鴨川の東岸、北白川に隅立て四つ目の旗が翻っていた。
管領・細川晴元の処遇に対し、抗議をした承禎様は2万の兵を動員して鴨川を越える機会を伺っている。
未来で京の北白川といえばラーメンが有名だが、この時代ではたびたびこの地で鴨川を挟んで京の争奪戦が行われた。
「永原重澄は将軍山城へ入れ。わしは麓の神楽岡に布陣する。義治、義定、高村、蒲生家も神楽岡に参れ」
どうやら俺も神楽岡に布陣することになった。将の質的に考えれば、永原殿は大身とはいえ、戦は強くないから補給線を確保する役割だろう。
瓜生山を丸ごと城に仕立て上げた将軍山城は比較的堅く、平野で負けてもこの城に篭れば、時期を図ることができる。
(とはいえ、長期戦は臨むところではない。かつてとは違い、長政が六角の後背を脅かす存在としている)
承禎様の戦略は何がなんでも、勝つために粘ることだろう。
それだけ、此度の六角は勝ちを熱望していた。
「なぁ山岡殿、西岸に詰めている三好軍に誰が来ているんだ? 十河一存はもう死んだが、京の守りだ。生半な相手ではないんだろう?」
隣に座していた山岡殿に問う。
山岡殿……山岡景隆は南近江の西端の瀬田に所領を持ち、地勢上生き残るために細川や三好の京都勢力と六角の間を渡り歩いてきた経歴を持つ。
そのため、彼女は動向を気にされながらも六角家随一の事情通として重宝されていた。
「敵の総大将は長慶の幼少の弟の三好義興ってことになっておりますが、高村殿より幼い。事実上の総大将は松永久秀と見て間違いありません」
「あの戦国の梟雄が相手か……」
松永久秀。その名は流石に俺でも身構えざるを得ない。
今はまだ三好の家臣だが、のちに三好に下克上した上で東大寺の大仏を焼き、挙句の果てには将軍の足利義輝まで殺した稀代の悪人である。
長政も名将だが、松永久秀の得体の知れなさにはまだ及ばない。
この時点で、この戦が真っ当な戦いになるとは思えなかった。
*
案の定、俺の予想は当たった。
北白川に布陣してから一月が経った頃、北と西から敵軍来襲の狼煙が上がった。
西の軍は三好義興が率いており共に在陣していた細川の軍を攻め、北の松永久秀は将軍山城を突いてくる。
それを受けて承禎様は
「総兵数では三好が1万4千、六角は2万。兵の数では我らが勝っておる。そのまま迎え撃ち、追い返せ」
と俺たちに命じたが、数で戦が決まるほど甘くはなかった。
義興の軍が思ったより強く、細川の軍は瞬く間に壊滅。
松永久秀は永原殿を討ち、将軍山城を突破し神楽岡へと迫っていた。
「思ったよりも六角兵、弱いな。また防戦一方じゃないか」
「そんな軽口を叩けるほど、六角軍に余裕はないよ。新十郎は北をお願い」
義定と別れ、俺は北の将軍山城を目指した。
比較的元気な神楽岡にいた軍は今や四方に散って戦線の補修に励んでいる。
義治様は西に行き三好義興の軍と対峙し、蒲生殿は将軍山城から敗走してきた兵の収容。俺は北の松永久秀の迎撃。義定は弓隊主体のため、遊撃をして四方を援護する立ち回りを選んだ。
北の戦線は将軍山城の麓の平野で、松永軍とは半ば偶発的に対峙した。
参戦している兵の内訳としては、松永隊が1万。俺の隊が騎馬2千と、氏郷の3千。数でも2倍の差をつけられており、承禎様が言っていた数の有利はとっくのとうに失われてしまっていた。
「こうなってしまっては真っ当に戦ったら終わる。縦横無尽に動き、兵の力点を分散させなくてはならないな」
向かってくる松永軍の前に氏郷の三千を置いて堰き止めてから、左右から騎馬で攻め立てる。別に包囲を目的にしているわけではない、ひたすらに遊撃を繰り返すことで松永軍を疲弊させることが目的だった。
まあ、中から散らすか外から散らすかという違いだけで、野良田の戦いの初日とやりたいことは変わらない。
そんな具合にちくちく攻め立てては逃げるヒットアンドアウェイ戦法を繰り返していたところ、ついに大物がかかった。
「ふふ、煩わしい蝿ですこと」
後背から異相の姫武将が迫ってくる。
年は三十になるかならないかぐらいだろう。
日の本らしからぬ彫りの深さと褐色の肌。装束は日の本の鎧でも、さりとて南蛮風でもない。強いていうならチャイナドレス風の赤い服。
右手に十文字槍が握られていて、一振り二振りでこちらの騎兵を打ち落としていた。
「敵将、こちらに向かって来ております。どうなされますか?」
隣で走る紀之介が問うてくる。どうやら並々ならぬ使い手らしい。俺が出なければ蹂躙を許し、貴重な精兵が失われるだろう。後のことを考えると、それは避けたい。
「俺が出る。いざという時の軍の差配はお前に託すぞ、紀之介。まだ元服はしていないが、お前の才幹なら山岡殿の補佐さえあれば問題ない」
決断した俺は采配を紀之介に預けて馬首を翻し、件の姫武将に向き直る。
鼻につくのは、白檀の香り。いや、そんな生優しいものではない。
数多の戦場を潜り抜けた末に得たのだろう、死の匂いと完成した強烈な女の色香。
畿内でこんな匂い立つ気配を漂わせることが出来そうな武将を俺は一人しか知らない。
「松永久秀か」
俺が問うと彼女は「いかにも」と嫋やかに笑った。
「貴方が六角高村殿ですね。聞きしに勝る武者ぶりですこと。されど、我が主の御為に討たせていただきますわ」
「かの松永久秀公にそう言って頂けるとは光栄の限り。だが、そう易々と討てると思わないでもらおうかっ!」
口上を垂れ流した後、馬を駆けさせる。
膂力ならまず負けないだろう。俺はそう判断して馳せ違いざまに斬り捨てようとした。
しかし、手応えは思いのほか固い。十文字槍の穂先でがっちり受け止められていた。
「槍は宝蔵院流。受け、突き、払い、斬り……おおよその武器の精粋を束ねたこの流派。極めれば、誰よりも自在に戦さ場を舞うことが叶いますわ」
妖艶に笑う久秀に刀を弾かれる。流派の技かもしれないが、そもそも前提としてある程度の膂力は要る。やはり、松永久秀は嫋やかな見た目には似合わない曲者だった。
(こいつも長期戦になりそうな相手だな……)
俺はこめかみに、じとりと汗が滲んでいくのを感じた。