閉所恐怖症モクロス   作:宇宮 祐樹

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「……なるほど」

 

 レースが始まってすぐ、第一コーナーに差し掛かったところ。

 動き始めたアグネスタキオンとオグリキャップを見て、思わず呟く。

 完全にタマモクロスのことを塞いでいる。彼女との距離もさながら、互いの距離覚も、ちょうどタマモクロスが一人通れそうな幅をキープし続けていた。負傷した脚でその状況を作り出しているアグネスタキオンもそうだが、何よりも事情を聴かされていないにも関わらず、彼女の指示通り寸分の狂いもなく動いているオグリキャップに驚いた。

 実のところ、近くで彼女の走りを見たのはこれが初めてだった。流石はあのタマモクロスが友人であり戦友、と称するだけのことはある。

 ……舞台は整えられた。後は、タマモクロスが勝負できるかどうか、だが。

 

「ハァ……っ、クソ……!」

 

 そんな掠れた声が聞こえてきそうなほど、走っている彼女の表情はやつれていた。

 息遣いにも乱れが見えるし、フォームもブレている。勢いにもムラが出てきて、コース取りもふらふらと覚束ない。言いたくはないが、やはりいつも通り怯えてしまっているようだった。

 ……無理もない、か。

 結局、こうして舞台を整えたり、賭けをしたところで、何かが変わるわけでもないのだ。

 やはり、彼女の言う通りその時を待っていた方が良かったのかもしれない。こうして無理やり走らせて、彼女を追い詰める必要なんて、どこにもなかった。今、彼女を苦しませているのは他でもない俺なんだ。そんな俺に、彼女のトレーナーなど勤まるはずもない。そう考えると、彼女が負けた時に俺が実家に帰ることは、いいことのように思えた。それが一番、彼女が楽になれる方法だと信じられた。

 

「……もう、いいんだ」

 

 憧れと言えばそうだし、押しつけと言えばそうだった。

 彼女の傍に居れば変われるかもしれないと、俺は信じ続けていた。

 悪いのは俺なんだ。全て、俺が勝手に託したことなんだ。

 いっそのこと、振り払ってくれればよかった。鬱陶しく思って、棄ててくれればよかった。

 そうすれば、お前はこんなに苦しまずに済んだはずだ。

 

 だから、どうか。

 そんな勇気に満ち溢れた目で、俺のことを見ないでくれ。

 

「――うぉぉおお!」

 

 視線が交錯したのは、ほんの一瞬だった。気のせい、とも思えるようなわずかな時間だった。ともすればそれは偶然で、ただ彼女が視線を動かした先に、俺がいただけなのかもしれない。

 けれど彼女の叫びは確かに、俺の耳に届いていた。

 姿勢を低く。地面を踏み抜くように力を込めて、彼女がスパートをかける。

 視線は前を塞ぐ二人の間の、その先。見据えたその場所へタマモクロスは、大地を蹴って駆け出した。

 先に反応したのは、オグリキャップだった。先程まで変化のなかったその表情に、若干の焦りが滲んでいた。おそらくそれは、走法を変え、今まさに差し切らんとしているタマモクロスの(プレッシャー)によるものなのだろう。

 ……ああ、そうだ。()()だ。

 これが、俺が憧れたタマモクロスというウマ娘なんだ。

 

「はよ退けや、オグリ、タキオン(端くれ)! んなチンタラ走ってたら邪魔やねん!」

「……ッ、そうか! なら、もっとペースを上げないとな!」

「オグリ君?」

 

 ……まだ、加速するつもりなのか?

 などという俺とアグネスタキオンの疑問を吹き飛ばすように、オグリキャップがぐんぐんと速度を上げていく。そしてそれに追随するように、タマモクロスも加速を続けていく。その傍でアグネスタキオンはかなりペースを乱しながら、それでも流石と言うべきか、オグリキャップとの距離を保っていた。

 二人の間に肉薄し、機会を伺うタマモクロス。レースの運びは既に第四コーナーに突入し、最後の直線に差し掛かろうとしていた。

 そうしてコーナーから直線に戻ったところでふと、力尽きたのか――あるいは、もうその必要がないと悟ったのか、アグネスタキオンが外側へと身体を傾ける。

 今の彼女が、それを見逃すはずなどなかった。

 

「そこや!」

 

 ――白い稲妻。

 仰々しい二つ名だと思っていた。誇張し過ぎる彼女の性格故だと考えていた。

 けれど、今そこにいるのは紛れもなく。

 

「行ッけええぇぇぇえ――!」

 

 ――ターフを駆ける、純白の雷光だった。

 

 

 春になった。

 あれ以来、タマモクロスがバ群に怯えることはなくなった。それどころか、どれだけ前がバ群で塞がれていようとも、無理やりこじ開けて自分の道を作り出すような、そんな走りをするようになった。いかにも彼女らしい、力強い走り方だった。

 レースにも順調に復帰していった。流石にまだブランクはあるものの重賞では何度か入着し、日経賞では晴れて一着を獲得――春の天皇賞への優先出走権を得た。正直なところ復帰直後、とまでは言わないがブランクが残る彼女に3200メートルを走れるかは不安が残っていたが、ここまで来て退くことなど、あるわけがなかった。

 できる限りのことはした。最善を尽くしたつもりだ。これ以上の仕上がりは、ない。

 そして。

 

「……もういいか?」

「もうちょい」

 

 春の天皇賞、当日。控室にて。

 ゲート入りまであと十分もないというのに、タマモクロスはあの時のように俺へ体を預けていた。

 

「遅れるぞ」

「かまへんって。パパっと走ればすぐや」

「……間に合うなら、それでいいが」

 

 こんなにも我儘だっただろうか。我は強いが、聞き分け自体はよかったはずだ。

 というより、そもそも。

 

「もう、必要ないんじゃないのか?」

「何がや?」

「……この時間が」

「かも、しれへんなあ」

 

 そう答える彼女は、あの時のような力のない笑みでもなく、いつもの突き抜ける笑みでもなく。

 どこか安らぎを感じさせるような、柔らかい微笑みを浮かべていた。

 

「それとも、ウチとこうしてるのは嫌か?」

「……嫌では、ない」

「ならええやん」

 

 ただ。

 

「時間は守るべきだ」

「……せやな。またレースが終わってから、好きなだけすればええんやし」

 

 終わってからもするのか、という俺の質問を待つことなく、彼女が控室の扉を開ける。そして薄暗い通路が続く地下バ道へと差し掛かった時、本バ場へと続く境界線の手前に見えた人影へ、タマモクロスが声をかけた。

 

「おう、タキオン(端くれ)

「……やはり慣れないねえ、君のその呼び方は」

 

 頭を抱える彼女へ、タマモクロスが続ける。

 

「見送りに来てくれたんか?」

「意外かな?」

「んな人並みの感性あるとは思ってへんかったからな」

「少なくとも、君の隣に立っている彼よりはマトモだと思うけどね」

「それは言えてるわ」

 

 ……どういうことだ。

 なんて問いを口にする時間は当然なくて、タマモクロスとアグネスタキオンは会話を続ける。

 

「脚の調子は? また走れるようになるんか?」

「順調ではあるよ。ただ、やっぱりあの日のレースが響いたみたいだ」

「……すまんな。ウチのために」

「責任の所在はどちらかというとオグリ君にあるから、君が気に病むことはないさ」

「せや、オグリ! アイツは?」

「今もトレーニングしてるよ。君に勝つために」

「……そか」

 

 白い歯を見せる彼女はどこか恥ずかしそうで、それでいて満ち足りたものだった。

 やがて時間が迫る。タマモクロスの背中をぽん、と軽く叩くと、蒼色の瞳がこちらを向いた。

 

「時間か?」

「ああ」

 

 そうして差し出された小さな拳に、俺の拳をこつん、と合わせて。

 

「見せてくれ」

「……任しとき!」

 

 いつも通りの笑顔を浮かべながら、彼女はレース場へと続く道の一歩を踏み出した。

 

 

「その目にしっかり焼き付けたる! いつか、アンタが憧れたウチを――タマモクロス(白い稲妻)を!」

 

 

 

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