上洛した織田軍は摂津近辺を周り、ある程度平定した後に美濃に帰っていった。ちょうど年の瀬ということもあり、信奈公的に正月休みのつもりだろう。
今回の上洛軍は三万。
今の京にこれだけの兵を入れられるところはないから、用件を果たしたら帰るのは間違っていない。
「ふぅ、ようやく一息つけるな……」
俺もまた久しぶりに近江に帰っている。
近江に帰ってからしたことは、内政の立て直しだ。
今回で北伊勢の分の収入が減ったから、それに合わせて予算などを再編したのだ。
石高が十三万石減り、備蓄は払底した。今の財布はだいぶ軽いが、これからは軍拡を緩めて外交費もかなり減らすことができる。
織田との経済協力をさらに強めれば、長期的には財政はかなり改善されるだろう。
「まあ、とりあえず運命は超えたというわけ、か」
本来ならば、六角は織田の上洛の際に滅んでいる。
今、このだらついていられる状況をどうにかして掴み取ったわけだ。
「そういえば、長政から新年の祝いの品が来ていたな」
浅井とも関係改善がある程度図られ、一応お歳暮が来るぐらいには進展があった。
吉継に命じてそのお歳暮の包みを持ってこさせる。封を開けると、香ばしい匂いが辺りに広がった。
「鯖の干物、か……。俺がこれ好きなのを覚えてたんだな……」
そんな些細なことでも、今となっては嬉しい。
かつて俺とお市は一緒にいた。が、六角と浅井の遺恨がそれを引き裂いたのだ。
しかし、その両家も今となっては今川幕府の下で対等になっている。浅井側からしてみれば、ようやく六角と対等な格を持つと天下に示された訳だ。
自身が天下を差配するわけではないが、あれだけ熱望していた浅井の独立はもう叶ったと見ていい。
ここまできて、ようやく両家の間に雪解けがやってきたのである。
「吉継、義定と氏郷を呼んできてくれ。久々に四人で食卓を囲もうか」
かつて望んだ夢は、形を変えながらもまだ途切れずに続いている。
いつまでもこの平穏が続けばいいとは思うのだが、一つだけ懸念があった。
(浅井長政は織田信長を裏切るんだ。金ヶ崎でな)
この世界では長政に嫁はいない。つまるところ、お市の方に相当する人物がいない。だから婚姻同盟ではなく、ただの同盟というつながりしか織田家にはないのだ。
となると、いよいよ史実以上に織田にこだわる理由がなく、裏切りの可能性が増しているように思う。
俺は織田信奈に賭けたが、長政も必ずそうとは限らない。その日が訪れた時、俺はどう動くべきだろうか。
その答えはおそらく早いうちに出さなくてはならない、そんな気がする。
*
年明けだからといって京の町は、正確には権力への意志は休みにならなかった。
義元が詰める清水寺を守る明智光秀に一騎の早馬が入った。
早馬がもたらしたのは『大和の松永久秀がにわかに翻心。今川義元の首を狙い、一斉に京へ進軍を開始した』という凶報である。
「まずいです。京に大して兵がいないことがバレてやがります〜ッ!」
呻く明智光秀。
三好の数は約一万。対して動員できる幕府奉公衆と在京織田軍の数は二千ぐらいか。普通の城ならば、少しは持ち堪えられそうな戦力差だが、あいにくと今回はただの寺である。守るにしてはあまりに分が悪かった。
「美濃の信奈様にこの報を伝えたとて、間に合いません! 高村殿に至急早馬を出すのですッ! それまでは私がなんとかします!」
使者にそう伝え、明智光秀は覚悟を決める。
(麒麟を呼べるのは、信奈様ただひとり。今ここでお飾り公方を失えば、織田政権は京での基盤を失いますです。そうなれば、もはや畿内に新しい秩序が根付くことはない……!)
未だ自分が織田の家中に馴染んでいるとは、到底言えない。
ただ、織田信奈には誰よりも夢を賭けていると自負している。力だけなら六角高村でも武田信玄でも構わない。
しかし、正徳寺で聞いた織田信奈の夢は天下の誰よりも自由で広くて、魅力的だった。
「京を守るは明智光秀。ここが、天下布武が泡沫の夢となるか否か最初の試練。皆の衆、私に力を貸して欲しいです」
光秀が懇願して頭を下げると同時に奉公衆たちが鬨をあげる。どうやら戦意は充分らしい。
「高村殿ならば、一晩で駆けつけられるはず。一夜、持たせられれば勝機はあるです」
はじめに光秀は集めた兵を清水寺の周囲に割り振った。
清水寺の中は防備には向かないが、寺内町はやや入り組んでおり物陰に足軽を潜ませれば、多少の時間稼ぎにはなるだろう。
事実、その目論みは当たり、市街戦で光秀は三好勢を食い止めることに成功する。
「うふ、寺で戦わないとは考えましたわね。とはいえ、市街戦なら市街戦でやりようはございますのよ?」
だが、ここは松永久秀の方が上手だった。
進撃が芳しくないと見た久秀は家臣に命じて容赦なく寺内町を焼いた。
織田が上洛する前には敵将が籠ったという理由だけで、東大寺の大仏殿を焼いた女である。
市街地を焼き払うことなど、なんの躊躇いもなかった。
「さて、小細工は終わりましたわね。皆の衆、清水寺に攻めかかりなさい」
久秀の号令と共に、三好軍が清水寺に攻め上がってくる。
光秀は自ら太刀を抜き、立ち向かう。寺に守りの備えがない以上、自らの軍勢が肉の盾になるしかなかったのだ。
「ああ、もう! どうして私が大樹の真似事をしなくちゃならないんですか、うら若い姫武将が畳に押し包まれて殺されるなんて絵面的にも酷すぎますです〜ッ!」
半ば悲鳴を上げつつ、光秀は三好兵を斬り伏せていく。さすがに亡き足利義輝には及ばないものの、光秀も一端の剣豪。数十人は息をするように斬り捨てていた。
また、光秀は鉄砲にも優れている。隙を見ては、物陰から敵の指揮官級を見抜いてはその額に鉛玉を叩きつけていた。
こと単騎の戦闘力ならば光秀は高村にも比肩するものがある。その武者ぶりは前線の心の支えとなり、士気の柱になっていった。
「うふ。乱世とは面白いものですね。畿内の人傑は出尽くしたと思えば、まだ野にかような人材がいたとは……」
この光秀の奮戦に看過できぬものを感じたのか、松永久秀自身が彼女の前に姿を現していた。
「出ましたね、松永久秀! なぜ信奈様を裏切ったのですか!?」
「うふ、畿内で生きる以上変わり身の早さは身につけて損はないですわよ? 強いて言えば、正月だからと軍を美濃に帰す愚かさと六角高村をそのまま抱え込んでしまう脇の甘さでしょうか。いけませんね、これではあまりに野心が刺激されてしまいます……」
妖艶に久秀は笑う。あからさまに挑発して光秀の様子を楽しんでいるのだろう。生真面目な光秀は知ってか知らずか顔を赤くして叫んでいた。
「そんな変わり身の早さはいらないです! 掌さえもくるくると変えて、その身勝手さこそが畿内を乱し、ついには幕府も滅ぼしたんです。私はそんな恥知らずになるつもりは毛頭ないです!」
「うふふ、ならばその身勝手さを超えて足利亡き後の新秩序を担えるか、否かわたくしが見極めて差し上げますわっ!」
口論が終わり、後は剣戟の音だけが響く。
光秀は久秀にとって強敵だった。
六角高村やかつて戯れで相手にした十河一存にも引けを取らない。
だが、彼らとは違いあまりに純真すぎたのかもしれない。
「そういえば、六角高村のことですけれど、援軍は来ませんよ。何せあの者もわたくしと同じく偽りで降伏した男。ここで今川将軍を見殺しにし、織田を内部から崩壊させた上で武田と再起を図る。その絵図を描いている、と聞いていますわ」
その久秀の囁きは、あまりに効果が絶大だった。
嘘かもしれないが、巨大な潜在敵に関することである。到底看過することは出来なかった。
「あっ、しまったですぅ……!」
動揺する光秀の脇に思いっきり長柄が叩き付けられる。
吹っ飛ばされて、身体を強かに打ちしばらく動けそうにはなかった。
「さて、これで障害は取り払われました。今川義元の首、いただくとしましょうか」
光秀を撃退した久秀は朝日を背に悠々と歩を進める。光秀は「おのれ」と悔しげに手を伸ばすも、ただ虚空を掴むばかり。
(どうやら、織田家でも畿内に新しい秩序をもたらすことは出来なさそうですわね)
久秀は落胆していた。どうやら、まだ己の夢は叶わないらしい。
長慶と共に見ていた夢の続きを見ることができる相手。それを彼女は探していたのだが、長慶は志半ばで倒れ、後を継いだ義継は政治的に三好三人衆に屈した。結局のところ、久秀は一人になったのだ。
このまま、義元を討てば終わる。終わるのだが、久秀はすぐに向かうことはなかった。
東側に目を凝らせば隅立四つ目の旗印が翻るのが見えたからだ。
「うふ、もう少し速ければ明智殿も虚言に惑わされることもなかったというのに、間の悪いこと。とはいえ、これで目的は果たせなくなりましたわね……」
妖艶に笑いながらも、久秀は手勢の下に急ぐ。
軍勢の主は六角高村。
畿内最強格の武将にして、三好を決定的に凋落させた張本人。
久秀にとっては決して見過ごすことができない相手だった。