られてると緊張するか?」
「……うん。少しはマシになったと思ったけど、まだまだみたい」
そう言ってドーベルは肩を竦める。やはり長年のトラウマでもあるのだから、そんなに簡単には克服できる物ではないのだろう。余り悠長な事も言っていられないが、こればかりは少しずつ慣らしていくしかない。どうしたものかと顎に手を当てて考えていると、先程まで盛り上がっていた生徒の一団が声を潜めて、何やらヒソヒソと話している。
「アレが例のサブトレーナーさん……」
「強引な勧誘を受けてた先輩を『この娘は俺の担当です』って言って助けたんだって……」
「ベテランのトレーナー相手にも引かなかったって……」
「良いなぁ……。私もそういうトレーナーと契約したい……」
しかし本人達は小声のつもりだろうが、高めのテンション故かそこそこ声量が大きく、全てでは無いもののほぼほぼ聞こえている。と言うか、尾鰭がつきまくっている。いや、そもそも……。
「もしかして、俺も結構目立ってるのか……?」
「あんな事したんだから、そうに決まってるでしょ」
隣のドーベルにそっと耳打ちして聞いてみると、そう言ってそっぽを向いてしまう。その顔は羞恥からか、赤く染まっている。しかし、困った事になった。あまり新人の内から目立ってしまう様な事は、できれば避けたかったのだが。流石に昨日の今日でここまで広まっているのは、完全に予想外だった。
とはいえ、あの時の行動は間違っていなかったと思っている。大勢のトレーナーに囲まれて、体が竦んでしまっているドーベルを見ると、居ても立っても居られなかった。人垣を掻き分けて前に出た時、目が合った瞬間のドーベルの安心した様な表情を思い出すと、やはりあれで良かったのだと、そう思えた。
「ドーベル〜」
「……ん?」
そんな事を考えていると、どこからか呼びかける声が聞こえてきた。辺りを見渡してみると、遠くの方から手を振りながらこちらへと走ってくるブライトの姿を見つけた。
「捜しましたわ〜。今そちらに——きゃぁっ!」
「ブライト!?」
そしてこちらへ駆け寄ろうとコースへと踏み込んだ所で、芝に足をとられたのか、派手に転んだ。慌ててドーベルと共に、彼女の元へと駆け寄る。
「あぁっ! ブライト先輩! 大丈夫ですか!?」
「……ブライト先輩。あのぽわぽわして危なっかしいところ、守ってあげたくなっちゃうって言うか、可愛いよね……」
「……わかる。先輩には悪いけど、めっちゃほっこりしてしまう自分がいる……」
そんな会話を尻目に、ブライトに手を差し出して引き上げる。立ち上がったブライトは、ぱたぱたとジャージの膝辺りを叩いて汚れを落としている。
「いけませんね〜。足が縺れてしまいましたわ〜。失敗失敗……」
「大丈夫か……?」
「ええ、大丈夫ですわ。お気遣い、ありがとうございます」
とりあえずざっと見た感じは怪我もなさそうだが、一応本人にも確認しておく。ブライトは口元に手をやって、ふわりと微笑んだ。そして俺達の背後へと視線をやると、不思議そうに小首を傾げる。
「あら? 何やら皆さま、わたくしを見ていらっしゃるような……?」
振り返ってみれば、先程の一団がまだこちらの方を見ている。ブライトは笑みを深めると、その一団に向かって手を振った。
「ごきげんよう、皆さま〜! 本日もトレーニング日和ですわね〜!」
そんなブライトの行動に、ギャラリーは手を振り返したり、隣の者とはしゃぎあったりと大いに沸いた。そんな光景を見ていると、やはりメジロのウマ娘の期待度の高さを感じる。ブライトの方はと言うと、そんな後輩達の反応も気にする事なく、普段通りのんびりとした雰囲気を漂わせている。そんなブライトの様子を見て、ドーベルは小さく笑みを浮かべて「変わらないな……、ブライトは」なんてポツリと呟いていた。
「ごきげんよう、ドーベル〜。トレーニング中のところ、失礼いたしますわ〜」
「ん、ごきげんよう。まだアップしてただけだったから、大丈夫だよ。今日はどうしたの?」
一頻り後輩達へと手を振ってから、ブライトは改めてドーベルの方へと向き直る。ドーベルも、軽く挨拶を返してからブライトがここに来た理由を訊ねる。
「わたくしたち、同期となるでしょう? ですので、改めてのご挨拶と、激励に参りましたの〜」
「激励?」
「ええ」
そこでブライトは一度言葉を切って目を閉じると、一呼吸置いてからゆっくりと開いていく。
「同じメジロ家のウマ娘として、トゥインクル・シリーズを駆け抜けるべく、共に邁進しましょう、と」
「……!」
ブライトの言葉に、ドーベルはハッと息を呑む。ブライトはいつもと変わらず、柔和な笑みを浮かべているように見える。しかし、細めた目のその奥に見える光は、確かな熱量を持っており、普段のふわふわとした雰囲気とは違っていた。
「……うん、そうだね。一緒に頑張ろう、ブライト」
そんなブライトの空気に感化されたのか、ドーベルの方も十分に気合いが乗っているように感じる。そこでふと思いついた。
「そうだ、ブライト。良かったら並走してみないか?」
「えっ、今から? さっき今日は坂路だって……」
ドーベルが驚いたように俺を振り返る。それを手で制すと、眉間に皺を寄せていかにも不満そうにこちらを見てくる。ドーベルの言いたい事は良くわかる。あまりコロコロとトレーニングの方針を変えるなという事だろう。それはわかっている。だがそれはそれとして、だ。
「坂路はいつでもできるけど、並走は相手がいなきゃできないだろ? 丁度いい機会だし、お願いしたら良いじゃないか」
そう言って「なぁ?」とブライトの方へと水を向ける。ドーベルはまだ気が引けているようだ。
「でも、ブライトも自分のトレーニングがあるだろうし……」
「いいえ、お気になさらずに〜。実は、今日はトレーナー様がご用事で来られなくて、自主トレの予定でしたの〜」
ブライトは両手を合わせて、ニコニコと微笑んでいる。ここまで来て漸く、ドーベルも遠慮がちにブライトへと視線を向ける。
「……いいの?」
「もちろんですわ〜。わたくし、ドーベルと走るの好きですもの〜。……とは言え〜——」
ブライトの目が、スッと細められる。その視線には確かな闘士が湛えられ、浮かべられていた笑みはどこか威圧を感じる物へと変容する。
「前を譲りたくは、ありませんわね〜」
いつものように、のんびりとした物言い。しかし、その中には確かに競争ウマ娘としての、勝利への渇望が込められていた。それを受けたドーベルは、不敵な笑みでもって返す。
「おあいにくさま。やるからにはアタシだって……!」
そしてどちらからとも無く、スタート地点へと歩いていく。スタート地点に2人で並んだ所で、ドーベルが目線で合図を送ってくる。スターターピストルはないので、右手を上げて勢いよく振り下ろす。それと同時に、2人揃って飛び出していく。ドーベルが先行して、コーナーへと入っていく。ブライトも離されまいと、必死に食らいついて行っている。どうやらお互いに良い刺激になっているように見える。
「ヤバッ! 先輩達、ガチの並走してるじゃん!」
「デビューしたらどうなっちゃうんだろう……。ワクワクしちゃうなぁ」
集まっている後輩達も、2人の気迫のこもった走りを見て盛り上がっている。その気持ちは良くわかる。俺だって今からこの2人のトゥインクル・シリーズでの走りに期待している。それ程に2人共、良い走りをしている。
やがて一周回って俺の前を通過した辺りから、2人は徐々に速度を落としていく。恐らく俺をゴールの目印にしていたのだろう。僅かにドーベルの方が前に見えたが、担当である贔屓目なしに見れているか自信がないので、ここは同着としておこう。膝に手をついて息を整えている2人に、タオルとドリンクを持って行く。
「はぁっ……はぁっ……。ふふっ。さすがですわ〜、ドーベル」
「ふぅっ……。ブライトもね」
2人して互いの走りを讃えあう。この2人なら、きっと良いライバル関係になるだろうと、そう確信できる良い並走だった。結局、その日はこの後3本並走した所で、ブライトとは別れて単走でのタイム計測へと移る事にした。
「デビュー戦まで、お互いに頑張りましょうね〜」
「うん。アタシも、ちゃんと走れるようになるから!」
別れ際、ブライトと激励を交わしあうドーベルを見て、彼女の言葉を後押しできるよう、これから全力でサポートしていく事を固く心に誓う。こうして、ドーベルとのトゥインクル・シリーズ挑戦への日々が幕を開けたのだった。
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