西上を開始した武田軍は駿府を発つと東海道沿いを進軍し、遠州の拠点を次々と落としていた。
松平軍はこれに対応しようと先遣隊を掛川城に入れたが、鎧袖一触に蹴散らされて前線を浜松城まで後退させられている。
織田は高村討伐のために伊勢方面に兵を貼り付けており、松平に援軍を送る余裕はなく、肝心の高村討伐も遅滞していた。
「もう、どうなってんのよ! なんで武田が大々的に来るわけ? 上杉謙信は何遊んでんのよーッ!」
大垣城の庭園で地団駄を踏む信奈。
織田家の状況は端的に言って最悪なものになっていた。
武田軍二万五千が遠州を爆進し、高村は伊勢桑名で一万少々で織田の三万を撃退。正面から攻めるのを控え、糧道を絶とうと試みたら宿老の佐久間信盛が討ち死に。
手や足は出るが、それがことごとく弾かれているような有様だった。
「元康殿を救援しようにも、六角高村に後背を突かれてしまいます。このままでは織田も松平も共倒れ。零点です」
何度も軍議をしても、妙案は出てこない。
六角に和議を乞う話もあったが、武田が上洛を始めた今となっては、戦後は武田の風下に立たされることになる。そうなっては天下布武は叶わぬ夢となってしまうのは明らかだった。
「被害を覚悟で六角か武田。どちらかを倒して和議に持ち込む。さすがの信玄も高村なしで上洛できるとは考えていないはずだわ。そこに賭けるしかない」
軍議の結果、信奈が出した結論ではある。
しかし、言うには容易いが行うのは難しい。
武田は言わずもがな、六角にすら織田軍は連敗を喫している。どちらも織田にとっては強大な相手だった。
「一応、一つだけ策はあるのよ。万を超える軍勢で、伊勢湾を越えて陸路から桑名を攻めるという策が。あまりに危険だから今までやらなかったけど、やるしかない」
佐久間軍が無事上陸出来たことから、信奈は六角の水軍力は弱いと判断していた。河原田の戦いの時も水軍が最後の帰趨を決めたところがある。
陸路からは不可能。補給を断つ程度の兵力では容易く刈り取られてしまう。
ならば、大軍を送るしかない。
半ば信奈の肚は決まっていた。
「それはおやめください。信奈様」
そんな信奈に意見した姫武将がいる。
竹中半兵衛だった。
「どうして、半兵衛?」
「高村さんの水軍が待ち構えているからです。高村さんは水軍の整備を怠っていたわけではありません。佐久間軍はあえて見逃していたのです」
「見逃した? 補給を断たれたら困るのは高村でしょ?」
「はい。しかし、高村さん的には狙いのうちでしょう。良晴さん、伊勢の地図を出してください」
半兵衛に言われて良晴は伊勢の地図を広げる。
「桑名は伊勢の東端にあります。そして桑名の東の長島はにゃんこう一揆衆への配慮で通過できません。必然桑名を攻めるのは北か西に限られます」
「けれど、北には高村が要塞を築いてこれを防いでいる。だから、西側は手薄……。あ、なるほど、わかったわ」
ここでようやく、信奈は高村の意図していることがわかったような気がした。
「高村はわたしが北から攻めるのを嫌って、攻め手を西に集中させることを狙っているのね。そうして西に呼んで孤立した軍勢を騎馬隊や水軍で倒し、こちらの兵力を削る」
「信奈様のおっしゃる通りです。その後は打つ手がなくなった信奈様を信玄さんに討たせて、武田政権の下で家の存続を図るつもりだと思います」
信奈と半兵衛が予想した高村のシナリオに諸将は戦慄する。
あと少しで滅亡に追い込まれるところだったのだから無理もない。
「そうなると攻め口は北側だけ。……またあの要害を攻めなくてはならないのね。半兵衛、他に道はないの? あの辺りは一応あんたの地元でしょ?」
「石津を越える西伊勢街道がございますが、険道ゆえ大軍は入れません。入れたとしても各個撃破の恐れがあります」
桑名を落とすには北の要塞を抜くしかない。結局のところ、ここに行き着く。しかし、三万の兵でも抜けなかった事実は信奈たちの心に重くのしかかってきていた。
「北の要塞に関しましては、今一度三万の兵を用意して攻める他ありません。それに加えて長政さんも動かします。六角軍は精強ではありますが、二か国の全力を受け切るには兵が足りません。今も高村さんは必死にやりくりしている状況です」
「半兵衛。もう一度三万を、というけれど容易ではないわよ。竹千代や東濃の遠山を見捨てなければ、それだけの数は揃えられないわ」
「それは重々承知です。しかし、成せねば攻め手を欠いて天下の夢は破れます。お決断を」
半兵衛が押し、信奈がやや尻込む。
織田家中の者にとっては珍しい光景が目の前に広がっていた。
(竹千代を助ければ、六角が来て織田は大打撃を受ける。武田と天下を取ることに決めた高村はもう穴熊を決める必要はない。国益ならば、半兵衛の策に乗るのが正しいわ。……けれど)
信奈の脳裏に竹千代と過ごした日々が脳裏をよぎる。
信勝……今になっては津田信澄を推す家中と愛を感じられない母の土田御前。理解はあるが、多忙な父。
息苦しかった幼い日々の中で竹千代や犬千代といった気心の知れたお供たちと過ごした時間はどれだけ救いになったかはわからない。
そんな美しい思い出に裏切りで返すことはできなかった。
全軍、三万の兵で松平に加勢する。
そう、信奈が号令をかけようとしたその時だった。
「姫様。元康殿から文が届いております」
軍議の席に伝令が分け入ってくる。無礼極まりないが、緊急時ゆえ少し見咎められる程度で済んでいた。
「それがし、鳥居強右衛門と申す者にござる。姫さまからの伝書を伝えに参った」
「デアルカ。よこしなさい」
撫然とした面持ちで信奈は書状をひったくり、広げる。
読み終えた、信奈は決めた。
「半兵衛。あんたの策に乗るわ。六角を、高村をこの手で屈服させる。竹千代の意志を無下にはしないわ」
それで、いいでしょ? と信奈は強右衛門に目配せする。
強右衛門は、力強く頷いた。
*
武田軍の劫掠は続いた。
掛川を抜いた武田軍は高天神城と曳馬城を制圧。これで遠州の要衝は武田が手に落ちた。
元康は三ヶ日で再び抵抗を試みたものの、井伊谷三人衆が玉砕するなど多大な被害を出す結果となる。
「はわわ、武田軍の勢いは凄まじいです〜。半蔵、どうにかならないですか〜?」
「ならないでしょうな。しかし、音に聞こえし武田軍。拾うように遠州を奪うとは……」
「敵を褒めても何にもならないです〜。なんとかせねば、当方は滅亡ですよ〜!」
岡崎城にて、元康は悲痛な叫びをあげる。
あまりにも力が違いすぎた。
兵力も、その質も。
戦国最強の武田軍の力をまざまざと見せつけられて、元康の心は折れかけていた。
「姫様、やはり織田からの援軍をもらった方がいいのではありませぬか?」
重臣の石川数正が、元康に促す。
しかし、元康は首を横に振った。
「不利は承知です〜。しかし、それだけはあり得ません。今、吉姉様は天下を取るべく六角と戦っています〜。わたしがそれを邪魔しては、桶狭間で義元様を破っていただいた恩を返せません。それに、三河はわたしの国です。自分の手で国を守れずして、それは果たして独立と言えるのでしょうか?」
信奈に援軍は出させない。
それだけは元康には譲れなかった。
そして、元康自身に一つ負い目がある。
自分は本当の意味で三河の領主と言えるのか。桶狭間の余録で元康の手に三河は帰ってきたが、自らの力で成したものではない。
元康は武田を自らの手で食い止めることで元康はこの負い目を払拭し、自立した松平を信奈に示そうとしていた。
「浜松を抜かれた以上、さして障害がない三河の吉田城も落ちるでしょう。こうなれば、次に武田軍は岡崎まで押し寄せてきます。岡崎を囲まれることだけは避けなくてはなりません」
側近に三河の地図を広げさせ、そして元康は一点を指差す。
その地は赤坂。松平の本拠である岡崎城と東三河の要の吉田城との間に位置する東海道の一宿場町である。
三河を走る東海道の中でも山が迫り狭隘なこの地を元康は最後の決戦の場に選んだ。
「半蔵、数正! 集められる家臣の全てを赤坂に集めて下さい! 今こそ三河武士の真価を武田軍に示す時です!」
力強く宣言する元康。普段の彼女らしからぬその姿に思わず半蔵は目を瞬かせた。
(どうやら姫は武田軍の来襲という国難を契機に目覚め始めているのやもしれぬ。この戦、あるいは……)
未だにゃんこう一揆は止まず、織田の援軍は出さぬように釘を刺してきた。
松平の命運は風前の灯であることには変わりない。
ただ、それでも。
家臣団が奇跡を期待してしまうようなナニカが今の元康にあった。