『あなたはマスター』   作:アグネス・ゾンビ・デジタル

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One Light

 レース場全体に響き渡る、怒号にも似た歓声。

 前年のトウカイテイオーに続く、史上8人目となる無敗のダービーウマ娘、そして、史上5人目となる、無敗の二冠ウマ娘が誕生した瞬間だ。

 

 ライスに4バ身の差をつけてダービーを制した彼女から、目が離せなかった。

 

「ミホノブルボン……」

 

 つい先日のことのように思い出す。

 その実力を遺憾無く発揮できる脚質を持っていながら、短距離路線ではなくクラシック三冠に挑むと宣言した彼女の姿を。

 それがどれほど過酷な道か、俺は知っていた。

 だからまだ、彼女は夢の途中にいるけれど……俺たちは負けたのに、心の底から魅せられていた。

 

 降り注ぐ祝福と歓喜の声を受けて、ブルボンは客席に向かってゆっくりと頭を下げた。

 

「……お前にも、聞かせてやりたかったよ」

 

 ──この歓声を。

 

 見せてやりたかった。

 

 ──あそこから見渡せる景色を。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「は? クラシック三冠を目指したい?」

「はい!」

「君スプリンターだよね?」

「今は、です!」

「おいおい……」

 

 シンボリルドルフとトゥインクル・シリーズでの3年間を終え、見事七冠という快挙を成し遂げた俺はトレセン学園の中でもそれなりに注目の的となった。

 まぁ凄かったのは俺じゃなくルドルフなのだが、褒めそやされるのは気分が良い。

 

 すっかり学園の顔となったルドルフと契約を解消すると、すぐに噂を聞きつけたひとりのウマ娘がやって来て、「あたしの担当トレーナーになってください!」と頼み込んできた。

 いわゆる逆スカウトというやつだ。

 特に断る理由も無かった俺は、とりあえず彼女を模擬レースに出走させ、その脚質を見定めた。

 彼女が走ったレースは短距離ウマ娘が集まるもので、その中で見事1着をもぎ取り笑顔で俺のもとへと駆けてきた彼女は開口一番「これからよろしくお願いします!」と、元気よく言った。

 

「まだ担当するとか言ってないんだけど」

「え、1着とったのに!?」

 

 詐欺師だとかペテン師だとか不満をこぼす彼女から目を逸らし、両手で耳を塞いでやり過ごしていた俺に腹が立ったのか、彼女は逸らした俺の視界へとまわり込んで膨れっ面で睨め付けてくる。

 

「…………」

「わかった、受けるよ。他のトレーナーに取られるのも癪だしな。……良い走りだったよ」

「ほんとですか!?」

 

 彼女は満面の笑みで両手をあげて喜びを表すと、「すぐにトレーニングに取り掛かりましょう!」と俺の服を引っ張って急かしたてた。

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

 トレーニングコースへと無理やり連れてこられた俺は、彼女が話した『クラシック三冠』という目標に愕然とした。

 先ほどの模擬レースで見た限りでは、彼女はどう考えても短距離を得意とするウマ娘だ。

 

「……じゃあとりあえず、1600メートルで走ってみようか。タイム測ってやるからさ」

「がってん承知の助です!」

「めちゃくちゃ不安なんだよなぁ……」

 

 それ誰の影響? なんてことは聞かなくてもわかる。

 マルゼンスキーにはあとで、その言葉はもう流行っていないぞと教えてやろうと、小さくため息をついてから、ビシッとこちらに敬礼している彼女に右手で追い払う動作を見せて、スタート位置へと向かわせた。

 

 ──結果はもちろん、最悪。

 1400メートルを超えるとすぐに失速して、残り200メートルを走りきったときにはまるでフルマラソンでもしたかのような疲労具合だった。

 

「え、ハァッ……ハァ……えへ、へ……。ど、どうですか?」

「何故得意げなのか訊きたい」

「ケホッ……は、走り……オェッ……きりました……」

「絶望的にスタミナが無いことはよくわかったから、とりあえず呼吸整えて水分とれ。膝に手をつくんじゃない、ゆっくりで良いから歩きなさい」

 

 指示通り歩き出した彼女を見送り、芝の上にタオルを敷いて、コースを一周歩いてきた彼女に水の入ったペットボトルを手渡してからタオルの上に座らせる。

 

「アスリートにとって一番大切なものはまずなにより自分の身体だ。運動後はすぐに倒れ込んだりせず、ウォークな。それからストレッチとマッサージ」

「知ってます! クーリングダウンですよね!」

「知っててもやらなければ知らないのと同じだ。ほれ、水飲め」

「んっ……んぶぶっ……」

 

 なにかを叫ぼうとした彼女の腕を掴んで、握られていたペットボトルを口に突っ込み無理やり水分を取らせる。

 少し吹き出していたが、そのあとは元気よく俺を罵ってくる。

 

「背中押すぞ」

 

 そんな彼女の言葉には耳を貸さず、一通りストレッチに付き合いながら、それが終わるとすぐにマッサージにとりかかった。

 

「おぉ。やっぱ良い脚してんなぁ」

「ふふん、そうでしょう?」

「ドヤ顔はやめろ。途端に大したことないように思えてくる」

「ひどい!」

「で、なんでクラシック三冠? 理由くらいは教えてくれたってバチは当たらないと思うけど」

「……約束したんです」

「約束?」

 

 彼女は空を見上げながら、真面目な声色でそんなことを言う。さっきまでの少しおちゃらけた感じはもうそこには無くて、その約束とやらの重さをなんとなく理解する。

 

「お母さんの夢だった三冠。あたしが代わりに獲ってくるよって」

「そうか……。そりゃ、果たさなきゃいけないな」

「はい! 本当に獲れたらにんじんハンバーグでもにんじんパフェでも、あたしの好きな物なんでも作ってあげるって言ってくれたし!」

「おい!」

 

 ズコー、なんて、昭和の漫画やアニメかと思うくらいには盛大にずっこけた。

 生きてるなら最初から言っとけ。紛らわしい言動するんじゃねえよ……。

 

「でも、約束したから。ううん、それだけじゃない。もうそれはあたしにとって譲れないものだから……あたしは、本気で目指してます」

「……スプリンターの君がクラシック三冠か。まぁ、面白そうだよな、それ」

「え? じゃあ──」

 

 絶対的と言われたルドルフと共に歩んだ道とは真逆だ。大袈裟かもしれないが、未踏の地へ踏み出すような、得も言われぬ不安だってある。

 でもそれが果たすべき約束のためだと言うのなら、譲れないものだと言うのなら……俺も厭わない。

 

「見てみたいんだ。その約束を果たすところを。君の夢を」

「…………っ。トレーナーさん!」

「俺の担当ウマ娘になってくれるか?」

「……はい! よろしく、お願いします!」

 

 彼女は勢いよく立ち上がり、俺の方に向き直って大きな声で言うと、深く頭を下げた。

 「ルドルフと違って素直で可愛らしい奴だ」なんて笑って、俺は彼女の夢を共に背負った。

 

 けれど、その約束が果たされることはなかった。

 皐月賞に出走した彼女は8着という結果に終わり、次に出走したダービーで、レース中に故障した。

 そのときは、やけに時間がゆっくり流れていったのを覚えている。突然倒れ込んだ彼女を見て、咄嗟に叫んだのは彼女の名前だった。

 

 スプリンターだった彼女の脚は、その負荷には耐えられなくて。今までのように走るどころか、この先立って歩くことさえ限りなく不可能に近いなんてことを医者から聞かされた。

 

 病室のベッドから窓の外を向いた彼女は身動きひとつとらなくて、そんな彼女に何度も謝罪の言葉を告げると、ただ一度だけ彼女は笑って──

 

「信じてくれて、ありがと」

 

 そう言った。

 

 彼女の両親にも同じように謝罪に行った。

 菓子折りを持って、玄関先で何度も同じ言葉を口にした。

 お茶だけでも飲んで行ってくれと、そんなことを言われたけれど、俺なんかがどの面下げて敷居を跨げるというのだろうか。

 

「あの子は、強いウマ娘でしたか?」

 

 最後に深く頭を下げてから、出ていこうとした俺の背中に、彼女の母親はそんな言葉を投げかけてきた。

 戦績だけでいえば、決して強いウマ娘ではなかった。短距離だったならたくさんの結果を残せたかもしれないが、多分……彼女の母親が聞きたいのはそんなことじゃないのだろう。

 もう一度そちらに向き直り──

 

「……誰よりも、強いウマ娘でした。どれだけきついトレーニングでも、何度負けても、弱音なんて吐かなかった。前だけを見続けていた……」

 

 

 

 

 

『──あたしは、本気で目指してます』

 

 

 

 

 

「いつだって、本気だった……。想像以上につらくて、苦しかったはずなのに……。泣き喚いて、怒って、全部吐き出したっておかしくなかったのに……」

 

 

『信じてくれて、ありがと』

 

 

「……彼女は……誰よりも強いウマ娘です……」

 

 彼女の両親は涙を流しながら、「あの子を、私たちの娘を、信じてくれてありがとう」と言った。

 

 

 

 

 

   ×  ×  ×

 

 

 

 

 

 眠れない日が続いた。

 彼女が故障したあの日のレースを、あの場面を毎日夢の中で見てしまうから。

 初めは眠るのが怖かった。日を増すごとに眠りたくても眠れなくなっていった。

 酒なんて一滴も飲んだことは無かったけれど、酒に頼るようになった。

 酔っている間は、少し薄れてくれるから。

 いつの間にか眠りに落ちていて、なにも無い部屋で朝を迎える生活を繰り返す。

 いつ眠ったのか、本当に眠っていたのか、曖昧になっていく。

 何度か救急車で運ばれたこともある。急性アルコール中毒というやつだ。ルドルフにこっぴどく叱られてからは飲む量を控えた。

 

「理事長から言伝を預かっている。一週間ほど休暇をとれ、とのことだ」

「なんだそりゃ。必要無いって」

 

 朝、いつものように目を覚まして支度を整えていると、ルドルフが俺の自室へとやって来てそんなことを言った。

 

「私も同じように休暇をいただいてな。付き合ってはもらえないか?」

「……良いけど、どこへ?」

 

 一度こうすると決めたとき、ルドルフは簡単には折れてはくれないから、素直に従っておく方が楽だと知っていた。

 だから無駄な抵抗はすぐにやめた。

 

「なにか食べたいものはあるか?」

「無い。腹にたまるものならなんだって良い」

「参ったな……」

「別に蛙や蛇の丸焼きでも食えるなら構わないよ。もう、味なんてしないから」

 

 実際、まともな飯なんてあの日から一切口にしていない。お湯を入れて3分も待たずにかき込んで終了だ。

 手っ取り早いのがカップラーメンだっただけで、満たせるのならなんだってよかった。

 

「君の好物はカレーだったな」

「ん? あぁ、そういやそうだった気がする」

「では行こうか」

「……だからどこに」

「朝食を食べに行って、買い物をして帰ってくる。簡単だろう?」

「あぁ、わかったよ。行けば良いんだろ」

 

 にこやかに笑ってはいるけれど、目は口ほどに物を言う。

 俺を捉えた瞳は、拒否することを許さないと言っていた。

 

 

 

 

「どうだ?」

「どうって言われても……」

 

 連れられてやって来たのはどこにでもあるような平凡な定食屋だった。

 

「ここは漬け物が絶品なんだ。食べてみてくれないか?」

 

 定食には付いてこず、別メニューになっているきゅうりの浅漬けを差し出されて口に運んだが、特にこれといった感想は出てこない。

 

「うーん……」

「こ、こちらはどうだ? これは本当に美味しいんだぞ」

 

 今度はきゅうりの古漬けを差し出されて口に運んだが、やはりこれといった感想は出てこない。

 

「……いや、悪い。最悪だよな、俺」

 

 気を遣ってくれているのはわかっていたのに、あまりに大人気ない態度だ。

 

「良いさ。食べ終えたら買い出しに行こうか」

 

 それから商店街で材料を揃えてトレーナー寮に戻るとすぐに、ルドルフは台所に立って料理を始めた。

 その後ろ姿をじっと眺めていると、視線だけで感じ取ったルドルフがどうしたのかと訊ねてくる。

 

「結婚したら、こんな感じなのかなって」

「ふふっ。それはプロポーズと受け取って良いのかな?」

「だめだろ。俺とお前じゃ釣り合わない。俺なんかには……」

「……そうか」

 

 それから会話は無く、カレーを煮込んでいる間は二人で部屋の掃除をしたり、ぼぅっとテレビを眺めたりした。

 そうしている間にカレーは出来上がり、皿に装ってテーブルまで運んでくれたルドルフは俺の正面に腰を下ろす。

 

「いただこうか」

「ん。美味そうだ」

 

 正直、今朝と同じで期待されているような反応を示すことはできないだろうと申し訳なく思いながら、スプーンでカレーをすくって口に運ぶ。

 

「美味いな……」

 

 考えるより先に言葉が出た。

 もうずっと、食事なんて無機質なものだと思っていたのに。

 それは温かくて、優しい味がした。

 

「君を想って作ったんだ。美味しくなければ困る」

「────ッ」

 

 ずるい奴だ。

 恥ずかしげもなく、柔らかく微笑んでそんなことを言ってくるのだから。

 全て見透かされているような気がした。

 心の内まで、なにもかも。

 

「ちょっと、泣きそうになった」

「それはよかった」

 

 その日の夜は、ベッドに入った俺の隣に椅子を立てて、ルドルフは俺の手を握ったまま離そうとしなかった。

 恥ずかしいからやめてくれと頼んでみたけれど、「君が寝付くまではこうしていたいんだ」と、苦笑しながら言われて言い返せなかった。

 

 久しぶりに、ぐっすりと眠れた。

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

 ある日、理事長に頼まれていた書類を届けに理事長室へ向かうと、扉の向こうから会話が聞こえてきた。

 

「──俺は、怪我をして歩けなくなったウマ娘を知っている。毎日、何年もリハビリに通い続け、それでも車椅子無しでは生きられないウマ娘を知っている……」

 

 悪いと思いながらも扉を少しだけ開けて中を覗くと、そいつは膝を折って床に手をついて頭を下げていた。

 

「この学園で俺を雇ってください。俺がここでなにをしても、結局未来の彼女にはなんの影響も無いのかもしれないけど……でも、もう二度と、あんな悲しい顔はさせたくない……」

 

 ──こいつも、俺と同じなのだろうか。

 いつ潰されてしまってもおかしくないほどの、重いものを背負っているのだろうか。

 

 事情はよくわからなかったけれど、部屋をどうするかという話になったタイミングで出て行って、相部屋を提案した。

 

 そいつはミホノブルボンをスカウトしたいと言っていた。彼女はスプリンターだがクラシック三冠を目指しているのだと、それを達成するために彼女の力になりたいのだと。

 無垢な笑顔で、これは俺が独自のルートで入手した裏情報なので他言しないでくださいねと。

 

 そのときわかったんだ。こいつは俺とは違う。

 その道がどれほど過酷で、その先にどんな悲劇が待っているのか、本当はなにも知らないのだと。

 

 だから俺がミホノブルボンと契約を交わした。

 もう誰にも、あんな想いはしてほしくなかったから。

 ウマ娘だけじゃなく、トレーナーにだって幸せでいてほしかったから。

 

 諦めさせようとした。ひどい言葉を言った。

 何度も言った。何度も、何度も……。

 

 ルドルフをぶつけて、圧倒的な力の差を見せつけても、それでもブルボンの想いが揺らぐことはなかった。

 三冠だけは絶対に譲れないと──息を整えることも忘れて強く俺を見据えた瞳が、あの日の彼女と重なる。

 

 ……本当は最初からわかっていたんだ。

 その先に、目を背けたくなるような悲劇が待っていようとも、最終的に選ぶのは彼女たちだ。それは彼女たちの人生であり、誰にも邪魔することはできない。

 

 本当は──わかっていた。

 

 彼女の選んだ道は間違いなんかじゃ無くて、あの日彼女を救えなかったのは、俺が不甲斐なかっただけだ。

 

「──失望したよ、ブルボン」

 

 失望しているのは、自分自身にだ。

 あの日からずっと、どこへ向かえば良いのかもわからずに。今自分がどこにいるのかさえわからずに、ずっと歩き続けていた。

 一歩だって前に進んでやしないのに。

 ブルボンが彼女と同じ道を辿るなら、最初から全てを奪ってでも守ろうとした。

 それが正しくないことに気づいていながら、それで走り切ったところで、その先に幸せなんてないことを知っていながら、なのに……もう一度信じてやることが……どうしてもできなかったんだ。

 

「……泣いたって良いんだ。君の気持ちは、痛いほどよくわかる」

 

 トレーニングコースを去り、トレーナー寮へと戻る道中で立ち尽くしてしまった俺を、ルドルフは後ろからそっと抱きしめてくれた。

 あやすように右手で優しく頭を撫でて、震えが止まらない俺の体を左手で包み込んでくれる。

 

「俺は……また……ッ、誰かの夢を、奪おうとしたんだ……! あの日のように……ッ」

 

 あぁほら──もう最悪だ。止まらない。

 彼女は涙を見せなかったのに、俺が泣くわけにはいかないだろ。なにもできなかった俺が、涙なんて流すなよ。

 

 あの日から……後悔も、自責の念も、全てを閉じ込めて未来あるウマ娘たちを守りたかった。きっとそれが最善なのだと思い込もうとしていた。

 でも本当は、お前は間違っているのだと、そう言ってくれる人間を……その先に踏み出せる奴をずっと待っていたんだ。

 だからようやく、自分の罪と向き合えるような気がした。

 

「俺は、トレーナーになんかなっちゃいけなかったんだ……。もっと早く気づくべきだった……。俺がいたから、彼女は……」

「君がいたから私は誰よりも輝くことができたんだ」

「違うだろ……。お前には、俺なんかいなくたって──」

「わかっている。なにを言ったところで君の気持ちが晴れることは無いのだろう? なら君自身が縛り付けているその十字架を背負ったまま、それでも前に進むべきだ。前は向けずとも、一歩ずつでも、君は進まなければならない」

「それでも……。俺にはもう……」

「私がついている。トゥインクル・シリーズに挑んだ3年間、君が私の手を引いてくれたように、今度は私が君の手を引こう」

 

 ぼろぼろと、次から次へとあふれ出してくる涙が視界を奪って、また前が見えなくなる。

 でもずっと……それでもずっと、背中にはあたたかさを感じていたんだ。

 お前と契約を解消して、取り返しのつかない過ちを犯した。夢を奪ったくせに、俺だけがのうのうとトレーナーを続けてきた。守りたいだなんて、ひどく自分勝手で独善的で。頼まれてもいやしないのに、また誰かの夢を奪おうとした。

 

「でもお前は……」

 

 お前だけは──

 

「いつも、後ろで……俺の行く末を見ていてくれたんだ……」

 

 だから背にはいつも温もりがあった。

 だからなにも見えない暗闇の中でさえ、歩き続けることができた。誰になにを言われても、どう思われても、お前がいてくれるだけで救われていた。

 ルドルフがいなければ、俺はもうとっくの昔にトレーナーなんて辞めていただろう。

 

「だから、手を引かれるわけにはいかないんだ……」

 

 精一杯の強がりだった。

 でも今までずっと甘えてきて、抱きしめられて頭を撫でられて、その上情けなく涙を流して、これ以上頼りきるわけにはいかなかったから。

 

「……そうか」

 

 後ろから聞こえた声は優しくて。また、全てを伝えなくても理解してくれる。

 

「俺……また、頑張るから。みんなを幸せにできるように、もう間違えてしまわないように……一歩ずつでもちゃんと進むから……」

「あぁ。見守っている。ずっと」

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

「お前が選んでくれたゼリー飲料、ブルボンに渡して来た。『エラーです。許すもなにも、私は最初からあなたに怒りなど感じていません。あなたの言うことに間違いはありませんでしたから』だってさ。なんか、やっぱ凄いよなあの娘」

 

 一言一句覚えているわけではないが、多分そんな感じだったと思う。

 

「それから、ライスシャワーの担当トレーナーになった」

 

 ライスと契約を交わしたあと、生徒会室を訪れてそう告げると、ルドルフは机の上に広げていた書類からこちらに視線を移して柔らかく微笑んだ。

 

「そうか。それで、クラシック三冠でも目指すのか?」

「さぁな。それはこれからライスと二人で考えるよ」

「……ふふ。はははっ」

「は? なに? 笑うとこ?」

「いや、すまない。……でもそうだな。二人で答えを出すと良い。君がずっと探していた、その答えを」

「……あのな、この際だから言わせてもらうが、そこがお前のだめなところだ。自分ひとりなんでもわかったような物言いで。なんだよ、答えって」

「ふふっ。……さぁ、どうだろうな」

 

 握った右の手を口元にあて、ルドルフは誤魔化すようにいたずらに笑った。

 そんなルドルフに一矢報いてやろうと、俺はルドルフの正面まで歩いて行き、おもむろに右手を伸ばした。

 

「こ、こら……。やめないか……」

「うるせ。いつも余裕ぶりやがって、生意気なんだよ」

 

 嫌がっているわりに、くしゃくしゃと頭を撫で回す俺の手を掴んだルドルフの両手に力は全く入っていない。

 

「ありがとな」

「……なんだ急に。君らしくない」

「どういう意味だよ」

 

 ──いつかもう一度、彼女に出会えたそのときは、望まれていないかもしれないけれど……それでも今度は謝罪の言葉より感謝の言葉を伝えたい。

 出会ってくれて、信じてくれて、ありがとうと。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

「お兄さま……」

 

 レースを走り終えて俺のもとへ戻ってきたライスは、申し訳なさげに耳を前に伏せ、少し俯いている。

 そんなライスの頭に右手を乗せて──

 

「2着だもんな。よくやった……とはまだ言わないぞ」

 

 そう言って微笑みかけると、ライスは伏せていた耳をぴんと真上にあげて、悔しさをその瞳に宿らせたまましっかりと俺の目を見据えた。

 

「うん……。ライス、まだ走れた……。まだ……」

「菊花賞だ。この借りは、そこで返そう」

「……はい!」

 

 

 

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