嫌な予感はしていた。
佐久間軍を追い払った後、俺は当初の予定通りに嘉明に命じて大湊に水軍の三千を用意し、雑賀衆の一部も水軍に回らせた。
鉄砲隊のイメージが強いが、雑賀衆は元は紀淡海峡の海賊である。むしろそもそも海賊をしていたからこそ大航海時代の変動に触れて、先んじて鉄砲を入手することができたのだ。
この二つの船団で決戦し、織田との戦いを終わらせる。
それが俺の目論見だったが、この青写真は早々に役に立たなくなったらしい。
「織田軍が桑名戦線に再度三万を投入してきております」
「そうか、わかった。ならばまた防備を固めろ。それと嘉明たちには北上して赤堀から桑名を目指すように伝えてくれ」
伝令に指示を出した後、俺は頭を抱えた。
「この後に及んでまだそれだけの兵力を出すのか……」
桑名や佐久間軍の撃退で織田の兵はかなり削ったはずだ。本来ならこれほどまでの動員はかけられない。多分、武田の備えからも兵を引っ張ってきたのだろう。
「自殺行為ではあるが、全軍で武田をやるよりかはまだ俺の方が与しやすいんだろうな。……まぁ、間違っちゃいないけどさ」
「殿、長きに渡る戦いで玉薬が尽きかけております。雑賀衆に供与した分が思ったより多かったようです」
「追い討ちをかけないでくれるかな、正家。実際のところ、そうなんだけどさあ」
我が六角の経理担当の長束正家が現実を突きつけてくる。
職掌ゆえか見た目はお団子ヘアのゆるふわ美少女なのに、指摘が鋭くて俺はよく泣かされていた。特に今回の戦は金を使う。どれだけ彼女にいじめられたかわからない。
「この戦はやればやるほど赤字になる。だから長く戦ってはならない。そう言ったのは殿です。ですから、いちいち落ち込まないでください」
「ええ、言いましたとも。だから武田を使って耐えればいい期限も削りました! ただ、やっぱ硝石が高いのが悪いんですう!」
思わず敬語をつけて受け答えしてしまうほど、状況はひどい。
ごく一部の例外こそあれど、基本的に日本では火薬の原料の硝石は取れず南蛮からの輸入に頼らざるを得ず、価格が高くなる。
そして、さらに悪いことに三好が将軍を暗殺したために畿内では早くも三好と反三好の小競り合いが頻発し、火薬の需要が高まってしまった。こうなると堺からやや離れている伊勢に入る硝石は減る上に高いという最悪の事態になってしまっているのだ。
「まぁいいや、最悪はあの仕掛けを使えば多少は弾薬の消費を抑えられるか……。はぁ、アレって諸刃の剣だからやりたくないんだけどな……」
「ケチらないで使って下さいよ。そのために、それなりの予算をあの陣に投じたのでしょう?」
「まぁな。……いいか、アレの使用許可を氏郷に伝えとくよ。そのかわりに正家は硝石の調達を頼む。この際、価格に糸目をつけなくていいや。水軍が空かされた以上、使う硝石は増える。なんとしても数を揃えてくれ」
正家にそう伝えて俺は再び軍陣に戻った。
武田を動かしたのはいいが、三好が将軍を暗殺するとは思わなかった。いや、史実的にやるのは知っていたが、タイミングがあまりにも悪い。
(色々あったとはいえ、ここまで事が進むと梃入れも難しい。ウチも織田も出せるもんは出した、後はどっちが上回るか。成り行きを見守るほかない)
酒を呷り、腹を括る。
洛東の戦いはいよいよ最終局面を迎えようとしていた。
*
「今度こそあの陣を抜いて桑名を落とすのよ! 全軍進めーッ!」
信奈の号令に従って、織田軍三万が氏郷が守る水濠陣に再び襲い掛かる。
松平や東濃を切り捨ててまでかき集めただけあって、今回の戦は負けられない。
水濠陣を抜くのに時間がかかり過ぎれば、松平は武田に蹴散らされて戦国最強の騎馬隊が尾張に侵入するのだから。
「今度こそ、負けない! お前ら、臆さず攻めろ! あたしも続く!」
「さすがにこの状況じゃサボれぬか。この際じゃ、姫の全力を見せてやるとするかの」
先の桑名攻めで失態を演じた柴田勝家や滝川一益が果敢に攻めかかる。
尾張兵は弱兵ではあるのだが、幸か不幸か窮鼠猫を噛むと言うべきかあまりに追い詰められた状況は彼らに火事場の馬鹿力を発揮させた。
一度目に比べれば、確実に兵が強いのである。
氏郷はこれを外連味なく捌いていくが、どうにも疲労は蓄積されていった。
こうなると、一つ脳裏にちらつくことがある。
(この陣の奥の手を使うべきかしら……)
二度に渡り織田軍三万を相手にしてその堅牢さを見せつけているが、この水濠陣はまだその全ての機能を使っているわけではない。
まだ、最後の切り札として堰を切って放水するという択が残されている。うまく引きつけて放水すれば、織田軍をまたも半壊させることは可能だろう。とはいえ、自軍の兵を退避させるのに手間取るし、それを見た相手側が気づいて逃げようとする可能性があるためやや使いづらくもある。
(雑賀衆に火薬を優先的に回しているけれど、それも長くはない。そして、なにより水計の後にこそ、彼女たちの鉄砲隊が必要だわ……)
少し逡巡したのち、氏郷は決めた。
「決めたわ。この機に賭ける。全軍、二の丸までじりじりと後退なさい。雑賀衆は打ち方を緩めて。出来る限り織田軍を引きつけるのよ」
氏郷の下知が飛び、再度軍勢が下がり始める。
織田軍はこれ幸いと前へ飛び込む将兵が多かったが、何度もしてやられたことから踏み込まない軍勢もある。
「勝家、今回は退く……」
「ああ、そうだな、犬。さすがのあたしもそこまで馬鹿じゃない」
前田犬千代と柴田勝家は留まり、警戒にあたる。
「どうせ高村のことだ。絶対なにか仕掛けてやがる! 出るなよ、信奈!」
「あんたに言われなくてもそれぐらい分かるわよ、サル」
良晴と信奈もまた陣の後方で様子見していた。
そんな思ったよりも動かない織田軍を見て、氏郷は微かに口の端を吊り上げた。
「釣られないのは賢明ね。……けれど、前に行かないことがそのまま命の補償になるわけじゃない。一氏殿、頼んだわよ」
氏郷が一氏に何事かを伝えた後、織田軍に混乱が広がっていく。その原因は一目瞭然だった。
退路が、それぞれの土塁を繋いでいた木の橋が落とされたからである。
戸惑う織田軍は水濠を泳いで逃げようとしたが、それをするだけの時間を氏郷は与えなかった。
「今よ! 堰を切りなさい!」
氏郷の号令と同時に狼煙が上がり、濁流が織田方に流れ込んでくる。その勢いは凄まじく、孤立した土塁の上にいた兵たちをも根こそぎ飲み込んでいった。
「……そんな、わたしの兵たちがッ……!」
今の水計でどれだけの兵を失ったか、わかったものではない。間違いなく三千は失っただろう。
あまりの衝撃に思わず信奈は膝から崩れ落ちてしまう。
「……ごめんなさい、わたしのせいで何人もの兵があたら命を散らしてしまって……。竹千代を見捨ててもなお、こんな状況だなんて……」
うわごとのようにつぶやく信奈。
桑名で失った兵は累計でそろそろ一万に届く。しかし、それは自分が江尾対談の時に高村との協調路線を選べば防げた話だ。
自分の犯した失敗と罪悪感で信奈は心が折れそうになっていた。
「……諦めるなよっ! 信奈っ! らしくねえじゃねえか!」
「サル?」
「信奈! 仮にお前が諦めても俺は諦めねえぞ! 高村を倒して信玄を止めて、織田だって竹千代だって守ってみせる!」
「でも、高村にはいいようにしてやられたけれど、策でもあるの?」
「いや、ねえ!」
信奈の問いかけに良晴は首をぶんぶんと振る。信奈は呆れた表情をするが、良晴は構わず続けた。
「だが、俺は全部の実を救うと決めたんだ! だから、諦めることだけは絶対しねえ!」
「ぷは、なにそれ。あんた馬鹿じゃないの?」
勢いだけで言い切る良晴を見て、信奈は破顔する。
(そうね、サルはまだ諦めてないもの。なら、まだわたしが諦めるのはいささか早計ね)
やや瞳に力が戻りだす。
おかげでまだ戦うことが出来そうだ。
言えば、つけ上がるから感謝の言葉を口にすることはないけれど。
*
「そうか、ついに水計を使ったんだな」
北東の方角で青い煙が上がる。それが合図だった。
「嘉明たちは赤堀に着いたから、そのまま桑名に向かわせたらいい……、さて」
視線を北東から南に戻す。
その視界に広がるのは様々な家紋の旗指物が翻る軍勢。
数で言うなら八千ほどか。
「思ったより溜め込んでたな! 北畠具教ィッ!」
南の備えにしていたのは、長野工藤家と神戸家の二家だ。
だが、長野工藤家は当主とその嫡男を北畠具教によって暗殺され、そのまま北畠が併合した。神戸家は頑張って抵抗したが彼我の戦力差は七倍あり、俺が到着した頃には虫の息となっている。
「水計を使ったということは、氏郷の陣も前ほどは長く保たないってことだ。だから、俺もすぐに援軍に行かなくてはならないのだが……」
自軍が三千五百と弱りきった神戸軍の数百。
相手側が北畠を盟主とした伊勢の国人連合八千。その中には俺が以前に改易した北伊勢の国人たちも多分に含まれている。烏合の衆ではあるが、それぞれ失地回復やお家の再興が目的のため、戦意は高い。
「因果応報ってやつかな。まあいいさ。どちらにせよ、倒さねえと始まらねぇ……!」
家を失ったお前たちの無念は察して余りある。
ただ、今回の俺はそうさせないために戦っているんだ。
だから、今回も容赦なく踏み潰す。
俺は馬腹を蹴って敵軍へと駆け出した。