行きは良い良い、帰りは怖い。
滝川一益の北伊勢攻略戦はおおよそ上記の通りだった。
行きはすすきの穂のように簡単に靡いた北伊勢諸将のおかげで亀山まであっさりたどり着いたが、帰りはそのことごとくが討たれた後か六角に靡いていた。
高村が『一益隊の兜首を二つ献じてくれたならば、所領を半分安堵。四つ献じてくれたならば全て安堵しよう』という趣旨の書状を北伊勢の諸将に送りつけていたことも作用した。
一益は長い北伊勢からの帰り道を、北伊勢の諸将に襲われながら退かなくてはならなかったのである。
「はぁ、はぁ……。まったくキリがないのう……」
肩で息をしながら、一益は殿で種子島を敵軍に打ち込んでいた。
離反した北伊勢の諸将がめいめいに一益隊を襲い、それを退けて一益隊は後退。されど、その退いた先にもまた別の裏切った諸将が殺到する。
襲いかかってくる兵の数は多くても三百ぐらいで追い返すことは造作もない。だが、その頻度があまりに高く、すでに八回ほど襲撃を受けている。
「弾薬庫を奪われたせいで種子島もケチらねばならぬし、こんな戦はもう嫌なのじゃ……」
倉亭の戦いで袁紹が味わった十面埋伏の計を簡易的に再現した高村の策で滝川軍には疲労と厭戦感が蔓延していた。
「この川を渡れば、赤堀はもうすぐじゃ……」
その空気にも耐え、なんとか滝川隊は河原田にたどり着く。
「あと、もうすぐで尾張に帰れるみゃあっ!」
敗走の終わりを感じた尾張兵の一人が意気揚々と川を渡ろうとする。
しかし、彼は対岸にたどり着くことはなかった。
ひゅるひゅると、北岸から鏑矢の鳴る音が辺りに響く。すると、矢の雨が渡河する滝川軍の頭上に降り注ぐ。
その惨状を見て、滝川一益はようやく理解した。
「伏せておったのじゃなっ……! 六角高村っ!」
らしくなく、犬歯を剥き出しにして唸る。
うまくやったつもりだったが、どうやら自分は袋の鼠だったらしい。
そのことが一益にとっては口惜しくて仕方がなかった。
*
亀山合戦で滝川一益を退かせた後、俺は東進を指示した。滝川一益への追撃という意味合いもあるが、それ以上に北伊勢の諸将への示威行為が目的だ。
「嘉明、二手に分かれて北伊勢の諸将を攻めつつ、赤堀を目指すぞ」
赤堀はおおよそ現在の四日市にあたる。ここを治める赤堀氏が四日に市を開いたから四日市という地名になるのだが、今はまだ地名としては確立していなかった。
「承知しました。くれぐれもお気をつけを」
「そっちこそ、昨日の手柄に浮かれて軽挙妄動をするなよ? 俺以外に騎兵を預けられるのは現状ではお前しかいないからな」
軽口を叩きながら、嘉明と別れる。
本当は一軍のままで進みたかったのだが、いかんせん北伊勢は諸将が乱立し過ぎているため、丹念に潰していては最終的に赤堀を抑えて滝川軍の退路を塞ぐ目論見は潰えてしまうだろう。
「北勢四十八家、か。せめて十八家ぐらいには減らしたいな。あんまりにもまとまりがなさすぎるぞ」
だから、滝川一益の侵攻を機に俺は北伊勢の勢力を完全にこちら側に染め上げるつもりでいる。
織田の侵攻は迷惑極まりなかったが、不穏分子の炙り出しという意味ではありがたかった。
*
滝川軍は完全に死地の中にいた。
河原田はちょうど西から流れてきた二つの河川が合流する場所にある。
一益たちは北側の川を渡河して赤堀に向かおうとしたのだが、義定の弓隊に射竦められていた。
さりとて、西側に迂回して渡ろうにも亀山からずっと追いかけてきた北伊勢の諸将が陣取って動けない。
東南は河川に阻まれており、滝川軍は完全に包囲されていた。
「ここで織田軍を倒す! 射て!」
義定が号令をかけ、再度渡河中の織田軍に矢の雨が降りかかる。それを滝川軍が阻止する術はない。川の中ではさしもの種子島も無用の長物だった。
種子島と弓。武具の違いはあれど一益と義定ほど洛東で飛び道具の扱いに優れた者はいない。
だから、一方的に射掛けられること、そのような状況に整えられることの恐ろしさを何より一益自身が理解していた。
(このままでは、ここで全滅は免れぬ。やはり、西の北伊勢諸将を強行突破して西のどこかから渡るしかないのかの? じゃが、それをやるにしては兵が足りぬ)
度重なる襲撃と離反で滝川軍の兵数は二千にまで減っていた。西の北伊勢諸将は烏合の衆といえど二千。北に陣取る六角は五千はいるだろう。
西が弱いが、さりとて高村の書状で尻を叩かれているため戦闘意欲は高い。下手に攻めると滝川軍の戦力が枯渇し、北を突破するだけの余力がなくなる可能性があった。
(これは、無理じゃの……)
一益の目に諦めが宿り始める。最悪、軍を見捨てれば自分は助かるだろう。自身には単騎で逃げるだけの余力も技術もある。
(しかし、そこまでして生き延びてどうするというのじゃ? また、惨めに逃げ暮らすのかの? 東海にはもう居れぬし、次は関東か?)
逃げた先の未来を思い浮かべる。しかし、どこか心に響かなかった。次いで浮かんだのは、いつぞやの津島の天王祭。
一益と信奈が初めて出会った時の思い出だった。そして、気付く。自分が思った以上に織田信奈を大事にしているのだと。
(ようやく得たのじゃ、姫は。のぶなちゃんという居場所を得たのじゃ。あの明るさを知ってしまった以上、もはや闇の中にはもどれぬ……! ならば、姫がなすべきことは一つじゃ……!)
腹を括った一益は反転し、猛然と北の義定に突っ込んでいた。
種子島は西の北伊勢諸将に全弾撃ち切り、強引にその足を止めさせる。
「姫に続け! 死中に活を見出すのじゃッ! 姫に遠慮は要らぬ! 姫の屍を踏み越えてでも、尾張に帰るのじゃ!」
降ってくる矢玉を顧みず、一益は進む。
少しでも多くの兵を尾張に帰す。少しでも、この敗戦の痛みを減らす。
一益は自らを鉄砲玉として、義定隊に風穴を開けることでその責任を果たそうとしていた。
普段の一益からは到底考えられないその破れかぶれな突撃は、尾張の兵にも伝染した。
「滝川様を死なせるなっ! 続くのみゃあっ!」
天下屈指の弱兵が、いまや矢を恐れぬ死兵となっている。
この尾張兵の豹変ぶりには義定も目を見開いた。
「ありゃりゃ、これは手強いね。……でも、行かせないよ」
更に義定は斉射の間隔を狭めるように指示を出す。一益もまた死力を尽くして川を渡り切ろうとする。
戦意では一益側が圧倒的に優位だったが、いかんせん地勢が悪すぎた。
次々と尾張兵が力尽きて下流へと流されていく。
(結局、姫はのぶなちゃんの助けにはなれぬのか、ただ徒らに兵を損なっただけなのかの……?)
一益の目に涙が浮かぶ。
しかし、天は一益を見捨ててはいなかった。
「九鬼嘉隆、見参! 姫さま! 今からあたしが助けに参ります!」
赤堀の港から上陸した九鬼水軍が六角軍に東から強襲したのである。
「ちっ、さすがに海は俺の管轄外だな。嘉明、九鬼水軍にあたれ! 滝川軍と合流させるな!」
高村は嘉明にその抑えを命じたが、九鬼水軍は止まらない。なんとしてでも一益を救うべく突撃し、ついに一益と交戦する義定の陣にまで到達した。
「姫さま、よくぞご無事で!」
「くすくす、くっきーにはこれが無事に見えるのかの?」
再会した九鬼嘉隆の言葉に一益は苦笑いを浮かべる。
川の水と血と泥に塗れて一益の装束は見るも無残なほどぐちょぐちょになっていた。
「ああ、おいたわしや……姫さま……!」
.
「まあ、血に関しては八割は返り血じゃがの。それより今はこの死地を切り抜けるのじゃ!」
九鬼嘉隆が連れてきた水軍は千人ほど。数を合わせても三千にしかならず、練度もそう高くはない。
しかし、それでも一益はもう恐れるものはなかった。
「あーあ、これは大勢を向こうに傾けられたかな。いつもはわたしたちがやってることだけど、流れを掴まれるのは本当に手強いよね」
義定は応戦したが、九鬼水軍の横槍にあってついに一益たちの渡河を許した。
高村は嘉明と共に逃げる一益と嘉隆を追ったが、九鬼水軍と尾張兵の命がけの抵抗でやや速度を落としている。
「さあ、姫さま! 赤堀の港へお急ぎを! そこに船を用意させてます!」
「うむ、恩に着るぞくっきー!」
するすると嘉明の追撃を交わしながら二人は逃げる。
そして、赤堀の港に二人がたどり着いたと一氏に知らされた高村はこう呟いた。
「まあ亀山が出来過ぎだったから、どっかで帳尻を合わせてくるとは思ったよ」
「それで、どうなさいます?」
「義定と嘉明に伝えろ。織田軍への攻撃はやめろ、とな。ここで向こうが退くなら別にいい。北伊勢から織田軍を駆逐するという目的は十分に果たせているからな。以後は北上して桑名を目指せ」
この台詞に一氏は目を瞑る。
この時、高村は完全に滝川一益と九鬼嘉隆にしてやられたと認めたのだった。
*
その後、高村は完全に桑名までを制圧し、北伊勢の諸将に仕置きを行った。
この結果、北勢四十八家は二十七家が改易されることになり、高村は「目標の十八家には届かなかったが、まぁいいや」とひとりごちることになる。
一方、一益と嘉隆は二千五百の兵を伴って尾張に帰国する。
結局のところ、伊勢に出した四千の兵はその三割強が帰って来なかったのである。
総括すれば、織田は徒らに兵を損耗し、逆に六角は北伊勢を完全に支配下に加えることに成功したのだった。