第7章 最終話です。
無人斎が来てからさらに二週間ほどが過ぎた。
大河内城の包囲は揺るぎなく、向こうの兵糧は心許無くなっている。北伊勢から流れてきた浪人たちを中心に降伏してくる者も増えてきた。
(具教公。確かに貴女は強い。けれども、誰もがその強さについてこれる訳ではないんだ。……もうそろそろわかるだろう?)
神戸具盛に、木造具政。中伊勢の長野氏に北伊勢の浪人たち。
調略をこちら側が重視してきたとはいえ、重鎮から末端に至るまで多くの武将が北畠から離れている。これははっきりと言って異常だ。
(まあ、裏切る側の気持ちはわからんでもない。彼女の奔放な戦ぶりは俺たちにとって恐ろしいが、彼らにとっても訳が分からないという意味で恐ろしく思えるからな)
基本的に人は理解できないものに心を許すことはない。恐れ、遠ざけようとする。
彼女はその人の性というべきものを武威で繋ぎ止めていたのだが、さらにそれを上回りかつ理解しやすい存在……つまり俺が現れたがために紐帯が崩れたように思う。
「これも一つの勝利の形かな? あまり実感しにくいものではあるけれども」
とかく、以後も手を抜かず囲むのみ。懸念はただ一つ。
北畠具教が全てを懸けて突貫してくることしかない。
「とはいえ、今の彼女にどれだけの数が付き従ってくれるのかはわからないがな」
*
「姫、何をなされようとしているのです。早くお戻りくだされ」
「おや、見つかりましたか。流石は爺やですね」
満月の夜。
北畠具教は宿老の鳥屋尾石見守に見咎められていた。
場所は大河内城の虎口のほど近く。あと少しで城外に向かえるところだった。
「常々申しましているよう、姫は御身を大事になされませい。いかに剣の腕があろうとも、大軍の前には塵芥の如し。先の大樹の一件をお忘れか?」
「忘れてなどおりません。それに、私が一人だけこっそり逃げようとしているのかもしれませんよ? 幸いにも霧山御所はまだ落ちていないですし」
「それならば、わしが止める道理はござらぬ。されど、違うのでありましょう? そうでなくば、わざわざ今この場で刀を抜く必要はありませなんだ」
「まあ、バレますよね。戦意を隠してないですから」
言い逃れを図る具教だったが、すぐに石見守に見破られて呆れたように笑った。
「……まあ、命を繋ぐだけならば一族や主だった家臣を連れて霧山御所に潜ればいいのはわかってます。現に六角義治や斎藤義龍だってそうしていますから。……けれど、私の本意ではない」
「ならば、最後に堂々と向かい斬り死する、と? こんな明るくて見つかりやすい満月の夜にですか? 高村を討って戦況を打開するにしてもあまりに無謀で愚かにございまする」
「爺やの言い分は間違いではありません。ですが、逆に問います。次の新月まで大河内城は保つのですか? 保っていたとしても戦うに足る余力は残っているのですか? 兵糧がどれぐらいしか残っていないのか、知らぬ爺やではありませんよね」
今度は石見守が閉口する番だった。具教の言う通り、兵糧はほぼほぼ残っていない。かき集めて千人の一日分でしかない。明日明後日より先は本格的に餓えに苦しむことになるだろう。
「……それでも、わしは姫が良きおのこと祝言をあげる姿を見とうございます。そのためには今をなんとしてでも、生きていただかねば」
絞り出すように石見守が呟く。
しかし、具教は悲しげに首を横に振った。
「それは妹に任せてください。私はとうに捨てた夢ですから」
剣に生き、北畠顕家のようになりたいと決めた時点で聡い具教はそれが叶うことはない夢だと決めつけた。
だから、もう話すことはない。爺やと自分は交わらないのだと理解した具教は石見守に背を向けて告げる。
「ですから爺や、貴方には私の妹を託します。此度ばかりはいつものように私について行くことを禁じます」
言うと、具教は大手門を開けて飛び出していく。
石見守は膝から崩れ落ちて、しばらく動くことが出来なかった。
*
月に照らされて白刃が煌々と光る。
舞う血飛沫に逃げ惑う六角兵。
それを一切構わずに具教は進んでいく。
具教に付き従うのは旗本の二百のみ。もはや家臣団のほとんどが具教を裏切るか、ついていくだけの活力を失っていた。
それでも、白兵戦における強さは衰えない。むしろ全員がもれなく死兵と化し、鋭さが増している。
具教らは容易く包囲網の前備えを貫く。そして見えたのは、鶴翼の陣を敷いた高村の本陣。
「やはり、備えはしていましたか。奇襲は失敗ですね。……しかし、かといって退くつもりもありませんが」
臆せず具教は鶴翼の要、中央に座する高村に向かって突撃を仕掛ける。とはいえ、それを坐して見ている高村側ではない。
義定の弓隊で牽制をかけながら、両翼を閉じて挟撃にあたらせる。
「貴女が突っ込んでくるのはとうにわかっていた。が、今回は縦深でもって御相手しよう。俺と斬り結びたければ、どうにか突破することだな」
床几にふんぞりかえりながら言う高村。二千の本陣の兵で二百の敵を挟む。やり過ぎかと思われるが、ある種の具教への畏敬がそれをさせていた。
十倍の兵力差には流石に具教の旗本たちもじりじりと討たれていくが、高村は喜色を見せることはない。
(雑兵はこれで止まるか。だが、その程度で止まる相手なら俺はこうも苛まれてはいない)
策を練り絡め取ってなお、実のところ高村は内心で予感しているのだ。具教ならば必ず到達する、と。
「最後まで穴熊を決め込むつもりですか! ならば、私が引き摺り出して差し上げましょう! いい加減貴方のやり口には飽き飽きしてきたところです!」
激昂した具教の刃が振るわれて包囲が僅かに崩れる。
その隙間を見逃す彼女ではなかった。
身一つで飛び込み、ついに高村の姿を視界に収めると彼女はそのまま駆け出していく。
「六角、高村……ッ!」
目にも止まらぬ神速の駆け。
その速さたるや義定が構えていた弓を放つのを諦めて下げるほど。
その速さと渾身の力がまとめられた一太刀が高村に向けられる。
「ぐっ……!」
呻きながら高村は受け止めると、すかさず弾いて二刀目を抜き具教に斬りかかる。後の先を取った一撃ではあったが、具教はこれに峰を合わせて弾いてみせた。
「流石は剣豪として名高い具教公だ。簡単には取れないか」
「簡単にいかなくて私も嬉しい限りです。ええ、この時をどれほど待ったことか……。さあ、続けますよ。一世一代の立ち合いを」
「……参ったなぁ、ほんと。やる気があるのは、そちらだけなんだが……」
高揚する具教に呆れて溜息ばかりの高村。
戦意の差はあれど、実力は近しい。
具教が速さで高村を翻弄すれば、高村は二刀の利である手数の多さでこれを捌く。
散発的に数合ずつ打ち合っては離れ、離れては打ち合う。
互いがひたすらに駆けっぱなしの速い展開に義定ら本陣にいる将たちはただ見ていることしかできない。
(流石は鹿島新当流の免許皆伝。崩れがねえ。こりゃ本当に泥試合になるぞ)
(剣は我流でしょうか。読みづらく、器用で重い。これこそ私が求めていた相手ですね。とはいえ、長く戦える相手ではない……)
打ち合いながら互いに実力を讃え合う。
とはいえ、お互いが千日手に嵌るであろうことは理解していた。
図らずも両者はある程度距離を取る。
「そろそろ朝日も近いことですし、決着をつけましょうか」
言うと、具教は刀を正眼に構え直して高村を見やる。
これより具教が繰り出そうとしているのは、鹿島新当流の秘剣「一の太刀」。
特定の形があるわけでもなく、ただ相手の挙措の全てを見切り、必殺の一太刀をお見舞いする奥義だ。
確かな眼力とそれで見つけた機に合わせられる技術の二つが噛み合わないと一の太刀は成らないため、習得者は限られる。上方では、今は亡き足利義輝と明智光秀、そして北畠具教しかいない。
目を凝らして膨大な高村の挙措に関する情報を取り入れ、識別し、決断する。その間は十分の一秒にも満たなかった。
(見えましたッ!)
答えを見つけた具教が渾身の力で刀を振るう。
此度の一の太刀は逆袈裟斬り。
渾身の力で左下から右上へと斬りあげる。
刃を経て伝わる肉の感触に具教は痛撃を与えたことを確信した。
しかし、その達成感は長くは保たなかった。
腹を貫く冷たい何か。血反吐を吐きながらもギラついた高村の瞳。裂かれるような激しい痛み。
頭がクラクラするのを堪えながら、己が腹を具教が見遣るとそこには白刃が深々と刺さっていた。
「……ようやく、捕まえたぞ……!」
息も絶え絶えに高村は呟く。
この時、具教は高村がしたことを理解した。
高村は初めから一の太刀を防ごうとも、避けようともしなかった。
おそらくは一の太刀がどうにもならないことを瞬時に理解して受け切り、後の先を取りに行くことに賭けたのだろう。
果たしてその賭けに高村は勝利し、自分に致命的な一撃を食らわせた。
「なんという、胆力ですか……」
負けた、と具教は思った。
武将としてではなく、武人としても自分は六角高村に敗北したのだ。
「……おかげでこっちは何ヶ月も動けないがな。まったく見切るのがやっとの必殺剣なんて卑怯だろうが……」
忌々しげにぼやく高村。失血がかなり激しく顔色が悪い。義定の肩を借りてやっと立てているようなものだった。
「……どちらにせよ、私の負けです。私が倒れた以上は北畠はもう戦えないでしょう。いささか厚かましいですが、妹を頼みます。あの娘は私に似ずおとなしい娘ですから、生かしていてもさほど害にはならないので……」
「わかった。一応は貴女に命を救ってもらった恩がある。貴女の妹を生かすことでそれを返せるのだから、構わない」
具教の願いに高村は頷く。それを見て、具教はふっと力が抜けていくのを感じていた。
「……安心しました。私の意地のためにあの娘が犠牲になる必要はない。我欲に走った愚かな姉でしたが、少なくとも義務を果たすことはできたようです」
視界が暗転していく。どうやらもう時間らしかった。
「具教公。思ったより、あんたは人間だったんだな」
最後に宿敵のぼやきを聴きながら、具教は永い眠りについた。
*
彼女を貫いた時の腕の感触が未だに離れない。
あの時、確かに俺は彼女を超えた。
……それだけならば、まだ良かった。
ただ、ひたすらに残される妹……家族を案じていた彼女の姿がどこかの誰かにオーバーラップしてしまう。
まったく、人殺しなどこれまでの渡世で嫌になるほどしてきたというのに。どうして今になってこんなに胸が痛むのか。
「……震えているの? 新十郎」
心配した義定が顔を覗き込んでくる。肩を借してもらっている状況だからなにかあればすぐにわかる。仕方ない、白状するか。
「……いずれは浅井に対しても同じことを、久政殿を、場合によっては猿夜叉丸を手にかけることになるのだろう。その時のことを考えると、な」
「けど、浅井はもう……」
「わかってる。討たなきゃならない敵だってのは、わかってるんだ。だが、それでも痛いものは痛い……!」
俺の慟哭に義定は言葉を失う。
北畠戦が終わったということは、確実にその時が近づいた証左に他ならない。史実では金ヶ崎、叡山の次は姉川の戦いが待っている。残された時間はそう多くはない。俺はそのことを痛いほど理解させられていた。