時はやや遡る。
果断即決で美濃国内の仕置きを終えた信奈は、主な家臣を集めて評定を開いていた。
「さて、美濃のことは終わったことだしいよいよ高村を攻めるわよ!」
この信奈の宣言は、一気に諸将の気を引き締めさせた。
六角高村。その名は今や畿内近国で知らぬ者はいない。織田家中も例外ではなく、特に一度負かされた経験のある滝川一益はことさら過敏になっていた。
「左近には悪いけど、亀山と河原田で戦った時の所感を聞かせてもらいたいわね」
「姫としては思い出したくない戦じゃがのう……、まあ信奈ちゃんに話せと言われたら仕方がないの」
渋々、一益はかつての戦いの一部始終を語った。語り終えた時、奇妙な静寂が場を支配する。
「……やはり、手強い相手ですね。高村さんは」
その静寂を破ったのは美濃が誇る天才軍師、竹中半兵衛であった。
「半兵衛ちゃんから見てもそうなのか?」
「はい、良晴さん。美濃でお会いした時の人となりで薄々は感じていましたが、高村さんの本質は武人ではなく、戦術家です。亀山と河原田の戦いのお話を伺って確信しました」
私の所感ですが、と前置きして半兵衛は続ける。
「高村さんは自分の適した形に戦を作り替えていることが多いのです。亀山の戦いの際は本陣への強襲が目立ちますが、馬防柵を壊して騎馬が活きる状況に場を作り替えようとした痕跡があります。その後の北伊勢諸将への調略も一益さんをそれで葬るよりは、河原田に高村さんたちが先着するために行軍を遅滞させることが目的だったのではないかと」
半兵衛の考察に織田の諸将は「さすがは天才軍師」と唸った。
「半兵衛の言うことはわたしも尤もだと思うわ。武勇はなおのこと軍略にも通じる。正面から戦うのは、少し厳しそうね。まあ、いいわ。力押しで倒せるなら評定なんてする必要はないもの。万千代、地図をお願い」
信奈に言われて長秀は美濃・伊勢・尾張の三国が描かれた地図を広げる。
「まず、わたしたちが目標とするのは桑名よ。ここを獲らないと織田は絶えず高村の動きを警戒しなくてはならない。だから、この桑名を取ることは今回の最低限の目標ね」
そして、信奈の指がすーっと東海道沿いをたどり、亀山で止まる。
「桑名の後は、赤堀の港。最終的には亀山まで攻め取るわ。ここまで来れば、鈴鹿の山々に遮られるけど、高村を追い込むことができる。少なくともあいつが伊勢に持っていた所領の全てを奪うことができるわね」
此度もまた構想としては亀山・河原田の戦いと変わらない。亀山まで攻め取ることで、高村の国力を減らして織田に従わざるを得ない状況を作ることが目的だった。
「そういえば、万千代。長島のにゃんこう衆への交渉はうまくいった?」
「いえ、協力はおろか領内の通行も認められませんでした。交渉を任されておきながらこの体たらく、十点です」
申し訳なさそうに万千代がうなだれる。
彼女にあずかり知らぬことではあるが、長島のにゃんこう一揆衆には高村がすでに手を回しており織田に対する敵対的不干渉を取り付けていた。
「敵対してこないだけマシね。……となると、美濃から南下するほかないわね」
「そうする他ないであろうな」
道三も信奈に同調し、以後の評定は流れるように続いた。
かくして、織田家は三万の派兵を決めたのである。
*
伊勢路をひた走る織田軍三万を最初に出迎えたのは、土塁と水濠であった。
伊勢美濃の国境は絶えず木曽三川の水害に見舞われてきた。そのため、村々は独自に土塁や遊水池を設けて被害を避けようとしてきた歴史がある。これらの施策はのちに輪中へと発達するのだが、それは脇に置いておこう。
肝心なのは、高村がその土塁や遊水池に目をつけ、蒲生氏郷に命じて軍事的に利用できるように連結や増設を行ったことである。
その結果、国境に簡易的な水城を作り上げていた。
「土塁や水濠に阻まれて、敵は自由には動けない! もたつく間に次々と射掛けるわ!」
治水主の蒲生氏郷自身が陣頭に立って、織田軍を遠方から釣瓶撃ちにしていく。
蒲生隊が率いる兵は六千。織田の五分の一でしかないのだが、完全に地の利を活かしたためか織田側に大きな被害を与えていた。
「矢玉に負けるな! 姫さまのために死ねや、死ねや!!」
勝家あたりは弾幕に負けずに突き進むが、基本弱兵の尾張兵にそこまでの胆力はない。足をすくめては、そこを狙い撃ちにされていた。
「ちっ、このままではジリ貧よね……。サル、この前美濃でやったように土塁を壊すことはできない?」
不利の原因はこの高村の野戦築城にあることは明らか。だから、信奈は良晴に尋ねたのだが、良晴は首を横に振った。
「壊すことはできる。できるけど、元々この野戦築城は堤防を基にしたものだ! むやみに壊してしまったら鉄砲水に俺たちごと飲まれるぞ!」
この時、良晴には忍城の戦いの経緯が頭にあった。
水攻めを試みた結果、策を逆用されて豊臣軍が水に飲まれたという失敗の歴史である。実際はどうあれ、その可能性があるというだけで首を縦に振ることはできない。
意図せずして未来知識が良晴をかえって躊躇させる結果となっていた。
「姫さま! 至急お伝えしたいことが!」
「何よ、今忙しいのに!」
今度は後方にいた長秀の軍の伝令が信奈の元へ駆け寄っていた。
「西美濃の斎藤の残党が街道を封鎖しております! その数二千とのこと!」
「二千ぐらいなら帰りになんとでもなるわ! 万千代には前線との合流を防ぐように伝えなさい! 今はなんとしてもこの水城を突破するわよ!」
あえて信奈は斎藤残党を無視した。
街道が封鎖されたことによる兵の動揺はもちろんあったが、それ以上に勢いづく蒲生隊に背を向けることの方を恐れたのである。氏郷の本質は攻めであるから、その判断は間違ってはいない。
その日、結局のところ織田軍は野戦築城を抜くことはできなかった。
斎藤残党は織田軍が後退するのを確認すると街道を明け渡し、南下。蒲生氏郷と合流することとなる。
*
「やはり、義龍は放逐するべきではなかったな……」
大垣城にて後詰めを務めていた斎藤道三は細作からもたらされた報を聞いてから不機嫌だった。
斎藤義龍の後ろ盾に六角がついたことは大きい。ただでさえ、義龍から信奈に変わって国内が動揺している中でこの義龍の蠢動は手痛かった。
「良きにつけ悪しきにつけ、物事が変わるということは人心を惑わせるものよ。善悪など関係ない、ただ変わったということ自体に抵抗を示すのだ。……おそらく、北伊勢の仕置きで高村もこのことは学んでいよう。そこを、信奈殿は突かれた」
ともあれ、これでまた高村方の陣容が厚くなることに疑いはない。
道三の憂いは深まるばかりであった。