一つは前の世代のことだ。
かつて西国より上洛を試みた大名が二人いた。
大内義興と浦上村宗の二人である。
このうち浦上村宗は領国の備前・播磨から京に向かう途上の摂津の大物で自らがかつて討った旧主の子・赤松晴政に後背を刺されて失敗し、打ち取られてしまう。
一方の大内義興は尼子経久や毛利元就の兄の興元ら西国の諸将をまとめ上げ、流浪していた第十代将軍・足利義稙を担いで上洛。無事に足利義稙を復位させ、船岡山の戦いで反対勢力の義澄派を叩き畿内周辺をある程度安定させることに成功した。
だが、京と義興の領国の周防長門一帯はあまりに遠く、ついに尼子経久を初めとする諸将が離反し、義興はこれを抑えるために領国に帰ることになる。
西国の巨人たる義興を失った義稙派にはもはや反対勢力を抑える力はない。数年で義稙は京を失陥し、義澄の子の義晴が第十二代将軍となるのであった。
「思うにだ、勘助。三好はともかくとして先人たちが上洛を目指しながら果たせず、あるいは志半ばに終わってしまったのは自らの足元を固めていなかったからだと思うのだ」
床几に腰掛けながら、信玄は先人たちの事績を振り返る。
「左様にございまする」
「だから、あたしはその過ちを繰り返すつもりはない。甲信は元より駿河も一応不穏分子は抑えたつもりだ。勘助、お前に東濃を攻めさせたのもこういった理由だ」
「僭越ながらお館様の意図、この勘助にはわかっておりました。すでに東濃の遠山家は我が武田に降参しておりまする」
「そうか、ならいい」
ふん、とハナで笑って信玄は前方を見遣る。
東濃を任せていた勘助ら別働隊が帰ってきて、武田本隊の兵力は二万五千になった。
赤坂に陣取る松平軍の数は八千といったところか。旗印には一部『進むは猫極楽、退くは無間地獄』と書かれたものまである。
「にゃんこう衆の旗まであるのか。今は一揆の渦中のはず、どうやって手を組んだ? 勘助、知らぬか?」
「恐れながら、三河中に『武田信玄は捕虜にした三河の民を連れ帰り、奴隷として使い潰す』と流言飛語が流れておりました。元より一揆は生活の不満を訴えるもの、流言を聞いて松平の方がまだマシだと思ったのでしょう」
「なるほど、あながち嘘ではないから困るな……」
苦笑いを浮かべる信玄。
実際のところ、三河と遠江にその様な苛政を敷くつもりは彼女にはない。
だが、かつて佐久で捕らえた山内上杉家の兵たちを容赦なく金山で働かせた過去があるため、今更説いて回ったところで信用が回復するとは思えなかった。
「滅びかけでありながらも、よくぞここまで兵を集めた。褒めてやろう、松平元康。……なればこそ、武田軍の精粋をもって叩き潰してやるとしようか!」
信玄が軍配を振るい、先駆けとばかりに四千の騎馬隊が松平軍に襲い掛かる。
「騎馬隊が来るのは、想定済みです〜。者ども、構えなさい〜!」
元康の号令と共に、兵が逆茂木の影に隠れて弓を構える。
赤坂の坂上に陣を張っておき、上り坂でやや速度が落ちる武田軍を石や弓といった飛び道具で狙い撃つ。
これこそが、地の利を加味して考案した元康の決戦戦術だった。
「なるほど、考えたな。騎馬隊の速さを殺し、飛び道具の利を活かす。用兵の理に叶った作戦だ。だが、これしきで武田軍を止められると思うなよ?」
元康を誉める一方、信玄は攻勢を強めさせる。
元々対策されているのは、想定済みだ。赤坂に布陣した時点で元康の狙いもある程度は看破している。
その上で信玄は重ねて命じた。
「松平の弱卒ごとき、策を使う意義もない。踏み潰せ」
半ば傲慢に思える指示だったが、武田騎馬隊の力はそれに足るものだった。
元々は甲信の険阻な山道を主戦場としてきた武田軍である。多少の坂道なら慣れている。
「怯むなッ! もう一度進めッ! 長尾景虎に比べれば何するものぞ!」
気を取り直して、もう一度武田騎馬隊が襲いかかる。松平軍は再度迎え撃とうとしたが、勢いが強く敵わない。
あっけなく柵を破壊され、武田騎馬隊の侵入を許した。
「はわわ〜ッ! まさか乾坤一擲の策を力づくで破られるなんて〜!!」
タヌ耳を震わせ、ガチガチと歯を鳴らす元康。
昔、話を聞いてからずっと憧れていた。
廃嫡寸前から立ち上がり、今や天下に手が届くところまできた古今無双の名将・武田信玄。
敵対した相手ではあったが、尊敬の念は絶えなかった。
掛川、三が日、赤坂。
あらゆる手を尽くして防ごうとしたが、一矢報いることすら出来なかった。
(これが、私と信玄公の差、ですか……。 わかっていたとはいえ、これはあまりにも……)
項垂れる元康。
しかし、そんな暇があるほど状況は穏やかではない。
馬印が引き倒され、本陣は恐慌状態。本多忠勝やにゃんこう一揆衆など戦意をまだ残しているものは必死に武田軍に食らいついて、元康を守ろうとしていた。
「松平元康は、いるか」
乱戦中の軍勢から、黒鹿毛の巨馬に乗った姫武将がゆらりとその姿を現す。
最激戦地だというのに、彼女は泰然と元康の元に馬を進めながら不敵な笑みを浮かべていた。
「敵将だ! 出会え! 出会え──ッ!」
元康の馬廻や小姓がその姫武将に果敢に立ち向かうが、放った矢は当たらない。それどころか、こともなげに制圧されていた。
「あ、あ、あなたが……!」
「そうとも、あたしが武田信玄だ」
傲然と信玄は名を告げる。
「手短に用件を伝えておこう。松平元康、降伏しろ。織田信奈から援軍がないまま、お前はあたしを三度阻んでみせた。これだけやれば、もう満足だろう?」
「いえ、まだ私は吉姉さまと戦い続けるつもりです! まだ諦めません〜ッ!」
元康の頭に降伏の二文字はない。今のところ、松平をちゃんと大名として立ててくれているのは、信奈しかいない。かつての様な大勢力の走狗に戻りたくはなかった。
「そうか。ならば、最後に忠告しておこう。織田にそのまま従い続けるにしろ、あたしに降伏するにしろ、もはや松平は独立した勢力としては生きてはいけぬ。程度の差こそあれ、今川に臣従していた頃に戻るぞ。大勢力に守られることと独立し誇りを保つことは同時にはできぬ。元康、お前には覚悟があるのか? あたしのように甲斐一国に甘んじることを否定し、外に打ってでる覚悟か。はたまた六角高村のように己が命運を他に託す覚悟か。どちらかでもあるのか? 今一度、考えてみるといい」
「私は……」
「答えられないか、つまるところお前はその程度の将ということだ。はぁ、毒にも薬にもならんな。すまない、無為な話をした」
ため息混じりに信玄は元康の前を去る。
元康にはそれを追うことができなかった。
歯を食いしばる。
わかっていた。自分がまだかつての友情にまだ甘えているだけに過ぎないことを。
しかし、信奈が天下人になってしまえば、その特別な関係は崩れるだろう。友情だけで今の比較的対等な地位が確保できるほど、武家社会は生易しいものではない。
かくして、三河赤坂の戦いは攻勢を完全に整えた武田軍が松平軍を押し切り突破。
ついに松平の本拠である岡崎城を包囲する段階に至った。
*
「まったく、嫌な話を聞いてしまったものだ……」
小谷城で私はその端正な顔を顰めていた。
浅井家の方針は未だ定まらない。当初、動きの参考にしようとしていた朝倉家は三好派である若狭武田家の攻略に動いたが、なおも父の久政は動かないつもりでいるらしい。
そんな中、南から一人の男が来訪してきたのであった。
「ほっほっほ、浅井長政殿。ただちに六角に兵を出さねば、その方らが六角高村に勝つことなど生涯叶わぬでしょうな」
佐久間信盛。
織田の宿老。赫赫たる武勇伝こそない男だったが、老獪さは健在で私の心の一番嫌なところを突いてきた。
(佐久間殿の申す様にすれば、高村を倒せるやもしれぬ……。だが、それは必然的に織田の天下が決まるということでもある)
高村を倒したい、という誘惑はある。しかし、国益的には織田と六角を共倒れにさせ、武田が引くまで待ってから朝倉と合力して上杉謙信を上洛させ、畿内の政権を握るという択もある。
ふう、まったく悩ましい話を持ってきてくれたものだと思う。
嘆息して琵琶湖の湖面に目を向ける。
何も映さない湖面はまるで私の心模様のようだった。
読んでくださりありがとうございます。
多分、次話で第5章は終わるので、ちゃんと最後まで彼ら彼女らを見守ってあげてください。
お願いします。