水計から二日が過ぎてようやく織田軍も平穏を取り戻す。
三千を超える兵を失ったが、未だ数の上では有利だった。
「万千代、数はともかく士気はどう? あれだけの水計だもの、士気がくじかれていてもおかしくはないわ」
「幸いなことに士気はそれほど下がってはおりません、七十点です」
「そう、なら良かったわ」
考えうる最悪の事態になっていないことを確認し、信奈は安堵の息を漏らした。
「あの水計は二の丸より手前の陣や隊を根こそぎ葬った……。確かに私たちにとっては痛手でもあったわ。……けれど、翻って考えてみればそれは相手もその区画の守りを放棄したということ。戦線自体は上がっている。皆の者、もう少しで陣を抜けるわよ!」
信奈の言うことは間違っていない。
氏郷の陣の奥の手だった水計は、兵や物資に拠らずして大きな損害を与えることができる。その一方で、二の丸より手前の防御陣を完全に破壊してしまうこと、流路を遡ると本丸の近くまでたどり着けてしまうという致命的な弱点がある。
(今はまだ流路がぬかるんでいるから多少は保つ。けれど、好天が続いて地面が乾いたら別。雑賀衆を動員しないと防げないわね……)
氏郷もそれを知悉しており、守りの配置を変えた。加藤嘉明ら援軍の将を根こそぎ投入して数で防ぐ方針に変えたのである。
(とはいえ、少し長く保つ程度。本当に終わらせるなら、まだ相手を削って高村さまの到着と同時に決戦をしかけるほかないわ)
ただ、氏郷は待つのみ。
けれども、少しだけ彼女は予感していた。
この戦いはもう長くは続かない、と。
*
北畠八千はなんとか退けた。
当主の北畠具教と前線の北伊勢諸将の間に戦意の差があったのが幸いした。
あっさり前後で分断し、各個で叩くという普段の手口を使うことができた。
「とはいえ、北畠は長野を潰して中伊勢に進出することに成功した。今はまだこれ以上を求めてなさそうだしな……。戦後、また気をつけなきゃいかんか」
北畠の狙いは空き巣だろう。それも長野を乗っ取ったことで達成した。俺に会敵したのは、多分ガス抜きでしかない。織田との連携は多分こいつら考えてない。
「まぁ、いいさ。さっさと桑名まで上がらなくちゃいけん。いよいよ、決戦だろうからな」
ぼやきながら、伊勢路を北上する。
だが、河原田を過ぎた辺りだろうか。
西方に軍勢がいるという報告を受けた。
「旗は三盛亀甲ッ! 浅井家の旗です」
「そうか、わかった」
報告を受けた俺がどんな顔をしたのか、あんまり覚えていない。
「来たか、長政」と宿敵の到来に笑ったのか、あるいは意表を突かれたまま阿呆面を晒していたのか。
多分、どちらかだろう。
だが、ぶっちゃけどうでも良かった。
「この大事な時期に、長政を遊ばせておく暇はねえ。さっさと追い返すしかないな」
ただ、倒すべき相手が向こうからやってきた。
それで十分なのだから。
「……それにしても、一番嫌な時に来やがったな。ちくしょう」
*
「結局のところ、私は一人の負けず嫌いの女でしかなかった、ということか」
伊勢の山中を愛馬に駆けさせながら、私は自嘲した。
家臣に聞かれてはことだが、どうにもこの感慨を抑えることはできない。
私は、高村に負け続けてきた。
古くは学び舎での立ち会いから、日野西の戦いまで。半兵衛の調略は互いの痛み分けといったところか。
だが、今回は違う。
私は佐久間信盛の策に乗った。
一万の兵で近江を攻め、義定を足止めさせると共に北畠を討った高村を五千の兵の山越えで奇襲し、その軍を機能不全にする。あわよくば、高村を討ち取ることだ。
「今回の大戦での高村は見事だった。しかし、弱点はある」
織田にはサルや半兵衛。我が浅井には高虎、あるいは父上など当主以外に戦略を考えられる人材がいる。
だが、六角にはそれがいない。
副将としては義定がいるが、彼女自身の能力はともかくとして、自らが舵を取ろうという性格ではないのは知っている。
「私が高村を引きつける。それだけで、六角の頭は止まるのだ」
高村が優れているからこそ、誰も代わりができない。
そして、誰も代わりができないからこそ高村は一人で戦局を差配しなくてはならなかったのだ。
「卑怯だと、お前は私を指差すんだろうな……」
もう一度、自嘲する。
だが、それでも構わなかった。
それで、あいつの瞳に私が映るのなら。
かすかに遠く、あいつの旗指物が見える。
数は三千ほどか、こちらが五千だから数としては有利だった。
*
関ヶ原から西伊勢街道を駆けてきた長政の五千と中伊勢から急行してきた俺の軍三千は激しく衝突。
犠牲を払いながら俺は長政を追い返したが、その表情に笑みはなかった。
「やられたな、こりゃあ……」
むしろ、頭を抱えている。逆に笑ったのは、長政だ。
長政はひたすらにこちらの軍を刈り取りに来ていた。一部、山中を駆け回ってこちらを引き摺り回した局面もある。
去り際に「私の勝ちだ」と笑っていたが、まぁ間違いではない。
(浅井が観音寺表に兵を出したことで、近江の兵をこちらに持ってくることはできない。伊賀はいるが出せて二千。嘉明らは桑名にやったが、兵力差的に長くは保たない。そして、今の長政との戦いで俺の持ち時間と手勢は払底した……)
浅井の参戦。
この一事がいよいよ俺の首を回らなくさせている。
まあ、元々が無茶苦茶な話ではあるのだ。外交で既に敗北しているところをなんとか戦術で継戦してきただけでしかない。本来、戦術とは外交に勝るものではないのだから。
「殿、多度の水陣が落ちました」
「そうか。ついに落ちたか……」
一氏の報告を聞いて思わず俺は空を仰ぐ。
水陣が抜かれれば桑名城だが、流石に二万越えの軍勢に耐えられる様な作りはしていない。それは北伊勢の全てに言えることで、戦線は亀山まで後退するだろう。
(まあ、亀山までの道は長いから手段としてはロシアの必殺技の焦土戦術も使えるっちゃ使えるんだが、なんだろうな。そこまでやる気が起きねえんだよな……)
多分、そこまで必死に抵抗すれば、武田が織田を突くところまではいく。
いくが、何かが違う気がした。
「ついでに聞くが、武田は今どの辺りにいる?」
「岡崎城の攻略に手間取っています。小国とはいえ、岡崎城は正真正銘最後の砦。さしもの武田でも一息に落とせるものではありますまい」
状況を聞いて嘆息する。どうやらいよいよ決まりらしい。
「そうか。ならば、一氏。織田信奈に和議、いや降伏の使者を送ってくれ」
「お言葉ながら、殿。多度の水陣は防衛の最要衝とはいえ、領地の東端。抜かれたからとはいえ、敗北を認めるにはまだ早いのでは?」
一氏が再考を迫ってくるが、それでも俺の考えは変わらない。
「いい。まだ負けてはないかもしれない。……だが、これから先はするべきではない戦だ。勝ちたい、それだけの理由で守るべき国を不必要に焼かせる戦だ。まあ、それで六角の誇りは守れるかもしれん。けれどな、その誇りでお前の家族はメシを食えるのか?」
「誇りを捨てる、と?」
「誇りを捨てる……というか、そもそもの仕事が違うんだ。戦って武勇を誇りたい奴は誇ればいい、それが武士の仕事だ。止めはしないが、ケツは持たねえ。一方で俺は武士ではあるが、それ以上に国主で家主なんだよ。国と家に属する人間を守り、メシを食わせること。それが、俺のなすべき仕事だ。俺は自分の仕事をするまでだ」
俺は言うが、家臣団はまだ納得し切れてはいないらしい。まあ、ぶっちゃけ余力はあるからわからんでもない。
だが、俺はこの余力を戦うためではなく、守るべきものを守るために使いたい。
幸い、まだ交渉はやりようがある。
一番高く六角を織田に売りつけて、さっさと領国を平時に戻す。
当座の仕事はこれ一本になるだろう。