絵/painting   作:くろ


原作:GOTH
タグ:R-15 残酷な描写 原作既読推奨
森野と美術部の話

乙一「GOTH」の二次創作。
コンセプトは「あの短編集の中に入れられそうな話」
原作は既読推奨ですが、致命的なネタバレは避けています。

1 / 1

【挿絵表示】

小ゆびさん(Twitter:@kyb_Qzrs)からお借りした挿絵


絵/painting

 夏が好きだ。一日で咲いて萎れる朝顔も、夜空に花開いては瞬く間に消える花火も。その姿が一瞬であればあるほど、尊く美しいものに感じられる。

 小学生の夏休みに蝉の羽化を観察した。外気に晒されたばかりの柔く青白い羽を、どうしても自分の目で見てみたかった。日が落ちた後の暗い雑木林を、懐中電灯を片手に幼虫を探して歩き回った。幹を登る小さな幼虫を、潰さぬようにそっと捕まえて自宅へと持って帰った。七年を地中で過ごし、七日しか地上で生きられぬ蝉の、たった一瞬の変化の姿を、高校生になった今でもはっきりと覚えている。

 

 

 校舎の隅にうずくまっている人影があった。まだ高い夏の日差しの中で、青みを帯びた濃い影がその人影の足元に落ちている。ジャージ姿の学生だった。熱中症や貧血で座り込んでいるにしては、日陰ではなく日向にいるのが奇妙だった。

 その学生はちょうど森野の進行方向にいた。近づくにつれて、それがただ座り込んでいるのではないとわかった。絵を描いているのだ。その学生の視線の先には鳥の死骸が落ちていた。内臓はとうに食い荒らされており、残っているのは両の翼と胴体の骨、そして骨にこびりついたわずかばかりの肉片の赤だけだった。頭部は見当たらない。まわりには淡い茶を帯びた灰色の羽が散乱していた。

 学生はそれにじっと視線を注ぎ、手元のスケッチブックに鉛筆を走らせていた。絵の具の染みのついた、少し骨張った手が、紙の上で自在に鉛筆を操っている。学生は森野に見られていることに気づいていないらしかった。一心不乱に写生する横顔を汗が伝い、ぽたりと顎から滴る。生暖かい水滴がスケッチブックに染みを作った。

 学生の手元を覗き込んだ瞬間、森野の目は釘付けになった。

 鳥の死体はざっくりとした筆致で描かれていた。近寄ってよく見れば鉛筆をどう走らせたかよくわかる。一部だけ拡大すれば、太さの違う線の集合にしか見えない。それなのに、全体を見ると見事に陰影で質感が表現されている。

 羽の柔らかさ、骨の硬さ。まだ虫は(たか)っていない。酸化していない血の色も、食い荒らされた付近の羽と骨の湿り気も、この鳥が食い殺されてからまだ幾許(いくばく)も経ってないことを告げている。それらの生々しい手触りの全てを、学生はスケッチブックの中に拾い上げていた。

 複数の角度から描いているらしかった。一枚の画用紙の中に、複数の絵が描かれている。露出した骨を拡大して描いたもの、全体の輪郭を捉えたもの。今学生が取り掛かっているのは、このページの最後の、右下のスペースだった。それももう、終わりが近い。

 鉛筆が止まる。長い鉛筆を握り込み、ページをめくろうとする手に、森野は衝動的に呼びかけた。

「まって」

 学生は弾かれたように森野を見上げた。問いかけるような無言の視線を受け止めて、森野は口を開く。

「写真、撮らせて」

「これの?」

 学生は鉛筆の先で鳥を指差す。森野は首を横に振った。

「いえ、あなたの絵を」

 学生は驚いたように目を丸くした。

「だめ、かしら」

「いいよ。光栄だな」

 森野は鞄からスマホを取り出した。黒一色のロック画面をスライドさせて、カメラを起動する。

「欲しいなら、写真じゃなくてページごとあげてもいいけど。いる?」

 森野はスマホを操る指を止めて、こくりと頷いた。それを見た学生は、丁寧な手つきでページをスケッチブック上端のリングから破り取る。

「どうぞ」

 差し出された画用紙を、森野は大切そうに鞄の中にしまいこんだ。森野の様子を見て、その学生は試すように口を開いた。

「……もし、こういう絵に興味があるのなら、美術室に来ない?」

 

 

 森野に呼び出されて、僕は夏休みにも関わらず学校を訪れていた。図書室に本を借りに行った帰りに、思いがけず良いものを見つけたのだと彼女は語っていた。その文面が見るからに嬉しそうだったので、多少の興味を惹かれて自分も足を運ぶことにした次第である。

 森野と僕は、少々変わった趣味嗜好をしている。それも、他の人が聞けば眉を顰めるような種類のものだ。僕たちは悲惨な事件や人間の残酷さを鑑賞することを殊の外好んでいた。それが異常であればあるほど、僕たちを惹きつけてやまない。共通の趣味を持つ者として、僕と彼女の間には奇妙なつながりがあった。

 強い日差しの下を歩いてきたせいで、校舎の中に入ってからもまだ汗ばんでいた。廊下の開け放たれた窓の外から、中庭の乾いた土と草の匂いのする風が吹き込む。去年の美術の授業以来、西棟のこの教室の前を通るのも久々だった。

「久しぶりだね、***くん」

 美術室の戸を引くと、見覚えのある女子学生が僕を中に招き入れた。一年生の時に同じクラスだった学生だと、名前を聞いて思い出した。彼女は今は美術部の部長をしているのだと言った。そのせいで夏休みなのにほぼ毎日美術室に来ているのだ、と。

 中に入ると、森野が窓際の作品を鑑賞しているのが目に入った。隣に立つ男子学生が解説か何かをしているようだったが、何を話しているかまでは聞こえなかった。他に部員はいない。陽光を透かす白く明るいカーテンを背景に、宵闇を溶かしたような彼女の黒髪が強烈なコントラストを生み出していた。

「わざわざ来てくれてありがとう。ちょうど、準備室にあった絵を並べ終わったところ」

「こちらこそ、ありがとう」

「それにしても、意外だったな。あなたもこういう絵が好きだとは知らなかった」

 正直、僕は学生の作品にそれほど期待はしていなかった。彼らと自分の興味の方向性が異なることは重々理解している。さして悪趣味でもない普通の学生の作品に、自分の求める異常さや残虐さがあるとは思えない。それでも数が集まっているなら、一、二作ぐらいは、多少なりとも波長の合う作品があるかもしれなかったので、暇潰し程度の感覚で足を運んでいた。

 何気なく教室内を見渡した矢先、僕の目は一枚の絵に吸い寄せられた。教室の後方、ぽつんと置かれたイーゼルの上に「レディ・ジェーン・グレイの処刑」の模写が立てかけられていた。九日間だけ在位し、メアリー一世に廃位させられ、十六歳の若さで処刑された異例の女王。絵の中では純白のドレスを纏った少女が、目隠しをされた状態で手探りに斬首台を探している。

 描かれたばかりらしく、一部が生乾きのその絵は、画題か、それとも描き手の技術ゆえか、周りに並べられた完成作品の中で際立って浮いて見えた。その引力を振り切って、僕は強引に部長に視線を戻す。

「いつも、こういう絵を描いているんだ?」

「まさか」

 部長は軽く笑みを浮かべて首を振った。

「今年の文化祭で、美術部はお化け屋敷をすることになったから。これらは全部内装に使う予定」

 美術室内に並べられている作品は、どれも薄暗い空気を帯びていた。お化け屋敷と聞いて納得する。

「『怖い絵』をテーマに描いてもらったの。ホラーとかオカルトとかメメント・モリとか、とにかく不穏な感じの作品ならなんでもオーケー、って感じで」

「雰囲気が出そうだ。暗い中でこれらを見たら、十分怖いと思うよ」

「ありがとう」

 学生のお化け屋敷としては十分すぎるほどのクオリティだろう。少なくとも、絵の残酷さや不気味さの程度に文句をつけられることはないだろう。僕はどうやら高校生の画力を舐めていたらしい。

「ところで、きみの絵はどれ?」

「私のはあれ」

 廊下側の壁に展示された絵を指して歩いて行く部長の後を追う。その先には掛け軸があった。荒れて崩れかけた墓が、雑草の中に埋もれている。隣の鮮やかなアクリル画と比べると、色が淡いために随分とあっさりとした印象を受けるが、その朧げさが「らしさ」を際立たせていた。

 礼儀として彼女に感想を述べようとした瞬間、第三の声が割って入った。

「部長、岡先生が来いって!」

 がらりと勢いよく開けられた美術室の扉。半ば突っ込むように半身を部屋に入れた生徒が、ぐるりと教室内を見渡して、僕の隣に目を止めた。

「今行く! ……ごめん。ちょっと外す。何かあったら彼に聞いて」

 彼女は声を張ってその生徒に答え、それからすまなそうに僕に向き直った。森野の後ろに佇んでいる男子学生を目線で示し、足早に美術室を後にした。

 その場に取り残された僕は、ゆっくりと作品の群れに視線を戻した。正直なところ、一人で自分のペースで見る方が性に合っていた。

 作品は平面に限られているわけではないようだった。机の上に置かれた、いかにも曰く付きらしい符の貼られた木箱に目を落とす。どういう加工をしたのか、木目も紙も年月を経たように黄ばみ、古びて見えた。

 有名美術作品の模写やオマージュもあった。

 「オフィーリア」、「我が子を食らうサトゥルヌス」、「ホロフェルネスの首を斬るユーディット」は元ネタがすぐにわかった。それぞれ筆のタッチが違う。元ネタの作風の違いというのもあるだろうが、描いた部員も違うのだろう。

 その中でも、「オフィーリア」には僕の目を惹きつける何かがあった。

 周囲を彩る鮮やかな緑の草花の中で、川に沈んでいくオフィーリアが歌っている。複製画と言われても信じてしまいそうなほどに忠実に再現された精緻な作品だったが、僕はオフィーリアの姿にそこはかとない違和感を覚えた。

 生々しいまでの彼女の肌の色合いは、何色もの色を塗り重ねることで表現されているようだった。今にも息の音が聞こえてきそうなほどに、生の匂いに満ちている。まるで「肌色」の言葉の意味そのものを塗り替えようとでもしているかのような、執念じみた気迫と説得力が感じられた。

 絵の中の彼女は生きた人間のような存在感があるのに、絵全体からは不吉な死の気配も同時に漂っている。そう思ってしまうのは、僕がこの絵のエピソードを知っているからか、それとも画家の技術のなせる業か。元になった絵を初めて見た時のことを思い出そうとする。あの時もこのように感じていただろうか。写真からでは伝わらない、生で見る絵画の迫力がこう思わせるのか。

 元ネタの方の絵を思い出そうとしているうちに、髪だ、と違和感の理由に気がついた。元の絵と、オフィーリアの髪の色が違う。目の前の絵の中のオフィーリアは、美しい黒髪を水の中に漂わせていた。

 不意に、窓の外から規則的な足音が聞こえた。運動部のランニングコースが近いらしい。その音で、僕は現実に引き戻された。胸元に息苦しさを感じ、僕はそれまで息を詰めていたらしいことに気付いた。随分長く見入ってしまっていたらしい。深く息を吐き、反対側の机へと足を運んだ。

 そちらには、授業では六人で使う机の上を贅沢に使って、見慣れない画材が広げられていた。濡れた細筆、絵皿や瓶の中の岩絵具などに囲まれて、制作途中らしい絵が一枚置かれている。白骨化しかけた猫の絵だ。おそらく日光東照宮の眠り猫のオマージュだろう。構図がよく似ていた。周りには薄い朱色のシルエットが複数散っている。

 制作中の作品はこの二つだけらしい。他の机には絵の具は置かれておらず、作品だけが隣り合って並べられていた。

 続いて、オリジナルらしい絵画作品に目を向ける。足を向けた先には、おどろおどろしい洋館の絵が飾られていた。

 上手い絵だった。建物の構図に崩れはなく、光の当て方も、細部の省略の仕方も、技術的に優れているのだろうと素人目にもわかる絵だった。けれども、小綺麗にまとまりすぎていて、今ひとつ物足りない気がした。それに、絵の目的からも多少外れている気がする。

「……惜しいな」

「わかります?」

 いきなり後ろからかけられた声に、僕は振り向いた。

「これは『お化け屋敷』じゃない」

 声をかけてきた学生の顔を覗き込む。先ほどまで森野の近くにいた男子学生だった。彼は僕ではなく絵に目を向けたまま、苦笑いのようなものを浮かべた。

「そう! 描いた本人が悔しがってたんですよ、『ハロウィンになっちゃった。素直にジャパニーズホラーにしとけば良かった』って。上手いんですけどね、彼」

 同じ作者のものらしい、隣の寂れた神社の絵がホラーらしいホラーの雰囲気を(かも)し出しているぶん、余計にそれが顕著に感じられた。ジャック・オー・ランタンがあまりに似合いすぎるのだ。

 その次へと視線を移す。柳の下の幽霊。写実的な首吊り縄。コミカルさのある妖怪の絵。赤い手形で埋め尽くされた家。踊る骸骨。落武者の晒し首。

「……あのジェーン・グレイが好きだな」

「あの絵を知ってるんですね。絵が好きなんですか?」

「まあ、たまに見るよ」

 美術好きを名乗るにはだいぶ偏りすぎているが、そういう類の絵画作品なら鑑賞のために出向くこともある。

 僕と森野の興味は、数奇で悲劇的な人生を送ったレディ・ジェーン・グレイよりも、彼女を殺したブラッディ・メアリーの方に向いていた。彼女はプロテスタントを迫害し、何百人も処刑したために、血塗れ(ブラッディ)メアリーと呼ばれていた。

「描いたりは?」

「作るのも楽しそうだけど、見る方が好きだ」

 だから僕は傍観者の立場に徹している。どんな事件を鑑賞する時も第三者の立場を守ることが、非日常を歩く上での僕のルールだった。

 そうですか、と少年は相槌を打った。

「……***さんは、森野さんの友人なんですか?」

「そうだね」

 僕は半ば無意識に返事をする。話題の方向が僕の興味から逸れ始めているらしかった。しかし、聞いた本人も、どうやら僕の返事をあまり聞いていないようだった。

「森野さん、綺麗ですよね。あの髪は本当に美しい。絵描きの性か、綺麗な人を見ると筆が疼いてしまって。モデルをお願いしてみたいのですけど、森野さん、嫌がらないでしょうか」

 熱に浮かされたような声で彼は言う。

「どうだろう。そういう話はした事がないからな。題材によっては快諾しそうな気もするけど。……せっかくだから、どれがきみの絵か教えてくれないか」

 少年は目をぱちぱちと瞬かせ、それから恥ずかしそうに笑った。

「これは失礼しました。僕の絵はこれですよ」

 すっと腕を持ち上げ、「オフィーリア」を指した。その瞬間、彼の声が鮮明に聞こえるようになった。

「去年描いたものだから、粗があって恥ずかしいんですけどね。お化け屋敷に使うには良さそうなので持ってきました」

「オフィーリアの髪の色、変えたんだ?」

「はい。……僕、黒髪が好きでして」

 少年は小声で続けた。

「あっちの『レディ・ジェーン・グレイの処刑』の模写……あれも僕が描いているんですけど、あっちの髪も黒くしちゃってます。本人には言ってないんですけど、部長の髪を参考にして描いたんです。彼女の髪、美しいでしょう……」

 少年の視線が、描きかけの絵画から森野へと移る。

「でも、森野さんの方が理想的だ」

 

 

 

 細い蝋燭の先端に火が燃える。蝋が溶け、液体が芯を上り、気体、プラズマ、と相を変えていく。これも「変化」ではあるのだろう。けれども、蝋燭全体としては、「燃えている」状態が持続しているだけだ。燃やし続ければ短くなるのだろうが、それはあまり面白くない。単調で、退屈だ。

 手で空気を打つように勢いよく扇ぎ、火を消す。風で灯心の火が潰れて、代わりに黒い煙がたなびく。この一瞬だけは心地いい。わかりやすい「変化」だ。

 そう、変化は不可逆でなければならない。最近は「変化」よりも「変形」や「変態」の呼称を用いた方が正確なのではないかと思うこともあったが、昔から呼び慣れている言い方を変えるのにも違和感があった。

 鼻歌を歌いながら、アトリエと化している自室に戻る。机の横、一番下の引き出しから画集を取り出し、ぱらぱらとめくった。画集の半分より手前あたりのページに、目当ての絵があった。

 九相図。

 屋外に打ち捨てられた死体の変遷を描いた、仏教絵画だ。

 腐敗によるガスで膨張する「脹相(ちょうそう)」。腐乱が進み皮膚組織が壊れていく「壊相(えそう)」。溶けた脂肪や血液、体液が流れていく「血塗相(ちけずそう)」……。

 克明に描かれている「変化」の過程。この芸術を初めて見た瞬間に、心を奪われた。今も自分は、これ以上の画題を知らない。死の前、腐敗の過程、肉が消え骨になり、骨が焼かれて灰になって、人という存在が跡形もなく消えていく。その不可逆な変化の全てを描いた九相図こそが最高の芸術だ。生きている時は瑞々しく、死体が艶を失って腐敗していく様は丹念に。変化の前後の落差が大きければ大きいほど素晴らしい。

 九相図に出会って半月後には、見るだけでは満足できなくなっていた。

 自分もこれを描きたい。描かねばならない。

 気がつけば、自分は九相図の模写だけでスケッチブックを丸々一冊埋めてしまっていた。理想の九相図を追い求め、なけなしの小遣いとお年玉を注ぎ込んで寺や美術館を渡り歩く日々が続いた。

 九相図との邂逅は、今は亡き祖父がきっかけだった。祖父は趣味で絵を描いていて、絵を見るのも好きだった。仏教徒でもあった祖父は、仏教絵画や仏像をよく見に出かけていて、たまに連れて行ってくれることもあった。祖父が買って帰ったこの画集で、自分は九相図と初めて会った。

 九相図とはそもそも、遺体の腐敗を観想し、肉体の不浄・無常を知る修行「九相観」に由来する。肉体の煩悩を払うための修行であり、仏僧のほとんどは男であるため、描かれるのは彼らの煩悩の対象である女が多い。モデルとしては美女が好まれたようだった。自分が一番好きなのも英一蝶の九相図だったが、これも美女と名高い小野小町が描かれている。特に、この英一蝶の作品のように、生前の姿を加えた十枚からなる九相図が一番魅力的に見えた。

 何枚もの九相図を見比べるうちに、自分もモデルは美しいほど良いと確信するようになった。生と死、美と醜、動と静、それらの対照性を求めているのだから当然だ。

 しかし、九相図に惚れてすぐに、問題に行きあたった。

 数に限りがあるのだ。九相図は仏教絵画の中では比較的マイナーな部類に入る。その上、拝観自体が不可能なものもあった。

 初恋にも似た衝動をどうしても諦め切れず、死体の絵画を探し求めて、西洋絵画にも手を出した。その中で、「メメント・モリ」や「死の舞踏」などのテーマを知った。けれども、探すほどに不満が募った。自分が求めているのは変化と対比だ。緻密に描かれた生者と死者の行列が、一人の人間の死の前後でない事が残念だった。遺体の描写が凄惨極まるほど、生前を描いた絵がないことを惜しく思った。美しい女性の絵であればあるほど、その崩壊を見たくてたまらなくなった。

 やはり、自分の理想は九相図なのだ。

 そう結論して、模写にとどまらず、自分もオリジナルの九相図を描き始めた。

 描き上げるたびに満たされるものがあった。わざわざ都会の大きな書店まで出かけて買った美術解剖学の本は、制作の上でとても参考になった。けれども、描いているうちに、「何かが欠けている」という違和感を覚えるようになった。

 しかし、すぐには違和感の原因がわからなかった。もやもやとしたまま制作を続け、その間も大小合わせて数十の作品を描きあげた。

 あの日も夏休みだった。忘れもしない、八月二日。空はどんよりと曇っていて、その日の前後よりも比較的過ごしやすい気温だった。部活の帰り道、国道を逸れて車の通りの少ない道に入り、自宅へと向かう道すがら、コンクリートの上に雀の死骸を見つけた。ぐったりと脱力した体は不自然な格好で伏していて、近寄れば虫が(たか)っているのがわかった。

 羽毛の上を這う蟻を見た瞬間、天啓のような直感が全身を貫いた。

 自分は、本物を見ていない。

 今までずっと、絵ばかりを見ていた。九相図を描くには、九相図だけを見ていてはいけない。九相図の作者と同じもの、即ち、本物の死体が腐敗していく様子を見なければならない。

 この現代社会において、死体という存在は非日常だ。遺体を目にすることすら稀なのに、腐敗した人体など見られるはずがない。衛生上の問題もあって、死体はすぐに火葬されてしまう。そういった常識に囚われていたから、こんな簡単な事に気が付けなかった。

 自宅に帰り、荷物を置いたその足で財布を片手にホームセンターに駆け込んだ。売り場の隅にあるペットコーナーで、育ちすぎて売り物にならなくなったハムスターが叩き売られていた。購入を即決した。

 その次の日は一日中、忙しなく動く茶色の小動物を思うさま観察した。写真や動画を撮り、動きの癖や骨格を確かめるように、何度もスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。ハムスターの生き生きとした一瞬を切り取るためだけに、食事と風呂以外の全ての時間を注ぎ込んで没頭した。今までハムスターにはさして興味などなかったが、その仕草を観察してみると、案外と可愛らしい生き物だと思うようになった。

 その翌日に、首の骨を折って殺した。庭の隅、植木で隠れる場所に死体を放置し、毎日変化を確認しては何枚も写真を撮り、スケッチを行った。胃に残っていた酸が腹を溶かし、虫が肉を削り、次第に骨だけになっていく。実物を観察しなければわからないディテールがそこにあった。

 スケッチをもとに制作した九相図は、モデルは人間ではなかったものの、今までで最高の出来に仕上がった。

 対象として鼠を選んだのも、偶然だがメタ的に意味を付加してくれていた。鼠は子孫繁栄の象徴として扱われることが多い。その一方で、ペストなどの伝染病を運ぶ不吉な存在としても見られてきた。生と死を主題とした絵のモデルにするにはぴったりの存在だった。

 

 

「ごめんなさい。その日は杉浦さんと美術展に行く約束をしてしまったの」

 とある猟奇事件の跡地を見に行こうと誘うと、森野は少しばかり申し訳なさそうな声で断った。

「美術部の杉浦さんよ。この前、私に絵をくれたあの人」

 ああ、と僕は相槌を打つ。

 あの後、森野は杉浦と仲良くなったらしい。きっかけになった鳥の死骸のスケッチに加えて、本格的に描いた作品を一枚、もらえることになったのだと聞いている。僕や森野が好む、そういう(たぐい)の作品を。

「今、死をテーマにした特別展が開催されているのですって」

「僕も行っていいかい?」

 そう聞くと、彼女は迷うように眉根を寄せた。

「……二人で、って約束したから。入場料もおごってもらえることになっているし……モデルのお礼に、と言われたの」

「そう。きみがモデルを引き受けたのは意外だった」

「本を読んでいるだけでいいと言われたから。ポーズを取らなくていいんですって。死体の役ならもっと良かったのだけど」

 つくづく、彼女には作品にしたいと思わせる何かがあるらしい。異常者や芸術家のような鋭敏な感性の持ち主を、いつも強く惹きつけてしまう。

「他殺? 自殺?」

「首吊り死体がいいわ」

 会話が途絶える。僕たちは無言の時間を埋めるためだけに言葉を発することをしない。二人分の靴音だけが高校の廊下に規則的に響く。その無関心さが僕には心地よかった。

 それから会話が発生しないまま美術室についた。蒸し暑い空気の中に、絵の具の匂いが混じる。開け放された引き戸の中に、イーゼルと向き合う『彼』の後ろ姿が見えた。足音に気づいたらしい彼が、僕たちを振り返った。

「来てくれたんだ」

「うん。君に相談したいことがあって」

「何?」

 そこで僕は一呼吸置いた。

「その絵が欲しいんだけど、いくらで譲ってもらえる?」

 彼の目の前には、前と同じく描きかけの「レディ・ジェーン・グレイの処刑」が置かれている。僕の目にはもう完成しているように見えるが、まだ加筆の余地があるらしい。ジェーンのドレスの裾に新しく筆を置いた跡があった。

 絵の主は、理解できないとでも言うように僕をまじまじと見つめた。

「もちろん、文化祭での展示が終わった後でいい」

「……これ、模写だよ?」

「知ってる。その絵がいいんだ」

 正面から彼の黒い目を覗き込む。彼は考え込むように顎をさすった。

「じゃあ、画材の代金だけ……」

 おずおずと彼が言う。

「……僕が持って帰っても、どうせ物置に仕舞うだけだろうし。それなら、欲しがってくれる人に渡した方がいい」

 彼は僕を見ていない。絵の中の黒髪のジェーンを見ている。その視線はどこか愛しげだった。

「もし望むなら、加筆もできるけど。せっかくなら、君好みの絵に仕上げたい」

 そう言われ、僕は少し考え込んでから、一つだけ注文をした。

「それなら簡単だ」

 彼はすぐに筆を動かす。

「……ああ、そうだ。来週から、××××美術館で「死の絵画展」が開かれるんだ」

「森野から聞いた」

「この絵が好きなら、***さんも楽しめると思う。僕は『若き殉教女』が見れるのが楽しみで……」

 彼はジェーンの服の細部を描き込みながら、僕に向かって話し続ける。森野は少し離れた場所で椅子に座り、文庫本を読んでいた。僕が他の学生と話している時、彼女が会話に混ざることはなかった。

「『若き殉教女』、知ってる?」

「いや」

「ポール・ドラローシュの最後の作品で、とても美しい絵なんだ。オフィーリアにちょっと似てる。こちらは異教の神に生贄を捧げることを拒絶したために、両手を縛られて川に投げ込まれた女性の絵で……」

 それも模写したことがあるのかと聞いてみる。

「まだだけど、模写したいと思っていた作品の一つなんだ」

 そういう絵が好みなのかと聞けば、いつもは別の、もっと明るい絵を見ていたと答えた。

「でも、普段とは違う絵を描くいい機会だから、今みたいのも楽しくて。調べているうちに、知らなかった作品に出会えたし……」

「きみはオリジナルの絵は描かないの?」

「描いているよ。でも、見せるのは少し恥ずかしいな」

 彼はキャンバスに目を落としたまま、細筆を手の中で揺らした。

 

 

 

 夏はいい。肉が早く腐る。鳥も、獣も、人の肉も。

 三度、ネズミをモデルにして九相図を描いた。懐事情に余裕があるわけではなかったため、モデルを買うときは安売りしている時に絞った。

 大きい方が観察のしがいがあったので、二度目からはジャンガリアンハムスターよりも大柄なゴールデンハムスターを使うようにした。

 けれども次第に、描き上げた時に物足りなさを感じるようになった。ネズミは人間よりも小さすぎる。

 より大きな対象を探して、野良猫に目をつけた。あれならただで描けるし、殺せる。

 高校最初の春休みは野良猫を探して過ごした。家の近くでよく見かける茶色の猫の後を追い、その生活圏と行動サイクルを調べ上げる頃には、猫の仕草も生態も熟知するほどになっていた。部屋に平積みされた何冊ものスケッチブックや画用紙は、猫の絵で埋め尽くされた。棚には古本屋で買った猫の飼育書が二冊増えていた。

 生きた猫の最高の絵を描けた翌日、ネギを入れた餌を作った。既にその猫とは顔見知りのような仲になっており、何度か餌付けもしていた。観察するにあたって、猫の警戒心を解いておいた方が都合が良かったからだ。猫は警戒する様子もなく餌を食べて中毒死した。

 冷えた死骸を抱え上げて、近所の雑木林の奥まったところに放置した。庭に置いて隠すには大きすぎ、父母に見つかる恐れがあった。

 殺したのは学校のある期間だったので毎日は見に行けなかったが、できる限り足を運んで写真を撮り、週末はその場でスケッチもした。ハムスターよりもサイズがある分、期待していた通り、描いていて満足感が大きかった。渇きが満たされるような心地がした。

 学校でも美術部に入っていたが、九相図は家でだけ描くようにしていた。自分の絵が一般に好まれるものでないことは理解していた。ばれれば学校で生活する上で面倒なことになるのは目に見えていたし、ともすればカウンセリングやら何やらに連れていかれる可能性もあった。わざわざ手間をかけて維持している学校での友人関係を、不用意に崩すのは避けたかった。

 とはいえ、「生」の方の絵を描けば良いのだから、あまり抑圧を実感することはなかった。どちらも自分の趣味の一部なのだ。学校で描いた絵も嘘ではなく、間違いなく自分の好きな絵だった。ただ、学校で描いた分だけ、家で描く死体の絵が増えた。

 今年度の文化祭でお化け屋敷の展示をすると決まった時、あまりの衝撃を飲み込み切れず、机の下で手が震えた。あちらの自分も出して良いのだ。死、暗、醜の方の絵が、今は求められている。その一方で、自分で決めていた線引きを越えることを許すのが、多少怖くもあった。

 勇み足に自分の趣味を押し出そうとする衝動を、頭の中の冷静な部分がかろうじて抑え込んだ。なんのために今まで普通の人間に溶け込むように気を配ってきたのか、忘れてはいけない。

 あまりに写実的な腐敗の絵は、学校で展示するには相応しくない。凄惨すぎて浮いてしまうだろう。教師からストップをかけられる可能性もある。文化祭には学生の幼い弟妹たちだって来るのだから、制限がかけられてもおかしくはない。だから文化祭には、他の展示に馴染むように一般受けを意識した題材を選んだ。同期部員たちの反応を見ながら、恐る恐る自分の中の線を『人の死体は描かない』に引き直し、一般から外れない程度の絵を目指した。

 

 

 

 

 杉浦が待ち合わせの駅前に着いた時、森野は木陰に溶け込むように佇んでいた。全身に黒を纏っているせいで遠目には暗い木の幹に半ば同化していたので、杉浦は待ち合わせ場所に近寄るまで森野の存在に気がつけなかった。

 今日も日差しが強い。冷えた電車の中を出てからまだ数分しか経っていないのに、もう背中がじっとりと湿り始めていた。日向の続く道が憎い。

 森野の目の前まで歩いて立ち止まる。杉浦の存在に気づいていないのか、彼女は黒い髪を頬の横に垂らし、手元の文庫本に目を落としたまま、黄味がかったページをめくった。

「待たせたかな」

 声をかけると、森野は文庫本から視線を上げた。

「……いいえ」

 陶器のように白い顔が杉浦を見つめ返す。彼女の顔立ちは、その生気のなさ、造形の綺麗さで、見た人に人形を連想させるものだったが、左目の下のほくろが、ただ美しいだけの人形ではない独特の気配を加えていた。ディルムッドのほくろは、きっとこのようなものだったのだろう。森野を愛した妖精がいたならば、それはきっと死を予見するバンシーのような存在に違いない。

「ズボンに絵の具の染みがないから、気がつかなかったわ」

 抑揚の薄い、独り言じみた口調で森野は言った。今日の杉浦は美術部の活動中に来ている絵の具の染みのついたジャージではなく、ポロシャツに黒いズボンを履いていた。

「流石に、美術館にあの格好では行けないからね」

 頭頂からつま先まで、徹底的なまでに黒一色の森野の姿を検分するように眺める。

「森野さんこそ、その格好で暑くはないの?」

「平気よ」

「じゃあ、行こうか」

 何度か訪れたことのある美術館だったので、自然と、杉浦が先導する形になった。並んで歩いている間も、彼女は口数が少なく、相槌を打つこともなかった。彼女が聞いているのかいないのかわからないまま、杉浦は今日の美術展の展示について軽く話した。街路樹が生暖かい夏風に吹かれて、時折ざわざわと音を立てていた。コンクリートの地面に散るまだら模様の木漏れ日が、それに合わせて形を変える。

 二人分の学生チケットを買い、美術館の中に入る。自動ドアを抜けると、エアコンの効いた屋内の冷たい空気が二人を迎え入れた。肌寒いほどの温度だった。眩しいほどの外から屋内の明るさに目が慣れるまで、視界がチカチカと緑の色を帯びる。

 杉浦は入り口で手に取ったパンフレットを開いた。パンフレットを持つ右手の親指の皺の間には、落としきれなかった赤と黒の絵の具がこびりついている。それに目を止めた森野が口を開いた。

「血みたいね」

 杉浦は一瞬、その言葉の意味を理解しかねて眉を寄せた。森野の視線を追って自分の手を見下ろし、納得したようにうなずく。

「……今朝も描いていたから」

「そう」

 平日だからか、館内は予想していたよりも混んでいなかった。まばらな人影の中をゆっくりと二人で歩く。

「悪くないわ」

 蛆の湧いた死体の絵を見た森野が小さく呟いた。ぐったりと不自然な体勢で脱力した体の、酸化した血の色や肉の腐敗の描写は写実的だった。自分の目に焼き付けるように、杉浦も鋭い目で絵画を見つめる。

 凄惨な死、美化された死。埋葬されたキリストの絵、残虐な魔女狩りの絵。溺死、火炙り。杉浦の目は絵画の間を縫うように動いて、テーマや描写に「対照」を見出していく。館内は静かだった。心地よい静寂の中で、浴びるように絵画を鑑賞する。

 中でも「若き殉教女」には胸を打つものがあった。思わず感嘆のため息を漏らす。杉浦の特殊な好みを抜いて考えたとしても、その絵には強烈な、一般大衆にも訴えかける「美」が備わっていた。静謐と哀切を結晶化させたかのような、美しく厳かな絵だ。無表情を崩さない森野が何を考えているのかはわからないが、彼女もじっと無言でその絵を見つめていた。

 展覧会の中程、「死の舞踏」のコーナーへと辿り着いた。二人並んで、巨大な絵を見上げる。

 その絵の中では教皇や王侯貴族がミイラと交互に並んでいた。白い布を纏ったミイラが、ある者は棺を担ぎ、またある者は生者の手を取って、生者たちを墓場へと誘って行く。戸惑いや拒絶の表情が見える生者とは対照的に、死者たちのポーズはひょうきんで、頭蓋骨には肉が残っていないのに表情豊かだった。

「見て、あの赤い布」

 生者たちが着ている赤い服を指して、小声で森野に話しかける。

「この時代、赤い絵の具といえばバーミリオンとマダーレーキしかなかったんだ。バーミリオンは辰砂という鉱石から作られる朱色……鳥居の色で、マダーレーキは植物から取れる暗い赤色。まず朱色を塗って、その上に明るいところにはシルバーホワイトを混ぜた絵の具を、暗いところにはマダーレーキを何度も重ねて表現したらしい。……この二色だけで赤を表現していたとは、何度見ても恐れ入るよ。絵の具の色が豊富にある今じゃ、考えられないような技術だ」

 聞いているのかいないのか、森野の反応はない。

「それで、朱色の元になる……というか、もともとは辰砂のことを朱色と言ったのだけど、これは硫化水銀……硫黄と水銀でできていて、毒性があるんだ。常温なら安全なんだけどね、加熱すると水銀の蒸気や硫化ガスが発生する。だから、昔は辰砂鉱に行くことは死刑と同義だった……」

 目の錯覚か、いつもは表情に乏しい森野の瞳に、楽しげな輝きが見えた気がした。杉浦は先程指摘された、自分の手についた赤い絵の具を見せる。

 絵の具の跡の残る自分の手をかざす。森野の耳に口を近づけ、囁くように言った。

「この赤い絵の具も、バーミリオン……硫化水銀でできた色。美しい色ほど毒があるんだ」

 だから自分も、あなたの魔性の毒に狂わされてしまった。

「鉛からは美しい白が取れる。白を多く使う画家は、よく鉛の中毒になった。ヒ素から作る緑色は美しかったから、壁紙やドレスに使われて、多くの人を死に至らしめた。色にまつわる悲惨な話なら多少は話せるけど、興味はあるかな」

 

 

 

 駅のホームに見覚えのある後ろ姿を見かけて、僕はなんとなしに近寄った。名前を呼びかけると、彼女は黒髪を揺らして僕の方を振り向いた。

「久しぶり」

 夏服姿の彼女は大荷物を抱えていた。白く細い腕が膨れ上がった鞄を押さえつけている。更にもう一方の腕には大きな板を入れた手提げを持っていた。紙で包んでいるので中は見えないが、この形状からして絵だろう。以前、森野が絵を貰うと言っていたことを思い出す。この大きさの絵を持ち帰るのは大変そうだった。

 前髪が彼女の目元に暗い影を作っている。僕はその光のない目元を覗き込んだ。

「その大荷物を一人で家まで?」

 手伝おうかと尋ねてみる。彼女は戸惑ったような口調で、時間がかかるし悪い、と遠慮した。

「今日はこれから暇だから問題ないよ。僕もあの特別展に行ってきたんだ。きみの感想を聞きたかったから、この機会にでもと思ったのだけど、だめかな」

 彼女は迷うそぶりを見せてから、おずおずと僕に絵の入った手提げを渡した。

「……じゃあ、お願い」

 数分のうちに電車が着いた。昼過ぎの時間帯のためか車内は空いていたので、僕と彼女は荷物を抱えたままゆったりと座ることができた。車内の冷えた空気に触れて、汗が引いていく。電子音の発車メロディに続き、閉まるドアの音と空気の音。電車が走り始めて、慣性のかかった絵が手の中で傾く。

「どれが良かった?」

「……死の舞踏は期待以上だった」

 彼女は悩んだ末に口を開いた。小刻みに電車が揺れる。日が高いため、窓から車内に入る陽光の角度が鋭い。人の座っていない向かいの座席にはほぼ垂直に日差しがあたり、色が飛んで白く光っていた。

「中盤の、一番大きな絵」

 それきり彼女は口を閉じてしまい、あまり話そうとしなかった。何を話すべきか迷っているのか、彼女はわずかに眉根を寄せていた。

「……僕もあれは気に入った。でも、あれは一つ後ろに置いてあった方が良かったな」

 彼女の口を緩めるために、先に述べてみることにした。彼女は黒々とした瞳で展示の順について語る僕の口元を見ていた。時折、肯定を示すように頷いた。

 電車がトンネルの中に入った。暗くなった窓に、並んで座る僕たちの姿が映りこんでいる。電車はすぐにトンネルを抜けて、また地上を走り出した。

 二つ駅を過ぎた後、彼女もぽつぽつと感想を語り出した。僕は少し前屈みになって、電車の走る音にかき消されそうな声を聞き取った。

 曰く、「若き殉教女」は美しかった。けれども、死の美化が過ぎていた。良い作品だったが、自分とは求めている方向性が違う。

 曰く、火炙りの絵は燃えている状態の絵が殆どないのが残念だった。モデルの顔を描くのに邪魔だったのかもしれないが、鑑賞者の視点では炎の苛烈さと美しさも捨て難い。けれども、ジャンヌ・ダルクを殺そうとする人間の愚かさを描いた絵は、周囲の人間の描写が滑稽で気に入った。

 曰く、現代美術に近くなってくると作品は……

 電車に揺られ、流れていく窓の外の夏の景色を見送りながら、僕は彼女の言葉に聞き入っていた。同じことを思った点あれば、なるほどと唸らされる言葉もあった。やはり彼女は僕に近い感性の持ち主だった。

 

 

 自室から窓の外を見る。木々の落とす濃い影が揺れる。夏はいい。強い日差しは、くっきりとした強い明暗で形を浮かび上がらせてくれる。淡い光よりも、陰影の濃く出る強い光を描く方が好きだった。

 手元の自分の絵に視線を落とす。この一番新しい作品では、以前よりも確実に上手く物体の形を捉えられている。絵画技術そのものは、描く対象が死体でも生き物でも共通する部分は多い。枚数をこなせばこなしただけ、自分の絵が良くなっていくのを感じていた。

 部に上手な後輩が入部した。彼の緻密な作品を見ると、更に制作意欲が湧いた。この頃は朝に夜にと、食事風呂睡眠、そして勉強のために確保している時間以外は全て絵に費やした。昼夜問わず絵のことを考え続けていた。今年に入ってから飛躍的に絵の精度が上がったのは、彼に触発された影響が大きかった。

 動物の死骸の絵を長らく描いた。学校では生きた人間の絵を描いた。人の死体は写真と絵画をもとに、想像だけで描いた。

 描けば描くほどに、本物の人の遺体を見たい、腐敗していく様子を観察して描きたいという欲求を振り払うことができなくなっていった。生で見て、肌で触れなければ理解できない質感が存在する。それを見て、自分の絵として取り込まない限りは死ねない。逆に言えば、最高の九相図さえ描けるなら命も惜しくはない。

 アメリカには人体腐敗研究施設があるという。俗称はボディ・ファーム、または死体農場。そこでは人間の死体が時間経過でどのように腐敗するかを研究するために、献体された死体を野に晒している。鳥獣に食われることを防ぐために、金網で腐乱死体を覆っている写真を目にした。犯罪捜査に役立てるためらしいが、自分の衝動を満たすのにこれほど都合の良い施設はないと思った。

 けれども、外国の研究施設だ。ただの高校生が気安く行けるような場所ではない。楽園があると知ったのにそこに行けない歯痒さが辛かった。

 いつの日かそこに行こうと誓った。そのためなら何でもしようと思えた。研究所の職員を目指すのが最も都合が良いだろうと考えた。そのために、高校に入ってからは勉学にも力を注ぐようになった。絵を描く時間が少なくなって、息苦しさを覚えるようになった。普段は学校で絵を描く時間だけで満足できたが、月に一度か二度、半日かけて発作的に何枚も絵を書き散らすようになった。そうすれば衝動は幾分か収まった。

 文化祭用の絵を描いているときは、衝動に襲われる頻度が減っていた。自分が理想とする絵そのものではなかったが、死の気配さえあれば衝動を飼い慣らすことができるらしかった。

 だからあの日も、比較的穏やかな気持ちで鳥の死骸を写生していた。その後にどんな出会いがあるかも知らずに。

 始めて森野という少女と会話した時、自分の目を疑った。

 彼女は生きながらにして死人の気配を纏っていた。

 頭を殴られたような衝撃だった。彼女は自分の求める二つのものを内包していた。

 単に表情や声の抑揚が死んでいるのとは訳が違う。暗さだけではない異質さが「死」の色としてまとわりついている。一体、彼女は自分の中の何を殺したのか。

 言葉を交わすにつれ、こめかみに熱い血流が流れるのを感じた。心臓が早鐘を打っていた。第二の天啓が脳天を貫く。

 生者でありながら死の香りを有する彼女と、死後直後の生きているような彼女の死体を描ければ、自分の絵は新しい境地に達するだろう。

 気づけば自分は、他人と話している間も、森野を目で追うようになってしまっていた。

 美人の象徴である長く美しい黒髪も、彼女の魅力を高めていた。魔性とでも言えば良いのか、彼女には抗い難い魅力があった。

 どうしても、彼女の絵を描きたかった。

 

 

 

 

 

 僕の視線の先で、線路沿いに植えられた木々のシルエットが車窓を流れていく。車内の空気は涼しいが、外の暑さは日差しの強さから窺い知れた。九月の上旬はまだ夏の名残が色濃い。半袖の生活はまだ続くだろう。

 暦の上での夏と共に夏季休暇も終わり、高校では一昨日まで文化祭が開かれていた。美術部の出し物も義理半分、興味半分で一度訪れた。評判は上々だった。

 窓の外の景色を見ながら、僕は杉浦の目を思い出す。夏の日差しのようにギラギラと、苛烈な光を帯びていた目。あの目は森野を獲物として見ていた。人ではなく、極上の観察対象として。

 あれはおそらく僕と同類の生き物だ。人間は二つに分けられる。殺す人間と殺される人間。僕と、恐らくは杉浦も前者の方の人間だ。

 そして、森野は後者だ。

 

 

 今日も森野は黒一色の服装をしていた。やはり彼女には黒が似合う。背景も黒にしようか。学校で描いた絵は背景を白く明るくしてコントラストを際立たせたから、今度は逆に暗く溶け込ませるような絵にしてもいいかもしれない。

 学校では複数の角度から彼女の写真を撮り、彼女が来れない日はそれを元に作業を進めた。杉浦は森野と出会ってからすぐに描きかけだった作品を仕上げており、お化け屋敷用の絵を二枚も提出していた。ノルマには十分だった。後は自分の好きに絵を描くことにしていた。

 夏休みの残りの時間は、森野を描くためにずっと使っていた。美術展に誘ったのも、彼女の表情を知るための一環だ。概ね目的は達成できたように思う。

 玄関を大きく開け、彼女を家の中に入れる。彼女はにこりともせず、無言で戸口をくぐった。すらりとした足が靴を脱ぐ。当然のように靴下も黒だ。

「広いのね」

「手入れができていないから、雑草がひどいけどね」

 窓越しにリビングに面する庭を見た森野の呟きに答える。返事はない。相変わらずのことだから、気にはしなかった。彼女はそういう人間なのだと、この夏の会話で知った。無礼を行なっているつもりはないのだ。

 この短い期間で、彼女という存在を全て理解できたわけではない。けれども、彼女の絵を描ける程度には知れたように思う。人形に似た佇まい、どこか浮世離れした気配、そしてある種の話題に触れた時にだけ見せる、控えめながらも楽しげな目の光。それらを絶妙なバランスで絵の中に閉じ込めることができた。自分の技術はまだ未熟だが、その中では最高の作品に仕上がった自負がある。構図も色の混色の仕方も何もかも、昼夜問わずずっと考え続けていたのだから。

「ここが自室兼アトリエ」

 廊下の突き当たりの扉を開けて、森野を招き入れる。少し前からエアコンをかけておいたので、居心地の良い温度になっている。閉め切られた部屋の中には画材の匂いが篭っている。

「ここにある絵なら、どれでも選んでいいよ」

 床、壁、そして机の上に、所狭しと絵が並んでいる。それを見た森野の口元が、嬉しそうに緩く弧を描いた。

 絵はどれも朱色がふんだんに使われていた。毒でできた色が死体の血と肉を鮮やかに彩っている。

 左端に置いてあるのは、杉浦が一番気に入っている猫の絵だ。あの雄猫の仕草を、今もはっきりと思い出せる。

 少し荒れた毛並みの手触り、その下の肉の柔らかさ。跳躍の際に躍動する筋肉、餌を食べ終わって満足した時の表情。

 魅力的な絵を描くためには、対象を理解しなければならない。だから、どの絵のモデルのこともはっきりと覚えているし、その分だけ絵にもモデル自体にも愛着があった。

「ネズミ、猫、それから犬も一作。こっちの人間のは絵や写真を模写したものだから、著作権的に他の人にはあまり見せてほしくないものもある……興味があるなら模写元のコピーも渡すよ」

 絵を見比べている森野に言う。やはり反応がないので、この言葉が彼女に届いているのかはわからない。しかし、今はどうでもよかった。

 窓際の、普段は絵を描くのに使っている机の上には、絵の具やら置物やらがごちゃごちゃと端に寄せられている。ずんぐりとした瓶の中の顔料が日の光を色とりどりに弾いていた。これらのほとんどは祖父の遺品だ。両親は絵を描かないので、祖父の遺した画材はそのまま杉浦のものになった。その中の一つ、朱色の入った瓶だけは、蓋が開いている。

 森野は左の壁際に並べた絵を見ている。こちらの様子を気にしている素振りはない。

 杉浦は机の上に置かれた雑多なものの中から、野球ボールほどの大きさのガラス球を手に取った。重さを確かめるように手の中に握り込んでから、朱の入った瓶の前に置き直す。焦点が合うように、指先で少し押して位置を調節した。ガラス球によって集光された直射日光がじりじりと朱色を炙り始める。

 美術館で彼女と話したときに思いついた毒殺方法だった。

「……ちょっと、スーパーに行ってくる。お客さん用の飲み物を切らしてて。何か飲みたいものはある?」

「なんでもいいわ」

「じゃあ、適当に選んでくる。絵の方、じっくり選んでおいて」

 努めて平時の声を保ち、部屋を出る。極力音を立てないようにしてつっかえ棒を置いた。鍵と財布を手に、家を後にする。

 帰るころには、不幸な「事故」が起こっていることだろう。

 

 

 

 半透明のビニール袋の中に、ペットボトルが二本。直前までスーパーの冷蔵庫で冷やされていたため、ボトルの表面は結露がついている。

 はやる心を抑えて、杉浦は人通りの少ない道を歩く。時間をかけ、「賭け」の確率を高めるために、敢えて自転車を使わずに徒歩でスーパーに行っていた。

 そう、これは賭けだ。うまく燃焼が進む保証はない。けれども、勝率はさほど悪くないはずだ。少なくとも、毒の量は十分にある。杉浦の部屋はさして広くない。ある程度バーミリオンが燃焼すれば、致命的な濃度になるはずだった。

 自宅を見上げる。あの中に、彼女がいる。床に白い手足を投げ出し、黒く美しい髪を扇のように散らして。どこまでも絵画的なその姿を夢想する。

 興奮のせいか、それとも緊張のせいか、手が震えて玄関の鍵がうまく刺さらない。一度目を瞑り、深く息を吐く。震えが少しだけ治った。

 がちゃり、と鍵を開ける音がやけに大きく聞こえる。必要もないのに足音を潜めて廊下を歩いた。自宅の前のつっかえ棒はそのままだ。音を立てないように、静かに外す。

 ドアノブに手をかける。また深呼吸。心拍数は上がったままだ。耳奥に血流の音が聞こえる。

 彼女がどこに倒れているかわからない。死体を傷つけたくはないので、杉浦はゆっくりとドアを開けた。

 杉浦の視線の先で、開かれた窓を背に、森野が緩慢に振り向いた。

「…………絵は、決まった?」

 一瞬の混乱の後、杉浦は笑顔を作って尋ねた。どうやら自分は賭けに負けたらしい。咄嗟に自然な言葉を出せた自分を褒め称えたかった。

 問題は、彼女が杉浦の殺意に気付いていたかどうかだ。

「もう少し考えさせて」

 森野の様子に不審なものはない。机の上に目を走らせる。ガラス玉と、他にもいくつかの物品が移動していた。窓が開けられ、バーミリオンの燃焼は止められている。この二つを偶然と考えてよいものか。しかし、直接尋ねるのも躊躇されて、杉浦は疑問を一旦飲み込んだ。

「わかった。コップを持ってくる。どっちがいい?」

 二本のペットボトルを見せると、彼女は烏龍茶の方を選んだ。頷き、部屋を後にする。表情の制御に自信がない。一刻も早くこの場から離れたかった。

 南向きのリビングは明るいので、電気をつける必要がなかった。陽光が差し込んでいて、窓を開けているのに蒸し暑い。食器棚からコップを取り、ペットボトルと共に調理台の上に置いた。吐いた息に細く呻くような声が混じる。シンクの銀色に、杉浦のシルエットが鈍く映っていた。

 水切りラックの中の包丁に視線を向け、すぐに目を逸らす。遺体に傷をつけるのは杉浦の美学に反する。生きているような死体を描くというコンセプトにもそぐわなかった。

 できるならこのまま立ち尽くしていたかったが、森野に不信感を抱かせるわけにはいかない。コップに烏龍茶を注ぎ、残りを冷蔵庫に入れる。再度長いため息をついて、杉浦は自室へと戻った。

 

 

 

 それから十五分ほどかけてから、森野は猫の死骸の絵を選んだ。半分ほど腐敗の進んだ絵だった。杉浦は了承し、持ち帰りやすいように絵を包んで大きな紙袋に入れて渡した。机の上には空になったコップが置かれていた。残念なことに、飲み物に混ぜられるような致死的な毒には心当たりがなかった。

 短く礼を言って、去っていく森野の黒い背を見送る。彼女の死体を手に入れる機会をまた作れるだろうか。やりようによっては可能だと思えた。森野の好みは大体把握できたつもりだ。ネタさえあれば彼女は食いつくだろう。家に連れ込めそうなネタを探しながら待てばいい。

 ドアを閉め、玄関に鍵をかける。その瞬間、床に座り込みそうになった。緊張の糸が切れていた。計画の成功を信じ切っていた自分に気付く。柄にもなく狼狽えてしまっていた。

 自室に戻ろうとした瞬間、唐突にインターホンが鳴った。森野が忘れ物でもしたのだろうか。杉浦の体に緊張が走る。一度強く拳を握り、緩める。それから森野を迎えるべくドアを開けた。

「こんにちは、杉浦さん」

 そこに立ってのは森野の友人の少年だった。ドアを開けた瞬間に、杉浦は硬直した。

 少年の底冷えするような黒い瞳を覗き込む。

「……そうか、あなたが」

 事態を飲み込めた瞬間、口元に苦笑いが浮かんだ。

 薄々と気づいてはいた。彼はこちら側の生き物だ。獲物を横取りされようものなら、全力で妨害するだろう。一度、彼の厚意に甘えて絵の運搬を手伝ってもらったのは失策だった。

「だってきみ、ずっと森野のことを目で追っていただろう」

 少年は淡々とした口調で言う。

「きみは僕と好みが似ているんだから、気付くさ」

「……私もあなたのように上手く隠してきたつもりだったけど。そこまであからさまだった? 他の部員の絵と大差なかったつもりだったんだけどな」

「きみの死体の描写は正確だった」

 

 

 

 彼女が描いた眠り猫と雀の死体を思い出す。美術室を訪れたときに彼女が描いていた絵。あの時は描きかけだったが、お化け屋敷には周りの雀の死骸も全部描き込まれたものが展示されていた。他の色が抑えられていたぶん、血と肉の赤が良く映えていた。

「きみだけが本物の死体を描いていた」

 あっさりと書かれているように見えて、彼女の描いた死骸の描写はどこまでも正確だった。他の部員の描いた死体にはどこかしら違和感があったが、杉浦の絵にだけはそれを感じなかった。

「美術部の展示を見に行った。きみの絵は一番最後に飾られていた。あれは焼相(しょうそう)だろう」

 もう一枚の絵、墓を描いた方の絵は、お化け屋敷の最後に飾られていた。あれが九相図の最後の焼相だとわかったのは、家まで絵を運んだときに彼女の部屋の中に飾られた作品群を見たからだ。

「……そう」

 僕の言葉を聞いた杉浦の表情から、後悔と苦々しさが抜ける。彼女の瞳の奥にあった苛烈な光はなりを潜めていた。ひどく穏やかな顔をしていた。

「そうだよ、あれは焼相だ」

 彼女は僕の言葉を噛み締めるように口の中で繰り返す。

「あなたは、わかってくれたんだ……」

 夏の名残を残した風が、僕たちの間を吹き抜ける。

 先日、杉浦の絵を運ぶのを手伝ったときに、彼女の家の場所を知った。だから、いつ森野が彼女の自宅に招かれるかがわかれば良かった。それは森野との会話の中で簡単に知ることができた。

 犯行も多少の予想がついた。彼女の画風から、死体に傷を残す殺害方法は避けるだろうと思った。使うならば毒だろう。そう考えた途端に、窓際の朱色の瓶に目が行った。辰砂の毒は僕も知っている。

 杉浦が家から出た後は簡単だった。窓の外から森野に呼びかけ、偶然通りがかったのだと告げた。「こちら側からだと、絵の裏に大きな虫がいるのが見える。窓を開けた方がいい」と言えば彼女はすぐに従った。庭に侵入して窓に近寄り、虫を追い出すふりをしながら、ガラス球を日の当たらない場所へずらすだけで事は済んだ。

「……もしかしたら、私はあなたのために絵を描いていたのかもしれない。あなたのような理解者のために」

 杉浦は僕をまっすぐに見つめている。二組の瞳の奥の冷たい黒い穴が、鏡合わせのように互いを写す。

「……いや、違うな。やっぱり私の絵は、自己満足だ。見る人が誰もいなかったとしても私は描き続けるだろうから」

 ふつり、と杉浦が視線を切った。

「けれど、……うん。あなたに見てもらえたのは良かった」

「これからは森野には手を出さないでほしい」

 意外なことを言われたかのように、杉浦は目を瞬かせ、微笑を浮かべた。

「もう、彼女に手を出すつもりはないよ。あなたに知られてしまったんだ。これ以上の危険を犯す方が愚かというもの。前科があると就職には不利だろうからね」

 杉浦の顔に未練は無かった。殺人未遂の後のようにも、その企てが露見した後のようにも見えない、どこまでも晴れやかな顔つきだった。

「再来年、大学に入れたら、一緒に特殊清掃のバイトをしない? 夏休みにちょうどいいよ。夏は死体が早く腐るから」

「……それは楽しそうだ」

 

 

 

 数時間後、僕は薄暗い自室で一枚の絵を鑑賞していた。美術部の彼からもらった、黒髪のジェーン・グレイの絵だった。嘆く侍女も斬首台に導く司教も、陰鬱な表情の執行人も、全てが今にも動き出しそうなほどに緻密に描かれている。

 これを描いた彼はこちら側の人間ではなかったが、彼の画才は本物だった。彼が一年生であるにもかかわらず、美術部の部員全員から一目置かれているのはすぐにわかった。部長の杉浦も、彼の絵を混じり気のない称賛の眼差しで見ていた。おそらく、彼の絵にも森野に似た吸引力があるのだろう。

 僕は中心のジェーンに視線を戻す。目隠しされた黒髪のジェーンの左目の下には、新たに加筆されたほくろが控えめな存在感を放っていた。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。