今回で6章は終わりです。
思わずあくびが出てしまうような日々だった。
湖北を一望する小谷城の京極丸。竹生島から帰ってきたのちに与えられた屋敷で浅井久政は琵琶湖を眺めていた。
「今日も湖面も穏やかか。のどかなものよのう……」
琵琶湖の湖面は長らく近江を見舞った動乱が嘘であるかのように静かだった。
だからこそ、久政は問わずにはいられない。
果たしてこれでいいのか、と。
久政の父・浅井亮政が江北の国人をまとめて決起してから幾星霜。浅井も三代目の長政まで続いてきた。
だが、ここに至るまでの道のりは遠かった。
浅井亮政は一代で大名の座にまで上り詰めたものの、畿内の秩序が乱れることを嫌った六角定頼の手によって一時的に小谷城を落とされるという屈辱を味わい、江北完全掌握に必要な時間を奪われた。
自分の代では定頼と承禎の手によってさらに追い詰められ、妻と娘……いや、息子を人質に差し出さざるを得ないほど追い込まれる。
(今、思い出しても腹立たしいわい。おのれ、おのれ……!)
まだ幼かった妻は承禎に何度も犯され、生まれたばかりの長政は本来の在り方を歪めなくてはならなかった。わざわざ自分の目の前で妻を犯してみせた承禎の勝ち誇った笑みは忘れられない、忘れてはならないものだ。
(だが、わしはそれでも耐えた。いつか六角に捲土重来を期すために。長政にかかる屈辱を味わわせたくはなかった)
妻と娘の幸せを代価に稼いだ時間。その時間を使って久政は辛うじて江北国内を抑え切り、内政を整えた。幸いなことに次の代の長政は久政とは比較にならないほど優秀だった。それこそ英雄だった父の面影を長政に幻視するぐらいには。
(父は定頼に阻まれ、わしの代はどうにもならぬ。しかし長政ならば、浅井を揺るぎなき江北の覇者にできる。六角だって滅ぼせるやも知れぬ。そのためならば、わしは如何様にでもこの命を使ってやろうぞ)
ようやく見出した長政という希望。久政の半生は彼女が雄飛するための下地を作ることに費やした。
そして、迎えた野良田の戦い。
浅井の未来を決める大戦で、長政は六角を撃破。
ついに浅井は六角のくびきから逃れたのだった。
「あの時は、なんでもできると思うておったのだがな……、あやつが現れるまでは」
思わず口からため息が漏れる。
亮政に定頼がいたように、長政にも宿敵が現れてしまった。
「六角高村。あやつさえいなければ、今頃は近江は浅井の物であったであろうに」
それは畿内最強の将の名前。
僅かな時間で六角を急拡大させた英傑の名前だった。
神仏がいるというならいかなる巡り合わせか問いただしてやりたい。なにゆえ、浅井にこのような苦難を与えるのか、と。
結果として高村の拡大の結果、長政の勢いは完全に抑え込まれた。そして東方で覇権を得た織田に膝を屈せざるを得ない状況となる。
確かに今は織田の傘の下で平和なのだろう。
だが、それはただ生かされているだけに過ぎない。結局のところ、昔とは変わらないのだ。
(……それでわしが半生を費やした意味に、妻の屈辱と無念に見合うのか?)
忸怩たる思いが久政の胸を這う。
そんな時だった。
越前の朝倉義景から密書が届いたのは。
*
「織田軍が、若狭武田の後瀬山城を制圧か。よくやってるよ、ほんと」
「若狭武田は幕府の主力としてこき使われてたからねー、今更大軍を凌ぐ余力は残ってなかった感じかな」
京・八条の六角屋敷。
現代でいうなら京都駅の近くに建てられた屋敷で俺と義定はのんきに茶を飲んでいる。
今回の織田の若狭征討に六角は参加していない。過日の摂津戦役を戦った代休という名目だが、それ以上に六角の勢力伸長を抑える目的の方が強いのは明らかだった。
「浅井も出てないから信奈は畿内で直轄地を広げたいんだろ。高村たちが味方してくれているけど、家単位だと織田は畿内に基盤を持ってないからな」
同じく若狭征討に参加していない良晴が言う。
今の織田政権の勢力図は濃尾北勢の織田、江北の浅井、江南伊賀の六角、丹波の赤井、大和の松永と広大だが、いかんせん織田家自身の石高となると東海の領地に山城と摂津の一部を加えても百五十万石に満たない。この数値だと浅井と六角、荻野辺りが手を組んだだけでかなり肉薄されてしまう。
「織田が畿内で一強体制を築くにはまだ足りない。若狭と河内和泉辺りを完全に直轄にしなきゃな」
「だろうな。しかし、俺としては意外だったな。若狭だけで済ませて越前までは攻めないなんて」
史実では、京を安定させた後の織田は越前の朝倉征伐にあたっていたはずだ。そしてそれが金ヶ崎に繋がり、かの有名な信長包囲網に絡め取られることとなる。
「いや、攻めるよ? 越前。若狭はついででその後に東進。一気に駆けて一乗谷まで攻めるってさ」
「え、それ俺知らないんだけど」
「わたしも十兵衛が漏らすまでは知らなかったんだけどね。なんでも浅井が動きを見せる前に潰して外交的に浅井を孤立させるのが目的らしいから。あ、これ結構機密だから内緒にしといてね〜」
団子を頬張りながらなんでもないことのように義定は言うが、内容はかなりイカれてる。事実上の北近江の併合宣言であるし、何より金ヶ崎に繋がってしまう。
事態のヤバさは相良にも分かったらしい。頭を抱えて「若狭征討って言ってたから油断したッ!」と呻いている。
「とりあえず相良。お前は五右衛門辺りを使って浅井に釈明の使者を出せ。これで最低限こちらの評判は落とさずに済む」
「わたしはどうしたらいい?」
「俺たちは領国に帰るぞ。おそらく北畠が敵に回る。備えをしておかなきゃならん」
場の雰囲気はすぐさま緊迫したものに変わる。わかってはいたが、ついに潮時らしい。
晩秋の昼下がり。
木枯らしと共に穏やかな時は終わりを告げた。