閉所恐怖症モクロス   作:宇宮 祐樹

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「ひぃぃぃぃ、来んな! 来んなや!」←ここだいすき




 

「トレーナー、おるか?」

 

 午後のトレーニングも終わり、夜になって生徒も殆どが寮に帰ったころ。

 チームルームで作業をしていると、ふと扉の向こうからそんな声が聞こえてきた。

 

「……タマモか?」

「おう。今、入ってもええ?」

「構わないが」

 

 からから、と静かに扉を開けて、タマモクロスが姿を見せる。

 どこか疲れているような様子だった。目元にはうっすらとクマができているし、耳も心なしか垂れ下がっているようにも見える。けれど振る舞いはいつも通りで、それが逆に無理をしているように見えて、心配になった。

 見違えた、とまではいかないが、初めて出会った時と比べると明らかに変わったと思う。それも、少し悪い方向に。たまらず大丈夫か、と俺が声をかけようとする前に、彼女は申し訳なさそうに笑って、言った。

 

「こんな遅くに、ごめんな? ちょっと忘れモン、思い出して」

「忘れ物。……ここに?」

 

 俺の問いかけに答えようともせず、彼女は書類や小物がいくつか置かれているテーブルを探り始めた。

 

「えーっと……どこやったかな? 確かここら辺に置いといたハズなんやけど……」

「……タマモ?」

「ああ、見つけたらすぐ帰るから安心してや。仕事の邪魔だけはせえへんようにするから」

「それなら手伝おうか?」

「ええって。これ以上、アンタに迷惑かけられへんからな」

「担当してから少し経つが、お前を迷惑だと思ったことは一度もない」

「言いよるわコイツ。ようそんな出まかせペラペラと」

「本心のつもりだ」

 

 書類を一時保存して、椅子から立ち上がる。引いた椅子の音に彼女は振り返って、嫌そうな――きっとそれは俺ではなく、自分へ向けたものなのだと思う――顔をして、こちらのことを見つめてきた。

 

「だからアンタは手伝わんくても……」

「じゃあ、お前一人でその探し物は見つかるのか?」

「…………」

 

 黙り込んだタマモクロスが、そのまま顔を伏せる。そうして体をふらつかせたかと思うと、彼女は倒れ込むようにして俺の体へと腕を回してきた。勢いはそれなりにあったが、けれど重さは殆ど感じられなかった。それが、まるで風が吹けばどこかへ飛んで行ってしまいそうな、そんな不安さを感じさせて、俺は思わず彼女の背中を手で優しく撫でていた。

 

「……ごめんなぁ、トレーナー」

「構わない」

 

 掠れて消えてしまいそうな彼女の声に、そう答える。

 日本ダービーに出走する直前、五月上旬のことだった。忌憚なく言ってしまえば、彼女が原因の事故だった。集中力を欠いたことによる判断ミスで、彼女を含めた模擬レースに出走していた半数のウマ娘が負傷。幸いにも大事に至るような怪我をした者はいなかったが、それ以来彼女はバ群、というよりも人や物が密集している場所、状況に対してひどく怯えるようになってしまった。

 できる限りのことはした。心身――心に関しては不得手だったからあまり診てやれなかったが――のケアも、バ群を回避できるような走り方の考案も、それに合わせたトレーニングも。今までとはまるで違う走り方になったが、仕方のないことだった。あの時の彼女は、そう走ることしかできなかった。

 そして、結果は――7着。

 寧ろ、予想以上の着順だった。逆に彼女のポテンシャルを見出せるような結果だった。この経験は今後に活かせるかもしれない、だから誇るべきだと伝えた。励ましでも同情でもない、本心からの言葉だった。

 けれど、それは結局俺の都合でしかなくて。

 日本ダービーが終わってからずっと、彼女は()()だった。

 

「大丈夫か?」

「…………もう少し、このまま……」

「そうか」

 

 短く答えてから、頭を撫でる。

 前までの彼女なら、子ども扱いするな、などと怒鳴っていたのだろうが。

 今の彼女には、そんな声を荒げるような余力すら残っていないように見えた。

 

「……悪いとは思ってるんよ。ウチのせいで、顔に泥塗ることになってしもうて」

「そんなことない。何度も言ってるが、俺は寧ろあの結果を誇ってる」

「ハハ……優しいなあ、アンタ。こんな落ちこぼれにそう言ってくれるの、アンタだけやで」

 

 顔は見えない。けれど、乾いた笑みを浮かべていることは想像に難くなかった。

 

「……次のレース、どないするん?」

「このまま三冠の菊花賞……と言いたいところだが」

「ん」

 

 そうやって返事をすると、彼女は俺を突き飛ばすようにして離れて、両頬を強く叩く。

 

「うっし、ヘコヘコする時間はこれで終わり! 明日からは菊花賞目指して頑張るで!」

「ああ」

「ほなまた、明日のトレーニングでな!」

 

 半ばまくし立てるような、無理やり口から吐きだすような言葉を並べながら、彼女が扉の方へと歩いていく。そのままタマモクロスは扉に手をかけて、閉じようとしたその瞬間。

 

「……なっさけないわ、ホンマ」

 

 ぽつりと、そんな呟きを吐き捨てたのだった。

 

 

 携帯が鳴ったのは、昼食を食べ終えて一服している最中だった。

 

『なあ、今どこおるん?』

 

 珍しいな、と思った。そもそも彼女はこういう時、自分がされたら嫌だからと要件を先に話すはずだ。だから、こんな風に要件も伝えずに聴いて来るのは意外だった。今思えば、それが前兆だったのかもしれなかった。

 

「学園から少し離れたコンビニにいる」

『……何しとるんや?』

「少し、煙草を」

 

 答えてから煙を吐き出す。吸い始めたばかりだった。

 

『そ、そーか……それならしゃあないな。でも、あんまり吸いすぎもアカンで?』

「……ああ。気を付けるよ」

『体は大事にせな。ま、ウチも人のこと言えんけど……』

「そんなことはない。よくやってるよ、お前は」

『……ホンマか?』

「ああ。誰よりもタマモのことを見てる俺が言うんだから安心しろ」

『ははは……も、物好きやで、アンタも。こんなにウチの面倒見続けてるなんて』

「そうかもな。でも、悪いことだとは思ってない」

『…………』

「…………」

 

 しばらくの沈黙。そして彼女は、ひゅぅ、と上ずった息の吸い方をしてから、

 

『会えへんやろか? ……今すぐ』

「分かった」

 

 答えてから俺は、まだ半分以上残っている煙草を灰皿に押し付けた。

 

 

「落ち着いたか?」

「……もう、ちょい」

「そうか」

 

 鍵をかけたチームルームで、体を預けてきたタマモクロスの背中を撫でる。

 初めてのことだった。普段なら夕方から夜中にかけて、生徒の皆が寮に戻る頃に彼女はこうなるはずだ。けれど、今回は日中の、それもトレーニングが始まる直前にこうなった。今までは夜だけで済んでいたのが、昼にも必要になったのか。あるいは元々昼もこうなっていたのを何とかして耐えていたのが、耐えきれなくなったのか。

 どちらにせよ悪い傾向か、と心の中だけで息を吐いていると、彼女がぽつりぽつりと語りだした。

 

「なあ……今のウチが菊花賞、出られると思うか?」

「現状ではまだ分からない。回復するかもしれないし、悪化するかもしれない」

「……そか」

 

 不甲斐ないとは思う。ただ、俺にはそう答えることしかできなかった。

 

「夏合宿もそろそろ始まる。そこで何とかできれば、あるいは」

「…………」

「……タマモ?」

 

 見下ろした彼女は、俺のベストを強く握りしめていた。それが悔しいからなのか、あるいは何かに怯えているからなのか――それともその両方なのか、今の俺には分からなかった。こんなにも近くで彼女を見ているのに、そんなことすら分からないのかと思うと、ひどく情けない気持ちになった。

 やがて手の力を弱めた彼女が、恐る恐ると言った様子で口を開く。

 

「なあ、トレーナー」

「どうした?」

「夏合宿……ホンマに行かなアカン?」

 

 ……まさか。

 

「行きたくないのか?」

「そういうワケや、ない。行かなアカンってことは十分わかっとる。でも……こ、怖いねん、ウチ。模擬レースなんてもってのほか、みんなとトレーニングも……ふ、二人きりでの併走もできんくなっとる! ああ、アカン、ダメや……またみんなのことケガさせてもうたら、と思うと……何もできへんくなるねん、ウチ……」

 

 震えた声で、またタマモクロスが言葉を並べる。

 

「レース以外もそう……教室も食堂も、廊下さえマトモに歩けんくなってんねん。もしなんかあって、またみんなにケガさせてもうたらと思うと……ど、どうにかなってしまいそうでな、もう……あ、アカンわ。この後にあるトレーニングも、怖くて……」

「……タマモ」

「ご、ごめんなぁ、トレーナー。あんだけ啖呵切っといて、こんなザマになって……おまけに大層なワガママ言って、迷惑までかけるなんて。ホンマ……自分が情けないわ。……こんなウマ娘で、ごめんな……」

 

 謝らなくてもいい、という言葉は、喉の中で腐り落ちていった。

 きっと今の彼女にそんな言葉をかけても、何のためにもならないだろうから。

 ……仕方ない。

 

「夏合宿への参加は見送るか」

 

 呟いたその言葉に、彼女は驚いたように顔を上げた。

 

「……ええんか?」

「そもそも合宿に参加するかは自由だ。やむを得ない事情があるなら、辞退するべきだと俺は思う」

「いや、そうじゃなくて……アンタはそれでええんか、って」

「良いことだとは言い切れない。だが、その調子では良し悪し以前の問題だろう」

「それは……そうかも、やけど」

「菊花賞の出走も夏の終わりに検討しよう。……聞こえは悪いが、リハビリ期間になるかもな」

「…………」

 

 口を噤んだタマモクロスの耳は、力なく垂れ下がっていた。

 正直なところ、自分から言い出してくれて少し助かっているところはあった。彼女からしたらかなり迷っていたことなのだろうが、俺からすれば既に、どうやって夏合宿の見送りの話を切り出そうと悩んでいたところだった。それくらい、今の彼女は目に見えるほど衰弱していた。

 ほっと心の中だけで胸を撫で下ろしていると、くつくつとした笑い声が聞こえてくる。

 

「ははは……そか、リハビリか。そう考えたら、納得できるわ」

「あまり気を落とすなよ。まだ十分回復できる。それこそ、ふとしたきっかけでも」

「かもな。でもアレや。自分のことビョーキやと思ったら、なんだか少しだけ楽になったわ。気ぃ張らんでええんちゅうか、憑きモンが取れたんちゅうか……ま、夏の間はのんびりしてみるのもええかもな」

 

 安心したように語るタマモクロスは、しかし笑顔ではなかった。どちらかというとその言葉は、自分を納得させるためのものに感じられた。声をかけようとしても彼女は俺の体から手を離して、近くの椅子に腰を落ち着けてしまう。そうして片手をひらひらと振りつつ、彼女はまた口を開いた。

 

「ちゅーわけで、病人は一人寂しく過ごしとるわ。アンタらは夏合宿、頑張って来てな」

「一人……?」

「だってそうやろ? 皆は合宿やし、面倒は自分で見んと……」

 

 ……何を言っている?

 

「俺もここに残るぞ」

「はい?」

 

 きょとん、と目を丸くしながら、彼女が首を傾げた。

 

「な、何で……」

「担当してるからに決まってるだろ。お前が行かなかったら、俺も行かない」

「んなこと言ったって……せや、チームの方はどうすんねん。アンタがおらんかったら困るんちゃうん?」

「そんな一枚岩の運営はしてない」

 

 確かにこのチームの主導は俺だが、かといって俺がいないと何も機能しないわけではない。俺がいなくても他のチームと合同で練習したり、俺がいないとトレーニングができないような指導もしていないはず。もしそれでも最悪の場合、今からでも代理を立てればいい話だ。

 ただまあ、他の面子に悪いとは思う。

 けれど、それ以上に彼女のことを心配していると言われれば、そうだった。

 

「話は俺から通しておく。今後の予定は後々決めていこうか」

「……かなわんなあ、トレーナーには」

「俺は、俺にできることをしてるだけだ」

 

 そうすることでしか、俺は君たちと向き合えないのだから。

 

 

 それからいくらかの時間が経ち、生徒のほとんどが合宿へと向かった日の朝。

 

「おはようさん」

「ああ、おはよう」

 

 閑散としたレース場の一角で、俺とタマモクロスはそう言葉を交わした。

 

「……誰もおらへんなあ」

「その方が走りやすいと思って」

「思って、って……まさか、ジュニア級の連中差し置いて、貸し切ったとか言わへんやろな?」

「正直、こんな申請が通るとは思ってなかった。僥倖だったな」

 

 記録用のボードを用意しながら呟いた言葉に、タマモクロスが息を吐く。

 何か不満か、と俺が口にする前に、彼女は呆れたように呟いた。

 

「時々、アンタがとんでもない大物に見えてくるわ」

「どういう意味だ?」

 

 結局、俺の問いかけに答えることなく、タマモクロスがウォームアップを始める。

 聴いたことは、すぐに答えてくれるはずだったんだが。

 

「メニューはどうするん?」

「この前に相談して決めた、専用のメニューを。……覚えてるよな?」

「当たり前や。そこまでボケてへんで、ウチは」

「それと、一つだけ」

「何や?」

 

 そこで一度周囲を確認し、人の気配がないことを確認してから、続ける。

 

「今日は夜まで貸し切ってるから、ここに人は誰も来ない……だからこそ、起こらないかもしれないが」

「おう」

「いつもみたいになったら、すぐに来い。俺はずっとここにいるから」

「……そか」

 

 告げると、彼女は力の抜けたような、どこか情けない笑みを浮かべていた。

 

 

「聞いた限りでは、閉所恐怖症(クラウストロフォビア)に近い気もするね」

 

 八月に入り、太陽の暑さも本格的になってきたころ。

 旧理科準備室に訪れた俺に、いくつかの資料を広げたアグネスタキオンがそう告げた。

 

「……ウマ娘として答えてくれ。菊花賞までに治ると思うか?」

「投薬を続ければあるいは、といったところかな。その後が怖いけど」

 

 恐怖症の治療方法には主に、精神療法と薬物療法の二つがある。前者はカウンセリングなどを受けて時間をかけることによって根本からの治療を目的とした療法だが、何よりも時間がかかる。後者は投薬によって一時的に症状を抑えるため時間はそこまでかからないが、根本的な原因の治療にはならない。その上、恐怖症の症状が抑えられる――つまるところ、怯えなくてもよくなるため、精神的な依存になってしまう可能性も存在する。

 危険な選択だと思う。一生、彼女に付き纏う問題になるかもしれない。

 ……何とか、ならないものか。

 

「何の参考にもならないと思うけど、私がタマモクロス君だったら菊花賞は諦めるよ」

「……いや、それが正しいのだと思う」

「では、そのように伝えればいいじゃないか」

「それができたら、俺は今ここにいない」

「難儀だねぇ、君も」

 

 くすり、と彼女が笑う。何度もされた笑い方だった。

 

「何とかできないか?」

「できたら、ここまで長ったらしく君と会話はしていないさ」

「……そうか」

 

 顔を落とす俺に、彼女が語り掛ける。

 

「しかし、君が担当するウマ娘はロクなことにならないね」

「……すまない」

「揶揄しているつもりはないんだよ。恨んでも……ない、というと嘘になるが」

 

 それでも、こうして俺と顔を合わせてくれるのは、彼女が優しいからなのだろう。

 不甲斐ない。今すぐにここから逃げ出したくなるような、そんな情けない気分になる。

 そうして口を噤んだままの俺へ、彼女はまた、あの時のように笑いかけて、

 

「とにかく、賢い選択をしたまえ」

「ああ」

「何事も焦らず、確実な判断を。今、大事なものが何かきちんと見極めるんだ」

 

 そうしてアグネスタキオンは、スカートを少しだけ捲って、

 

「でないと君は、また私のようなウマ娘を生むことになるよ」

 

 矯正器具を嵌めた左脚を撫でながら、そう告げた。

 

 

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