トレーナーとの距離が縮まらないスカイが絶望して……っていうおはなしです。
深海で睡る
長い夢から覚めて、黄昏。
目を開けると、見慣れたトレーナー室。
「……おはようございマス、トレーナーさん」
目を開けてすぐの景色に呼んだ人は居なかったけれど、トレーナーさんなら、
「スカイ、おはよう」
私が寝ている間、ずっとこの部屋に居てくれると知っていた。
身体の上には、身に覚えのない毛布。
(あぁ、優しいな)
体を起こして、トレーナーさんの方を向く。
ここから見える彼の顔はせいぜい横顔だ。
けれど、それが見えるだけで、心が温まるのは、私がトレーナーさんを好きだから。
伝わることの無いその感情に心の中身を攫われながら、空いた心を満たしたくて、彼が掛けてくれたであろう毛布に触れる。優しい手触りのそれは、縋るには頼りなくて、心を満たすことはなかった。
トレーナーさんはすぐ近くに居るのに、この心を満たしてくれと、私は言えない。
毛布の下で自分の膝に手を当てると、酷く熱を奪われた。
「ね、トレーナーさん、毛布、ありがとうございました」
冷えた体で毛布を持って、トレーナーさんに近づく。
「でもセイちゃん、少し体が冷えちゃったみたいですよ?こんな時はトレーナーさんにあっためて欲しいな〜☆」
自分から彼に触るのは少し気が引けて、そんな事を言ってみる。
「またそんなこと言って……」
そうトレーナーさんは笑ったけれど、私の事を温めてくれることはなかった。
あくまでトレーナーさんにとって私は、ただの担当ウマ娘でしかないのだろう。
心は貴方に奪われて、身体の熱も貴方の掛けた毛布に奪われてしまった。
(……それでもトレーナーさんは、私を満たしてくれないんだね)
空っぽの心と身体の私は、心の中でそう呟いた。
それからすぐに彼を見ていると少し苦しくなって、目を逸らす。その先にはトレーナー室の角、立て掛けられた釣竿が見えた。
(……最近、トレーナーさんと釣り、行ってないなぁ)
ふと浮かんだその発想を、トレーナーさんに聞いてみる。
「トレーナーさんトレーナーさん、今日、セイちゃんと一緒に、夜釣りに行きません?」
それを聞いたトレーナーさんは私を見て、
「うん、良いよ」
と、笑いながら答えてくれた。
彼の笑顔を見ながら私は。
(……触れたいな)
そう、静かに願った。
☆
「スカイと釣りをするのも、結構久しぶりだね」
夜風が吹き付ける海岸で、トレーナーさんはそう呟いた。
「そうですね〜、トレーナーさんと一緒だとよく釣れるから、セイちゃん、結構楽しみにしてるんですよ?」
簡易的なイスを長い堤防の上に立てながら、私は言う。
「そっか、安心したな」
静かな夜の中、カランカランと椅子が地面に当たる音が響く。
「というと?」
風が吹いて、軽く水面が揺れる。
「最近、釣りに誘ってくれなかったから」
空には雲が懸かって、切れ目から星空と月が見える。
「あー……」
痛いところをつかれた。最近のトレーナーさんは、誘うに誘えなかった。
いつも忙しそうで、口を挟めなくて。
だから今日、一緒に寝れたのは好機だと思った。セイちゃんが、トレーナーさんと距離を縮められる、またとないチャンスだと。
ただ、正直に理由を言えなくて、
「セイちゃん、こう見えても忙しいんですよー。でもでも、今日は一緒に来れてるし!だからほら、大丈夫ですよ」
いつものように、誤魔化してしまう。
この想いを見破って欲しいと思いつつ、見破られないように、海に向かって釣竿を振った。
それから後。
私は釣り糸を垂らしていた。
「釣れませんねー、トレーナーさん」
釣果ゼロ。水面に垂らされた釣り糸は、終ぞ動くことはなかった。
「そうだね……でも、もう少し続けるよね?」
トレーナーさんは、分かっている、と言うようにそう言った。
実際そうなのだけれど、それに気付くくらいなら、もっと他のことに気付いて欲しかったと思ってしまう。
「はい、釣れない時ほど、策を立てたくなっちゃうんですよね〜、トレーナーさんも、私のアドバイス、忘れたわけじゃないですよね?」
「うん、『魚より、釣りそのものを愛せ』」
「その通り!だから、もう少しこの場所で、どうやったら釣れるか、試してみたいんだ」
釣り糸を戻して、餌を変えてみる。
「トレーナーさん、私と一緒に寝て、どうでした?」
竿を振って、もう一度垂らしてみると、つんつんと、浮きが動いた。チラと横を見ると、トレーナーさんの驚く顔があった。
浮きが沈んで、魚が食いついた。
トレーナーさんは少し考える仕草をした後に、
「うん、スカイのおかげで安眠できたよ、ありがとう」
と返した。
気付いたら、魚は逃げていた。
「そうじゃなくって……セイちゃんと一緒に寝て、なんかこう……感じることとか無かったんですか?」
どれだけやっても、釣れそうになくて。
ついに、聞いてしまった。
「感じることって……」
トレーナーさんは戸惑いを見せた後、私に聞いた。
「なんで、そんな事聞くの?」
「なんでって、そりゃ……」
トレーナーさんのことが、好きだからですよ。
そう、呟いたのが、トレーナーさんにも届いてしまった。
「あはは、ありがとう、スカイ」
トレーナーさんは取り乱しもしないで、
「でももう、スカイの発言には慌てないよ、私は、スカイのトレーナーだからね」
と答えた。
その瞬間、何かにヒビが入った気がした。
トレーナーさんは、続けた。
「……でも「私、釣り場、探してみますね〜」
けれどもう、それ以上は聞くのが怖くて。
逃げるように、その場を離れた。
「……はぁ」
砂浜に、足跡を付けていく。
こんな事しても、意味ないのに。
(私はスカイのトレーナーだから……かぁ)
その通りだ。その通りだけど、その言葉が、どうしても辛かった。
空を見ると、月を隠すように雲がかかっていた。
……もうぜんぶ、どうでもよくなってしまった。
がむしゃらにやるきも、全部なくなってしまった。
そんな時、音が聞こえた方に視線を投げると、海岸に打ち寄せる波が見えた。
ふらふらと、引き寄せられる様に。餌に吸い付く魚のように、私はそこに歩いていった。
パシャン、という音と共に、私の足は海水に濡れた。
けれど気にせず、更に歩く。
「冷っ」
下半身が浸かってすぐ。氷を当てられたような感覚に咄嗟に声が漏れた。
自分の周りで揺れる波を見ながら、より深い海に向かって歩き始める。
不安も、怖さも無い。
(死ぬのも……怖く、ない)
砂浜に向かって進む波に逆らって一歩進む。お腹が水に浸かった。
返す波に押されて一歩進む。心臓が海に飲み込まれそうな程に深いところまで来た。
片足を前に出すと、足は地面に触れなかった。
きっと、次に進めば、私は溺れて、泡になる。
最期の景色に海を見ようとしたけれど、黒い波に映る自分の顔があまりに見れたものじゃなくて、最期に見るものは夜空にした。
輝く星が、暗くなった自分を笑っているような気がした。
(……おやすみ、トレーナーさん)
最後に大きく息を吸って、私は一歩踏み出した。
ゆっくり、けれど確実に堕ちていく。その先の景色は、目を瞑ったから分からない。ただ、少しずつ胸が締まる感覚と、肌に触れる水が、体の熱を容赦なく奪っていく感覚だけが、一人きりの世界の中に生まれている。
これから私は、命も何もかもを、この海に置いていく。
そう思うと、夜空も、魚も、波が大きく揺れた音も。全部気にならなくなっていった。
暗闇の中で、不意に髪が自由になる感覚。
(……アレは、着けたままが良かったなぁ)
手探りで、外れた菊の髪飾りを取ろうとしたけれど、手が伸びなくて無理だと悟る。
声も、脚も、故郷も、全部失っても良かった。
でも、例えそうした所で、彼は私を見てくれないと、思ったんだ。
だから、諦めた。もう、トレーナーさんが私に振り向いてくれることはないと、見限って逃げた。
それでも、最後には。
(トレーナーさんに、触れたかったな)
そう願って、堕ちた。
ゴポゴポッ
……堕ちた先で、泡の音が聞こえた。
人魚姫の様に、私も泡になって消えていくのだろうか。
それはただの、泡の音。
最初は、自分が本当に泡になっていると思った。
でも、その泡の音が、酷く恋しく感じて。
ただ泡が立ち上る音が。
どうしようもなく私を呼ぶ声に聞こえて。
わけも分からず、目を開けた。
写った視界に、彼が居た。
(トレーナー……さん)
瞬間、動かないと思っていた体が、勝手に手を伸ばして。
冷たいだけの海の中、必死に伸ばした手が、確かに暖かくなったのを感じた。
★
目を開けて入ってきたのは、雲の切れ間から顔を出す月。砂浜の上で大の字になっているという自分の状況に気付く。
そして、服も髪も重たくなっていて、さっきまでの光景が夢ではなかったことを示す。
重たくなった上体を上げて辺りを見渡すと、同じく服を水浸しにして、落ち着かない様子のトレーナーさんが見えた。
その視線に気付いたトレーナーさんが、驚きと安堵の表情でこちらに視線を返した。
彼がこちらに駆け寄るのを見て、私も立ち上がる。けれど。
「スカイ!無事で良かっ」
私は彼の言葉も意に介さず、近づいてきた彼の服をギュッと掴んで、反射的に声を発していた。
「……なんで」
「なんで私を……助けたのっ……」
訪れる静寂。握っている彼の服から染み出た海水が、私の手に流れた。
顔を見られたくなくて、彼の服に頭を当てながら俯いた。
私は、大嘘つきだ。
死ぬのが怖くないなんて、嘘だった。
本当は、知っていた。
私は。
彼なら助けてくれると、分かって逃げたのに。
……助けて欲しいと、求めて、溺れたのに。
出てきた言葉は、そんな言葉。
せき止められていた思いが溢れ出すように、口から全部流れ出る。
「助けてもらっても……助けてもらっても意味なんてないのに」
空っぽになったはずの心が苦しくて堪らない。口から零れる言葉が鎖になって、縛り付けるように。
「何言って」
「だって!!!」
服越しに、彼の肩がビクッと震えたのが分かった。
「トレーナーさんは……『私のトレーナー』だから、助けたんでしょ……」
言葉を吐き出す度に、ナイフで刺された様な激痛が走る。痛むのは、水に侵された肺じゃない。海に落としてきた、私の心が痛みに叫んでいるのが分かった。
けれど、いくら胸に刺さる痛みがあっても、それは止まらなかった。
「それじゃ、ダメなんだよ……」
トレーナーさんは何も言わず、ただ私の言葉を待ってくれている。望む言葉が出せないと分かっていても、それは零れた。
「ずっと……ずっと試してきた。どうやったら釣れるかって」
釣れなくても、エサを変えて、もう一度釣り糸を垂らして。浮きが動いて、沈んでも、逃がして。
「でも、釣れなかった。だけど私は諦めないで、もっともっと色々試せば、いつかは釣れるって、思ったんだ。でも」
釣りじゃ、釣れなくても意味があるって、知ってた。
レースでも、勝っても負けても、意味があった。
諦めそうになった時でも、それには意味があると、トレーナーさんは教えてくれた。
でも、今はもう。
「意味……なかったんだよ」
担当ウマ娘とトレーナー。その距離が、ずっと縮まらないことに、気付いてしまった。
「いつまで経っても、釣れないって、分かったんだ」
全部、意味は無くて。
「ねぇ、トレーナーさん。意味……ないんだよ」
それでも。
想いが、溢れて。
「トレーナーさんが、私を見てくれなきゃ……意味が、ないんだよ……」
涙が、溢れた。
既に濡れた彼の服を、私が濡らしていく。
意味を成さない嗚咽と共に、私は彼に縋り付いた。
何も言わずに背中を優しく叩くトレーナーさんの手が、私をもっと絆していって。
空の心を満たす様に、泣き続けた。
……一体、いつまでこうしていただろう。
私の声が落ち着いた頃、トレーナーさんが、静かに声を発した。
「……ありがとう、スカイ」
なんで感謝されたのか分からない私を置いて、トレーナーさんは続ける。
「私はスカイに、魅せられたんだ」
今度は私が、何も言わずに聞き始めた。
「そりゃ、担当契約を結んだ時は驚いたけどさ……でも、君が走るレースを見る度に、次も君を勝たせたいって、何度も思った」
「『君のトレーナー』として、もっと頑張らないと。……そう、思ってたんだ」
思ってたんだけどね、とトレーナーさんは自嘲気味に笑う。
「それが全部間違いだったなんて、思ってない。でも、その考えが君を傷付けていたんだね」
酷く後悔が滲んだ声で、トレーナーさんはそう言った。
「スカイ、ごめんね。私はスカイに、酷いことを言った。私は君のトレーナーだから、なんて」
謝るのは、私の方なのに、彼はそう言う。
「でも」
「あの時、スカイは直ぐにどこかへ行ってしまったけれど、実はね、言いそびれた事があったんだ。『でも、その気持ちが本当なら』」
トレーナーさんは、少し間を置いて、
「……『凄く嬉しい』って」
そう、言った。
私は咄嗟に顔を上げる。その時見えた彼の顔は、とても辛そうだった。
「だけど、そんなはずないって決めつけて」
「ずっと、向き合おうとしてなかったんだ」
彼は目を閉じて、顔を上げた。
「もっと、向き合えば良かった。君を、信じてあげられれば……」
声が震えていた。目尻から涙が流れているのが、ここからでも見えた。
こんな時でも自分が泣くべきではないと、そう思っているんだ。
トレーナーさんの優しさを知っているから、私も言葉が出た。
「私もですよ、トレーナーさん」
今度は、正直者の私で。
「私も、トレーナーさんがもう私を見てくれる事はないって決めつけて、逃げたんだ。ちゃんと気持ちを伝えて、トレーナーさんと向き合えば良かったのに」
トレーナーさんから離れると、彼はもう一度顔をこちらに向けた。
私は、それに応えるように。
ひどく不恰好でも、精一杯の笑顔を見せて。
「これで、おあいこですね」
そう言って、笑った。
「うん、そうだね」
トレーナーさんも、不格好に笑った。
全身びしょ濡れで、涙で目を腫らして。不格好な笑顔を見せて、二人で笑っている。
何だか二人が本当に正直になれた気がして、それだけで良かった。
「……そうだ、スカイ」
トレーナーさんは優しい目で、優しい声で、私を呼んだ。
「なんですか?」
「これを」
そう言って、トレーナーさんはポケットから何かを取り出して私に見せる。
「えっ……」
目を疑った。
トレーナーさんの手に乗っている、それは。
「私の……髪飾り」
菊の花があしらわれた、髪飾り。
「君を助けた時に、コレも取っておいたんだ。大切な物だと、思ったから」
ああ。
この人は、私の命だけじゃなくて、心も拾ってくれていたみたいだ。
トレーナーさんに向かって、駆け寄った。トレーナーさんは、拒まなかった。
優しく私を抱きしめて、そのまま髪飾りを、私の髪に留めてくれた。
「トレーナーさん」
抱きしめられながら、私は彼を呼ぶ。
「……『好き』です」
今度はちゃんと、彼に伝えた。
「ありがとう、スカイ」
私は、また嘘をついた。
好きなんかじゃない。
本当はもっと。
でも、トレーナーは全部分かっていると言うように。
「……私も、『大好き』だよ、スカイ」
そう、言った。
あぁ、私は泡にはなれなさそうだ。
「うん……私も、『大好き』ですよ、トレーナーさん」
空を見ると雲はいつの間にか消えていて、満天の星空が私たちを照らしていた。
二人きりの海岸で、正直者は確かに。
満たされて、救われていた。