桑名戦線、三万の兵をもってしてなお不抜。
この事実は織田家を動揺させた。
「戦略の練り直しよ。大垣城まで後退するわ!」
信奈は前線に後退の指示を出す。これを好機と見た蒲生氏郷や斎藤義龍は追撃を仕掛けて被害を出し、大垣城に無事にたどり着けたのは二万六千ほどだった。
「高村のことだから何かしらの準備をしているのだろうとは思っていたけれど、あれだけの要害と鉄砲隊は予想外だったわ。特になによ、あの謎の鉄砲隊は? 千丁も種子島を隠してたなんて……」
「信奈、多分あれは高村の兵じゃない。旗印からして雑賀衆だ。あれだけの要害に最強の鉄砲隊に詰められたんじゃ鬼に金棒だぜ。少なくとも、美濃から攻めるのは難しい」
愚痴る信奈に、頭を抱える良晴。
勝家は自前の兵の大半を失ったことから冷静さを欠き、長秀もまた明るい展望を見出せないでいた。
帰城早々に軍議が行ったものの、中々高村の要塞を抜く案は出てこない。さりとて、長島を強行突破して桑名を攻めるのもにゃんこう一揆衆を完全に敵に回すリスクを考えると躊躇われた。
(堅牢な城に雑賀衆。……確か石山本願寺の戦いがそうだ。その時はどうやって勝ったんだっけな……。そうだ!)
良晴は未来知識を引っ張り出して考える。
(石山本願寺は長い間織田軍を凌いできたが、最後は鉄甲船で村上水軍を倒して補給線を切れたから勝ったんだ! そしてこの戦でもそれはできる!)
戦前に見せられた地図に、九鬼水軍の存在。未来知識とその二つが電撃的につながり、良晴にひらめきを与えていた。
「信奈、いくら考えても高村の要塞は無理だ。だが、桑名と高村の要塞は六角の領土の東端にある。だったら船で伊勢湾を渡り赤堀の辺りを抑えれば、桑名の補給を断てるんじゃないか?」
良晴が言うと同時に、諸将はどよめく。
敵国の領内に潜り込むこの策は、いささか無鉄砲だと諸将に受け止められた。
ともあれ、この良晴の提案は停滞した軍議のブレイクスルーにはなった。
提案の是非を巡って諸将はまた議論を始める。
「状況が分からぬ敵国に気取られぬように侵入し、要衝を取る。相良どのの策は荒唐無稽ですが、他に手はありますまい。四十点ですね」
長秀は一応、良晴の提案には賛成らしい。
「だが、それだけ器用な動きができる将が家中におるのか? その任を果たすには、己が身を守る武勇と気取られずに事を成す手際の良さ、それになによりも度胸がなくてはならぬぞ?」
斎藤道三はその実現性に懐疑的だった。他の諸将も概ね道三の論調に近い。……いや、正確には多くの将が良晴の策が強行されるのを恐れ、道三に乗っかっていた。何かが間違って自分が実行者となった場合、生きて帰れるとは思えなかったのである。
諸将が顔を見合わせる中、一人高々と手を挙げた者がいた。
「爺さん。その点なら問題はねえ。俺が行く! 桶狭間でも長良川でも墨俣でも、俺は生き残ってきた。球よけのヨシの名は伊達じゃねえぜ!」
何を隠そう、立案者の良晴自身だった。
「確かに小僧ならば、適役やも知れぬ。……どうじゃ、信奈ちゃんは? こやつを伊勢に向かわせてよいか?」
道三に水を向けられた信奈は、少し考えたのち口を開いた。
「蝮の言う通り、サルは適役ね。ただ、まだ将としての経験はまだ浅いわ。だから、半介……佐久間信盛の与力として向かいなさい」
佐久間信盛……退き佐久間と渾名される織田家の宿将の一人だった。
勝家や長秀といった姫武将が主導権を握る織田家の中では異質な存在だが、その実力は確か。良晴と組ませるには悪くない将である。
この信奈の判断は概ね諸将たちに好意的に受け止められた。
「ほっほっほ、これで決まりのようですな。相良どの、此度もどうにか命を拾いましょうぞ」
あごひげをしごきながら選ばれた信盛は良晴に笑いかける。
その泰然とした佇まいは、いかにも織田の宿老といった風情で思わず良晴は背筋をこわばらせてしまう。
すると信盛はとん、とんと良晴の背を優しく叩いた。
「ゆるくやりましょうぞ。常に心は身軽であること。これが退きの極意なれば。なに、わしのことはそこら辺で昼寝しているジジイだと思えばよい」
言い聞かせられているうちに良晴の力みは解けていく。
地味だが、織田の宿老の面目躍如であった。
*
「よくやってくれた、皆のもの。おかげでしばらくは防戦にゆとりが持てそうだ」
織田軍が退いた氏郷の陣にて、高村は彼らの働きを賞して宴を開いていた。
高村自身もその武威でもって北畠の抑えに当たらなければならないのだが、桑名戦線が織田軍三万を追い返したと伝えられてから、居ても立っても居られず、この宴のためだけに僅かな手勢で急行していた。
(今回の最激戦地は桑名だからな。その苦労に少しでも報いてやりたかったんだ)
桑名戦線は今回の最激戦地でありながら、高村の手配が遅れて当初は氏郷の六千で持ち堪えなくてはならなかった。
その後、幸運にも義龍が現れて二千が増え、一週間後に本来手配していた雑賀衆の四千が到着したという経緯がある。俺の失態を氏郷や周りがカバーしてくれた格好だった。
「柴田隊を壊滅させたのは雑賀衆の手柄だが、彼女たちが来るまで耐えてくれなければ、この大戦は早々に俺たちの敗北に終わっていただろう。ありがとうな、氏郷」
そう言って俺は氏郷の頭を撫でる。いや、撫でようとして、止めた。
「すまない。まだ年下に対して頭を撫でる癖が治らなくてな。お前は特にそれがダメなやつだったというのに」
過去の出来事から氏郷は極端な潔癖症になっていたことを俺は知っている。
特に男に身体を触られることは彼女にとっては耐え難いことで、家族以外は主君の俺でさえも気持ち悪くなる体質だった。
「……悪いわね、めんどくさい女で」
「いい、いい。お前に何が起きたか知ってるからどうってことはない。むしろ、胸を張れ。軍功一等のお前がそんなんじゃ他が喜べないだろ?」
俯く氏郷を励ましていると「へえ、案外優しいところがあるやないの」と隣で雑賀孫市が茶化してきた。
「氏郷とは付き合いが長いからな……、つい面倒を見てしまう。まあそうでなくてもこいつにはそうさせる力があるわけだが。それに俺も貴女には驚かされたよ。傭兵を四千頼んだのは確かだが、まさか頭領の貴女が来るなんてな」
逆に雑賀孫市を揶揄うと、彼女は愉快そうに笑った。
「織田信奈と六角高村。次代の天下人が決まる大戦やぞ? これだけけったいな戦はそうあらへん。こんなおもろそうなもん、誘われたらとびつくしかないやろ」
「敵わねえな。俺にとっては最悪の大戦もあんたにとっては暇つぶしでしかないというわけか」
「せや。とはいえ、織田は今ので死に体やろ。これで、天下人はあんたに決まった」
孫市はそう言うも、俺は首を横に振る。そんな楽観的に捉えられれば、どれだけ良かっただろうか。
「いや、この程度では織田信奈は諦めんぞ。少し引っ込んだだけでまた手を替え品を替え攻めてくるはずだ。だからまだ油断はしないで欲しい」
「へえ、なかなかに高評価やんか」
「そりゃあ、俺と違って織田信奈は天下を取れる器だからな」
この評に孫市は目を見開くが、事実として俺と織田信奈は違う。
仮に俺が天下人の器ならば、あの夜にお市についていくなり、根拠もなしに「必ず守る」と啖呵を切って去りゆく彼女の手を引き戻すなりできたはずだ。氏郷だって男性恐怖症を起こさずに守れたかもしれない。
ただ、現実として俺は去りゆくお市を見送ることしか出来ず、氏郷は不完全な形でしか守れなかった。
(一番守りたかった人を救えない奴が、天下を背負うなど出来るわけもない。それに上洛して分かった。……もう六角は天下に求められてはいない。あまりに畿内を乱し過ぎた)
ならば、俺が天下を狙う必要などない。ただ乱世の荒波を最後まで渡り切る。それでいいのだ。