「私にこんな大役務まるかなぁ……」
石山寺の坊の中で、大谷紀之介は不安に苛まれていた。
今、紀之介は千の兵を率いている。元服してはいないながらも、高村の側仕えとして彼を補佐してきたことを評価されたがゆえの人事だった。
『これだけの大仕掛けをやる以上、俺は流石に瀬田城に詰めて全体を把握しなくてはならない。だから、西岸の主力は氏郷とお前に任せるほかない』
開戦前に高村が言っていたことが脳裏を過ぎる。
そうなのだ、此度の戦は氏郷とこの大谷紀之介が大勢を決する役目にある。
すでに東岸に入り込んだ小笠原軍は撃滅された。高村と義定は余勢を駆って西岸へ行軍している、兵数は八百程度。戦況を変えられるだけの力はない。
「行くしかないけれど……」
眼下の河原では橋を落とされた三好軍が右往左往し、横っ腹を晒している。石山寺から降りて強襲を仕掛ければ、大打撃を与えられることだろう。
けれども、その数は1万は超えている。彼我の戦力差は3倍はあり、その数が紀之介の足を竦ませていた。
「蒲生氏郷隊! かかれ!」
逡巡している間に、先鋒の壊乱に動揺した三好軍を叩くべく蒲生隊が石山寺を降りた音が聴こえる。
「私にも、氏郷殿のような勇気があれば……」
迷いなく進める氏郷を紀之介は羨ましく思った。
もっとも、この場に高村がいたならば「あいつはただ目立ちたいだけだ」と苦笑いをする類の蛮勇であるのだが。
「気落ちなさるな、紀之介殿。その方には勇はなくとも義がある。違うかな?」
「そうですね、私は義を以ってこの戦に立っている。働きで救っていただいた恩義を返さねば……」
与力につけられた湯浅五助に促されて、紀之介は前を向く。
高村とは学び舎の時から一緒だった。二つ上の兄貴分として紀之介を引っ張ってきてくれた。時が経ち、野良田の戦いで父が死んだときは義定と協力して母子共に義賢の魔手から助け、屋敷に置いてくれている。
思えば、高村には何かを貰ってばかりで何も返せてはいなかったのだ。
「励ましてくれてありがとう、湯浅殿。……では、向かいますね」
傍らの采配を掲げ、紀之介は進撃を開始する。
蒲生軍に遅れこそ取ったものの、その勢いは遜色ないものだった。
*
石山の三好軍は総崩れとなっていた。
突出した小笠原長時はすでにその隊を失い、彼に続いた三好軍は蒲生氏郷と大谷紀之介に追い立てられて瀬田川を枕に討ち死にしていった。
「六角新十郎高村……! 傑出した騎馬武者だとは思っていたが、ここまでの戦術巧者だとは思わなかった……!」
馬上で三好義興は悔恨する。
義興の隊は北は琵琶湖、東は瀬田川、西南に蒲生隊と大谷隊に囲まれていた。
(石山寺を利用した中入り。北を琵琶湖に阻まれた石山の地ならば、瀬田の唐橋を落とし、南から強襲をかけて西を軍で防げば容易く包囲が成立する……!)
寡兵で大軍を討ち、かつのちに近江を駆けるための余力を残す。
高村はこの難題を地形を活かし、敵軍の勢いを削いだのちに包囲するという形で対応した。
「義興様、お逃げを」
家臣に守られながら、義興は後退する。
なんとしてでも姉の長慶が待つ膳所に戻らなくてはならなかった。
(義賢様も一存様ももういない。この二人を喪われてからというものの、姉上の笑顔は少なくなった。この上、僕まで討たれてしまえば、姉上は最早笑うことはないだろう)
家臣が討たれゆくのに心を痛めながらも義興は完全に大勢が決した戦場を駆け続けた。
しかし、悲しいかな。
義興は、三好家は惨たらしいほどに天の時に恵まれていなかった。
必死に逃げる彼の進路を数百の騎兵が阻んだ。
「三好義興殿とお見受け致しまする。その首、獲らせていただきますね」
群勢の先頭に立つ姫武将が会釈をする。
腰まで長くほどの栗色の長髪にあどけないながらも整った顔立ち。
これだけの修羅場であるというのに、その艶やかな装束には泥一つすらついてないこともあり、彼女の姿はいよいよ浮世離れしていた。
「六角義定か」
義興が問いかけると、義定は微笑む。
その笑みは義興が見た誰よりも美しかった。
(長時が姫武将に溺れるのも分かるかもしれない。血と泥にまみれた戦場の中にあっては彼女達は何よりも輝いて見えるのだから)
見惚れているばかりではいけない、そう思い直して義興は刀を構えて駆ける。
しかし、彼の意識が保ったのはそこまでだった。
ドスっと頭蓋を射抜かれた感覚に、視界を染める鮮血。馬上から落ちた時の背中の痛み。
それが、義興が最後に感じたものであった。
(……姉上、申し訳ございません。よもや、僕まで貴女を置いていくことになるとは……)
*
石山から少し離れた膳所で長慶は石山で起きている事態を聞いていた。
第一陣は壊滅し、第二陣は逃亡兵を多く出しながら壊走。
三好義興は六角義定に討ち取られ、安宅冬康は退却の陣頭指揮を取っている際に狙撃されて命を落としている。
僅か3時間の間にこれだけのことが起きてしまっては流石の長慶でも手の施しようがなかった。
「悪いことは言わねえ、長慶ちゃん! もう戦の大勢は決した! 兵はまだこっちの方が多いが士気が完全に地に落ちてやがる! 悔しいだろうが、もう退くしかねえ!」
逃げ帰ってきた小笠原長時が地に這いつくばって具申する。
逃げに徹していた長時ですら、血と泥にまみれていた。それだけでもこの戦の惨たらしさが長慶にもわかった。
だが、彼でもまだマシな方である。第一陣、第二陣に参加した将の中で名のある者は長時しか膳所に戻れていなかった。
「そう、だな。……もう完全に時期は逸している」
長時の進言に長慶は首を縦に振る。
しかし、最早その表情に生気はなかった。
(……私は復讐のために、畿内をさらなる戦乱に引き込んだ……。私なりに責任を取ったつもりだが、これが御仏の出された答えなのだろうか)
いよいよ残された弟妹の安宅冬康と三好義興までもを失った長慶の心はこの時、完全に折れた。
長慶は高村たちに追い立てられながら山科を越えて京に帰還するも、最早軍を起こせる力はなく逼塞することになる。少なくとも天下への道は閉ざされることとなった。
対して高村は動員した四千の兵のうち二割の八百を失い、虎の子の騎兵隊に至っては十人ほどしか失わなかった。
損失が全体の二割というのは、そこそこの痛手ではあるが相手のことを考えると大戦果と言える。充分、六角領に転戦するだけの余力を確保していた。
高村が孤軍奮闘し三好長慶の進撃を止めて畿内の情勢を変えたこの戦は後世に『石山崩れ』と呼ばれることになる。
だが、高村の戦は終わらない。
「これで、三好はしばらく口を出しては来ないだろう。皆、次は日野に行くぞ。包囲する義治と浅井軍を討ち、承禎様と定秀殿を救うのだ」
むしろ、この石山崩れを制さねばスタートラインにすら立てなかったのだ。
勝利の余韻に浸ることなく、高村一党は東進を開始した。