『あなたはマスター』 作:アグネス・ゾンビ・デジタル
「──そうして、私は全てを失いました」
いつかの、過去の話をしてくれたそのウマ娘のお姉さんは、病院の中庭にある大きな桜の木の下で、車椅子に座ったまま遠くを眺めていた。
無表情だから悲しんでいるのか悔しがっているのか、その心の内は読めなくて。けれど、そう話してくれた声は震えていたような気がする。
──お姉さんと出会ったのは今からちょうどニヶ月前で、この病院だった。
専門学校を卒業して、晴れてトレーナー試験に合格した俺はトレセン学園に就職も決まり、新生活に期待を膨らませ色んな想像をした。
クラシック三冠やシニア三冠、トレセン学園の顔とも言えるシンボリルドルフを超えるウマ娘を育て上げたいだとか。
しかし出勤の二週間前、買い物へと出かけた道中でトラックに轢かれて両足骨折で即入院。
異世界に転生したり内定を取り消されたりといった最悪な事態は免れたが、十分最悪なスタートは切った。
動けない俺は、ベッドの上で携帯をいじったり特に興味のないテレビを流しながら、病室の窓から見える大きな桜の木をぼんやりと眺めていた。
その木の下にはいつも車椅子に座ったウマ娘のお姉さんがいて、本当は桜の木よりもそのお姉さんを見つめていた。
遠目からでもわかるくらい悲しげで、なんとなく、目を離したら風に吹かれて散っていく桜の花びらのように、どこかへと消えていってしまいそうな気がしたから。
毎日お姉さんの姿を確認して、一ヶ月がすぎた頃には松葉杖をつけば歩けるくらいには回復して、ついに俺は意を決してその桜の木の下へと向かった。
「ミホノブルボンさん、ですよね」
挨拶よりも先にそんな言葉を投げかけたような気がする。
俺が近づいても身動きひとつ取らなかった彼女は、俺の問いかけにぴくりと耳を動かし、ゆっくりとこちらを向いて頷いた。
「あなたは?」
「トレーナーです。と言っても、出勤前に事故に遭って入院したからまだ選抜レースどころかトレセン学園にも顔を出していませんけどね」
苦笑しながらそう話した俺をじっと無表情で見つめながら、彼女は抑揚の無い声で「そうですか」と返事をして、「私になにかご用でしょうか」と続けた。
「俺の病室からちょうどここが見渡せて、いつもあなたがいたから、その、変な意味では無いんですけど気になって……」
今のはちょっと気持ち悪かったかもしれないと、後悔していた俺なんかは気にもとめず彼女はどこか遠くを眺めながら、ぽつりぽつりと紡ぐように話し出す。
「私は、走れないウマ娘です。怪我をして以来もう何年もこちらの病院に通いながらリハビリを続けていますが、回復の兆しは見えません」
テレビでみた彼女は無敗で二冠を獲り、クラシック三冠を賭けて臨んだ菊花賞で敗れ、その後怪我を負い現役引退を表明した。
──俺がトレーナーを目指したのは、彼女がいたからだ。
シンボリルドルフでもなく、オグリキャップでもなく、彼女に夢を見た。
もちろん優劣なんてものは無い。ウマ娘は全員大好きだし、等しく敬意を払っているが、一番心を惹かれたのは彼女だった。
元々スプリンターであった彼女が、血の滲むような努力の果てに芝3000メートルの菊花賞を走り切ったのだ。
自分の限界は自分しか超えられない。常識は敵だと──彼女がそれを教えてくれた。
「私はもう──」
だから、その先の言葉を彼女自身に言わせてはいけないと、そう思った。
三冠ウマ娘でなくとも、現役でなくとも、いつまでも道標で在ってほしかった。
「俺は、昔から今もずっとあなたのファンです。あなたに憧れて、あなたのようなウマ娘と出会いたくてトレーナーになりました」
笑顔でそう言うと、彼女は少しだけ気まずそうに目を逸らしたまま黙り込んだ。
ずるいやり方だったと思う。
彼女の気持ちも考えず、結局俺の願望を押し付けただけなのだから。
勝手に期待して、勝手に失望してしまう様は、彼女が引退を表明したときに好き勝手言っていた奴らと……俺が最も嫌った大人たちと、全く同じだった。
走れなくなったら、彼女が走ることを諦めてしまったら、あの頃抱いた気持ちは薄れてしまうのだろうか?
まだ頑張れと、俺は無責任に彼女に強いているのだ。
「……桜、今年も綺麗に咲きましたね」
沈黙がたまらず、そんな言葉を口にした。
この木の桜が、去年どうだったかなんて知りもしないのに、「今年も」ってなんだ。
「はい」
だけど彼女に気にする素振りは無く、ひらひらと舞う桜の花びらを両手ですくい取って返事をした。
「とても、綺麗に咲いています」
両の手の桜を見つめたまま言った彼女の姿は、そのあとに「私と違って」、なんて言葉を付け足してしまいそうなくらい儚く見えた。
「あぁ、その、えっと……明日も、ここに来て良いですか?」
「元よりここは私の私有地ではありません。ご自由にすればよいのではないでしょうか」
「……言い方を変えます。明日もここで会っていただけますか?」
問いかけると、彼女は少しだけ左に首を傾けて、「理解しかねます。何故でしょうか」と質問に質問で返してくる。
「あなたのファンだから、純粋にお話ししたくて、ってのじゃダメですか?」
さらに質問で返すと、一瞬だけ困ったように眉を八の字に曲げて、でもすぐに無表情に戻り、「わかりました」と了承してくれた。
それから毎日同じ時間に同じ場所で、たあいのない話をした。
思い切って好きな男性のタイプを訊いてみたりしたこともあったが、「興味がありません」と一蹴されたりもした。
一ヶ月近く経ってようやく喋っているのがほとんど俺だけだと気づいたときには少し落ち込んだりもしたが、晴れて退院できることになった最後の日に、彼女は初めて自分から話してくれた。
「私には、『三冠ウマ娘になる』という目標がありました」
桜の花びらはもう全て散って、緑の葉が顔を出している。
風が頬を撫でて、髪を揺らした。
彼女は静かに、過去の思い出を紡ぎ出していく。
スプリンターとして期待されていたこと、でも自分には譲れない『夢』があったこと。
無敗で二冠を達成して、最後の菊花賞に手が届かなかったこと。
怪我をして、公にはされなかった、現役引退の理由。
「──そうして、私は全てを失いました」
本当はもう、引退したあの日に全てを諦めていて……でも、ずっと手放せなかったんだ。
意味が無いことを知りながら、それでも捨てきれなくて、何年もここに通い続けたんだ。
最初から道はひとつしか無くて、だからいつも──必死だったんだ。
「どうして俺なんかに話してくれたんですか?」
目を合わせることもできなくて、右手で後ろ髪を撫でながら目を伏せた。
地面に散らばった、散ってしまった桜はもう二度と咲くことは無い。
そんなことは、彼女が一番よくわかっていたのだ。
「あなたが、これから出会うウマ娘たちを正しく導けるように、私からの『アドバイス』です」
急に目頭が熱くなっていてもたってもいられなくなった。
勢いよく頭を下げて、「ありがとうございました。また、近いうちに顔を見せに来ます」と言って返事も聞かずにその場をあとにした。
退院したことを理事長に連絡すると、トレーナー寮は片付けてあるから今日から住んでも構わないと言ってくれた。
俺が入院している間に親が全ての荷物を学園に送ってくれていて、届いた荷物は理事長の秘書であるたづなさんが整理してくれたらしい。
片づけが苦手だが頑張ってくれたので感謝するようにと、理事長から伝えられていたので何度もお礼を言った。優しくて綺麗で可愛くて良い匂いがした。
そのあとは用意されていたトレーナー寮の自室に入り、すぐに買ってきたカップラーメンを食べた。
病院食には辟易していたから、どんな高級料理よりも美味い気がした。
でもそれだけじゃ物足りなくて、じっとしてはいられなくて、アイスを買いにコンビニへと自転車を走らせた。
すぐに目的地に着いてしまうのは嫌だったから、遠回りだとわかっていながら河川敷を走った。
よくわからない虫の鳴き声や、遠くを走る車やバイクの音に耳を澄ませながらペダルを漕ぐ。
あたりは真っ暗で、ライトの光は頼りなくて、道のど真ん中にあった大きな石に気づいたのは、それを踏んづけて身体が土手に投げ出されてからだった。
「痛えな、くそ……」
退院したその日のうちにまた入院なんて流石に笑えない。
起き上がって手足を動かしたけれど、すり傷以外に特に目立った怪我は無くてほっと一安心した。
一緒に投げ出された自転車を拾うこともせず、もう一度その場に寝転がって夜空を眺めたが、生憎都会の星空なんて大したことはない。
目を閉じて、本当に今度こそ、来週から始まる新生活を想像しながら息を吐いた。
「俺、ちゃんとやっていけるんだろうか……」
なんて落ち込んでもなにも変わらないことはわかっているから、倒れている自転車を拾い上げて再びコンビニへと向かって走り出す。
目的のアイスを購入して、帰りは河川敷は避けてトレセン学園へと戻った。
× × ×
「こんばんわ」
学園の門を潜ろうとすると、驚くべき人物に後ろから声をかけられた。
その声に抑揚は無く、トレセン学園のジャージに袖を通し、無表情で、車椅子なんて無くてもしっかりと自分の足で立っている。
「あ……は? えっ?」
目の前にいる彼女は、桜の木の下で出会った彼女と比べて幾らか幼く見えて……いや、そんなことよりどうして彼女がここにいて、去ったはずのトレセン学園のジャージを身に纏っているのか。
わかった。
本当の俺は実は土手で寝転がったまま居眠りをしてしまい、夢を見ているのだ。
そう考えれば納得がいく。
ていうかそうでなければこの現状に説明がつかない。
「ステータス『戸惑い』を確認。どうかされましたか?」
まるでサイボーグのような彼女は眉ひとつ動かさず、こちらの瞳をじっと覗き込んで問いかけてくる。
ただ、夢でも嬉しかった。
その場に立っている彼女を見れたことが、涙があふれそうになるくらい。
「ミホノブルボンさん、ですよね」
挨拶よりも先にそんな言葉を投げかけた。
柔らかく笑って、でも涙声で。
「……? そうですが、どこかでお会いしましたか? 申し訳ありませんが、私のメモリにあなたとのログはありません」
無表情でそんなことを言う彼女の両手をお構いなしにきゅっと握り、こらえきれなかった涙を流しながら絞り出すように言葉を吐いた。
「夢でも、嬉しいです……」
そんな俺の姿を見て、彼女はようやく無表情を崩してほんの少しだけ眉を八の字に曲げた。
夢なのに握ったその手はあたたかくて、彼女は確かにそこにいた。
「離していただかなければ、寮の門限に間に合わなくなってしまいます」
それでも俺はずっと握りしめていた。
すると学園を見回っていた警備員が俺たちに気づき、すぐに駆けつけてきた。
二人の警備員に無理やり引き剥がされ、地面に押し倒されて押し付けられた俺は、夢にしてはリアルな痛みに感動して、距離を取って訝しげにこちらを見つめている彼女の姿を見て再び泣いた。
「あぁ〜、ブルボンさぁん……」