『あなたはマスター』 作:アグネス・ゾンビ・デジタル
「てなわけでですね、ルドルフさんを射止めた先輩に是非スカウトの極意を教えて頂きたく……」
「ふーん」
トレーナー寮に帰ってくると、相部屋の先輩はひとりで晩酌を始めていた。
机の上に広げたにんじんチップスやら焼き鳥なんかを肴にビールを美味そうに飲んでいる。
その横で正座をして返答を待っているのだが、先輩はちらとこちらを流し見て、半分ほど残っていたであろうビールを一気に飲み干して缶をクシャリと握りつぶした。
「ミホノブルボンねぇ」
「なんか百発百中の殺し文句とか無いですか?」
「あははっ。無い無い、そんなんあったら絶対教えないし」
先輩は爽やかに、受け流すように軽く笑って新しいビールのプルタブを開けた。
炭酸の弾ける音が響いて、ゴクゴクと喉を通っていく音が聞こえる。
お酒は一滴たりとも飲んだことは無いのだが、その様を見ていると妙に美味そうに見える。
俺も今度飲んでみようかな、なんてことを考えていると、手にしていたビールを机の上に置いて先輩は笑顔で俺の肩をバシバシと叩いた。
「よし、じゃあ次の選抜レースは俺に任せとけ。悪いようにはしないからさ」
「まじすか! よろしくお願いします!」
こうして頼りになる先輩を味方につけた俺は、選抜レースまでにこれ以上好感度を下げてしまわないよう、ブルボンさんと距離を置いて一週間を過ごした。
× × ×
それから一週間が経って、待ちに待った選抜レースが開催された。
当たり前だが、観客席には俺以外にもたくさんのトレーナーたちが集まっている。聞こえてくる会話に耳を傾けると、ほとんどのトレーナーがブルボンさんの話をしていた。
「めっちゃ注目されてんじゃん……」
先輩は「とにかく任せとけ」としか言わなかったし、なんだったら今朝起きてから一度も姿を見ていないし、どこでなにをしているのやら。
と、そんなことを考えているうちに選抜レースに参加しているウマ娘たちがゲートに入り、あれよあれよという間にレースは始まった。
スタートから出遅れることもなく、ブルボンさんは先行集団から抜け出すと、後続との距離をどんどん開いていく。
まだデビューも果たしていないそのウマ娘のスピードに圧倒されるトレーナーたちにはお構いなしに、結局ブルボンさんは一度も影を踏ませることなく堂々と1着でゴール板を駆け抜けた。
「あれが、ミホノブルボン……」
「他に取られる前にスカウトしなきゃ……!」
その場にいたトレーナーたちが一斉に駆け出そうとすると、その隣にいた女性のトレーナーが深くため息をついてコースの端を指差した。
「一足遅かったわね」
その指の先に視線をやると、なんとそこにはブルボンさんと笑顔で話している相部屋の先輩トレーナーがいた。
「あれって……」
「皇帝お墨付きのトレーナーね。今回は運が悪かったと思って諦めるしかないわ」
皆が嘆息を漏らして去っていく中、俺ひとりだけが意気揚々と駆け出した。
きっと先輩が上手いこと話をつけてくれているのだろう。
ようやく一歩目を踏み出せた。
二人のもとへと辿り着いた俺は、息を整えてブルボンさんへと右手を差し出し深く頭を下げた。
「これからよろしくお願いします!」
数秒経っても返事は聞こえてこなくて、違和感を覚えて恐る恐る頭を上げると、不思議そうにこちらを見下ろしているブルボンさんと目があった。
その隣で先輩は意地の悪い笑みを浮かべている。
「理解不能」
「えっ?」
このとき、初めて俺は騙されていたことに気がついた。
先輩は最初から俺とブルボンさんを組ませる気などなく、自分が契約を結ぶつもりだったのだ。
「いやぁ、悪いね。ブルボンも快く了承してくれたからさ、二人でトゥインクル・シリーズに挑むよ」
「あぁ、それからお前の部屋がようやく片付いたって理事長が言ってたから荷物全部移しといてやったぞ」と言って、先輩とブルボンさんは俺の目の前から去って行った。
呆然として、しばらく動けなかった。
悔しい気持ちは確かにあったけれど、でも本当は、俺なんかよりも先輩が傍で見ていてくれた方がずっと良い気がしていた。
ルドルフさんを担当したあの人なら、きっとブルボンさんの異変にもいち早く気がつくはずだ。
それがわかっていたから、なにも言えなかった。
× × ×
それからさらに一週間が経ち、目的を失った俺は今後どうするべきなのかを考えながらふらふらと夜の校内を徘徊していると、ひとりでトレーニングコースを走るブルボンさんの姿が目に映った。
1800メートル地点にある目印を通過してもなお走ることをやめようとしないブルボンさんを見て、背中に冷や汗が流れる。
俺の知っているブルボンさんは確かに菊花賞を走り抜いたが、今目の前にいる彼女は違う。
まだデビューもしていなけりゃ、体も出来上がっていない。
そんなウマ娘があまりに無茶なペースでコース上を走り回っているのだ。
すぐにでも止めようと動き出すと、ブルボンさんはゆっくりと速度を落とし、立ち止まってから膝に手をついて息を整えていた。
「…………っ」
「ブルボンさん!」
突然その場に倒れ込んでしまったブルボンさんに慌てて駆け寄り、コースの端に置かれてあるベンチまでブルボンさんを運んで、急いで買いに行ったスポーツドリンクを差し出した。
「適量の水分チャージ、休息により、脈拍、血圧共に正常値に推移。メンテナンス完了。ありがとうございました。それでは、失礼します」
淡々とお礼を告げて立ち去ろうとしたブルボンさんの腕を掴み、引き止める。
「トレーニングは、終わりですよね?」
「いえ。回復後、2000メートルの走行を予定しています」
「許可できない。今日はもう寮に戻ってゆっくり休んでください」
「なぜ?」
じっと見据えてくる彼女の瞳は無機質で、まるで「私のトレーナーでもないのに勝手なことを言わないでください」と、そう言われているような気がした。
「まだ体も出来上がっていないあなたが、こんな無茶なトレーニングを続ければ間違いなく故障に繋がります」
「──しかし、私には到達すべき目標があります」
譲れないのは、彼女も同じだ。
俺はその目標を知っている。クラシック三冠、それが今の彼女にとっての全てなのだ。
そのためにこの学園に入学したのだから、期待のスプリンターだなんだと持て囃されている今、じっとしてはいられないのだろう。
「目標って、なんですか?」
「クラシック三冠達成です」
「それは、あなたのトレーナーも知っているのですか?」
「トレーナーは……反対しています」
先輩の考えていることなんてわからないが、なんとなくあの人なら、それは面白そうだと乗りそうな気がしたのだが……。
「なら、指導ではなく俺からの『アドバイス』という形で、幾つか良いですか?」
「アドバイス?」
「そう。まずはラップタイムを意識しましょう。中、長距離で必須になるのはペース配分です。今のように全力で走り続けるのではなく、200、400、600と距離を刻んでそこを通過するときの目標タイムを決めてそれを超えないように走ってください。それから、いきなり3000メートルを走るのは無謀です。あなたはスプリンターなんですから、まずは1600メートルからにしましょう」
「……了解しました。情報をインプット。測定を開始します」
ブルボンさんは少しばかり納得のいっていない様子だったが、渋々了承してくれた。
ひとまずほっと胸を撫で下ろし、走り出したブルボンさんの背中を眺めながら、小さな声で「頑張れ」と呟いた。
やがてブルボンさんは1600メートルを走り終えると、息を切らせて俺のもとまでやって来て、無機質だった瞳をほんの少しだけ輝かせながら口を開いた。
「自己ベスト、更新しました」
「はい! あなたにはちゃんと、目標を達成できる力があるんです!」
自分のことのように嬉しくなって、気づいたらまたブルボンさんの両手をきゅっと握っていた。
初対面で同じことをしてドン引かれたというのに、どうやら俺は成長しないらしい。
慌てて握った手を離し、二歩、三歩と後ずさって勢いよく頭を下げた。
「す、すいません! 舞い上がってしまっただけなんです! 悪気は無いんです!」
「………………」
「あの、ブルボンさん?」
「──ステータス『喜び』への推移を確認。効果的なアドバイスにより、三冠達成へ一歩近づきました。感謝しています」
そう言ったブルボンさんは無表情だったけれど、夜空に浮かぶ月の光が降り注いでは、ブルボンさんの瞳の中で煌めいていた。
──こうして、夜な夜なコースで落ち合って『アドバイス』を送りながら、彼女が無茶をしてしまわないよう見守る毎日が始まった。
× × ×
「やっぱりお前だったんだな。最近俺の担当ウマ娘にちょっかい出してる奴がいるなって思ってたんだけど、予想通りだ」
今夜も同じようにブルボンさんにアドバイスを送っていたのだが、普段のトレーニング中のブルボンさんの様子から事態を察した先輩トレーナーが、あとをつけて来ていたらしい。
向かい合うように先輩の正面に立ち、ブルボンさんは俺たちの横に立っている。
「夜間の自主トレーニングは自己判断で開始したもの。つまり、この方は関係ありません」
「毎日ふたりで長距離のトレーニングなんかしておいて、関係ないは無理があるんじゃないか? なぁブルボン。俺は言ったはずだろ。お前に短距離以外ではなにひとつ期待なんざしていないと」
「俺から声をかけたんです。勝手なことをしたのは謝ります。でも、そんな言い方……」
「三冠の話なら何度も聞いたよ。無駄な努力に時間を割くのは賢いやり方とは思えない。なによりリスクがでかすぎる。それはお前が一番、よくわかっているんじゃないのか?」
確かに、言っていることは正しい。
スプリンターである彼女が長距離を走りきれるだけの体を作るには、相当な努力が必要だ。そこにはもちろん怪我などの大きなリスクが付き纏う。
それに比べて短距離であれば、彼女は疑いようの無い才能を持っている。誰もが同じことを言うだろう。このまま短距離路線に進めと。
……じゃあ、なんのためにトレーナーがいるんだ?
俺たちはただの飾りか? 契約を交わすのは、彼女たちがただレースに出走するためだけか?
押し付けて、押さえ付けて、俺たちが敷いたレールの上をただ走らせるだけなのか?
「違うだろ……。半端な覚悟で、契約なんかしてんじゃねえよ」
「は? お前なに言って──」
「彼女たちの夢に、俺たちの夢を重ねたんじゃないのかよ? リスクを共に背負うために、手を取り合ったんじゃないのかよ! 俺たちトレーナーが最も優先すべきなのは、彼女たちの想いだ。……その上で、選手生命に関わる怪我を負わせないよう彼女たちを正しく導くことが、俺たちに課せられた果たすべき使命だろう!」
綺麗事だなんて、そんなことは自分が一番よくわかっている。ただそれを、綺麗事だなんて言葉で終わらせてしまったら、きっと一生後悔するだろう。
だから信じろ。彼女は絶対三冠に手が届く。
そして信じるだけじゃダメだ。その言葉の通り、人生を懸けて彼女を最後まで走り切らせると、誓え。
「わかった。じゃあそこまで言うなら今すぐ証明してみせろ。うちのルドルフと芝3000メートルで勝負だ」
「え?」
「実はここまで一緒に来てる」
「えっ!?」
真面目な顔つきで俺を睨め付けていた先輩は、親指で自分の後方を指差して揶揄うように笑った。
そちらに目を向けると、十メートルほど後ろに、確かにルドルフさんは学園指定のジャージを着て、呆れた表情でこちらを見つめている。主に先輩を。
まだ状況がのみ込めない俺を置いてけぼりにして、ゆっくりとこちらまで歩いて来たルドルフさんは開口一番、先輩に向けて愚痴をこぼしていた。
……つまり今から、ブルボンさんとルドルフさんで芝3000メートルの勝負をする…ってコト!?
「こう見えて私は結構忙しいのだが……」
「どう見えてるんだよ。会長様の多忙なスケジュールくらいみんな知ってるって。……でもこうして手を貸してくれる優しさも、俺はちゃんと知ってるよ」
「……私は君が心配だ。四面楚歌。そんなことばかりをしていたら、そう遠くない未来に君は潰れてしまう」
「ちゃんといるよ。たったひとりだけ、最後まで理解してくれる奴が」
「首尾一貫……か」
なにやら話している二人をよそに、俺はブルボンさんに向き直り説得を試みた。
長距離適性のあるウマ娘や、菊花賞、春天などで結果を残したウマ娘ですら、ルドルフさんが相手となれば勝率はかなり低い。
そんな相手と、まだデビューもしていないスプリンターのブルボンさんが芝3000メートルで勝負? 勝てるはずがない。
「や、やめときましょう。俺謝るのは得意なんで今からでも──」
「受けて立ちます」
「ブルボンさん!?」
ブルボンさんは先輩の目の前まで歩いていくと、瞬きすらせずにじっと先輩を見つめている。
「あなたを、納得させてみせます」
「ガッカリさせないでくれよ。期待の短距離ウマ娘ちゃん」
こうして、急遽ルドルフさんとブルボンさんの模擬レースが開かれることになった。
先輩は、ゲートに入り出走の準備を整えたルドルフさんに向けて、俺たちにも聞こえるよう大きな声で指示を出している。
「ルドルフ。相手の土俵で勝負してやろう。逃げで、一度も影を踏ませることなくぶっちぎれ」
「……承知した」
ゲートが開き、二人同時に飛び出したが、その差は明らかだった。
皇帝と呼ばれる所以。それをまざまざと見せつけられるだけの、一方的なレース展開。
2000メートルを超えたあたりからはもうブルボンさんのペースも落ち込み、最後は歩くのもやっとな状態で模擬レースを終えた。
「正直ガッカリしたよ。ここまで酷いとは思わなかった。俺のスカウトの目も大したことは無かったらしいな」
「────ッ! そんな言い方……」
「契約は解消だ。これ以上君のために時間を費やす気にはなれないよ」
──俺は知っている。
ブルボンさんがクラシック三冠に懸ける想いの強さも、それを『夢』で終わらせない強さも。
なのに、言い返せる言葉がひとつとして浮かんでこないことが、なによりも悔しかった。
「とはいえ、三冠を諦めて短距離路線に進むと言うのなら、俺が必ず君を日本一の短距離ウマ娘にしてみせる」
まだ呼吸が整いきらず、うまく喋れないブルボンさんは膝に手をつきながら、それでも力強く先輩の目を見て口を開いた。
「私は……。私は、やはり三冠達成だけは、変更不可能です。絶対に……譲れません」
そう答えたブルボンさんの瞳には、確かな決意が宿っていた。
なにもかも、根刮ぎ奪っていってしまうくらいの実力の差を見せつけられてなお、ブルボンさんに迷いは無い。
「そうか。なら今度こそ本当に契約解消だ。失望したよ、ブルボン」
「申し訳ありません……」
先輩は小さくため息をついて、ゆっくりと振り返るとトレーナー寮へと向かって歩き出す。
ルドルフさんは苦笑して、ブルボンさんに向けて「どうかくれぐれも、怪我には気をつけてくれ」と言って先輩のあとを追った。
「トレーナーの喪失により、『戸惑い』が発生中」
俺たちだけが取り残されたコース上で、隣にいたブルボンさんがそんなことを呟いた。
今もまだ、ルドルフさんの影が焼き付いて離れない。けれど今、道は示してもらった。果てしなく遠い道のりだけど、あの影に追いつくことができれば、三冠に手が届く。
「もう一度言います。ブルボンさん」
無表情のままこちらを向いたブルボンさんから目を逸らさずに、じっと見つめた。
「俺の、担当ウマ娘になってください」
「…………っ」
譲れない。俺だって同じだ。
ブルボンさんと共に三冠を手にして、俺たちは正しかったのだと証明してやる。
そして──今目の前にいる彼女を、もう二度と悲しませないために。
ブルボンさんが『アドバイス』をくれた。これから出会うウマ娘たちを正しく導けるようにと。
「俺と一緒に、クラシック三冠を目指そう。ブルボン」
差し出した右手は、数秒間風にさらされていた。
沈黙が続いて、やがてブルボンは俺の右手をきゅっと握ると──
「これから……どうぞよろしくお願いします。マスター」
静かにそう言った。